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2011年4月20日 (水)

決戦開始!賤ヶ岳…秀吉・美濃の大返し

 

天正十一年(1583年)4月20日、琵琶湖の北東岸にて、1ヶ月に渡ってにらみ合っていた柴田勝家軍と羽柴秀吉軍で、秀吉の留守を確認した勝家配下の佐久間盛政が、秀吉方の砦を急襲・・・世に言う賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いの火蓋が切られました。

・・・・・・・・・

天正十年(1582年)6月に、本能寺に倒れた織田信長亡き後(6月2日参照>>)山崎の合戦(6月13日参照>>)明智光秀を倒した羽柴(豊臣)秀吉は、織田家の後継者を決める清州会議(6月27日参照>>)にて、信長の嫡孫=三法師を推し、自らが、その後見人となる事で、織田家家臣内での地位を獲得し、さらに、信長の葬儀(10月15日参照>>)を盛大に行う事で、その実力を見せつけました。

一方、それまで織田家の重臣のトップだった柴田勝家は、信長の三男=神戸(織田)信孝を後継者に推し、信長の妹=お市の方を妻に迎えて、秀吉に対抗します。

こうして迎えた天正十年(1582年)の冬・・・先の清州会議での遺領配分で、越前(福井県)北ノ庄城を居城とする事になった勝家は、雪深い越前では冬の間は戦えない事を見越して、11月には与力の前田利家らを派遣して、秀吉との関係修復に当たろうとしますが、一方では、西国毛利四国長宗我部(ちょうそかべ)と組んで、秀吉を包囲する準備もはじめていました。

秀吉は秀吉で、勝家の平和主義が冬だけの対策である事はお見通し・・・勝家の思惑通りに、このまま春になってしまっては、自らが不利になりますから、関係修復の話をのらりくらりと交わしながらの12月、勝家の最前線=北近江長浜城を開城させ(12月11日参照>>)、その後、信孝のいる岐阜城へと主力を向けました。(12月29日参照>>)

これを聞いた勝家・・・「主力を岐阜に向け、手薄となった北近江を奪回するのは今!」とばかりに、ようやく春が訪れようとする2月28日、前田利家や佐久間盛政らの先発隊を北近江に派遣し、自らも3月9日に北ノ庄城を出陣します。

一方、勝家の出陣を聞いた秀吉も、すぐさま北近江へと戻り、琵琶湖の北東にある余呉湖のほとりで、北に勝家と南に秀吉・・・一触即発のにらみ合いの布となったのは3月12日の事でした(このあたりは3月11日を参照>>)

・‥…━━━☆

こうして1ヶ月・・・両者のにらみ合いを崩したのは、信孝&勝家を支持する北伊勢滝川一益(かずます)でした。

一益は、岐阜の信孝に同調して兵を挙げ、北の岐阜と南の伊勢を結ぶ縦のボーダーラインを死守すべく奮戦しながらも、秀吉に攻められた岐阜城が落ち、もはや伊勢も風前の灯と思っていたところに、秀吉の北近江への帰還を聞いて、手薄になった兵を急襲すべく、美濃(岐阜県)に出兵したのです。

もちろん、一旦沈んだ信孝も、これに同調して美濃に展開する秀吉方の稲葉一鉄(いってつ)らを攻めます。

そこで4月16日・・・秀吉は2万の兵を伴い、北近江から岐阜へ向けて、自ら発進したのです。

わずかの距離でにらみ合っていたのですから、当然、秀吉の不在はすぐに勝家側にも伝わり、しかも、現在、敵方の大岩山と岩崎山の防御が手薄である事を調べ上げた盛政は、自ら、かの砦に奇襲をかける事を提案します。

しかし、この作戦は、相手の懐に深く入り込むもの・・・撤退時期を間違えば、周囲に点在する砦からの応援部隊に囲まれてしまう危険性があります。

勝家は、目的の砦を落としたら、速やかに撤退する事を条件に、盛政の奇襲作戦を採用しました。

Sizugatake21cc ↑画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして天正十一年(1583年)4月20日午前2時・・・不破勝光(ふわかつみつ)らが先鋒となり、続いて盛政本隊・・・約8000の兵が行市山砦を進発します。

一方、勝家は、前田利家・利長父子を別所山から茂山に移動させて、盛政の背後を固めさせると同時に、自らも狐塚まで本隊を前進させます。

さらに、前後して進発した柴田勝政(盛政の弟で勝家の養子)飯浦(はんのうら)切通しに陣取り、盛政を援護します。

この間に敵方の手薄な余呉湖の西岸を進んだ盛政は、夜が白々と明ける頃、一斉に大岩山砦に猛攻を仕掛けたのです。

ここを守る秀吉方の武将は中川清秀・・・わずか1000ほどの手勢ながらも、何度となく相手を蹴散らし踏ん張りますが、所詮は多勢に無勢・・・午前10時頃には、砦は陥落し、清秀も壮絶な最期を遂げます。

