信長に見捨てられた上月城…奮戦空し
天正六年(1578年)5月4日、織田信長配下の羽柴秀吉が高倉山に本陣を構えました。
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戦国時代・・・中国地方の二大勢力だった周防(すおう・山口県東部)の大内氏と、出雲(いずも・島根県東部)の尼子氏・・・
やがて、その配下からのし上がり、大内氏にとって代わった安芸(あき、広島県)の毛利元就(もとなり)は、次は尼子氏とばかりにその手をのばします。
いち時は、中国地方の11ヶ国に及ぶ広域な支配圏を持っていた尼子氏も、その元就の知略に次々と勢力を削がれ、永禄九年(1566年)11月、ついに本拠の月山富田城(がっさんとだじょう・島根県安来市)を落とされ、当主の尼子義久(あまこよしひさ)ら尼子三兄弟は幽閉され、毛利の監視下に置かれます(11月28日参照>>)。
しかし、それでも諦めなかったのが尼子氏の家臣・山中鹿介(しかのすけ・幸盛)・・・すでに仏門に入っていた尼子一族の尼子勝久(かつひさ・義久の再従兄弟=はとこ)を還俗(げんぞく・一旦、僧となった人が一般人に戻る事)させて当主と仰ぎ、月山富田城・奪回を目指して出雲各地を転戦します。
永禄十二年(1569年)7月には、毛利が、九州の雄=大友宗麟(そうりん)とドンパチやってるのをチャンスとみて、月山富田城への城攻めを開始しますが、駆けつけた毛利の援軍にあえなく敗退・・・
その時に捕虜となった勝久&鹿介は、なんとか脱出し、今度は都=京都へと向かいます。
そう、実は、毛利が中国地方での勢力拡大をはかっていたこの頃・・・畿内では、あの織田信長が天下統一に向けての動きを強めていたのです。
もちろん、鹿介らの思いは、信長の支援を得て尼子氏を再興しようという事ですが、信長は信長で、この先、畿内より西に勢力を拡大する中で、毛利との決戦は必要不可欠・・・よって、両者は打倒毛利の旗のもとで一致したのです。
こうして信長の支援を得た彼らは、すでに毛利方の物となっている因幡(いなば・鳥取県東部)各地の城を攻め、そこから出雲への進出を計りますが、これがなかなか一進一退のくりかえしでした。
やがて、天正五年(1577年)、信長は、配下の羽柴(後の豊臣)秀吉を毛利攻めの総大将に任命・・・その年の10月に、秀吉は姫路城へと入って準備を整え、12月には宇喜多直家(10月30日参照>>)配下の上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を攻略します。
そして、鹿介ら尼子勢は秀吉軍の付属となり、この上月城の守りを任される事になりました(11月29日参照>>)。
まさに、対・毛利の最前線に配置されたのです。
こうして迎えた天正六年(1578年)・・・奪われた上月城を取り返そうと、毛利勢は3万の大軍を率いて城に攻めかかったのです。
その知らせを聞いた秀吉は、上月城を支援すべく、すぐさま向かい、天正六年(1578年)5月4日、上月城近くの高倉山に本陣を構えました。
しかし、実は、この時の秀吉・・・上月城に、それほど多くの兵を費やできる状況ではなかったのです。
それは、この2ヶ月チョイ前の2月23日・・・それまで、信長と良好な関係を続けていた播磨(はりま・兵庫県南西部)三木城(兵庫県三木市)の別所長治(べっしょながはる)が、突如、織田方からの離反を表明して城に籠ってしまった事で、秀吉は、その三木城の包囲も、同時進行で行っていたのです(3月29日参照>>)。
この三木城の離反は大きいです。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
位置関係図を見ていただければおわかりのように、すでに西播磨まで進出していた秀吉にとって、ここが敵に回ってしまえば、完全に挟み打ちとなり、退路を断たれてしまいますから、この三木城への包囲を緩めるわけにはいきません。
かと、言って、このままの手勢では上月城がアブナイ・・・やむなく秀吉は、一旦上洛して信長に面会して、直接、上月城への救援を要請します。
しかし、信長の答えは、真逆・・・
「すぐに高倉山から撤退し、三木城攻めに集注せよ」
でした。
しかたなく秀吉は、翌・6月には陣を引き払います。
当然、その後の上月城は孤立状態・・・もちろん、守る尼子勢は、その後も奮戦を続けますが、多勢に無勢はいかんともしがたく、2ヶ月後の7月3日、当主・勝久以下数名が切腹をして上月城は開城され、ここに、戦国山陰の雄=尼子氏は滅亡する事となります(内容かぶってますが7月3日参照>>)。
完全に、信長に見捨てられた形となってしまった上月城・・・しかし、この時、信長は信長で、大変な状況だったのです。
8年前に勃発した、あの石山本願寺との合戦・・・この2年前には第1次木津川口海戦で、毛利配下の村上水軍に翻弄され、まんまと本願寺内の兵糧を運びこまれていて(7月13日参照>>)、その対抗策として、あの鉄甲船の建造を、まさに、信長自身が、急ピッチで進めている時・・・(鉄甲船は、この年の9月に完成します=9月30日参照>>)
北陸での戦いを展開していた配下の柴田勝家が、あの上杉謙信に手取川にて手痛い敗北を喰らったとされるのは、この前年の事・・・
さらに、丹波(たんば・京都府と兵庫県北東部の一部)平定中の明智光秀は、まさに、この3月に八上城(やがみじょう・兵庫県篠山市)への本格的な包囲を開始したところ・・・(攻略するのは、翌年の6月1日=1月15日参照>>)
そして、この秀吉の三木城です。
もちろん、信長も、ただただ上月城を見捨てたわけではなく、何とか秀吉に、一刻も早く三木城を攻略させて、上月城へ向かわせようと、嫡男=織田信忠を大将に、佐久間信盛(さくまのぶもり)、丹羽長秀(にわながひで)、滝川一益(かずます)といった、それこそ第1級の猛将たちを、三木城への援軍に派遣したりしたのですが、ご存じのように、三木城が落ちるのは、天正八年(1580年)の1月(3月29日参照>>)・・・
当然、今回の上月城には間に合わなかったわけです。
まさに、信長包囲網の真っただ中・・・複数の敵に同時に立ち向かっていた信長としては、いたし方ないところではあります。
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コメント
私の母は上月千津子といいます。母が大切に待っている家系図の始まりは村上天皇です。そこから具平親王〜おやすみ上月頼景氏と続きます。一度、城跡に行ってみたいと思います。
投稿: 上月家の子孫 | 2020年2月 4日 (火) 16時54分
上月家の子孫さん、こんばんは~
上月家の主筋は赤松氏らしいので、やはり村上源氏の流れを汲むのでしょうね。。。
ご先祖様の事は、色々と調べてみたくなりますね。
投稿: 茶々 | 2020年2月 5日 (水) 01時02分