« 徳川の未来を託された幼き当主・徳川家達 | トップページ | 「逃げの小五郎」で逃げまくった木戸孝允も最期は… »

2011年5月25日 (水)

「毘沙門天」「未来記」「ゲリラ戦法」…楠木正成伝説

 

延元元年・建武三年(1336年)5月25日、足利尊氏を迎え撃った湊川の戦いに敗れ、楠木正成が自害しました。

・・・・・・・・・・・

楠木正成(くすのきまさしげ)・・・

Kusunokimasasige600 すでに、このブログにも何度もご登場いただき、もはや多くを語らずともその名が知られた有名人ですが、一方では謎多き伝説の人でもあります。

そもそも、その表舞台への登場からして伝説っぽいです。

あの後醍醐(ごだいご)天皇が、
「あの座席はあなたが座る場所です。あの南の方角にある枝ぶりの良い木の下なら安心です」
と、立派な座席に案内される夢を見てた事で、「『南+木』で楠木という人物を探せ~!」となって、天皇の前に登場する正成(8月27日参照>>)・・・これが元弘元年(1331年)5月の事です。

その出会い方もあって、この5月の初対面が事実であるのかどうかは微妙なところですが、その翌月の6月付けで、天龍寺文書に伝わる臨川寺(りんせんじ)目録には、
「悪党楠木兵衛尉(ひょうえのじょう)が和泉(大阪府南部)若松荘に押し入り、不法占拠した」
といった内容の記述があり、実は、これが、楠木正成の正式史料への初登場という事になります。

正成に「悪党」という冠がつくのも、この天龍寺文書に端を発しているわけですが、こうしてみると、正成が正史に登場する期間は、わずか5年・・・その短い間に、日本人のほとんどがその名を知る足利尊氏と同等の有名逸話を数多く残すのですから、それらに、創作とおぼしき伝説的内容が含まれてしまうのは、いたし方ないところかも知れません。

・・・で、こうして、この正成という強い味方を得た天皇が、9月28日に笠置山で挙兵する(9月28日参照>>)・・・ここから始まるのが、元弘の変と呼ばれる戦いですが、1ヶ月後の10月21日には、早くも赤坂城の戦いで、その伝説的ゲリラ戦法を駆使して、大量の鎌倉幕府軍を翻弄してくれちゃってます(10月21日参照>>)

ただ、さすがの正成も、兵の数の差には勝てず、一旦退却して再起をはかるわけですが(2月1日参照>>)、その最大の見せ場となる千早城の戦い(2月5日参照>>)での戦法は、そのページにも書かせていただいたように、明らかに、諸葛孔明(しょかつこうめい)レッドクリフ(赤壁の戦い)のパクリ・・・

これらの伝説的逸話の多くが、あの『太平記』に登場するわけですが、ご存じのように『太平記』は軍記物・・・このブログでも度々書かせていただいてますが、軍記物というのは、創作を織り込んでオモシロく読めるようにした歴史小説のような物です。

この『太平記』の扱いも、その時代によって、丸々信じられていたり、全部デタラメだと言われたり・・・その評価の高低差が激しい書物ではありますが、今では、多くの創作が織り込まれてはいるものの、その中には重要な史実も含まれているという見方がされるようになっています。

・・・で、そんな正成の出自ですが、上記の通り、いきなり表舞台に登場するわけで、結局は、それも謎です。

河内(大阪府南東部)土豪(どごう・地元に根づく小豪族)で周辺一帯の水銀や金剛砂(こんごうしゃ・鉱玉)を一手に扱っていとか、武蔵(東京都&埼玉県&神奈川県の一部)出身の東国の御家人で守護国の河内に移住したものの、主家である北条氏で内紛が起こったため後醍醐天皇に従ったとか、さらには、先祖を橘諸兄(たちばなのもろえ・橘三千代の息子=1月11日参照>>とする系図まで残っていると言いますが、さすがに、この系図は後世の物と見られているようです。

