家康を鬼にした?大賀弥四郎の処刑
天正二年(1574年)4月5日、徳川家康が、武田勝頼に内通した家臣・大賀弥四郎を三河岡崎で鋸引きの刑に処しました。
・・・・・・・・・
戦国時代で、魔王のごとき悪の権化のように言われる織田信長・・・
それに比べて徳川家康は地道で清廉潔白なイメージがありますが、いやいやどうして、家康もなかなか残酷な処刑をやっちゃってくれてます。
「鋸(のこぎり)引き」というのは・・・
罪人を、道の端っこに首だけ出した状態で地中に埋め、その横に、主に竹製の鋸を置いておいて、「通行人は誰でも鋸を引いて良い」とする処刑方法・・・ひと思いに殺さず、じわじわと苦しめるというやり方です。
(もちろん、信長もやってますが…(^-^;)
・・・と言っても、いつも言わせていただいているように、戦国時代の出来事を、現在の尺度でそのまま計る事はできません。
なんせ、殺らなければ殺られる世界です。
誰もが天下人を夢見る事のできる世界という物は、天下人だって、少しの油断が命取りになるわけですから・・・
現に、今だと、単にその場所を通っただけの一般通行人で、看板を見て「ほんじゃ、鋸を引こう」なんて思う人はいないでしょうが、この時代には、それをやっちゃう一般人が数多くいたわけですから・・・
それだけ、皆、明日の命の保証の無い中で生きていたわけです。
・‥…━━━☆
・・・で、本題に入りますが・・・
本日登場の大賀弥四郎(おおがやしろう=大岡弥四郎)さん・・・もともとは、徳川家康配下の中間(ちゅうげん)という役どころ・・・
中間とは、侍と小者の中間に位置する身分で、言わば侍の下働き・・・お供もするけど飯炊きもやるという風な様々な雑用を行う係の事で、身分としては、かなり低いです。
しかし、そんなところから、弥四郎は、己の才能一つでのし上がっていく・・・実は、彼は、算術に長けていたのです。
はじめ、その計算能力がかわれて会計租税の職に試用されますが、その試用が本採用となり、やがては三河国(愛知県東部)奥郡20余まり郷の代官に抜擢されたのです。
しかも、その頃には、普段は家康のいる浜松にいて、時々は岡崎いる嫡男・松平信康の用も務めるようになり、親子ともども、どっぷりと彼に信頼を置いていたのです。
とは言え、この弥四郎さん・・・その出世ぶりを、けっこう自慢げに語る人だったようで、周囲とはあまりうまくいかず、家臣団の中ではちょっと浮いた存在だったとも(死人に口無しなので100%信用できませんが(゚ー゚;)
そんな弥四郎が、更なる出世をたくらんだのか?
はたまた、揺らぐ天下に野望を抱いたのか?
それこそ、ご本人に直接、心のうちを語ってもらわねば、真相はわかりませんが、とにかく、ここに来て、現時点での家康の最大のライバル=武田勝頼(かつより)に内通するのです。
この頃の徳川と武田・・・
元亀三年(1572年)、ご存じの三方ヶ原の戦いで、家康は死をも覚悟したほどの大敗を、武田信玄から喰らいます(12月22日参照>>)。
しかし、その翌年の天正元年(1573年)が明けてまもなく、信玄が病に倒れた事で西へと向かっていた武田の大軍は、急きょ撤退・・・信玄は本拠地の甲斐(山梨県)に戻る途中でこの世を去ります。
死に際して、「自分の死を3年間隠せ」との遺言を残した信玄でしたが(4月16日参照>>)、後継者となった勝頼は、その父の影を払しょくするがのごとく、わずか半年後の10月には、遠江(とおとうみ・静岡県西部)に進攻し、家康の居城・浜松城近くに迫ります。
さらに、翌年の天正二年(1574年)の1月には、当時、織田信長の支配下にあった美濃(岐阜県)の明智城を攻略し(2月5日参照>>)、続く6月には、難攻不落を言われた高天神城を開城させます(5月12日参照>>)。
この高天神城というのは、以前、逆に家康がこの城を奪い返した時のページ(3月22日参照>>)でお話しましたが、ここが要!とも言える重要な場所に建っており、かつ、あの信玄でも落とせなかった堅固な守りの城で、この高天神城を勝頼が落とした事は、まさに、勝頼の勢いのスゴさを見せつける物でした。
そう、今回の弥四郎の内通事件は、この明智城と高天神城との間に発覚した出来事という事になるわけです。
先ほど、高天神城を開城させたのは6月と書きましたが、武田軍がその城を包囲したのは5月ですから、まさに、この4月の頃は、家康ビビリまくりの真っ最中だった事でしょう。
そんな時期に、弥四郎は、ウソかマコトか、徳川方の動きを逐一武田に報告していたというのです。
どうやら、同僚とのゴタゴタで、弥四郎の家財が没収された時に、その中から、武田への内通の証拠となる書簡が見つかったのだとか・・・
ビビリまくりの家康が、敵の勢いのみなもとが自分が信頼を置く家臣にあると知った・・・となれば、その怒りの度合いも想像がつくという物です。
かくして天正二年(1574年)4月5日、罪人の常として、縛れたまま馬に乗せられ、処刑場へと運ばれる弥四郎・・・
(*ここからは少しキツイ描写が出てきますので、ご注意を…)
ついた先には、すでに弥四郎の妻子・5人が、磔(はりつけ)にされていました。
そのかたわらで、足の腱と10本の指を切られ、首まで地中に埋められた弥四郎・・・そして、彼の目の前には、その切断された指が並べられたと言います。
