織田信忠の恵林寺焼き討ち炎上事件~快川紹喜の死
天正十年(1582年)4月3日、織田信忠に火をかけられた恵林寺が炎上し、住職の快川紹喜らが焼死しました。
・‥…━━━☆
清和源氏の流れを汲む土岐氏の出身とされる快川紹喜(かいせん じょうき)は、京都の妙心寺などで修業し、美濃(みの・岐阜県)の崇福寺(そうふくじ)の住職を務めた後、甲斐(かい・山梨県)の武田信玄に招かれて恵林寺の住職になり、甲斐と美濃の外交関係など、パイプ役としても活躍していた僧でした。
また、信玄に甲斐に招かれる以前に、織田信長が紹喜を招いたにも関わらず、彼が誘いを断って甲斐に行ったので、信長がかなり怒ってたなんて事も禅僧の噂になっていたようですが、その事が今回の事件に影響があるのかどうか???
とにもかくにも、ご存じのように、この年の3月に武田勝頼(かつより)が天目山で散り(3月11日参照>>)、あの武田氏が滅亡・・・戦国の常として、多くの落武者たちが、聖域として特別扱いされる寺院へと逃げ込みます。
ちなみに、あの信長の比叡山焼き討ち(9月12日参照>>)も、そもそもは、浅井・朝倉の落武者を延暦寺がかくまっていたからで、「かくまっている者を差し出せ」という信長の再三の要求を、延暦寺がはねのけたうえに武装解除しなかった結果であって、いきなり焼き討ちにしたわけではありません(11月26日参照>>)。
もちろん、焼き討ちを100%肯定するわけではありませんが、その前に、そのような交渉があったという事は、心に留めておいていただきたいと・・・
・・・で、今回も同様に・・・
父の信長から武田攻の大将を任されていた嫡男・織田信忠は、15代将軍・足利義昭(よしあき)の使者を務めていた大和淡路守孝宗、三井寺の使僧の上福院、佐々木承禎(じょうてい・息子のの義定であったとも)の3名が、ここ、恵林寺にかくまわれているという噂を聞きつけて、3度に渡って「その3名を引き渡すように」との交渉を行いましたが、紹喜は、これをすべてはねのけました。
この恵林寺の姿勢に信忠は、
「代々、檀家として親しくしてた勝頼はんが頼って来ても境内に入れようともせんと、その遺骨を取りにもけぇーへんくせに、そんなしょーもないヤツらはかくまうんか!」
と怒り心頭・・・
まずは、津田次郎信治と長谷川与次郎などに命じて寺を包囲させて、寺の中の探索をさせますが、とっくに3名は逃亡したあと・・・
その頃には、寺の者は皆、山門の楼の上に登って籠城の構え・・・
「そっちが、そう来るならば・・・」
と、兵士たちは槍先をそろえて、逃がさないよう彼らを囲います。
『常山紀談(じょうざんきだん)』(1月9日参照>>)によれば、その時、紹喜は、弟子の一人=南華に
「法が絶える事は悔しいけど、もう逃げる事はできんな…お前は、楼から飛び降りて死になさい」
と・・・
この言葉を聞いた南華は、すかさず飛び降りますが、その瞬間に兵士たちが槍先を伏せたため、助かったのだとか・・・
その後、16名ほどが飛び降りた後、残った紹喜ら84名(114名・150名とも)は、座って合唱をはじめ、兵士らは楼の下に焼草を積んで火をつけたと言います。
天正十年(1582年)4月3日、死に際して紹喜が詠んだ辞世・・・
♪安禅必ずしも山水を用ゐず
心頭滅却(めっきゃく)すれば火も自ら涼し ♪
というのは、
「心頭滅却すれば 火もまた涼し」=「どんな苦しい事でも、心頭を超越すれば苦しいとは思えない(火だって涼しく感じる)」
として、かなり有名な言葉となっていますが、この言葉は、別の文書に別人の言葉として載っているという事もあり、紹喜の言葉ではなかったという説もありますが、言葉があってもなかっても、カッコイイ妄想をかきたてられるシーンではあります。
また、冒頭に書かせていただいたように、この紹喜は土岐氏・・・そして、あの明智光秀も土岐氏・・・
その事から、この恵林寺焼き討ち炎上事件を、あの本能寺の変の光秀の動機の一つと考える方もいらっしゃるとか・・・
謎がまた一つ増えましたね。
一方、甲州征伐を終えた信長は、前後処理を済ませて帰国の途につきますが、そのお話は・・・
【武田滅亡後の織田信長…論功行賞と訓令発布】>>からの
【甲州征伐後の信長の書状と安土帰陣と息子・勝長の事】>>でどうぞm(_ _)m
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コメント
数年前まで、恵林寺の近くに住んでいたので、日曜日早朝の座禅会に通いました。冬になるとフトンから出るのが辛くサボるというていたらくで、「火もまた涼し」の境地には遠く及ばぬ根性無しでした。
いつも感心しながら読ませていただいています。
投稿: 田上のおやじ | 2011年4月 3日 (日) 22時09分
田上のおやじさん、こんばんは~
私も「火もまた涼し」の境地にはほど遠い子供時代を送っておりましたが、なぜか、この言葉だけは小さい頃から知ってました。
多分、時代劇の滝修業みたいなシーンで役者さんが言ってたような記憶があります。
真冬の体育でのマラソンの時に唱えてましたが、今思えば、安易に唱えるのは失礼な事だったな…と反省です(*´v゚*)ゞ
投稿: 茶々 | 2011年4月 4日 (月) 02時27分
「心頭滅却」は快川の遺喝でないとするのは佐藤八郎さんという亡くなられた先生の説なのですが、佐藤さんという人は、和籍漢籍に通じた古典的な歴史学者なのですよね。
そのため近代的な実証史学とはやや異なる立場なのですが、実証史学のほうがそういう禅僧語録のような宗教史料は難解ですから不得手らしく、手付かずの分野になってるみたいですね。
私は個人的に、信長の武田討伐は対家康の共同作戦だったのではないか、つまり織田家から自立的になった家康に対し、先んじて武田領国を征服し家臣を配置してしまうことで、徳川・北条間のくさびとしたのではないだろうかと考えたのですが、まだこのあたりの政治背景も考察の余地がありそうですね。
鴨川達夫さんは信長は別に武田を滅ぼす意図はなくて、信忠が張り切りすぎただけではないかとおっしゃっていましたが。
投稿: 黒駒 | 2011年4月 4日 (月) 11時51分
黒駒さん、こんにちは~
そうですね~
まだまだ謎は多いです。
投稿: 茶々 | 2011年4月 4日 (月) 15時18分