南北朝合一の後に…後亀山天皇の「後南朝」
応永三十一年(1424年)4月12日、南北朝時代に終止符を打った第99代・後亀山天皇が崩御されました。
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第99代・後亀山天皇・・・諱を熙成(ひろなり・のりなり・よしなり)と言い、元中九年(明徳三年・1392年)閏10月5日に、室町幕府の第3代将軍=足利義満が提示した講和条件を承諾して後小松天皇へ譲位し、南北朝を終わらせた南朝側の天皇です。
しかし、北朝優勢だった当時は歴代天皇に数えられる事はなく、明治四十四年(1911年)に南朝が正統とみなされ、初めて、第99代と数えられる事になります。
ご存じ、第96代後醍醐(ごだいご)天皇と室町幕府・初代将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)の対立に端を発し、約60年に渡って、一つの国に二つの朝廷が存在するという不可思議な状態となってしまった南北朝時代・・・(10月27日参照>>)
それが、上記のように後亀山天皇が、足利義満の提示した条件を呑む事によって、やっと合体する事になったわけですが、その条件とは・・・
- 三種の神器は南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇に譲渡され、それは「御譲国の儀式」にのっとって行われる事
- 今後の皇位継承は、旧南北双方より「相代(あいがわり・交代制)」で行う事
- 旧南朝ゆかりの君臣を経済的に援助するため、旧南朝方に「諸国国衙領(しょこくこくがりょう)」を領知(りょうち・土地を領有して支配)させる事
『大乗院日記』によれば、「南北御合躰 一天平安」と、大喜びの南北朝合一ですが、はっきり言って、北朝による南朝の吸収合併・・・この約束がすんなりと果たされるかどうかというのは手探り状態です。
・・・とは言え、この頃の状況は北朝の優勢になる一方で、もはや南朝は虫の息でしたから、とりあえずは、勝ち組の北朝が、負け組の南朝のメンツに、目いっぱい配慮してくれている感溢れる条件なのですから、「多少の不安はあっても受け入れるしかない」というのがホンネだったかも知れません。
しかし、そんな不安は的中します。
上記の3条件の中で、南朝側の最大の関心事は、2番の「後継者の交代制」・・・もちろん、北朝側から見ても、これが、相手が1番に喰いついてくるエサであった事を重々承知して条件の中に入れたわけですが・・・
もはや歴史年表の歴代天皇系図を見ても明らか・・・この南北朝合体の後に、南朝側出身の天皇は一人もいません。
1番重要な条件を、完全無視しちゃったのです。
・・・とは言え、もともと、この条件を提示した3代将軍=義満は、応永十五年(1408年)に51歳で亡くなっていて、少なくとも、義満健在の時代には、後継者問題が起きる事は無かった事を考えれば、ちょっとは気をつかったのかな?って感じですが、
逆に言えば、
「それは、先代のポッポ総理が言ってた公約なんで・・・」
と、代替わりでウヤムヤにされたアレみたいなモンかww
とにもかくにも、いっこうに実行されない約束につのる不満・・・そこを核に、武士勢力の対立抗争がまとわりついていくのです。
そう、以前、義満が将軍に就任した日のページ(12月30日参照>>)に書かせていただきましたが、実は、義満がわずか11歳で征夷大将軍になったその頃は、未だ幕府が盤石とは言えない時期で、彼は、あの手この手で将軍勢力を拡大させていったのです。
特に、身内同様の大大名=大内義弘を討死させた応永の乱(12月21日参照>>)などは、けっこう強引だったようで、それらは、そこかしこに武士の不満の種をまき散らしていたわけです。
ただ、遠く九州や関東・・・近畿地方の山間部や伊勢など、その種はまかれていたものの、未だそれらは、それぞれが様々な場所での抗争を繰り返していただけでした。
そんな状況に変化が訪れるのは応永十五年(1408年)・・・義満の後を継いで将軍となった足利義持(よしもち)が、現天皇の後小松天皇に代わって、その第1皇子の躬仁(みひと・実仁)皇子を即位させようと画策し始めたのです。
翌年の11月には、最も次期天皇の有力候補だった後亀山天皇の孫を醍醐寺(だいごじ)地蔵院に入室させたとされ、その意思表示も大胆になります。
これを知った後亀山上皇は、「何とかならんか?」と義持に直接交渉したりなんぞしますが、義持の姿勢ははいっこうに変わらず・・・
かくして応永十七年(1410年)11月27日、なんと、後亀山上皇は大覚寺を出奔し、突然、大和(奈良県)吉野へ・・・
記録には「生活の困窮」がその理由とされていますが、このタイミングでの吉野行きは明らかに幕府への抗議!
