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2011年5月21日 (土)

決戦!長篠設楽ヶ原の戦い

 

天正三年(1575年)5月21日、いよいよ長篠設楽ヶ原の合戦の火蓋が切られます。

・・・・・・・・・

初めてご覧になる方は、合戦に至る、これまでの経緯を、
●天正元年(1573年)9月8日【家康が長篠城を奪う】>>
●天正三年(1575年)4月21日【勝頼が長篠城攻撃を開始】>>
●5月18日【設楽原で準備万端】>>
●5月16日【史上最強の伝令:鳥居強右衛門】>>
●5月21日【もう一人の伝令:鈴木金七】>>
●5月20日【鳶ヶ巣山砦・奇襲作戦】>>
などで見ていただくとありがたいです。
(それぞれ別の時に書いてますので、若干内容がかぶる部分がありますが…(゚ー゚;)

・‥…━━━☆

さて、いよいよ天正三年(1575年)5月21日・・・夜明けとともに、昨日まで降っていた雨も上がり、時おり晴れ間も見える天気となりました。

武田勝頼以下、約1万2000の兵は、すでに、昨日のうちに設楽原(したらがはら)に着陣・・・鶴が両翼を広げた形の鶴翼(かくよく)の陣(【陣形と陣立のお話】参照>>)で決戦に挑みます。

一方、細い々連吾川(れんごがわ)を挟んで、真正面から向かい合う形に布陣する織田信長徳川家康連合軍・・・

Nagasinofuzinzucc ↑画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

まずは、早朝6時頃・・・最も左に位置する先鋒・山県昌景(やまがたまさかげ)が、開戦を告げる太鼓を打ち鳴らし、馬防柵の左(南)側を回り込むようにして、徳川方の大久保忠世(ただよ)と激突します。

忠世は果敢にも、鉄砲隊を馬防柵の前に出して応戦・・・敵が近づけば柵の中に退き、敵が退けば、再び柵の外に出て攻撃するという手法をくりかえします。

武田方の2番手として襲いかかるのは、中央の武田信康(信玄の弟)内藤昌豊・・・さらに3番手の小幡信貞(おばたのぶさだ)と続き、逆の右翼からは4番手の武田信豊(勝頼の従兄弟)、5番手の馬場信春佐久間信盛の陣地を突きます。

しかし、この設楽原というのは、いくつもの小川が流れる湿地帯・・・しかも、連日の雨でさらにぬかるんで、当日のベチャベチャ感たるやハンパないベチャリ具合で、甲冑に身を包んだ重装備の武者を乗せた馬の足は自由を奪われるし、柵の手前に設けられた空堀に行く手を阻まれるしで、武田の騎馬隊も、なかなか思うように攻撃を仕掛けられません。

ちょうど、ここらあたりで信長のゲキが飛びます・・・
「敵馬を入れ来たらば 際(きわ)一町までも鉄砲打たすな
間近く引請
(ひきう)け 千挺(ちょう)づゝ放ち懸け
一段づゝ立替
(たちかわ)り立替り打たすべし
敵猶
(なお)強く入れ来らば ちつと引退(ひきの)
敵引かば引付いて打たせよ」

『甫庵信長記(ほあんしんちょうき)

通説では、
信長は3000挺の鉄砲を用意し、これを1000挺づつ3隊に分けて、1隊めが撃ってるスキに2隊3隊が準備をし、撃ち終わった者が後ろに回って、2隊めが撃つ・・・そのスキに先ほどの1隊めが次ぎの準備をし、3隊めが撃ち終わる頃には、最初の1隊めの者が撃つ用意ができている・・・
という、有名な3段撃ちをやったと・・・

それでも、次々と新手を繰り出して突撃を試みる武田軍ですが、機動力の騎馬隊も、馬防柵や空堀・・・もちろん、一斉に撃ちかける鉄砲隊に、結局は阻まれてしまうのです。

そんな中でも、敵深く食い込む者も・・・

右翼から出撃した土屋昌次は、3重のうち2重まで突破し、3重めの目の前まで至ったのだとか・・・残念ながら、昌次は、そこで銃弾に倒れてしまいますが・・・

中央から行った内藤昌豊の部隊も、正面の本多忠勝の陣に攻めかかり、3重めに達した時は、わずか24人になっていたとか・・・

ところで、昨日書かせていただいた酒井忠次鳶ヶ巣山(とびがすやま)砦への奇襲(再び5月20日参照>>)・・・昨日のページでは、夜明けとともに攻撃開始と書かせていただきましたが、一説には、攻撃は8時頃だったという話も・・・

