やさし過ぎる戦国初の天下人…三好長慶
永禄七年(1564年)5月9日、三好長慶が弟の安宅冬康を飯盛城にて謀殺しました。
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群雄割拠する戦国の世で、最初に天下を取った人は?
・・・と質問すると、ほとんどの方が織田信長の名を思い浮かべるかも知れませんが、実は、信長より先に、本日の主役=三好長慶(みよしながよし・ちょうけい)が、初の天下人となっています。
そもそもは甲斐(かい・山梨県)小笠原氏の支流で、戦国時代には阿波(あわ・徳島県)の豪族だった三好氏・・・長慶の曽祖父=之長(ゆきなが)の時代に、細川澄元(すみもと)の擁立に成功して摂津(せっつ・大阪府の北東部)の守護代となり、京都や大阪で活躍しました。
しかし、実は、この澄元さんの細川家・・・もともと後継者を巡るお家騒動を抱えておりました。
・・・というのも、この澄元のジッチャンは、あの応仁の乱(5月20日参照>>)で東軍の将となった細川勝元(かつもと)・・・その勝元の息子=細川政元が実子をもうけなかった事で、先の澄元&細川澄之(すみゆき)&細川高国(たかくに)という3人の養子の間で後継者争いが勃発して政元は暗殺されてしまい(6月23日参照>>)、その死後には船岡山の戦い(8月24日参照>>)という本格的な合戦にまで発展しています。
そんな一連の後継者争いの中で、澄元を支持し続けた之長は、嫡子=長秀と次男=頼澄(よりずみ)という二人の息子を合戦で亡くし、自らも高国の計略にハマッて処刑されてしまいます。(5月5日参照>>)
父子3人がいなくなった三好家の後を継いだのが嫡子・長秀の長男=三好元長(もとなが)・・・父や祖父が支持した澄元の息子=細川晴元(はるもと)を支えて、先の高国と戦いますが、そんな戦いのさなか、日頃から何かと意見の合わなかった同族の三好政長(宗三=之長の甥)の讒言(ざんげん・事実でない悪口・告げ口)などよって、なんと、ともに戦った上司であるはずの晴元の命令を受けた一向一揆よってに殺されてしまうのです(7月17日参照>>)。
長慶・・・わずか11歳の時でした。
曽祖父の時代から、その命かけて支えて続けて来た上司が、少年=長慶の仇となったのです。
さぞかし、その恨みも・・・と思いきや、やはり彼は、凡人とは器が違いました。
翌年・12歳で元服して阿波の家督を継いだ長慶は、あの事件後に不仲となって、無意味な合戦を続けていた晴元と本願寺一向一揆を説得し、両者を和解させるのです。
畿内という、最も重要な場所で力をつけるためには、現時点では晴元の下につくしかない・・・恨みを捨てて晴元に従属するという冷静な判断をした12歳の少年に、世間は一発で注目する事となります。
もちろん、その非凡な才能は、またたく間に開花します。
河内・山城南部の守護代だった木沢長政(きざわながまさ)をはじめ(3月17日参照>>)、名だたる摂津の武将を次々と撃ち破って、摂津西半国の守護代となり、やがて、晴元の家臣の中でも最大の勢力=一番の重臣となります。
そしていよいよ天文十八年(1549年)・・・長慶は、晴元を裏切って、彼と敵対する細川氏綱(うじつな・高国の養子)の陣に馳せ参じます(9月14日参照>>)。
これを謀反とした晴元側は、南近江(滋賀県南部)に勢力を持つ岳父(がくふ・奥さんの父)の六角定頼(ろっかくさだより)や根来(ねごろ)衆らに援軍を求め、両者は、淀川と神崎川に囲まれた江口周辺で、戦いを展開する事になります。
江口城(大阪市東淀川区江口周辺)にて六角氏の援軍を待ちながら抗戦するのは、あの父の仇である政長・・・三宅城(大阪府茨木市)にて政長を支援するのは、もう一人の仇=晴元・・・
その連絡を断つべく両城の間に陣を取ったのは、長慶の弟=安宅冬康(あたぎふゆやす=元長の三男で安宅氏の養子に入った=11月4日参照>>)と十河一存(そごうかずまさ・かずなり=元長の四男で讃岐十河氏の養子に入った)でした。
そう、今回に限らず、これまでの長慶の活躍には、弟たちの協力が無くてはならない物でした。
長男の長慶が摂津・河内・和泉(いずれも大阪府)を、次男の三好義賢(よしかた・実休)が阿波を、三男の冬康が淡路を、四男の一存が讃岐(さぬき・香川県)を・・・それぞれの地盤をしっかりと固めつつ、いざという時は地元の兵を率いて結集し、見事な連携プレーで勝利に導く・・・
今回も、江口と三宅の城の連絡を断つ事が、結果的に江口城を東西で挟み打ちするという絶好の形となり、六角勢が加勢に駆けつける前に、見事、政長を討ち取りました。
江口城が落ちた事を知った晴元も、戦わずして敗走・・・しかも、彼らの支援を受けていた前将軍=足利義晴(よしはる)と現13代将軍=足利義輝(よしてる)父子も、長慶の襲撃を恐れて、近江坂本まで避難したのです(6月24日参照>>)。
こうして長慶は、見事、戦国最初の天下人となったのです。
ところで、この三好兄弟には、まだまだ若い、とある秋の夜・・・
籠に入れた鈴虫の声に聞き入る弟=冬康が、合戦にあけくれる兄=長慶に向かって
「鈴虫でさえ、大事に育てたら、こんなに長生きするのに、兄貴は人の命を粗末にしすぎやで」