しかも、子宝に恵まれなかった母親が、信貴山毘沙門堂に願をかけたところ、ある夜に、金色の鎧を着た武将が口の中に入る夢を見て身ごもったため、両親は、我が子を毘沙門天(多聞天)の使いと信じ、多聞丸と名づけて大事に育てた・・・それが正成である、と、つい最近も、どこかで聞いたような(5月7日参照>>)戦国武将=神さんの化身伝説もあります。

・・・と、ここで、正成&伝説と来たからには、忘れてはいけない例の逸話・・・

後醍醐天皇が隠岐に流されている頃に、摂津(大阪府の一部)四天王寺に参拝した正成が見たという『未来記』の話・・・

この『未来記』というのは、あの聖徳太子が、国の行く末を書き記して四天王寺に納めたとされる、いわゆる予言書です。

長老の僧の計らいで、その予言の書を目にした正成・・・そこには、
「人王九十六代にあたって、天下ひとたび乱れて君主も平安でない。
このとき東魚が来て四海
(天下)を呑む。
日が西天に没したまま三百七十余日が過ぎると、西鳥が来て東魚を食う」

とあったのだとか・・・

後醍醐天皇は第96代天皇・・・
東魚は鎌倉幕府・・・
そして、天皇が隠岐へ流されてから1年ちょっとで幕府を滅ぼす西鳥こそ自分である・・・と正成は倒幕を確信したというのです。

まぁ、現実問題として、この『未来記』なる巻物は現存せず、その存在を疑問視する声もあるのですが、あの百人一首(5月27日参照>>)で知られる藤原定家が、「聖徳太子の墓所の近くから瑪瑙(メノウ)石に刻まれた『未来記』の一部が出土し、そこに承久の乱(5月14日参照>>)の事が書いてあった」と日記に記しているところから、なんとなく、「あったらいいなぁ~」という妄想をかきたてられるシロモノではあります。

しかし、このような様々な伝説に彩られながらも、尊氏や新田義貞(にったよしさだ)らとともに鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)、その後、尊氏が後醍醐天皇に反旗をひるがえしても(12月11日参照>>)なお、正成は天皇一筋に忠誠を尽くし、最後は、自らの提案を却下されながらも、やはり、天皇を裏切る事なく湊川(みなとがわ)の戦い(2007年5月25日参照>>)で散っていったという流れは、間違いのないところ・・・

確かに、そこまでの後醍醐天皇寄りには、地方から全国ネットへとのし上がりたいという正成の私利私欲もあったかも知れませんが、その出自さえわからない人物が、天皇に頼られ、大きな大きな幕府という物を相手に、痛快な戦いを展開する様子は物語として実におもしろい・・・

個々の戦いぶりは創作としても、使えるネットワークを駆使して劣勢なる戦いを勝ちに転じた事は事実・・・そして散りぎわの美しさ。

そこには、後世の人が、どうしても伝説で彩りたくなるような、大きな魅力があった事も確かなのです。
 .

あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 徳川の未来を託された幼き当主・徳川家達 | トップページ | 「逃げの小五郎」で逃げまくった木戸孝允も最期は… »

南北朝・室町時代」カテゴリの記事

コメント

鎌倉幕府を滅ぼして、天皇新政をめざした後醍醐天皇がいたから、楠木正成ありですね。銅像も歌もあります。幕府を開いた足利尊氏の方がイメージ悪いようですが、政治手腕は上です。

投稿: やぶひび | 2011年5月26日 (木) 11時24分

やぶひびさん、こんにちは~

後醍醐天皇に弓引く尊氏は、戦前は悪の権化でしたからね~

戦後になって、少し名誉回復…そのぶん正成の忠心も少しうすれましたが、大阪人としては、どうしても正成推しになってしまいます。

投稿: 茶々 | 2011年5月26日 (木) 16時40分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「毘沙門天」「未来記」「ゲリラ戦法」…楠木正成伝説:

« 徳川の未来を託された幼き当主・徳川家達 | トップページ | 「逃げの小五郎」で逃げまくった木戸孝允も最期は… »