地面と頭の間には、首を出せるようになった穴のある板をはめ込んで固定し、そばに置いた竹製の鋸で、通行人に、その首をひかせたのだとか・・・
磔台の妻子は、その弥四郎の様子を見せられながら処刑されるという悲しい最期となりました。
一方の弥四郎は、処刑が始まって7日後に死亡したという事です。
弥四郎の事件は、いずれも徳川家の公式記録とされる文書に書かれています。
公式記録という物が、基本、家康を賛美する姿勢からの書き方になっている以上、どこまでが、事実だったのかははっきりとしない部分もあり、中には、この後に起こる、あの家康による自らの妻・築山殿の殺害(8月29日参照>>)や、嫡男・信康を自刃に追い込む事件(9月15日参照>>)の原因の一つも、この弥四郎が、家康と信康の両方にお互いの悪口を吹きこんで、父と子の仲が悪くなった事にあるとする物もあります。
いずれにしても、このような処刑法を、その時代の背景も考えずに、ただ残酷だからと、知らないまま通過するのも、良くないのではないか?と、本日は、あえて書かせていただきました。
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コメント
最近は、この大賀弥四郎事件が長篠合戦の前提だったのではないかとする指摘もありますね。元亀年間の武田氏の三河侵攻が長篠直前に年代が修正されたこともあって、今なかなかホットな話題でもあります。
徳川氏というのは家中が必ずしも一体ではなかったようですね。武田家もそうであったろうと思っているのですが、徳川家中だと信康事件、大賀弥四郎事件、石川数正事件と家中の分裂が常にあったようで、信長や武田氏、さらに秀吉との関係を見ても常にそこが弱点であったようです。
投稿: 黒駒 | 2011年4月 5日 (火) 16時17分
NHK大河ドラマ「黄金の日々」松本幸四郎演じる呂宋スケザエモン主役のドラマで、故・川谷拓三さんが(なんの役だったかな?)信長暗殺未遂犯としてとらえられ、のこぎり引きの刑に処せられるシーン、ちゃんと?やってました。もう、すごく川谷さんがうまくてうまくて。元々この方死体役を演じたら日本一、なんて言われてた方ですが、息も絶え絶えでホントに真に迫ってましたわ~。昔の大河はホントに良かった。ちゃんと時代の空気が伝わってた。根津甚八演じる石川五右衛門の釜ゆでシーンもそりゃすごくて、ちょっと感動する所もありました。今なら「残酷!こんなシーン絶対ダメ~!」となるんでしょうね。
投稿: Hiromin | 2011年4月 5日 (火) 20時25分
茶々さん、こんばんは!
大賀弥四郎の処刑は昔、大河ドラマの「徳川家康」(昭58=1983)で観た記憶があります。
ただ、地中に埋められた弥四郎が自分を観ている農民たちに家康の悪口雑言を言うと、「オラたちの殿様の悪口を言うな!」って感じでなぶり殺しにされた―って感じだったと思います。
最近のドラマでは切腹&打ち首シーンがNGなのでつまらない限りですね。同じく昔に放送してた中国ドラマの「三國演義」(平7=1995、日本語吹き替え版)での定軍山の戦いで黄忠が夏侯淵を討ち取ったシーンでは、顔から肩にかけて、切れ味あざやかな一刀両断!ホント、きれいな切り様でしたよ。しかも、切り落とした後の胴体もしっかりと映し出してたし…オジサンとしてはこういうシーンが懐かしくて、観たくて、旧作ばかり観てる毎日です(笑)。
投稿: 御堂 | 2011年4月 5日 (火) 21時31分
黒駒さん、こんばんは~
一般的には、今川の人質時代に苦汁を飲んだ家康の家臣団は、結束が固かったように思われがちですが、やはり、そうではなかったような気がしますね。
特に組織が大きくなるにつれ、戦いで武功を挙げる派と、後方支援派の亀裂があったのでは?と思います。
投稿: 茶々 | 2011年4月 6日 (水) 01時09分
Hirominさん、こんばんは~
最近の大河は、悲惨な光景を飛ばしておいて、平和ばかりを訴えるので、なんだかピンと来ませんね~
しっかりと描いていただきたいです。
投稿: 茶々 | 2011年4月 6日 (水) 01時13分
御堂さん、こんばんは~
ドラマの「徳川家康」は、文字通り家康が主役ですからね~
領民にも慕われる殿さまというのは当然でしょうね。
最近の大河は、あまりに女女してて、「男前」と言われて来た私には、どうも合わないようです。
投稿: 茶々 | 2011年4月 6日 (水) 01時17分
『甲陽軍鑑』で「人は城・・」的な磐石の武田家臣団のイメージがつくられている武田家もそうだと思うのですが、実際には必ずしも一枚板ではなく分裂しやすい戦国期の家臣団組織だったからこそ、江戸時代には磐石だったとする記録が作られていたのではないかなと考えてます。
組織というか領地が拡大すると、遠方支配のために譜代家臣は出張していることが多く、信玄や家康のような当主近辺の側近層の力が大きくなり、譜代家臣と新興側近の党派的対立、みたいな構図はあるようですね。
石田三成と加藤清正のような対立構図はまさにそれだと思っています。
投稿: 黒駒 | 2011年4月 6日 (水) 20時27分
黒駒さん、こんばんは~
組織が大きくなると一枚岩は、なかなか難しいです。
色々妄想すると、夜も眠れませんね。
投稿: 茶々 | 2011年4月 7日 (木) 01時35分