長篠の勝敗を決定づけた?鳶ヶ巣山砦・奇襲作戦
天正三年(1575年)5月20日、武田勝頼の本隊が設楽原に向けて進出し、酒井忠次が鳶ヶ巣山砦に奇襲をかけに進発しました。
・・・・・・・・・・・
さて・・・いよいよ長篠設楽ヶ原の戦いです。
天正三年(1575年)5月8日・・・
三河(愛知県東部)北東部へと南下し、奥平貞昌(信昌)が守る徳川家康方の最前線=長篠城を囲んだ甲斐(山梨県)の戦国武将・武田勝頼(かつより)・・・
11日より始まった総攻撃によって、16日には、長篠城から、もはや籠城も限界であるとの伝令が放たれ(5月16日参照>>)、その報を受けた家康が、同盟を結んでいる織田信長とともに、長篠城の西・設楽原(したらがはら)に到着したのは、5月18日の事でした(5月18日参照>>)。
しかし、到着すぐに長篠城から放たれたもう一人の伝令(5月21日参照>>)のおかげで、少し時間に余裕ができた織田徳川連合軍・・・すぐには戦いに挑まず、まずは、馬防柵(まぼうさく)や土塁、陣城(戦いのための簡易の城)などを構築し始めます。
当然の事ですが、一方の武田軍では、再三に渡って軍議が行われます。
退却か、決戦か・・・
19日から20日にかけて行われた最後に軍議では、織田徳川連合軍=30000、武田軍=1万5000と、圧倒的な兵力差がある事もあって、馬場晴信・内藤昌豊・山県昌景ら、信玄以来の重臣たちは、ことごとく退却を主張・・・「ここは、いち時退却して好機を待つべきである」と・・・
しかし、勝頼の寵臣として知られる跡部勝資(あとべかつすけ)が、「先制に利あり」を主張します。
確かに・・・武田側から見れば、設楽原に到着してもいっこうに攻めて来ず、城柵を講じてばかりの織田徳川連合軍は、何かを待っているようにも見えます。
ひょっとしたら、この後、さらなる援軍が駆けつける可能性もゼロではありません。
しかも、こちらから見る織田徳川連合軍は、士気が低く弱そうに見える・・・現に、これまで、武田軍は彼らに一度も負けた事はありません。
かくして、後詰が来る前に、士気の低い織田徳川連合軍を撃つ!
と決定します。
そうなれば、一刻も早く、戦場へ出て有利な陣形を取らねばなりません。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
こうして、天正三年(1575年)5月20日・・・勝頼は、長篠城の押さえとして、2000の兵にて城を囲み、城の東側を流れる大野川の対岸にある鳶ヶ巣山(とびがすやま)砦に河窪信実(かわくぼのぶざね・武田信実=信玄の異母弟)ら1000人を置き、自ら本隊の主力=12000を率いて、豊川(寒狭川)を渡り、設楽原に向けて発進したのです。
一方、この同じ20日・・・
織田徳川連合軍で開かれた軍議の席で、家康の重臣・酒井忠次が吠えました。
かの「鳶ヶ巣山砦を奇襲させて欲しい!」と・・・
しかし、この案は、信長に一蹴され、それどころか、「トンデモない愚策」として大勢の前で罵られ、忠次は落ち込みを隠せないまま、軍議を終えました。
・・・と、そこへ信長・・・コッソリと、
「君がさっき言うてたアレ…やっちゃってくれる?」
そう、実は、武田方のスパイが潜り込んでいる事を想定して、軍議では、あえて一蹴したけど、本当は、とってもナイスな案・・・是非とも実行して欲しいと言うのです。
確かに、勝頼は戦場に出てきました。
しかし、このままにらみ合いが続けば、相手は退却に方針転換するかもしれません。
ここは一つ、散々城柵を講じた戦場に、向こうから攻めて来てもらいたいというのが信長の思い・・・
この奇襲作戦は、単なる小隊のぶっ潰しではなく、本隊の背後を突いて動揺させ、あわよくば武田軍の退路を断つ事・・・そして、さらにあわよくば、そのまま長篠城へ突入して開放する事もできるかも・・・という、信長一世一代の作戦だったのです。
大役を任された忠次・・・松平一門の三河衆に自軍の手勢を加えた約2000と、信長配下の金森長近らを加えた総勢・約4000に鉄砲500を従えて、夜も更けた設楽原を、密かに進発します。
豊川下流の浅瀬を通り、大きく迂回して峠を越えて・・・この間に日づけは、運命の5月21日に変わりました。
砦の背後へと回り、息をひそめて夜明けを待つ酒井隊・・・砦を守る武田方の関心は、正面にある長篠城で、背後に敵が迫っている事など、気づく余地もありませんでした。
