永遠の好敵手~長宗我部元親と本山親茂
永禄七年(1564年)4月7日、長宗我部元親が本山城の本山親茂を攻めたため、親茂は瓜生野に退きました。
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永禄三年(1560年)、土佐(高知県)を巡っての永遠のライバル=本山氏との長浜表(ながはまおもて)の戦いで初陣を飾った長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・・・
とは言え、それまでの元親は、ガタイは良いものの、色白で物腰が柔らかく、人に会ってもほとんどしゃべらず、一日中部屋に引きこもりの状態で、家臣からは『姫若子(ひめわかご)』というニックネームで呼ばれ、父の国親(くにちか)でさえ、
「ウチも、ここで終わったか…
(ノд・。)」
と嘆くほどの、頼りない嫡男でした。
ところがドッコイ、この初陣で見事な活躍をした元親・・・(5月26日参照>>)
そのニックネームは、いきなり『土佐の出来人(できひと)』に変わり、その長浜表戦い後まもなくに病に倒れた父・国親も、
「本山を倒す以外に、俺への供養はないと思え!」
てな遺言を残して、この世を去りました。
父の死を受けて家督を継いだ元親は、これまで15名だった家老クラスの重臣をプラス17名・・・倍以上の32名に増やして、勢力拡大に取り掛かります。
これは、まさに、元親の巧みな人心掌握術の一環・・・
武功に応じて、家臣たちに城や領地を惜しげもなく与え、その士気を高めるのです・・・「頑張れば、どんどん出世できる!」と、家臣たちは心ウキウキヽ(´▽`)/
また、一方では、降伏した者への対応も、素直なら素直なだけ、その旧領を安堵したりして、敵にも寛大・・・となると、自ら寝返りする者も相次いで、戦わずして勢力拡大する事もしばしば・・・
さらに、合戦で焼失した神社仏閣の修復も積極的に行い、そこに付属している氏子などの民衆の心もつかんでいくのです。
一方、先の長浜表の戦いで長浜城(高知市)を落とされた本山氏・・・その後は朝倉城(高知市)を本拠地としていましたが、上記の元親の人心掌握術による寝返りやら小競り合いやらで、次々と支城を失って行き、その圧迫に耐え切れなくなった永禄六年(1563年)、朝倉城に火をかけ、もともとの本城である本山城(高知県長岡郡)へと退去・・・こうして、土佐平野部での覇権を失ってしまうのです。
しかも、その翌年の永禄七年(1564年)、本山氏の当主だった本山茂辰(もとやましげとき)が病死・・・息子の本山親茂(ちかしげ・当時は貞茂)が後を継ぎます。
この当主交代劇を好機と見た元親・・・すかさず、動きます。
とは言え、ご覧の通り、父より本山潰しを託されてから、もう4年・・・本山氏は、なかなかしぶとい上に、今回の本山城は、堅固な城として知られた城でしたから、そう、たやすくはいきません。
そこで、元親・・・一策を講じます。
実は、本山城の西側あたりには、土佐郡森郷の領主・森氏が治めていた森城(高知県土佐郡)があったのですが、そこを、かつて本山が奪い取っていたという経緯のある場所・・・その時に、命からがら長宗我部を頼って逃亡して来た森孝頼(もりたかより)は、現在は配下となって、元親から潮江(うしおえ)城主を任されている人物です。
この恨み&復讐心を使わない手はありません。
元親は、孝頼を、
「さぁ、旧領を復活させてやるから、大暴れして来い!」
とばかりに、その森城へと送り込んだのです。
かねてより地の利のある孝頼・・・ゲリラ的作戦で、見事、本山氏をかく乱します。
かくして永禄七年(1564年)4月7日・・・耐えきれなくなった親茂は、本山城を放棄して瓜生野(うりうの)城(高知県長岡郡)へと撤退しました。
そこで、なおも抵抗を続ける親茂でしたが、何度も何度も、休む事なく寄せ手を繰り出す元親・・・結局、この親茂が降伏するのは永禄十一年(1568年)、ここで、ようやく本山氏は、元親の支配下に組み込まれる事になります。
そう、元親は、この親茂に対しても、あの人心掌握術を発揮・・・それまで貞茂(さだしげ)と名乗っていた彼に、自らの1字を与えて親茂とし、一門の一人に加え、嫡男・信親(のぶちか)の家老としました。
まぁ、政略結婚とは言え、彼は茂辰に嫁いだ元親の姉の子供ってのもあり、さらにやさしくなったのかも・・・って事もありますが・・・
とにもかくにも、父との約束から11年・・・元親は、土佐中央部における大勢力圏を獲得した事になります。
あとは、西の一条氏と東の安芸(あき)氏・・・
と、この続きは、8月11日【長宗我部元親の安芸城攻略作戦】でどうぞ>>
ところで、こうして元親の配下となった親茂さん・・・その後、四国を平定した豊臣秀吉の九州征伐・戸次(へつぎ)川の合戦(11月25日参照>>)にて、この時、主君となった信親を守って、ともに壮絶な討死を遂げています。
昨日の敵は今日の主君!!!
戦国の男やなぁ~~カッコイイψ(`∇´)ψ
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コメント
「江」がそろそろ小牧・長久手合戦にさしかかりますが、小牧・長久手は関ヶ原になりかけた兆しのあった合戦のように思えて、家康は四国の長曽我部氏や関東の小田原北条氏ら、いくつかの遠方勢力に迎合を呼びかけ、秀吉もそれに対抗して自陣営の遠方勢力を迎合しているのですよね。
長曽我部氏も地域統一後は中央動静に翻弄されていますが、もはや信長・秀吉の頃には地方の動向も中央の政治動静と否が応でも連動してしまうようです。そのあたり「戦国の終わり」を感じますね。
投稿: 黒駒 | 2011年4月 7日 (木) 17時18分
黒駒さん、こんにちは~
確かに…
おっしゃる通り、小牧長久手から、それまでの群雄割拠状態での合戦と、合戦の仕方が変わった感ありますね。
それ以前と言えば、応仁の乱まで、「どっちにつくか?」というような、ある意味、天下分け目の戦いは無くなっていたような気がしますね。
応仁の乱が戦国の始まりなら、小牧長久手が戦国の終わりを告げる戦いだったのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2011年4月 7日 (木) 18時08分