兄が天下人になったために…秀吉の妹・旭姫の悲しみ
天正十四年(1586年)4月28日、豊臣秀吉の妹・旭姫が徳川家康に嫁ぎました。
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先日、今年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国」に絡めて、戦国女性の政略結婚についてお話させていただきました(4月22日参照>>)。
戦国に生きるお姫様にとっての政略結婚は、おそらく、現代人が思うほど悲劇ではなく、彼女たちは、むしろ、実家と婚家のかけ橋となる役目をになえる事に誇りを持ち、結婚後も、彼女たちなくしては家内が回らないほどの大きな役割を果たす場合もあり、最近の研究では不幸一辺倒ではない、高い評価を受けているという事もお話させていただきました。
しかし、例外はあります。
それが、今回の旭(あさひ・朝日)姫・・・
・・・というのも、政略結婚に限らず、その出来事が悲劇か悲劇でないか?という判断には、当人の育った環境によってつちかわれた価値観が大きく左右するのでは?と思えるからです。
以前、昨年の大河「龍馬伝」の最終回を迎えてのページにも、その末尾のほうに少し書かせていただきましたが(11月29日参照>>)、ドラマの中では、幕末は暗く悲しい時代で、龍馬は事あるごとに、「(これからは)皆が笑って暮らせる世の中になるがじゃ」と言っていましたが、実際に、幕末の日本を訪れた外国人の記録には、「道行く人々は、皆、礼儀正しく、明るく、いつも楽しそうだった」事が書かれています。
そういった外国人の記録は山ほどあります。
つまり、身分制度や規則に縛られた封建的な江戸時代が、暗く悲しい時代だったというのは、現代人の価値観なわけで、その時代に生きた人は、そんな事は思ってはいなかったかも知れないと・・・
それは、戦国時代も同じですし、さらに、同じ時代に生きても、置かれた立場で、また、価値観は違います。
たとえば、お姫様を、今風にお嬢様と仮定した場合・・・
資本主義社会となっている現代では、「お嬢様=お金持ちの娘さん」という事になりますが、封建的社会では、そうではありませんよね?
戦国時代、天皇家より武家の領主ほうがお金持ちでしたが、お嬢様度が高いのは天皇家のお姫様のほう・・・江戸も後期になると、武家より豪商のほうがお金持ちですが、お嬢様度が高いのは武家の娘さん。
そこには、生まれながらにして置かれた環境によって得る価値観、その立場に見合った教育を受けて育つ価値観があり、当人たちにとっては、その価値観から外れた出来事&行動のほうが不幸であり悲劇であると思うのです。
各領地がそれぞれ別の国であった戦国時代は、領主=殿さまは、その国の王であり、お姫様は、その身内・・・
つい先日も、天皇・皇后両陛下が茨城県の被災地を訪問された姿が報道されていましたが、その映像を見て、感動された方も多いでしょう。
なぜ感動するか?・・・それは、両陛下が、個人ではなく公の立場で国民の事を最優先に考えて行動されているからです。
戦国時代・・・王の身内であるお姫様にとっての政略結婚は、領民・領国を背負って、一大勝負を賭ける「女の戦」であって、それに挑む誇りこそあれ、「好きでもない人と結婚するのはイヤ!」などという個人的思考を優先する事は、むしろ、君臨する資格さえない恥ずべき行為であったと思うのです。
単なる武家の娘ではなく、その地を統治する=君臨するという事は、そういう事だと思います。
だからこそ、庶民は上に立つ人の公を優先する行為に感動し、上に立つ人は自らの役割に誇りが持てるのではないでしょうか?
