漏刻で時間をお知らせ…飛鳥・プロジェクトX~時の記念日
天智十年(671年)4月25日、天智天皇が水時計を使って、初めて鐘鼓を打って時を知らせました。
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『日本書紀』の天智十年(671年)の四月二十五日の項に、
「漏刻(洩剋)を新しき台(うてな)に置く、始めて候時(とき)を打つ、鐘鼓(かねつづみ)を動(とどろ)かす、始めて漏刻を用いる」
と書かれてあります。
この漏刻(ろうこく)というのが、いわゆる水時計みたいなシステムの事です。
さらに、この天智十年4月25日という日づけを、太陽暦に換算すると671年6月10日になるという事で、現在、6月10日が『時の記念日』という記念日に制定されています。
という事で、本日は、その漏刻なる物がどんな物なのか?というお話を中心に進めさせていただきます。
(画像は、すべてクリックしていただくと大きくなります)
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とは言え、『日本書紀』の記述を引用して、大正九年(1920年)に「時の記念日」という記念日が制定されたものの、当時は、それが、天智天皇が皇太子=中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)時代の斉明六年(660年)に水時計によって時間を計り、時間に合わせて鐘を打つシステムを造り、この天智十年(671年)4月25日に、初めて実際に使用して時を知らせたという事がわかっているだけで、その漏刻なる物が、実際にはどんな物であったのかは、ずっと謎だったわけです。
そんな長年の謎が解けるのは、昭和五十一年(1976年)・・・奈良県明日香村のとある発掘現場で、それが発見されたのです。
現在、それは水落(みずおち)遺跡呼ばれ、ほぼ調査は完了し、丁寧に保存されています。
←建物外観の想像図
ここで見つかったのは、綿密かつ堅固に建てられた水時計用の建物と、その中央に黒漆塗りの木製水槽を使った水時計装置。
←地下水路
また、特殊な基礎工法を使って、建設途中に埋め込まれた木樋によって、水路が縦横無尽に走り、この水時計の建物を中心に、様々な施設があった事も確認されています。
水落遺跡の北方100mほどの所には、明治時代に石人像が出土して注目を浴びた石神遺跡(→)という遺跡がありますが、ここも、昭和56年(1981年)から始まった本格的調査によって、通路でもって水落遺跡とつながっていた事が明らかとなっています。
当時の日本は、律令制による中央集権的な国家体制を急速に整えようとしていた真っ最中で、先進国である中国にならって、明確な時刻のもとに秩序ある政治体制を整える事は、国家の一大事業・・・まさに、この漏刻システムは、国家の維新をかけたプロジェクトだったわけです。
・・・で、肝心のそのシステムですが・・・
と、このように、1階に水時計の装置を置き、2階に都じゅうに時を知らせる鐘、もしくは太鼓が設置されていたと思われます。
水時計は、階段になった水槽に水を張っていき、上段の水がいっぱいになると溢れ出して下段へ・・・、さらに、その段がいっぱいになると、また下に・・・という物で、最下の段に目盛りのついた人形を浮かべておいて、その人形の目盛りが決まった場所に来たら、鐘をついてみんなに時間を知らせる・・・という感じ・・・
単純作業に見えるけど、けっこう大変・・・ここで働く人は、やっぱエリートなですかね(゚ー゚;
このシステムのおかげで、どうやら宮仕えの役人たちは、毎朝、鐘や太鼓の音で起され、時間内に出勤という現代のサラリーマン並みの規則正しい生活を余儀なくされるようになったとか・・・
時間に正確な日本人の気質は、ここですでに生まれていたのかも知れませんね。
・・・で、そんな奈良時代の官僚の勤務システムについては、以前書かせていただいた時の記念日のページ(6月10日参照>>)で。。。
少し内容が重なる部分もありますが、どうぞご覧あれ!
追記:水落遺跡&石神遺跡への行き方は、本家HP「歴史散歩:明日香村」>>でどうぞ!
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コメント
私の母(今年79歳6人兄姉妹の中で一番気が強い(笑))が、時の記念日の話になると、必ずこの歌を歌います。〈今より一千二百年 天智天皇御時に 折しも6月10日の日 発明なされし水時計 守れ守れ皆共に〉を。
投稿: クオ・ヴァディス | 2015年5月 6日 (水) 16時28分
クオ・ヴァディスさん、こんばんは~
へぇ…漏刻の歌には、そのような歌もあるんですね~
私は
♪極め極めてあめつちの…♪というのしか知りませんでした。
いずれにしても、未だ遺跡が発見されていない時ですから、日本書紀の記述をたよりに作詞されたんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2015年5月 7日 (木) 02時36分