徳川の未来を託された幼き当主・徳川家達
慶応四年(1868年)5月24日、このひと月前に、徳川宗家の相続を認められていた徳川家達に、駿河藩主として70万石が与えられました。
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ペリーの黒船来航(6月3日参照>>)に始まった幕末の動乱・・・
様々な重要事件が起こり、めまぐるしく情勢の変わる十数年間は【幕末維新の年表】>>でご覧いただくとして、その最も大きな山場とも言える慶応四年(1868年)3月13日と14日・・・
二日間に渡って行われた東征大総督府・参謀の西郷隆盛と幕府陸軍総裁の勝海舟の会談(3月14日参照>>)によって戦争回避が決定定され、その後、江戸城の開け渡しも決まりました。
3月16日には江戸城中の幕臣が田安仮屋形(旧清水邸)に移り、4月9日には静寛院宮(せいかんいんのみや・和宮=家茂室)と実成院(家茂生母)が同じく田安仮屋形に・・・翌10日には天璋院(てんしょういん・篤姫=家定室)と本寿院(家貞生母)が一橋屋形へと立ち退いて、4月11日、歴史に残る江戸城無血開城が成されます(4月11日参照>>)。
その無血開城のページにも書かせていただきましたが、すでに、2月の段階で江戸城を出て、自ら謹慎に入っていた第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)も、これまでの天璋院や静寛院宮の尽力によって(1月17日参照>>)、その恭順姿勢が認められる事となりました。
さらに、4月29日には、その慶喜に代わって、田安亀之助に徳川家名相続沙汰書が大総督府より下された事で、これ以降の徳川家中では、、その亀之助が「上様」と称されるようになり、続く5月18日には、その亀之助が徳川家達(いえさと)と改名します。
こうして、わずか6歳で徳川家の家督を継いだ第16代当主・家達に、慶応四年(1868年)5月24日、駿河藩主として70万石が与えられ、ここに徳川家の存続が決定したわけです。
この家達は、田安徳川家の5代・8代当主の徳川慶頼(よしより)の三男として文久三年(1863年)に江戸城の田安屋敷で生まれました。
第14代将軍である徳川家茂(いえもち)が、あの長州征伐で西へと向かう時、「自分に万が一の事あらば、御三卿の一つである田安家の亀之助に後を継がせよ」と言い残して行ったとの事ですが、ご存じのように、家茂は、そのまま、本当に帰らぬ人となってしまいました(7月20日参照>>)。
そんな事もあって、家茂亡き後の15代将軍を決める際にも、家茂夫人である静寛院宮が、亀之助を強く推したという事もあったようですが、なんせ、その時は、亀之助はまだ4歳・・・しかも、何が起こるかわからない状況の頃でしたから、「さすがに4歳の将軍では・・・」という事で、15代将軍は、すでに将軍後見役を務めていた慶喜に決まったという事のようです。
しかし、維新となって慶喜が謹慎・・・そこで、当主を亀之助=家達にして、何とか徳川家存続にこぎつけたというわけです。
もちろん、まだ政務をこなす事はできませんから、旧幕臣の勝と大久保一翁(いちおう)(7月31日参照>>)が徳川家始末担当としてつけられ、新政府との交渉は勝が担当し、かつては駿河町奉行を経験した事もある大久保が内務を担当する事となりました。
そんなこんなの8月9日・・・家達は駿河に向けて出立しますが、その道中の様子を、お供をした伊丹鉄哉という人が書き残しています。
『もう、この頃は、誰も彼もない平等の世の中ではあったけれども、さすがに、お持ちの槍1本・長刀1本・十文字槍1本・・・その装飾は、他とは違って見えました。
新徳川家70万石の主は、黒紋付の羽織に仙台平の袴をはき、俗に言うお河童さんの髪で筆軸ほどの髷を結い、まるで、お雛様の五人囃子のような・・・
田安家に仕えていたお年寄の初井という者が、ともに一つの駕籠に乗って道中をお供します。