そういう点で、お市の方や、江を含む浅井三姉妹など、生まれながらにしてお姫様だった彼女たちは、そういう教育を受けて来たし、そういう価値観を持っていたと思います。
・・・が、しかし、今回の旭姫・・・
ご存じのように、彼女は豊臣秀吉の異父妹(同父母という説もあり)で、農夫と結婚して、大人になるまで、農家の嫁として生きて来た人です。
つまり、彼女は、お市の方や浅井三姉妹とは生まれ育った環境も違えば、お姫様としての教育も受けてないわけですから、上記ようなお姫様独特の価値観や、公を優先するといった思考が育つはずはないわけです。
とは言え、彼女の事は、ほとんど記録に残っておらず、その記録も、イマイチ矛盾が多くて、今のところ断定できない事ばかりなのですが・・・
彼女の夫として名前があがるのは二人・・・
まず、佐治日向守(さじひゅうがのかみ)。
彼は、元、尾張(愛知県西部)の農夫でしたが、旭姫と結婚していた事によって、秀吉が出世してから、その配下となり、尾張の名族・佐治氏を継いで佐治日向守と名乗ったものの、武士が性に合わなかったのかノイローゼ気味になって不祥事を起こしてしまったため切腹したのだとか・・・。
もう一人は、副田甚兵衛吉成(そえだじんべえよしなり)。
織田信長の配下から秀吉の与力となって、当時、前夫を亡くして未亡人だった旭姫と結婚したものの、朝日姫を家康と結婚させるために離縁させられたのだとか・・・
という事で、旭姫は、2度結婚していたとも言われていますが、一方では、旭姫を家康と結婚させるために離縁させられたのは佐治日向守さんという話もあり、それだと、彼は切腹してないし、旭姫の結婚も1回だけという事になります。
とにかく、その相手は、微妙なれど、この時、秀吉が、すでに結婚していた44歳の妹・旭を、離縁させてまで、家康と結婚させた・・・という話は、合致しているようです。
では、なぜ、前夫と離縁させてまで、秀吉は、妹と家康を結婚させたのか???
それが、天正十二年(1584年)に勃発した、あの小牧長久手の戦いです。
信長亡き後の織田家・後継者を自負する信長の次男・織田信雄(のぶお・のぶかつ)が家康と組んで、秀吉に対抗した戦いで、3月13日の犬山城攻防戦(3月13日参照>>)に始まり、3月17日の羽黒の戦い(3月17日参照>>)、にらみ合いの小牧の陣(3月28日参照>>)、そして、秀吉が手痛い敗北を喰らった長久手の戦い(2007年4月9日参照>>)と蟹江城攻防戦(6月15日参照>>)。
・・・と、徳川側の記録では、戦況は信雄+家康有利に進んでいたはずが、最後の蟹江城から5ヶ月後の11月11日、なぜか、信雄は単独で秀吉との和睦を受諾し、この戦いは終結となります(11月11日の前半部分参照>>)。
その後、同じ年の12月には、自らの次男を人質に差し出して(11月21日参照>>)、一旦は、秀吉に屈するかに見えた家康でしたが、その翌年には、再び要求された新たな人質を拒否・・・何が何でも家康を服従させたい秀吉との間で、緊張が高まります。
そんな緊張の打開策として行われたのが、天正十四年(1586年)4月28日の妹・旭姫と家康の結婚だったわけです。
しぶしぶこの結婚を承諾した家康は、その交換条件として、配下の有力家臣の中から、何名かの人質を、秀吉に出すという要求を呑みますが・・・
以前も書かせていただいたように、政略結婚の犠牲になった人の代表格はお市の方で、彼女が一番の悲劇の人とされる事が多いようでが、私は、この旭姫のほうが、よっぽど悲劇のように思います。
先ほども書いたように、朝日姫は、お姫様としての教育を受けてないし、領民や国を守らねばならない立場など、理解できるはずもない状況で、育って来たわけですから、それこそ、何が何だかわからないまま、勝手に結婚させられた感じでしょう。
それに、なんだかんだで、お市の方は、浅井長政とウマくいっていたようですし、柴田勝家とも、ともに死ぬ事を望むほど、その使命感に燃えた結婚だったわけですし、何より、「妻として大事にして貰ってた感」がありますが(あくまで、予想ですが…(^-^;)、旭姫の場合は、家康との関係も、ちゃんとした夫婦として成り立っていたのかさえ危うい気がします。
というのも、結局、どうしても、家康に上洛して挨拶してもらいたい秀吉は、この結婚の5ヶ月後の10月、「旭姫の見舞い」と称して、自らの生母・大政所(おおまんどころ・なか)を、家康のもとへ送り出します。
もちろん、これも人質ですが・・・この時、ここにやって来た大政所が、本物かどうか疑った家康は、岡崎城にて旭姫と面会させ、二人が涙ながらに抱き合うシーンを見て「本物だ」と確信して安心したというのですから、それまでの旭姫に対しても、良き夫として接していたかどうかというのは微妙ですよね。
しかも、その後、ようやく上洛して秀吉と会う(10月17日参照>>)事を決意した家康は、万が一、現地で自分の身に何かあった場合、いつでも大政所を殺せるようにと、その屋敷の回りに薪を積んで出掛けたというのですから、やっぱり・・・って感じです。
