銃弾に倒れた隻腕の剣士…遊撃隊・伊庭八郎
明治二年(1869年)5月16日…もしくは17日、幕末の遊撃隊の一員として活躍し、函館戦争で負傷した伊庭八郎が26歳でこの世を去りました。
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伊庭八郎秀穎(いばはちろうひでさと)が生まれた伊庭家は、心形刀(しんぎょうとう)流の本家・・・その道場・練武館は、幕末江戸四大道場の一つに数えられた名門で、彼はそこの御曹司であり、後継ぎでもありました。
ただ、先代の父・秀業(ひでなり)が亡くなった時点では、当の八郎がまだ幼かったため、一旦は弟子の一人である秀俊が養子となって後を継いでいましたが、いずれは、その秀俊の娘と八郎を結婚させて10代めとし、「その血筋を本家に戻したい」というのが養父となった秀俊の考えでした。
しかし、その思いとはうらはらに、幼い頃の八郎は、剣術よりも漢学や蘭学に興味をを持ち、剣術そっちのけで、勉学に励む少年でした。
とは言え、血筋とは大したもので、遅々ながらも剣術修行に励み出した八郎は、またたく間に上達して頭角を現し、いつしか「伊庭の小天狗」「伊庭の麒麟児」なんて仇名で呼ばれるほどの腕前となるのですが・・・
元治元年(1864年)1月・・・21歳となった八郎は、幕府に大御番衆に登用され、さらに奥詰(おくづめ・将軍の親衛隊)となって、養父の秀俊らとともに京都に向かいました。
その後、江戸に講武所(こうぶしょ・武芸の訓練所)が設置されると、講武所頭取の男谷精一(おだにせいいち)らとともに剣術指導の教授を務めたりもしました。
慶応元年(1865年)閏5月には、今度は、第2次長州征伐にと向かう第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の護衛として、再び上洛しました。
しかし、ご存じのように、家茂は途中で病に倒れ、大坂城にて帰らぬ人となり(7月22日参照>>)、かの第2次長州征伐は、将軍の死とともに休戦となったうえ、緒戦の結果は長州の勝利という形で幕を閉じてしまいます(7月27日参照>>)。
この長州という一つの藩が幕府に勝利してしまうという・・・幕府から見れば、アッと驚くあり得ない事態は、ひとえに、あの下関戦争(5月10日参照>>)を経験した長州が、外国から大量の最新兵器を輸入し、その威力を存分に発揮できる精鋭部隊を作り上げた事にありました。
その長州征伐のページでも書かせていただきましたが、悲しいかな幕府側には、未だに300年前の戦国時代の甲冑に身を包み、火縄銃にほら貝で応戦するような時代錯誤な人たちもいた状態だったのです(6月14日【明暗分ける芸州口の戦い】参照>>)。
もちろん、それは、その時代錯誤な人たちが300年間サボッてたからではなく、江戸時代を通じて、各藩が将軍家に反発できないよう、武器&防具の開発や使用を制限していた幕府のせい(2009年12月31日参照>>)・・・
さすがの幕府も、そんな事は重々承知・・・「これからは刀より銃砲の時代である」とばかりに、講武所を廃止して陸軍所と改め、近代の軍隊への移行をはかります。
そのために八郎らのような剣客は、遊撃隊(ゆうげきたい)という組織に編入され、慶応三年(1867年)秋・・・彼らは、再び京都に入りました。
こうして、時代は否応なく八郎を呑みこんでいきます。
10月14日:大政奉還(10月14日参照>>)
12月9日:王政復古の大号令(12月9日参照>>)
そして、数々の薩摩のテロ行為に業を煮やした幕府が(12月25日参照>>)、薩摩討伐の許可を朝廷から得ようと、慶応四年(1868年)の正月早々に京都へ・・・その隊列を京都に入らせまいと立ちはだかる薩摩と長州・・・
これが、あの鳥羽伏見の戦いです(1月3日参照>>)。
この日、伏見に布陣・・・剣客・八郎にとっては、まさに初陣、思う存分その剣の腕をふるえる初めての実戦となる戦いでしたが、そのページでも書かせていただいたように、狭い場所での市街戦となってしまったために、剣をふるうどころか、近づこうものなら、またたく間に敵の銃撃を浴びるばかりです。
八郎も、燃え盛る伏見奉行所前で、不覚にも被弾・・・防具のおかげで大けがには至りませんでしたが、吐血して敗退し、淀城へと撤退しますが、ここで、淀城が入城を拒否したため、やむなく、大坂城まで逃げ帰ります。
しかし、ご存じのように、その大坂城では1月6日・・・幕府軍の総大将である徳川慶喜(よしのぶ)が、わずかな側近とともに脱出し(1月6日参照>>)、江戸へと帰ってしまいます。
