重秀・重兼・重朝?…戦国の傭兵・雑賀孫一
天正十七年(1589年)5月2日、紀州雑賀党の猛将・雑賀孫一がこの世を去りました。
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あの10年に渡る織田信長と石山本願寺の合戦で、鉄砲隊を率いて参戦し、信長を大いに苦しめたと言われる雑賀(さいが・さいか)衆のトップ・・・近頃の戦国ゲームに登場して、今ではけっこうな有名人となってるのが雑賀孫一(まごいち・孫市?)です。
と言っても、この雑賀孫一はニックネーム=雑賀出身の孫一という意味で、ほとんどの文献には鈴木孫一の名で登場しますが、この鈴木孫一というのが、これまた微妙・・・
おそらくは、信長と戦って、下間頼廉(しもま・しもつまらいれん)とともに「大坂本願寺の左右の大将」と称された頃の、絶頂期の孫一さんは、鈴木重秀(すずきしげひで)の事だと思われますが、他にも、その兄とおぼしき鈴木重兼(しげかね)、弟もしくは息子と思われる鈴木重朝(しげとも)も、同じ鈴木孫一の名で登場し、その活躍の年代に開きがある事や、さらに後の歴代当主が、皆、鈴木孫一を名乗る事から、いったい、どこまでが重秀という人物の話で、どこから重兼&重朝の話なのか?・・・あるいは、かぶっている時期があるのか?
はっきり言って、謎が謎呼ぶ謎だらけの人です。
本日の天正十七年(1589年)5月2日というご命日の日づけも、和歌山市の平井にある蓮乗寺というお寺に孫一の墓と伝わるものがあり、そこに刻まれている年月日という事で、実のところは、没した年数もはっきりしないわけで・・・
とにもかくにも、そのような=あくまで伝承の域を出ないという前提を踏まえて、本日は、石山合戦後の孫一さんについてお聞きください。
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・・・とまぁ、石山合戦で華々しく歴史の表舞台に登場した孫一・・・その頃のお話は3月15日の【鉄砲を駆使した雑賀の風雲児・鈴木孫一】のページ(3月15日参照>>)で見ていただくとして・・・
孫一にとって、まだまだ戦う気満々だったと言われる石山合戦ですが、ご存じのように天正八年(1580年)3月17日、第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)が、来たる7月までに本願寺を明け渡す約束で信長との講和を成立させ、石山合戦が終結しました。
講和と言えど、実質的には信長の勝利という形で終結する事に、孫一は多少の不満もあったでしょうが、教祖様が「終わり~」と言ってる以上、彼らも、それに従うしかないわけで・・・
とは言え、「講和が成った以上は、仲良くするに越した事はない」って事なのか?
とにかく、その直後から孫一は信長に接近し、その支援を得ようとします。
・・・というのも、もともと雑賀衆と言えば土橋(どばし・つちはし)家と言われていたほどの実力者だった土橋が、未だ強い勢力を持っていて、どちらかと言えば、石山合戦で名を挙げた孫一のほうが新参者・・・そんな中、この頃の孫一は、その土橋家と土地の所有権を巡って一触即発の状況となっていたようです。
かくして信長の支援を得た孫一は、天正十年(1582年)2月8日、栗山の城にいた土橋若大夫(わかだゆう・平次守重)を殺害・・・その一派も駆逐してしまいます。
この勢いを見る限り、孫一にも、「これを機会に戦国大名にのし上がってやろう」という野望の一つもあったのかも知れません。
ところが、どっこい・・・
天正十年と言えばご存じのように、6月2日、あの本能寺の変(6月2日参照>>)が勃発します。
翌日の3日に、信長の死を知って岸和田城へと退去した孫一・・・その翌日には、反信長派に攻撃されて自らの城も焼かれてしまい、わずかの仲間とともに故郷=雑賀から姿を消す事になります(6月4日参照>>)。
それからしばらく・・・孫一の消息はパッタリと消えます。
その間に、山崎の戦い(6月13日参照>>)で明智光秀を倒し、清州会議(6月27日参照>>)で織田家家臣を掌握し、まさしく、信長の後継者のごとき力を発揮してきたのが、あの豊臣(羽柴)秀吉・・・孫一のいなくなった雑賀衆や根来(ねごろ)衆といった紀州の地元の面々は、この秀吉と対立する立場を取ります。
やがて、天正十二年(1584年)に勃発したのは、信長の次男で後継者を自負する織田信雄(のぶお・のぶかつ)が徳川家康と組んで秀吉と対立した小牧長久手(こまきながくて)の戦い(3月13日参照>>)・・・
この時、上記のように対・秀吉の姿勢をとっていた雑賀&根来の紀州勢は、当然、家康側について抗戦するわけですが、なんと、ここに、あの孫一が、秀吉の鉄砲頭(てっぽうがしら・銃手の隊長)として登場!!