途中、お駕籠の中からは、五人囃子のようなお首がチョコチョコ出て、「あれは何?」「これは何?」と、駕籠から眺められる物を珍しがられてお尋ねになる。
駕籠の左右にいる者が、右からも左からも、一つ一つ腰をかがめてお答えする・・・45日間の道中でのお楽しみと言えば、この駕籠からお首をだされる事くらいでした』
徳川の再生を託された幼い当主・・・まだまだ、その事には気づく事もできないお歳だった事でしょう。
かつては旗本八万騎とも言われた御家人たちも、その領地が70万石になってしまった事は重々承知・・・しかし、今更、商人をする気にも、農業をする気にもなれないし、かと言って、新政府に出仕するのもヨシとせず・・・
給料は払ってもらえなくても良いから、ともに駿河で・・・と、家達について来た者は、幕臣とその家族を含めて3万人にものぼったと言います。
もちろん、70万石の徳川家に彼らを養って行く財なんてありません。
そこで、大久保は開墾に着手します。
静岡は、もともと鎌倉時代からお茶の栽培がおこなわれていた土地・・・それが、日本が開国してからは、輸出品として珍重されていた事に目をつけ、大井川下流の牧野原台地に茶畑を開墾したのです。
最初の入植が明治二年(1869年)という事ですから、まさに電光石火のすばやさです。
それが、やがては富士の裾野の万野原(まんのはら)にも広がり、立派な茶園となって行くのです。
幼い当主に託された徳川宗家は、茶どころ静岡とともに、現在もなお続く事になります。
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コメント
茶々さん、こんにちは!
今でこそ、“お茶処”静岡として有名になっちゃいましたが、これには宇治の茶師がひと役買っていたんですよね。
宇治の茶師で代官職も務める上林(かんばやし)氏、その系統は六郎家、平入(へいにゅう)家、味卜(みぼく)家、春松(しゅんしょう)家、竹庵家の五派に分かれるのですが、一番末の竹庵家は三河に住し、徳川家康に仕えていました。(関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで初代竹庵は鳥居元忠たちと共に戦死しています)
この竹庵家が幕末・維新期に駿府に移封される徳川宗家に付き従うように駿府に移住するのですが、その際に宇治茶の製茶法などが書かれた秘法も持ち出しちゃったんでうね。
元々お茶の栽培に適した場所だった事にあわせて、この秘宝により、格段の技術発展がなされた結果、静岡は今では“お茶処”として栄えているんですよね。
投稿: 御堂 | 2011年5月24日 (火) 15時55分
「ちびまる子ちゃん」で、時々まる子が清水のお茶を自慢してます(最近はあまりない)が、明治維新の時の元幕臣移住がルーツだったんですね。海舟もこれに一役買ったと、「ヒストリア」でも言っていました。
以前にも投稿で書いておりますが、徳川家達は参議院の前身の「貴族院」の議長を長年務めるんですね。維新の時に幼年であったのが反対に、新しい文明・学問をすぐに吸収できたのもあるのかと。もし幕府が続いたとしても、5歳そこそこの子供が「第16代」将軍を務めるのはかなり酷ですね。
ちなみに富士山は静岡県側から見える方を「表富士」、山梨県側から見える方を「裏富士」と言うらしいです。
投稿: えびすこ | 2011年5月24日 (火) 17時04分
御堂さん、こんばんは~
>宇治茶の製茶法などが書かれた秘法も持ち出しちゃった
これは、宇治出身としては、ほぉっておけませんね~
でも、宇治もしっかり、今も茶どころですので、こうなったら、お互い切磋琢磨で生き残ろうって感じですね。
投稿: 茶々 | 2011年5月24日 (火) 23時41分
えびすこさん、こんばんは~
>富士山は静岡県側から見える方を「表富士」、山梨県側から見える方を「裏富士」と言うらしい
それを、山梨の人に言うと
「こっちが表!」
と怒られますよ(笑)
どちらの県にとっても、故郷の誇りですもんね~
投稿: 茶々 | 2011年5月24日 (火) 23時44分