総大将がいなくなった以上、大坂城は開城となり(1月9日参照>>)、八郎らも、他の幕府軍の同志らとともに江戸へと帰還・・・やがて、錦の御旗を掲げて官軍となった薩長軍は、江戸近くへと進攻し、あの江戸城無血開城へと進んでいき、慶喜は自ら謹慎し、官軍に対して恭順な姿勢をとる事に・・・(1月23日参照>>)
恭順な姿勢を見せて戦争回避・・・これが、将軍=慶喜の、そして幕府の決断だったわけですが、一方では、これまで、将軍のため幕府のために命を捧げて戦って来た者たちにとっては、「はい、そうですか」と、素直に納得できない部分がある事も確か・・・
江戸へと戻った遊撃隊は、慶喜を護衛する名目で、上野寛永寺に駐屯していた彰義隊(しょうぎたい)(2月23日参照>>)に編入されていましたが、やがて4月・・・八郎ら遊撃隊の生き残りたちは、幕府の方針をヨシとせず、任務を放棄して脱走するのです。
八郎が、そんな遊撃隊の同志=人見勝太郎(ひとみかつたろう)とともに向かったのは、上総請西(かずさじょうざい・千葉県木更津市)藩・第3代藩主の林忠崇(はやしただたか)のところでした。
幕府に忠誠を誓う若き名君は、なんと、自ら脱藩して、八郎らの仲間に加わってくれました(1月22日参照>>)。
そして、彰義隊と連携しつつ、すでに江戸へと入った新政府軍と、彼らの指揮官がいる京都との連絡を遮断すべく、小田原藩を味方につける彼ら・・・しかし、そんな彼らにニュースが舞い込んで来ます。
そう、かの彰義隊が敗れた上野戦争です(5月15日参照>>)。
続く5月23日には、その彰義隊の生き残りを吸収した振武軍(しんぶぐん)が飯能戦争で壊滅(5月23日参照>>)・・・
一方、圧力に押されて官軍に寝返った小田原藩によって城下を追い出された八郎ら・・・やむなく、未だ品川沖に停泊中の艦隊を指揮する榎本武揚(えのもとたけあき)に救援を求めるべく、勝太郎が単身で、品川へと向かったのでした。
その勝太郎から、留守を任された八郎でしたが、未だ勝太郎が帰らないうちの5月26日・・・彼らのいる箱根に向かって新政府軍が進攻して来たのです。
なんとか死守すべく、その剣の腕前を発揮して、湯本にて奮戦する八郎でしたが、この箱根戦争で片腕を切断するという重傷を負ってしましました(5月27日参照>>)。
命だけはとりとめ、熱海にて、ようやく勝太郎と合流できた八郎でしたが、そのケガのため、榎本に預けられる事に・・・
勝太郎をはじめ、残りの遊撃隊の同志たちは、東北にて官軍と戦っていた奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)(5月19日参照>>)のもとへと馳せ参じたのでした。
こうして、勝太郎らと別れた八郎・・・横浜でケガの治療を行った後、未だ痛みの残る11月・・・イギリス商船に金を積んで頼み込み、居残っていた同志の本山小太郎とともに北へ・・・
そう、あの榎本が奪取した函館へと向かったのです(10月20日参照>>)。
やがて訪れた12月15日には、堂々の独立宣言を果たした蝦夷(えぞ)共和国(12月15日参照>>)・・・
日本で初めての選挙による人事を行った蝦夷共和国で、片腕を失いながらも腕に覚えのある八郎は、歩兵頭並・遊撃隊隊長に任命されます。
しかし、ここも安住の地でないのは、皆さまご存じの通り・・・明治二年(1869年)4月9日、春を待っていた新政府軍が、いよいよ蝦夷地へと上陸します(4月29日参照>>)。
この函館戦争・・・4月21日の木古内(きこない)口での戦いにて、大鳥圭介率いる旧幕府精鋭部隊の一員として奮戦する八郎でしたが、激戦の中で、不覚にも肩と腹に銃弾をあび、半死半生の状態で五稜郭(ごりょうかく)へと運ばれました。
やがて5月11日・・・新政府軍による函館総攻撃によって、もはや風前の灯となる五稜郭(5月11日参照>>)・・・
その翌日の12日、新政府軍・参謀の黒田清隆(8月23日参照>>)による降伏勧告を受け続けていた榎本が、八郎のもとにやって来ます。
八郎だけではなく、そこに居並ぶ重傷者に向かってモルヒネを手渡すために・・・
かくして、八郎は、そのモルヒネで服毒自殺したとも、総攻撃を受けて没したとも言われます。
よって、そのご命日は、墓碑には5月12日と刻まれながらも、生き残りの証言によっては、明治二年(1869年)5月16日もしくは17日と語られています。
享年26・・・
先の4月17日、江差の攻防戦で討死した、かの本山小太郎に対し
♪まてよ君 冥土もともと 思ひしに
しはしをくる 身こそかなしき ♪
と、「ちょっと遅れるで」と囁いた八郎・・・
悲しくも、この小太郎に対して詠んだ歌が、八郎の辞世となりました。
函館戦争が終結するのは、この2日後・・・5月18日の事でした(5月18日参照>>)。
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