半平太さま命!人斬りに徹した岡田以蔵
慶応元年(1865年)5月11日、幕末に「人斬り」として恐れられた土佐勤王党の岡田以蔵が処刑されました。
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尊王攘夷か佐幕かと揺れ動いた幕末・・・天誅(てんちゅう=神からの懲罰)の名のもとに多くの暗殺が行われ、世に「人斬り」と呼ばれる人たちが何人が登場するわけですが、その中でも四大人斬りと言われたのが・・・
佐久間象山(さくましょうざん)を暗殺したとされる河上彦斎(げんさい)(12月4日参照>>)・・・
佐幕派の赤松小三郎を斬ったとされる西郷隆盛の右腕・中村半次郎こと桐野利秋(9月24日参照>>)・・・
島田左近や本間誠一郎を暗殺したという田中新兵衛(5月26日参照>>)・・・
そして、今回の岡田以蔵(いぞう)・・・
とは言え、もともと人斬りなんてものは個人名は伏せてやる物ですから、結果的に未解決事件となる事も多いわけで、この4人の中でも、彦斎と半次郎は上記に名を挙げた人物一人を斬っただけだと言われますし、新兵衛も上記の2名以外は関与したかも・・・という感じで、確実に関与しているかどうかというのはわからないわけです。
以蔵の場合は・・・
新兵衛とともに敵か味方かはっきりしないチャラ男の本間誠一郎を斬ったのをはじめ、
土佐勤王党が関与していたとされる吉田東洋(とうよう)殺害事件を捜査していた井上佐市郎(さちろう)、
安政の大獄の際に島田左近とともに志士の弾圧を行ったとされる宇郷重国(しげくに)、
その配下の渡辺金三郎(きんざぶろう)・森孫六(まごろく)・大河原重蔵(おおがわらじゅうぞう)・上田助之丞(すけのじょう)の4人の与力、
彼らの手下となって働いた猿(ましら)の文吉、
志士弾圧の協力者=賀川肇(かがわはじめ)、
井伊直弼(なおすけ)の女スパイとして働いたとされる村山たか(10月7日参照>>)の息子=多田帯刀(たてわき)、
安政の大獄でペラペラと自白した(彼らから見て)裏切り者の池内大学(だいがく)・・・
これらを殺害した他に、ワイロや横領で評判の悪かった元商人の平野屋寿三郎(じゅさぶろう)と煎餅屋半兵衛を生き晒し(裸にして縛りつけたりして辱めを受けさせる)にしたと・・・
合計13名、9件の事件に関与したと言われますが、その多くが謎です。
そもそもは土佐(高知県)の郷士の家に生まれ、地元の武市半平太(たけちはんぺいた・瑞山)の道場で小野派一刀流を学んだ事から、半平太を師とあおぎ、ともに江戸に出て剣術修行するほか、半平太が立ちあげた土佐勤王党にも参加・・・彼の手足となって働く事になる以蔵・・・。
その半平太の目指していた事については、昨年のこの日に書かせていただいた【土佐勤皇党・武市半平太~切腹す】>>のページを見ていただくとありがたいのですが、とにかく、以蔵は、土佐藩の実力者=吉田東洋の暗殺を土佐勤王党の仕業との疑いを持って捜査をしていた井上佐市郎を皮切りに、その後、半平太の指示により、その影の部分=手を汚す事を一手に引き受けたという感じです。
昨年の大河ドラマ「龍馬伝」で以蔵役だった佐藤健くんが、崇拝する半平太の指示を、疑う事なくただひたすら遂行する事で、純粋で一所懸命な青年が、人斬りに転じていく姿を見事に演じてくれたおかがで、そのファンが急増したのも、記憶に新しいところです。
ただ、ドラマでは本人たちが思いっきり自白しまくり(挙句の果てに龍馬まで自白)だったあの吉田東洋の暗殺ですが、実際には、半平太は最後まで自白せず、本当に土佐勤王党の仕業で半平太の指示だったかどうかは不明です。
また、ドラマでは、この事件がかなり重要視され、あたかも、この暗殺の犯人として半平太以下土佐勤王党が死罪や切腹になったかと思わせるような描き方になってましたが、彼らの一番の罪は、あくまで、上司(藩の方針)に反発した事・・・。
あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、中央から攘夷派が一掃されて時勢が変わったにも関わらず、半平太は、その強硬な勤王姿勢を変えなかったわけで・・・ただ、この時に、反発する土佐勤王党を弾圧した山内容堂(6月21日参照>>)も、時期がくれば体制を変え、結局は、薩長土肥=雄藩の一員に転じるわけですから、まさに、土佐勤王党の存在は、その時勢に合わなかったというところでしょうか。
いち時は、あの坂本龍馬の紹介で勝海舟(かつかいしゅう)のSPとして雇われ、半平太と距離を置いた感がする以蔵・・・しかし結局は、その半平太のしがらみから逃れきれなかったのです。
文久三年(1863年)5月・・・あの田中新兵衛が、尊攘派の公家=姉小路公知(あねがこうじきんとも)暗殺の犯人として捕えられて自害する(再び5月26日参照>>)と、以蔵にも疑いの目が向けられ、翌年には無宿者として捕えられ京洛追放の処分に・・・そこを土佐藩に捕えられて故郷に護送された後、厳しい拷問を受けて一連の暗殺を自白したと言います。
以蔵が捕まった事をを知った半平太が「あんな安方(アホウ)は早く死んでくれればいいのに…」と手紙に書いた事で、半平太が牢役人に頼んで以蔵に毒を盛り、それを知った以蔵が、どんどん自白した・・・なんて事も囁かれていますが、実際には以蔵に毒を盛ったという記録はなく、逆に半平太は、自らの弟の田内衛吉(たのうちえきち)など、すでに投獄されていた他の同志たちに服毒自殺を勧めていたという事はあるそうで、実際に衛吉は毒を飲んで亡くなっています。
と言っても、それは、「処刑されるより自刃する方が武士のメンツが立つ」という戦国から江戸時代を通じて培われた武士の誇りってヤツで、投獄されている以上、身近に刀がないので服毒自殺・・・という事だそうで、決して、口封じの強要ではなく、この服毒も、残る家族の了承がない限り、実行はされなかったという事らしい・・・
・・・で、結局、以蔵の場合は、残った家族が、それを了承しなかった事で、実現されなかったのだそうで、慶応元年(1865年)5月11日・・・以蔵は、打ち首のうえ晒し首となりました。
♪君が為 尽くす心は 水の泡
消えにし後は 澄み渡る空 ♪
享年28歳・・・まさに、君に尽くした人生でした。
世が革命に動く時、一方でレジスタンスの英雄とされる人物が、一方ではテロリストと恐れられる・・・
そんなテロリストの中でも、確固たる政治目的で相手を潰す場合と、敵対する者すべてを手当たり次第に排除しようという行為との線引きは非常に難しいものです。
曖昧なながらも、これまで後者として扱われて来た人斬り以蔵・・・一説には、その名前が土佐勤王党の名簿から外されたのも、そんな暗いイメージからだったとも・・・
しかし、先に書いた「龍馬伝」での佐藤健くんの熱演から、そのイメージも変わり、昨年には、その墓前で、死後初めての慰霊祭が行われたとか・・・
その時代における以蔵の行動が善か悪かは、様々な研究で極限まで近づく事はできても100%わかる事は、現在の私たちには不可能です。
まして、彼の心の中など・・・
しかし、人は皆、死ねば仏になります。
幕末に散った中の、誰一人が欠けても、今の日本が無かったかも知れません。
そういう意味で、他の志士たちと同様の慰霊祭が行われた事に、少々のうれしさを感じる茶々でおます。
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コメント
>没後初の慰霊祭
去年が初めてですか。意外です。
佐藤くんのおかげで岡田以蔵も浮かばれますね。地元の有志の会が供養してなかったのも意外。
投稿: えびすこ | 2011年5月12日 (木) 16時41分
えびすこさん、こんばんは~
やはり、ブラックなイメージがつきまとっていたんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年5月12日 (木) 22時12分