結局は、その結婚生活も2年・・・天正十六年(1588年)に、旭姫は、すでに京都に戻っていた母=大政所の病気の見舞いを理由に上洛して、そのまま京都の聚楽第に住みました。
しかし、そのわずか2年後、母に先立って48歳という年齢で、その生涯を閉じます・・・やはり、心の痛手が癒しきれなかったのかも知れませんね。
もしかしたら、最期は家族のもとに戻れた事だけが、せめてもの救いだったかも・・・彼女こそ、戦国時代で、最も政略結婚に翻弄された人ではなかったか?と思います。
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コメント
中世・江戸時代から現代に到るまで「自由」と「安定」が相関関係になってるんじゃないかんと思います。
中世は自由な社会ではあったけど安定はしていていない、江戸時代は安定した社会だけど、身分・格式は絶対で自由は制限されていたと。
私は江戸時代の近世社会は、社会の隅々まで身分・格式による秩序が浸透した、まぁ堅苦しい社会ではあったろうと思います。中世ほどの自由度はもはや許されないけど、そのかわりに人々は安定を手にしたと。
不思議なもので、信長・秀吉のいわゆる「戦国時代」は社会がそういう安定化に向かうと同時に生きにくい堅苦しさが生まれた時代で、「龍馬伝」は逆にそういう近世社会を解体していく時代の話なのですよね。
戦国と幕末は日本史の二大関心テーマですけど、近世社会の確立と解体という観点でみることができようかと思っています。
投稿: 黒駒 | 2011年4月28日 (木) 23時56分
黒駒さん、こんばんは~
やはり、戦国と幕末が人気があるのは、時代の転換期という点でしょうか。
時代の転換期には、偉人も多く登場しますし…
投稿: 茶々 | 2011年4月29日 (金) 01時49分
時代劇(一部の現代のドラマでも)では政略結婚で一緒になった夫婦の方が仲がいい、という感じで描写されますね。
「水戸黄門」とかでは、相手がどういう人物か見てみようとお忍びで外出して、やはりお忍びで外出した相手と偶然会って意気投合するシーンがありますね。ただこれは平和な江戸時代だからできる事ですね。
考えてみると、旭さんはしばらくは「百姓の妻」でしたので、急激な生活環境の変化に対応できなかった(母親の大政所もそうかも)とも言えますね。ある意味豊臣秀次もそうかな。
悲劇を経験した旭さんは5月1日の放送で登場します。
上記の「幕末は実は暗い時代ではない」との部分はうなづけます。現代でもそうですが、世代によっていい時代か嫌な時代かの印象に差が出ますね。今作は戦国時代の「影の部分」を(女性の視点で)描写していると思います。主人公は戦国時代の最終盤に生まれた人ですが、天正年間の出来事はほぼ子供時代に該当するので、強烈に記憶に残ると言う脚色かも。今日は長くなりました。
投稿: えびすこ | 2011年4月29日 (金) 15時44分
えびすこさん、こんにちは~
政略結婚もそうですが、一般的なお見合いというのは、本人の性格より釣書が優先されます。
「釣り合わぬは不縁のもと」とは、よく言ったもので、同じような家柄、同じような環境で育った場合は、ほぼ同じような価値観があるうえ、人には情という物がありますから、ともに暮らしているうちに情が湧いてきて、むしろ恋愛結婚よりウマくいく場合が多々あるわけです。
旭姫の場合は、それがなかったのが最大の不幸だと思います。
投稿: 茶々 | 2011年4月29日 (金) 15時59分
旭姫の晩年は京都で暮らせてよかったのではないでしょうか。江戸や駿府よりも。家康との子供がいたら、また歴史が変わったかもしれませんね。
私の周りでは、見合い結婚の破綻が、多いような気します。夫が妻よりも親を重視して、子供がいなかったら、いる場所がなくなって。
投稿: やぶひび | 2011年5月 1日 (日) 07時36分
やぶひびさん、こんにちは~
>旭姫の晩年は…
そうですね。
京都に戻れた事が、せめてもの救いでしょうね。
>私の周りでは…
お見合いでも、恋愛でも、嫁VS姑関係は、旦那さんの力量が重要ですね。
投稿: 茶々 | 2011年5月 1日 (日) 16時25分
先ほど向井くんがBSの「大河ドラマの地を巡る」番組に出ていましたが、予告で秀忠(誰かが「徳川竹千代」と言ったので、元服前から出ます)が義母である旭さんを見舞う場面があります。結婚前に江さんと出会うようですね。
6月12日からの登場です。なかなか凛々しい(最初の頃はややかわいく見える?)ですよ。
投稿: えびすこ | 2011年5月21日 (土) 21時35分
えびすこさん、こんばんは~
向井くん登場の後半戦に期待したいですね。
投稿: 茶々 | 2011年5月21日 (土) 23時31分