「逃げの小五郎」で逃げまくった木戸孝允も最期は…
明治十年(1877年)5月26日、幕末&維新に活躍し、「維新の三傑」の一人と称される木戸孝允が、出張中の京都で亡くなりました。
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禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)に
四境戦争(長州征伐)(7月27日参照>>)、
薩長同盟(1月21日参照>>)に
五箇条の御誓文(3月14日参照>>)、
征台の役(4月18日参照>>)に、
奇兵隊の後始末(11月27日参照>>)・・・
さらに、
萩の乱(4月14日参照>>)に、
西南戦争(9月24日参照>>)・・・と、
そこに、広沢真臣・暗殺疑惑(1月9日参照>>)なんぞも加えれば、それこそ、ちょっとやそっとのページでは書き切れない活躍ぶりの木戸孝允(きどたかよし・こういん)・・・
なんせ、西郷隆盛や大久保利通とともに維新の三傑と呼ばれる人ですから・・・
以前は、京都にあるホテル・オークラの前に建つ銅像についてのお話(3月12日参照>>)も書かせていただきましたが、もちろん、まだまだ書き足りない部分も多々あり・・・
とりあえずは、それぞれの出来事については、またいずれ、その日づけにともなって書かせていただくとして、本日のところは、幕末の頃には桂小五郎と呼ばれていた孝允が、「逃げの小五郎」との異名を取った、その逃げっぷりについて・・・
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病弱だったせいで家督を姉婿に譲り、7歳の時に長州(山口県)藩士・桂家の養子なった孝允・・・・その後、藩校の明倫館で吉田松陰(しょういん)と出会って兵学を学んだ事で彼の人生は幕末の渦の中へ呑まれていきます。
文久二年(1862年)に京都に出てからは、志士や公卿たちと交わりを持ち、長州藩の大勢を尊王攘夷から倒幕へと傾ける事に尽力したせいで、早いうちから、その身辺を狙われるという危険な立場にあったのです。
しかし、そんな中で、孝允は一度も刀を抜く事なく維新を迎えたと言われています。
もちろん、新撰組の近藤勇をして「(木戸は)恐ろしい以上に手も足も出なかった相手」と言わせている所を見れば、腕に覚えがあり、抜けば勝てた可能性は充分あるものの、とにかく、刀を抜く前に逃げる・・・これが、孝允の鉄則でした。
逃げる事が「かっこ悪い」とか、「武士の風上にもおけない」とかって事には、まったくこだわらなかった事こそが、「逃げの小五郎」の真髄・・・むしろそこには、古い常識にこだわらない一歩先行く先進的な思想が垣間見えます。
そんな孝允が最も危険だった時期が、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)で長州が政界から追われ、その翌年に池田屋事件が起こり(6月5日参照>>)、さらに禁門へ・・・と続く、逆風の嵐が吹き荒れた頃・・・
この頃、後に妻となる京都三本木(京都市上京区三本木通)の芸妓・幾松(いくまつ)が、二条大橋の下で、乞食同然の生活をしていた孝允に、握り飯を届けに行っていたなんて逸話もありますが(4月10日参照>>)、幾松以外にも何人もの恋人がいて、追われる度に彼女らの家を転々として逃げ回っていたとも言われます。
2006年には、大阪は堺の旧家から、「(その頃に)かくまってくれたお礼」として孝允から貰ったとされる錫盃が見つかり、それまで、孝允が堺に潜伏していたという記録がなかった事から、まだまだ研究の余地があるものだと思い知らされましたね。
とは言え、そんな「逃げの小五郎」も、一度捕まった事があります。
ちょうど、その禁門の変のすぐあと・・・京都市中を警護する会津藩士の警戒網に引っ掛かってしまったのです。
とにかく、身柄を拘束され、ひとまずは会津藩邸へ送られる事に・・・周りの目もありますから、それこそ普通の武士なら、武士らしく覚悟を決めて、堂々たる姿で護送されるところですが、そんな事にはこだわらない孝允・・・
ゾロゾロと歩く中、寺町通りに差し掛かった、その時・・・
「ウ●コ出そうやから、トイレに行かしてくれへん?」
当然、横にいた会津藩士は・・・
「藩邸に着いたら、ゆっくりさしたるから・・・」
と・・・
「いやいや、もうガマンでけへんから言うてんねん・・・藩邸まで、ガマンできるんやったら、こんなカッコ悪い事、言うかいな」
と、その場にしゃがみ込んで、今にも出さんばかりの態勢に・・・
「こんなトコですんなよ┐( ̄ヘ ̄)┌ 」
とばかりに、しかたなく2~3人の兵卒をつけて、近くの厠へ・・・
彼らが見守る中、おもむろに袴を脱いで腰をおろして・・・
さすがに、出る所を直で見たくない藩士たちは、目線をそらせますが、その瞬間!