ただ、この頃は、残念ながら、まだ実が熟していませんでした。
後亀山上皇の出奔をよそに、翌年、京都では躬仁皇子の立太子が行われ、応永十九年(1412年)8月29日には、その躬仁皇子が、第101代称光(しょうこう)天皇として即位・・・後小松上皇による院政が開始され、もはや南朝勢力の挽回をはかる場面は無くなってしまいました。
吉野へと出奔してから6年・・・応永二十三年(1416年)、目的を果たせなかった後亀山上皇は、空しく京都へと戻りました。
その後の後亀山天皇が失意のままに暮らした事は言うまでもありませんが、そんな後亀山上皇・・・応永三十一年(1424年)4月12日、75歳とも78歳とも言われる、波乱の生涯を閉じました。
その人生と最期の無念の思いにふさわしく、その夜は雷鳴轟く激しい雨模様だったと言います。
しかし、無念に散った後亀山上皇の後で、その果実は確実に熟していきます。
この後の将軍の交代劇、天皇の交代劇に乗じて、反幕府勢力の中心となるのは、南北朝の初期に活躍した北畠親房(ちかふさ)の曾孫に当たる北畠満雅(みつまさ)・・・そして、後亀山上皇の孫・小倉宮(おぐらのみや)。
彼らは、近畿山間部の山城で、楠木正成(くすのきまさしげ)を彷彿とさせるゲリラ戦を展開していく事になるのですが、そのお話は、また、いずれかの機会に・・・
ちなみに、今回の南北朝合一後に誕生した反幕府勢力を「後南朝」と呼びます。
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コメント
茶々様、こんにちは。
後南朝というものがあるとは。初めて知りました。
投稿: いんきち | 2011年4月12日 (火) 16時33分
いんきちさん、こんばんは~
「後南朝」という呼び方は、当時ではなく、江戸時代につけられた呼び名だそうですが、私も教科書に載ってた記憶がありません( ̄◆ ̄;)
果たして歴史の授業で習ったんだろうか???
投稿: 茶々 | 2011年4月12日 (火) 21時07分
茶々さん、こんばんは!
「後南朝」という用語自体は、教科書レベルのものではないと思いますよ。
趣味の一環で詳しく調べたいなぁと思う人や、より一層研究して詳細を究明したい研究者ならともなく、「後南朝」の“騒乱”は一地方のゴタゴタなので、総括的に憶えるべき歴史の授業には必要ないと思います。
最近はよく「教科書で教えない」とか「教科書で習わない」と銘打って商売してるのが多いようですが、敢えて言えば“覚えなくて良い”歴史的事実なんかいっぱいあると思うのですけどね…
さて、「後南朝」の最後の指導者に北山宮尊秀王、自天王(じてんのう)と呼ばれる人物がいます。小倉宮の王孫?とも云われていますが、長禄元年(1457)に嘉吉の乱で一旦勢力をそがれた赤松氏の家臣たちの―「後南朝」の勢力を潰す見返りに赤松氏の復興を要求する―策略によって、討たれてしまいます。
現在、自天王をしのぶ「川上村朝拝式」が金剛寺(奈良県吉野郡川上村神之谷)という場所で営まれています。私自身、学生時代に友人たちと一緒に吉野・南朝ツアーをして事があり、その際に訪れた事があります。
この儀式も2~3年前までは自天王に仕えていた家臣たちの子孫の方々が催していたそうですよ。
投稿: 御堂 | 2011年4月12日 (火) 23時25分
御堂さん、こんばんは~
>総括的に憶えるべき歴史の授業には必要ない
そうなんですか?
意外にたくさんの書籍があって、何年か前には歴史読本で特集してたので、けっこうメジャーなのかと思っていました。
歴史の授業でのサボリじゃなくて良かったです(゚ー゚)
>2~3年前までは
最近まで続いていたのですね~
感動です。
投稿: 茶々 | 2011年4月13日 (水) 02時34分
後南朝は、南北朝時代史といえばな森茂暁さんが単著を出されていた覚えはありますけど、なんだか確実な文書・記録でたどれない伝承の領域が大きそうですし、オカルトとか秘史というか、あまりまっとうな歴史学からアプローチされていない分野ではありそうですね。
投稿: 黒駒 | 2011年4月14日 (木) 14時45分
黒駒さん、こんにちは~
伝説に彩られた歴史…
さすがに、鵜呑みはできませんが、ストーリー的には大好きです。
投稿: 茶々 | 2011年4月14日 (木) 17時13分