かくして、決戦の日の夜が明けます。
夜明けとともに一気に襲撃開始!・・・銃声と怒号が山や谷にこだまし、不意を突かれた武田方は大混乱で、近くにあったいくつかの砦と、連携を取る事さえ不可能となり、組織的な反撃などまったくできず・・・
やがて守将が信実は討死し、もはや主力も設楽原の方に移動してしまっている現状では、どうにもならず、砦の守兵は、皆、散り散りに敗走するのでした。
鳶ヶ巣山砦を奇襲する酒井忠次…中央の右手に槍を持った騎馬武者が忠次です(犬山城白帝文庫蔵・長篠合戦図屏風部:1~2扇下部)
この奇襲で、実際に武田方の退路が断たれたかどうかは微妙なところですが、勝頼が「断たれた」と思った事はあったかも知れません。
近年の研究で、信長の3段撃ちも武田の騎馬軍団の存在もなかったかも知れないと言われている昨今・・・ひょっとしたら、この奇襲の成功が、本番の戦いを左右したのかも知れません。
さぁ、ここから、中継カメラは本チャンの設楽原へと移動・・・【決戦!長篠の戦い】へどうぞ>>
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コメント
武田の騎馬軍団がなかった?新説ですね。
当時の馬の大きさで考えると、人が乗ると早く走れなかったらしいです。
坂登りは得意だったようです。
投稿: えびすこ | 2011年5月20日 (金) 17時20分
えびすこさん、こんばんは~
>騎馬軍団がなかった
もちろん、誰もその目で見た事はないのでアレですが、信長の3段撃ちと同様に、武田の騎馬軍団も無かったと考える人は、けっこうおられるようですよ。
当然、騎馬武者はいましたが、それを言うなら、織田にも徳川にも騎馬武者はいたわけで、武田だけが特別だったという事は考え難いという事です。
逆に、鉄砲隊も、武田にも充分いたと思われます。
ただ、物語としては、3段撃ちVS騎馬軍団がカッコイイですが…
投稿: 茶々 | 2011年5月21日 (土) 01時29分
地図感謝!
長篠合戦の重要ポイントとして鳶ケ巣奇襲は読んだことがあります。
一体どこか?
地名では出てきてもなかなか地図はないんですよね。
かなり離れた所にそう思っていた地点があります。
飯田線柿平駅から南西、朝霧湖と対称位置の山です。良く見ると「鳶ノ巣」でした。
この山をそう思って頭にあるとどうも長篠合戦のことがしっくりこないんですよね・・・遠すぎる気がして
鳶ケ巣は兵站だと読んだ記憶もあって、”烏巣の焼き討ち”だったらこんな距離もありかな・・なんか思ってたところです。
確かに現代地図にも「鳶ケ巣」の地名がありますね。
すっきりしました。
投稿: teru | 2011年5月22日 (日) 14時12分
teruさん、こんにちは~
確かに、今の地図にも川を挟んだ向かい側に「鳶ケ巣」ってありますね。
砦が山のどのあたりだったのか?は、私も知らないのですが、城の囲みと、この砦に兵を残していったという事は、やはり重要なポイントだったんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年5月22日 (日) 16時00分
今日、長篠城跡、鳶ケ巣山、設楽原、に行ってきました☆信長本陣跡の茶臼山にも行ったのですが、高速道路建設の為行けなかった・・・
鳶ケ巣山に立ってみて思った事。。。
「こんな所に陣はって意味あるのかな~?」
です!!!だって何にも見えない・・・
でも、昔の人は土地感もすごく発達していただろうから、守る重要さが私には分からないのかもしれないですね^^
鳥居強右衛門さんも本当にすごい、岡崎まで走る体力もすごいけど、夜の山をいくつも超えるなんて・・・トレラン出たら絶対優勝ですよね(笑)
投稿: みさっち | 2015年9月20日 (日) 15時22分
みさっちさん、こんばんは~
>「こんな所に陣はって意味あるのかな~?」
それ、私も感じます。
残念ながら鳶ケ巣山には行ってませんが、他の古戦場で、よく思います。
ただ、関ヶ原の笹尾山は、手に取るように見えるので、やはり多少整備されてないと現代人には見難いのかも…
観察力も、移動の早さも、昔の人はスゴイですね。
投稿: 茶々 | 2015年9月21日 (月) 01時59分