隣の大岩山が陥落した事を知った岩崎山砦高山右近(うこん)は、速やかに砦を脱出して木ノ本方面て撤退・・・これを聞いた賤ヶ岳砦を守る桑山重晴(くわやましげはる)も、一旦は撤退をしようとしますが、背後にいた丹羽長秀(にわながひで)援護されて留まる事に・・・

ここで、ちょうど陽は落ちようという時間・・・敵方の反撃を懸念する勝家は、盛政に対して、一旦、コチラの砦に撤退する事を指示しましたが、意気あがる盛政は、大岩山砦にて一夜を明かす事にします。

翌朝早くには、この南にある賤ヶ岳砦を攻略するつもりで、そのためには、一旦奪った大岩山を手放す事ができなかったのです。

さすがに、この後の展開を知るはずもないですから・・・

そう、実は、この時、岐阜城に向かっていた秀吉・・・長良川が増水していたため、その先へと進めず、大垣にとどまっておりました。

まさに、天は秀吉に味方したのか?・・・秀吉は、この大垣で大岩山砦奇襲の一報を受けたのです。

この時の秀吉・・・
「キタ━(゚∀゚)━! 雌雄を決するのは今や!」
と、大いに喜んだと言います。

もはや秀吉には、その先の展開が見えており、ここで「勝った」と思ったのでしょうか?

早速、兵をまとめて、秀吉が大垣を出発したのは午後4時頃・・・目指すは、もちろん、岐阜ではなく近江です。

ここで秀吉、13里(約52kim)の距離を、わずか5時間で駆け抜けるという、あの本能寺後の中国大返し(6月6日参照>>)を彷彿とさせる離れ業を、再びやってのけます・・・世に言う『美濃大返し』です。
【賤ヶ岳岐阜の乱】参照>>) わけです。
Sizugatakezikeiretu2

やがて午後9時・・・木ノ本の南側、木々の隙間からあかあかと照らされる松明の筋を、彼らは見る事になります。

「まさか、これほど早く、秀吉が戻って来るとは!」

柴田勝家・・・
佐久間盛政・・・
そして、前田利家・・・

それぞれの思惑が交錯する中、いよいよ、日づけは、運命の4月21日に変わろうとしています。

つづきは明日・4月21日のページで>>でご覧あれ。
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コメント

前日のコメントにも書かせてもらいましたが、3月に賤ケ岳へ行ってきました☆

山頂は見晴もよく、5歳の娘でも登れる山で楽しかったです♪

が、写真を撮ると戦いで亡くなった方の何かが写らないかな・・・と少し不安もありました(笑)

登ってみて感じた事・・・

大垣からここまで5時間で来たんだ(美濃大返し)それもすごいけど、その後すぐ戦うってすごすぎ!!!この斜面で、余呉湖をぐるりと移動しながら戦ってたんだな・・・と。。。

私は登山が趣味でよく登りますが、最近は3時間も山を歩けばグッタリですよ!

いや~すごい、、、としか言葉がでなかったです^^

投稿: みさこ | 2015年4月 8日 (水) 10時51分

みさこさん、こんにちは~

このブログにも書いてますが、以前、本能寺の変の時の亀岡からの…いわゆる『明智越』>>を体験しましたが、とてもじゃないがひと晩で京都まで行って、その後に突入するなんて事はできない雰囲気でした。
ホント、昔の人はスゴイですΣ(゚д゚;)

ちなみに…
>写真を撮ると戦いで亡くなった方の…

との事ですが、
たぶん、気になさらなくても大丈夫ですよ(*^-^)

怖い系のテレビ番組などて、ついつい、そっちの方向に誘導されがちではありますが…
よくよく考えてみると、どんな古戦場よりも多くの人が無念の死を遂げ、歴史上最も多く戦場となっている京都の街中で、皆さんバンバン写真を撮られてますから…

投稿: 茶々 | 2015年4月 8日 (水) 17時10分

「明智超」の記事拝見しました☆
お、面白そうなルート…!!いつか行ってみたいです(^∇^)

写真はそうですね、気にしなくていいですよね‼写ってたら逆に参考資料になって重宝されるかな!!なんてね~(^w^)

投稿: みさこ | 2015年4月 9日 (木) 20時42分

みさこさん、こんばんは~

ハイ!
「歴史上の人物が歩いた道を歩く」というのはオモシロイです。
いつも妄想しながら歩いてます(*´v゚*)ゞ

投稿: 茶々 | 2015年4月10日 (金) 03時29分

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