と諫め、兄は、そんなやさしい弟を大いに可愛がった・・・なんていう兄弟のやさしい逸話が残ります。
しかし、ここで弟にたしなめられた長慶さんですが、実は、彼もやさしさ満載の人でした。
もちろん、殺らねば殺られる戦国の世ですから、敵意むき出しの輩には容赦ない長慶ですが、実は、あの後、何度も京都奪還を仕掛け、長慶の暗殺までくわだてた将軍・義輝が、その方針を転換して和睦を申し入れて来ると、あっさりとこれを許して、何事もなかったかのように将軍に迎えるのです。
しかし、そんな義輝は、京に戻ってからわずか1年・・・またもや晴元と結託して長慶を排除しようと兵を挙げ、またもや敗走・・・
一方の長慶は、その時に義輝に味方した芥川孫十郎(あくたがわまごじゅうろう)を降伏させて奪った芥川城(大阪府高槻市)を居城とし、家臣の松永久秀に京都での政治を任せるようになりますが、その時の支配圏が、摂津・和泉・山城・丹波・淡路・播磨・阿波・讃岐の8ヶ国・・・まさに、関東の北条に匹敵する西の王者でした。
もはや、将軍なんてチョロいもの・・・しかし、やはりここまで来ても、そのやさしさは健在でした。
なんと、5年後に再び和睦を申し入れて来た義輝を許し、またまた将軍として京都に迎え入れるのです(11月27日参照>>)。
さすがに、今回の義輝&晴元は、もはや諦めたとみえておとなしい・・・そんな二人の様子を見た長慶は、涙を流しながら
「やっと、昔のまともな主従関係に戻れた~」
と、和解を心から喜び、晴元には、この先、生活に苦労しないだけの領地を隠居料をとして与えて、隠居してもらったと言います。
なんてイイ人なんだ~ヽ(´▽`)/
しかし結局は、そのイイ人+兄弟の絆の強さが、彼の命取りとなります。
まずは永禄四年(1561年)・・・家臣の松永久秀とともに滞在していた有馬温泉にて、2番目の弟=一存が湯治中に突然、亡くなります(5月1日参照>>)。
梅毒による病死とも落馬死とも・・・もちろん、その後の歴史を知っている私たちは、そばにいた久秀にも疑いをかけてしまいますが・・・
続く、永禄五年(1562年)3月には、和泉久米田(くめだ・大阪府岸和田市)にて畠山高政(たかまさ)とで戦っていた、すぐ下の弟・実休(義賢)が戦死してしまいます(3月5日参照>>)。
実は、この高政は、以前の河内の守護で、長慶に敗れて敗走してした人物・・・その時に、追撃して命を取ろうと思えば取れた相手でしたが、あえて、追放処分に・・・
しかし、今回、そんな高政が紀州の根来衆を味方につけて、大坂へと攻め上って来たのを、実休が迎え撃っていた・・・というわけで、そのやさしさがアダとなりました。
ただ、まだ、この時点では長慶も戦国武将らしく、即座に弔い合戦を行って、見事、勝利しています。
しかし、さらに続く永禄六年(1563年)・・・長慶の長男=三好義興(よしおき)が、未だ22歳の若さで突然死するのです。
毎年々々立て続けに起こってしまった不幸・・・
かくして、そんなこんなの永禄七年(1564年)5月9日・・・弟=冬康に謀反の疑いがあると知った長慶は、弟を自らの居城・飯盛山城(大阪府四条畷市)に誘いだし、騙し討ちにしてしまうのです。
あのやさしかった弟を、自らの手で・・・
一説には、やはりここにも、冬康の謀反を讒言したのは久秀だったという噂があるにはありましたが、それを信じて可愛い弟に手を下してしまったのは長慶自身・・・しかも、その後すぐに、その謀反の疑いは無実だった事がわかります。
その後の長慶は、まるで廃人のように・・・
結局、そのうつろな表情が快復する事はなく、なんと、冬康の死からわずか2ヶ月後の7月4日・・・43歳の生涯を閉じてしまったのです。
「和歌や連歌のできひん者が、立派な武将になれるわけない!」
と豪語するほど、合戦よりも和歌が大好きだったという長慶・・・
すぐ下の弟の義賢の死を聞いたのは、その大好きな連歌会の真っ最中だったと言いますが、うろたえる事なく、冷静にその場を立ち去ったと言います。
そこには、やさしさをひた隠しにして戦って来た戦国武将の、悲しいほどの意地のツッパリがあったのかも知れません。
限りなく張り詰められた糸がプッツリと切れた時、それは、一番愛した弟への判断をも見失ってしまうほどの衝撃を、やさしい天下人に与えてしまったのかも知れませんね。
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コメント
はじめまして。
三好長慶の子孫です。
素敵なご紹介ありがとうございました。
投稿: 三好倫子 | 2011年8月20日 (土) 14時01分
三好倫子さん、こんにちは~
なんと!ご子孫の方…
ご訪問、そしてコメントありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2011年8月20日 (土) 17時03分
「三好長慶450忌法要」が大徳寺聚光院にて7月6日(土)に行われます。
投稿: 三好氏顕彰会 | 2013年6月16日 (日) 07時31分
三好氏顕彰会さん、こんにちは~
情報、ありがとうございましたm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2013年6月16日 (日) 11時03分