毛利元就VS陶晴賢~厳島へのカウントダウン
弘治元年(1555年)4月8日、陶晴賢方の神領衆が安芸小方・大竹から小船7~80艘に分乗し毛利元就方の厳島を攻めました。
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戦国時代・・・周防(すおう・山口県)の大内氏と、出雲(島根県)の尼子氏がしのぎを削っていた中国地方。
この2大勢力のハザマに位置する安芸(あき・広島県)の国人・毛利氏は、毛利元就(もとなり)(10月22日参照>>)が家督を継ぐやいなや大内氏の傘下となり、尼子氏と決別します(1月13日参照>>)。
しかし天文二十年(1551年)・・・大内氏の重臣であった陶晴賢(すえはるかた・当時は隆房)が、主君・大内義隆(よしたか)を自刃に追い込み、義隆の甥にあたる大友義長(よしなが・当時は晴英)を当主とし、事実上実権を握ってしまいます(8月27日参照>>)。
この時、晴賢側に立って、ともに大内氏を攻めて勢力を拡大を計った元就ではありましたが、実は元就は、未だ土豪に毛の生えた国人だった自分を、何かと盛りたててくれた義隆に恩義を感じていて、心の底では、この晴賢の謀反を快く思ってはいなかったのです。
とは言え、早いうちに大内氏の家臣団を掌握してから謀反を決行した晴賢に、未だ力不足の元就では刃向かう事ができなかった・・・というのが現状でした。
しかし、そう思っていたのは元就だけではなかったようです。
晴賢の謀反から3年後の天文二十三年(1554年)・・・やはり、毛利と同じような立場で、かつては大内氏の傘下となっていた(5月27日参照>>)石見(いわみ・島根県)の国人領主・吉見正頼(よしみまさより)が、晴賢に反旗をひるがえしたのです。
正頼からも晴賢からも、援軍の要請を受ける元就・・・両者の動向を見ながらチャンスをうかがいます。
やがて晴賢が義長を奉じて正頼の本拠地・津和野城へと出陣したタイミングで、晴賢からの離反を決意・・・5月12日には、その心の内を表明して挙兵し、またたく間に銀山(かなやま)城や草津城など、安芸南西部の諸城を落としていき、さらに、厳島(いつくしま・宮島)も制圧したのです。
一方、元就のこの動きを知った晴賢は、早速、配下の宮川房長(ふさなが)に自らの兵=3000を預けて、元就の本陣へ・・・しかし、元就は見事にこれを跳ね返し、意気揚々と、本拠地・郡山城へと帰還しました(9月15日参照>>)。
・・・とは言え、このまま、突き進むわけにはいきません。
なんせ相手は、あの名門・大内氏の兵力を、ほぼそのまま引き継いでいるのです・・・数にすれば何万という兵を動員できるはず・・・
一方の元就は、いくら頑張っても、せいぜい4000程度・・・まともに戦っては勝ち目はありません。
そこで元就・・・ここは、ゆっくり腰を据えて作戦を練ります。
まずは、お得意の寝返り工作で、久芳(くぼ)城主の久芳賢重(かたしげ)や桜尾城の城将だった毛利与三らに、大金をチラつかせて取り込んだ後、さらに、晴賢の腹心とまで言われた江良房栄(えらふさひで)までをも味方に引き込む事に成功したのです。
名将の誉高い彼の寝返りは、かなり心強い!!・・・と思いきや、この房栄さん、自分の存在がいかに重要かを、自らも重々承知のご様子で、
「とりあえず、味方になったったけど、ちょっと金額少ないんとちゃう?」
と、更なる領地加増の希望をチラつかせます。
これには、元就はもちろん、長男の隆元もカチン!!
なんせ、その時点で、毛利の譜代の家臣と、同じくらいの領地を与えているんですから・・・
しかも、この態度、
「・・・って事は、向こう(晴賢)が、もっと好条件を提示して来たら、コイツ、またあっちへ寝返るんちゃうん?」
てな事を疑いたくもなります。
そこで、すかさず作戦変更・・・
実は、その時に、晴賢側のスパイが、すでに毛利に入り込んでいたんですが、その事を重々承知の元就は、このスパイを逆利用・・・房栄が寝返った事を、ワザと、そのスパイに教え、それを晴賢に知らせるように仕向けたのです。
案の定、房栄の裏切りを知った晴賢は怒り爆発!!!
配下の者に命じて、房栄を殺害してしまいました。
さすが元就さん、お見事!!
と思いますが、これには別の説も・・・
それは、実は、この時の房秀は、晴賢を裏切る事などまったく考えてはいなかったにも関わらず、元就がわざと「房栄裏切り」のウソ情報を流して、疑心暗鬼に陥っていた晴賢を騙し、内部分裂をさせたのだとも言われています。
知略・謀略渦巻きまくり・・・ホント、元就さん、お見事です。
さらに、作戦はこれだけではありません。
そう、厳島へのおびき出し作戦・・・
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
広々とした平地で、まともに戦っては勝ち目はありませんから、周囲わずか29km、しかも山ばっかりの厳島へとその大軍をおびき出して、思うように動けずにいる所を奇襲すれば、必ず勝機があると睨んだのです。
確かに、かの名門・大内氏は、これまで安芸に進攻する際、この厳島を中継基地にしていましたし、もう一つの中国の雄・尼子氏が安芸を攻める時にも、ここを中継地点にして攻め込んでいました。
と言うのも、地図を見るとわかる通り、この厳島を制圧すれば、その周辺の制海権も握れる事になるので、安芸を攻める時の兵の輸送や兵糧の輸送が船で行え、とても便利なのです。
とは言え、あの晴賢謀反のドサクサで毛利が手に入れた草津城などの安芸南西部を取り返そうと、万が一陸路で進攻して来るかもしれません。
そこで、元就・・・弘治元年(1555年)の春先から、まずは、陸の最前線となる門山(かどやま)城を破棄して、少し撤退してみせるとともに、その対岸の厳島に、わざとらしくミエミエの場所にて、これ見よがしに築城を開始します。
これが、宮尾城です。
この様子を見た晴賢・・・早速配下の者をよこします。
かくして弘治元年(1555年)4月8日、晴賢配下の神領衆が安芸小方・大竹から小船7~80艘に分乗し、厳島を攻めにやって来ました。
とは言え、わずか、これだけの軍勢・・・小競り合いを少々起こして、早々に帰っていただきましょう。
なんせ、元就が、待っているのは、晴賢の主力本隊の大軍なのですから・・・
やがて、その宮尾城は、無事5月に完成・・・果たして、晴賢の動向は???
と、これが、戦国三大奇襲の一つに数えられる厳島の合戦(前半部分内容かぶってますが10月1日参照>>)へとつながるわけですが、まだまだ書き足りない部分も含めて、続きのお話は、9月21日【毛利元就VS陶晴賢~決戦の地・厳島へ…】でどうぞ>>。
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