大いに活躍したというのです。
しかし、一方では、その翌年に行われた秀吉からの報復=紀州征伐(3月21日参照>>)では、雑賀や根来が壊滅状態となる中、孫一は必死で秀吉に抗戦したという説もあります。
さすがに、そこまで、あっちへついたり、こっちへついたりするこたぁないでしょうから、どちらかが間違っているか、あるいは、どっちとも違うのか、あるいは、二人の孫一がいたのか?といったところでしょう。
さらに、この紀州征伐のさ中に謀殺されたという話もありますが、おそらく、これもフィクションだと言われています。
・・・とは言え、どうやら、この紀州征伐の後らへんあたりから、文献などで孫一と称される人物が、石山合戦で活躍したとおぼしき鈴木重秀から別の・・・おそらく鈴木重朝と思われる人物に交代しているようです。
という事は・・・
逆に、それまでの重秀という人物に関しての、その後の事はまったく不明という事になるわけで、結局は、信長時代に活躍した重秀とおぼしき孫一は、その後いつまで生きたのか?どこで死んだのか?、まったく以って消息はわかりません。
一方で、記録に残る孫一のその後は、まだまだ続きます。
そのまま豊臣の配下で鉄砲頭を務め、慶長五年(1600年)関ヶ原では、あの最初の抗戦となった伏見城攻防戦(7月19日参照>>)で、家康配下で伏見城代の鳥居元忠を討ち取るという功名を挙げ、大活躍したと言われます。
しかし、ご存じのように、かの関ヶ原は、西軍の大敗という形で幕を閉じます(9月15日参照>>)。
そこで浪人となってしまった孫一は、伊達政宗(だてまさむね)から徳川家康を経て、常陸(ひたち)水戸藩の藩主・徳川頼房(よりふさ・家康の11男)に仕えたと言います(9月5日参照>>)。
とは言え、これも、伊達家の文書では、
「豊臣家の鉄砲頭として活躍した人物は若くして死んだらしい」
とされ、その後に登場する孫一は別人の可能性もあり・・・
また、紀州徳川家に仕えたとか、尾張徳川家に仕えたという話もあり、おそらくは、子子孫孫と続く複数の孫一が、紀州に生まれて独自の発展を遂げた雑賀の術を受け継いでいったという事なのかも知れません。
雑賀衆という集団は消えても、彼らの兵法は、今も脈々と続いているという事なのでしょう。
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コメント
代々名前を継承するのは相撲の「木村庄之助」や、歌舞伎の「尾上菊五郎」のような感じですね。
本姓が「鈴木」という事は現在、末裔がいるかもしれないですね。もし、時代劇の「火縄銃指導」の人が末裔だったらロマンがありますね。
投稿: えびすこ | 2011年5月 2日 (月) 16時48分
えびすこさん、こんばんは~
服部半蔵も代々13人いますからね~
代々、棟梁が同じ名を名乗る事はめずらしくありませんが、どこで2代めになってるのかがわからないといのは、やはり史料が少ないという事なのでしょうね。
末裔とされるお家柄もいくつかあるようですが、途中でわからなくなってるケースが多いようです。
投稿: 茶々 | 2011年5月 2日 (月) 19時10分
謎だらけの雑賀孫一の話面白かったです。また読みに来させて頂きます(*^m^)
投稿: windows | 2011年5月 2日 (月) 19時31分
鈴木孫一のことは、某有名作家の作品と地元の案内書での知識だけです。
現代の傭兵部隊とも言えるのでしょうか…?
金だけでもないと思うし…?
当然この時代、宗派争い、勢力争いも…?
根来の監物ちゃんとの関係はどないでしょう?
また教えて下さい。
投稿: azuking | 2011年5月 3日 (火) 02時30分
windowsさん、こんばんは~
コメントありがとうございました。
また、お暇な時に遊びに来てください。
投稿: 茶々 | 2011年5月 3日 (火) 02時39分
azukingさん、こんばんは~
確かに、現代の傭兵とは違うと思います。
題名をつける時に、猛将にしようかとか、智将にしようかとか迷いましたが、後半の孫一とおぼしき重朝の場合は、少しは戦国大名の家臣的な雰囲気がありますが、信長と戦った頃の孫一は「本願寺の要請を受けて」という色合いが濃いように思いましたので、傭兵とさせていただきました。
しかし、おっしゃる通り、お金だけではない様々な物が絡み合っての参戦であるとは思います。
投稿: 茶々 | 2011年5月 3日 (火) 02時47分
母方の先祖が雑賀衆で、重~ではありませんが信長~秀吉期に孫一を名乗っていたようです。
どうやら数人で名代を争う形になっていたか若しくは部落の頭領が「孫一」だったとかそんな感じですかね。
石山本願寺は認めていたようでその感謝状が残っており今でも厚遇してくれます。
投稿: ウチの先祖も孫一 | 2016年9月 8日 (木) 10時15分
ウチの先祖も孫一さん、こんにちは~
そうですね。
おそらく、トップ争いに参加するような人物が複数いたんでしょうね。
「雑賀孫一を名乗る事を許す」=「のれん分け」みたいな感じだったのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2016年9月 8日 (木) 15時40分