「待ってました!」
とばかりに、しゃがみこんだその姿勢のまま、地べたをはいずるように脱兎のごとく逃げる孝允・・・あまりの事に、藩士たちは、あ然として追う事もできず・・・
そのまま逃走し、あっと言う間に別の藩邸へ逃げ込んで、危険を脱したのだとか・・・
しかし、よくよく考えれば、よくぞ逃げてくれました!って感じですよね~
ここで、もし孝允が処分されていたら・・・その後の展開はどうなっていたのでしょうか?
カッコ悪いを脱ぎ捨てて、こうして逃げに徹してくれたおかげで、今の日本があるのかも知れません。
そんな孝允が晩年、最も心を痛めたのは、冒頭にも書いた西南戦争・・・
その鎮圧に国軍が出動する事となり、孝允は明治天皇とともに京都へと出張しますが、かねてからの病気が悪化して倒れてしまいます。
明治十年(1877年)5月26日・・・もはや、意識もうろうとなった孝允は、そばにいた大久保利通の手を握りしめながら「西郷!いいかげんにしろ!」と・・・
あの薩長同盟以来の同志への叱咤の言葉が、孝允最後の言葉となりました。
享年45歳・・・最後に、もう一度だけ、病という敵から逃げてほしかったですね。
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コメント
どんな偉人でも「老化」と「病魔」と言う敵には勝てないですからね。明治期は政府高官として近代日本の基盤を固めたんですが、死ぬのが若すぎましたね。享年45歳ですか。
現代の政界の「45歳」は、初入閣する年齢なら「若手起用」の印象ですね。初当選するかどうかの年齢でもありますね。
「木戸家4代の展示会」がこの間ありました。
投稿: えびすこ | 2011年5月26日 (木) 15時32分
えびすこさん、こんにちは~
もう一回だけ逃げていただいて、もうちょっとだけ生きていていただきたかったような…
でも、結局は大久保利通も暗殺されたりしますから、複雑ですが…
投稿: 茶々 | 2011年5月26日 (木) 16時50分
ちょうど幕末大河が放送されていますので・・・
昔読んだ何かのマンガで「不思議だね。歴史というものが時々ほんの数名の人間の肩にかかってくる。」(ウロ憶えですみません。)って台詞ありました。
薩長同盟なんてまさに、日本の今後の行く末を
変えてしまう展開点で、それが木戸を含む数名の意思によって実現するところにいわゆる歴史のロマン的なものを私は感じてしまいます。
最後の最後まで気苦労の絶えない人生だったけど、せめて幾松さんとそえたのは救いかな?
ホテルオークラ前の銅像は見たことあります。
いい男でした。
投稿: momo | 2013年5月26日 (日) 23時03分
momoさん、こんばんは~
>最後の最後まで気苦労の絶えない人生…
ホントですね。
動乱の中で勝ち組になったとは言え、勝った人にしかわからない気苦労があったでしょうね。
ものすごいスピードでいろんな事が展開されましたからね~
投稿: 茶々 | 2013年5月27日 (月) 02時03分
命日は、松菊祭というんですね。
明治10年に亡くなって、残念だと思います。
桂小五郎時代の方が、輝いていたような気がします。
投稿: やぶひび | 2015年5月28日 (木) 21時36分
やぶひびさん、こんばんは~
若い時の小五郎さんの写真、男前ですよね~
投稿: 茶々 | 2015年5月29日 (金) 01時25分
木戸孝允の病死について思ったことですが、島田一郎・長連豪・脇田巧一・杉本乙菊・杉村文一・浅井寿篤の計6名が、孝允を暗殺の標的にしていたらしく、それを思うと、病死したことで、難を逃れたような気がします。もし、孝允が長生きしていれば、一郎らによって、暗殺されてしまう可能性は、決して否定できないと思うのです。見方を変えれば、孝允は、病死したことで、暗殺の標的から除外されたのだと思います。さすがに一郎らは、孝允が病死したのでは、どうすることもできないと判断したはずでしょう。あと、孝允に限らず、人間なら誰もが長生きしたいと思うでしょう。利通や伊藤博文や坂本龍馬などのように、暗殺されて、悲惨な一生を終えた者もいれば、事故や自然災害に巻き込まれて死ぬ人もいます。もしかしたら、今を一生懸命に生きることが大事なのかもしれません。
投稿: トト | 2015年8月22日 (土) 18時34分
トトさん、こんばんは~
政府の重要人物が狙われ、命を落とす時代は、まだまだ、しばらくの間続きますからね。
投稿: 茶々 | 2015年8月23日 (日) 02時29分