伊達家を奥羽随一に引きあげた伊達稙宗
天文五年(1536年)4月14日、陸奥南部の戦国大名・伊達稙宗が、171箇条から成る分国法「塵芥集」を制定しました。
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という事で、本日はこの伊達稙宗(だてたねむね)さんについて・・・
そもそも、この伊達家は、平安時代の第56代天皇・清和天皇の時代(858年~876年)に重用された藤原北家の公卿・藤原山蔭(やまかげ)の子孫とされ、鎌倉時代の当主・朝宗(ともむね)が陸奥伊達群を領地として与えられた事から伊達と名乗り、室町時代頃には、将軍家とよしみを通じて勢力を拡大し、陸奥中南部(宮城県)や陸奥南部(福島県)などを、その範ちゅうに治めていったと言います。
そんな中での長享二年(1488年)、父・尚宗(ひさむね)の死にともない、第14代当主を引き継いだ長男・稙宗・・・と、当主になるやいなや、早くも行動を開始します。
いきなり、山形に進攻を開始し、隣国・出羽(でわ・山形県+秋田県)の最上義定(もがみよしさだ)の長谷堂城(山形県山形市)を攻めて降伏させたうえに、自らの妹と結婚させて、事実上、伊達家の支配下に置きました。
この頃の最上氏は、羽州探題(はしゅうたんだい)という室町幕府の公式の役職についていた家柄・・・
この羽州探題とは、幕府の地方管制の中に設置された守護に代わる役職で、ともに設置された奥州探題(おうしゅうたんだい)と並んで、現在の東北地方一帯を統括する要職・・・。
ちなみに、陸奥(むつ)と言えば現在の青森+岩手+宮城+福島で陸奥の「奥」の字をとって「奥州」・・・そして、さっきの出羽が山形+秋田で、こちらは「羽」の字をとって「羽州」・・・なので、東北全体を指す時は「奥羽」と呼びますね。
ところで、そんな室町幕府の正式な役職を事実上奪っちゃって、将軍には怒られないのか?
と、不安になりますが、これが、怒られないどころか、逆に、時の将軍=第10代・足利義稙(よしたね)の一字をもらって、これまで名乗っていた高宗(たかむね)を、ここで稙宗と改めちゃうくらいの勢い・・・
どうやら、時の管領・細川高国にずいぶんと気に入られたおかげのようですが、その点では、稙宗さんは、その実力とともに、天性の世渡り上手だったのかも知れませんね。
さらに、その勢いは止まらず、お名前の一字をいただくと同時に左京大夫にも任官されちゃいます。
実は、この左京大夫という位は、上記の奥州探題を世襲していた大崎氏が代々引き継いでいた官位・・・つまり、先ほどの最上の出羽だけではなく、大崎の奥州までイッちゃった事になります。
しかも大永二年(1522年)には陸奥の守護(知事)に補任され、もはや揺るぎない奥羽随一の武将となったのでした。
さらに、天文元年(1533年)には、これまで100年の長きに渡って伊達家が居城としてきた陸奥梁川城(やながわ・福島県伊達市)を出て、桑折(こおり)西山城(福島県桑折町)へと移転・・・出羽への更なる進出をもくろむとともに、体制の強化をはかりました。
ここからの政治家・稙宗の活躍もスゴイです。
まずは天文二年(1533年)の『蔵方(くらかた)之掟』13条の制定に始まり、天文四年(1533年)の『棟役(むねやく)日記』、天文七年(1538年)には『段銭(だんせん)古帳』などの徴税台帳を立て続けに作成します。
「蔵方」とは倉庫を管理する役どころ=つまりは質屋関係の法令。
「棟役」とは棟別銭(むねべつせん)とも言い=つまりは家屋にかかる税金の法令。
「段銭」とは田畑に臨時に課せられる税の法令(後に恒常的になります)。
もちろん、作成だけでなく、これらによる、より客観的で合理的な課税・徴収を断行しています。
そして、その合間の天文五年(1536年)4月14日に制定したのが、今回の「塵芥集(じんかいしゅう)」です。
「塵芥」とは「チリ&あくた」=つまり、いろんなゴミという意味ですが、もちろん、そのままゴミを集めたって事ではなくて、「ありとあらゆる方面の事柄を集めた」という意味で、この「塵芥集」は、戦国大名が、自身の分国(ぶんこく・領地)の支配や家臣団を統制するために制定する法令=分国法や戦国家法を書き記したもの・・・
今で言うところの六法全書みたいな物かな?
残念ながら、私は内容の一つ一つを拝見させていただいた事がないのでアレですが、解説を見させていただくと、その形式は鎌倉時代の御成敗式目(ごせいばいしきもく)(8月10日参照>>)にならった物で、領民の保護を優先したり、職人への優遇制度を設けたり、家臣団による勝手な裁判を禁止したり・・・特に、刑法や裁判に関する事は、事細かく書かれているそうで、家法よりは分国法のほうに重きを置き、分国統治を最優先に考えた内容なのだとか・・・
戦国大名としての権力の確立を目指している事がうかがえますね。
しかし、客観的かつ合理的な課税、家臣団を統率すべき家法の制定は、逆に、家臣団の猛反発を生んでしまうのです。
しかも、そこに起こった大崎氏の内乱に対する稙宗の対応に、また、この時、稙宗が推し進めていた越後(えちご=新潟県)守護の上杉定実(さだざね)(5月26日参照>>)に三男の実元(さねもと)を出す養子縁組の一件について、嫡男=晴宗(はるむね)が猛反発・・・不満をつのらせる家臣団とくっついて、なんと天文十一年(1542年)6月、父・稙宗を襲撃して幽閉してしまうのです。
この幽閉自体は、ほどなく稙宗が救出される事によって解消されますが、伊達家の家臣団を味方につけた息子に対して、父が奥州の諸将に声をかけて争う事を決意したため、この伊達家の内乱は、奥州全体を巻き込んだ大乱となってしまいます。
天文の乱、または、洞(うつろ)の乱と呼ばれるこの争乱は、はじめは奥州の諸将がたくさん味方についてくれたおかげで父・稙宗が有利・・・しかし、諸将はしょせん諸将の集まりで、にわか仕立てではその結束もゆるく、些細な事で対立するわ、「ほなサイナラ」と離反する者が続出するわで、途中からは晴宗の有利に・・・
しかし、数年間続いた大乱と言えど、もとをただせば親子ゲンカ・・・結局、時の将軍=第13代・足利義輝(よしてる)の仲裁を経て、天文十七年(1548年)、稙宗が隠居して晴宗が家督を継ぐという条件での終止符がうたれます。
戦い済んで日が暮れて・・・
結局、残ったのは伊達家の衰退だけでした。
そう、
これまで稙宗が拡大して来た勢力・・・傘下に納まっていたあの最上も、これを機に独立・・・相馬氏や大崎氏・葛西(かさい)氏も・・・そして、ご存じのように、蘆名(あしな)氏などは、この後、伊達をしのぐほどの勢力を持つ事になります。
これらの戦後のゴタゴタが、ようやく落ち着くのは、晴宗の息子=輝宗(てるむね)の代になってから・・・この輝宗さんが、ご存じ、独眼竜・政宗のお父さんです。
・・・で、その間の永禄八年(1565年)6月19日、稙宗は失意のうちに78歳の生涯を閉じました。
ひょっとして、この壮大な親子ゲンカが無ければ、かなりいい感じの舞台が政宗に用意されていたかも知れないわけで・・・家督を継いだ時点で、すでに奥州の覇王となっていたのなら、その後の政宗の人生はどのように展開していたのか??
妄想は尽きません(゚m゚*)
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コメント
福島も含め関東・東北は不思議なもので、領国の広い戦国大名家が生まれにくい地域でしたね。
伊達氏も長らくそうでしたが、中小勢力の分立状態が長く、前々から要因はいった何なのだろう思っています。
投稿: 黒駒 | 2011年4月14日 (木) 19時13分
奥州がんばれ!と、今の時期ついつい地名を見るとキュ~ンとなってしまいます。肥沃な大地と豊かな漁場がなんてことに!この地を治めてきたご先祖様もどうぞ見守っていてください・・・
投稿: Hiromin | 2011年4月14日 (木) 21時13分
黒駒さん、こんばんは~
>領国の広い戦国大名家が生まれにくい地域
やはり、中央政府から遠いというのもあったのかも知れませんね~
投稿: 茶々 | 2011年4月14日 (木) 22時21分
Hirominさん、こんばんは~
>地名を見るとキュ~ン
ホントに…
胸が痛いですね。
頑張っていただきたいです。
投稿: 茶々 | 2011年4月14日 (木) 22時23分
茶々さん、こんばんは!
この稙宗さんの婚姻政策によって奥州&羽州は親戚だらけになっちゃうんですよね。まるでヨーロッパでいうハプスブルク家のように…
投稿: 御堂 | 2011年4月15日 (金) 02時15分
茶々様、おはようございます。
内乱がなければ・・・。かなり妄想できそうなものですね。
投稿: いんちき | 2011年4月15日 (金) 11時02分
御堂さん、こんにちは~
古くは藤原一族しかり…婚姻での親戚だらけは、世渡り上手の証なのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2011年4月15日 (金) 14時09分
いんちきさん、こんにちは~
かなり、妄想できますよね~
なんせ、スタート地点が違うんですから…
投稿: 茶々 | 2011年4月15日 (金) 14時10分