というのも、冒頭に書いた通り、この設楽原の本チャンが始まったのが6時頃なのですが、どうやら、武田方が、その奇襲攻撃に気づいたのが、何度も突撃を繰り返していた真っ最中だったという事になっているからです。

・・・と攻撃の時間は、はっきりしないのですが、とにかく、ここらあたりで、ようやく勝頼は、後方の長篠城付近から立ち上る黒煙を見て、鳶ヶ巣山砦の陥落を知るのです。

そして、おそらくは、「退路が断たれた」と思った・・・

しかし、その後も、果敢な波状攻撃を続けていた武田軍でしたが、やがて午後1時頃、歴戦の勇者が次々と討死する中で、鶴の両翼が崩され、敗色を悟った穴山信君(のぶきみ)や武田信豊などの親類衆が、勝手に撤退を開始しはじめ、さらに、武田の崩れが歴然とします。

この状況を見た信長が総攻撃の命令を発進・・・もちろん、武田方の側近たちも、勝頼に撤退を進言します。

それでも、「死を覚悟して討って出る!」
と、最初はなかなか譲らなかった勝頼でしたが、ついに、側近たちに言い含められ、午後2時頃退却を知らせるほら貝の音が、設楽原に響き渡りました。

この日、殿(しんがり)を務めたのは信玄以来の重臣・馬場信春・・・午前中に佐久間信盛から奪った丸山の陣地にて、戦況を目の当たりにした信春は、勝頼を援護しつつ途中まで退却し、主君の撤退を確認した後に態勢反転させ、やはり勝頼の撤退を見届けていた内藤昌豊とともに、追撃して来た織田勢と渡り合い、壮絶な討死を遂げたのです。

一方、長篠城方面への退路を断たれていた勝頼は、近臣数騎とともに、豊川沿いに落ちていったと言います。

・‥…━━━☆

と、まぁ、これが一般的に知られる長篠設楽原の戦いですが・・・

以前から書かせていただいているように、近年の研究では、「信長の3段撃ちはなかったであろう」というのが定説となりつつあり、中には、「武田の騎馬軍団もなかった」と考える専門家も増えつつあります。

実は、この長篠設楽原の戦いが、現在のような「信長の3段撃ちVS武田騎馬隊」のような形に言われるようになったのは明治になってからの事なのです。

現に、江戸時代に書かれた例の『長篠合戦図屏風』に描かれた鉄砲隊は、3段にはなってませんよね。

これは、一昨年の9月17日に書かせていただいた【12年なのに「前九年の役」&5年なのに「後三年の役」?】>>にも、チョイと出て来た明治維新の頃のアノ話・・・

この時、江戸時代の武士とは違う西洋式の軍隊が発足する事で、これまで国内で行われた戦史をまとめて、今後の作戦立案に役立てよう『日本戦史』なる物を陸軍参謀本部が編さんしたのです。

・・・で、その中の長篠役(ながしのえき)の記述が、現在、一般的に知られている戦いの経緯のもととなっているわけなのですが、実は、この編さんの時に参考にしちゃったのが、先ほど出て来た『甫庵信長記』・・・これは、江戸時代に書かれたいわゆる軍記物です。

皆さま、すでに、ご存じの通り、軍記物というのは、今で言う歴史小説みたいなところがあって、出来事の流れに関しては史実に基づいていますが、細かな・・・特に、その人物の動向や心の内などは、読んで面白くなるように創作されている事が多々あります。

よって、現在では、圧倒的に『信長公記』の方が重視されているわけですが、それこそ、何が一級史料なのか?なんていうのは、研究が進むにつれて、その時代で変わっていく場合もありますので、明治の頃では致し方ないところでしょう。

・・・で、その『信長公記』では、この長篠の戦いに用意された鉄砲は1000挺となっていますし、もちろん3段撃ちも出てきません。

だって、先日も書かせていただいたように、もともと、直前までは畿内の敵に対峙していた信長が、勝頼の南下を聞いて、慌てて岐阜へ戻って戦闘準備をして、かき集めたにわか部隊が鉄砲隊の担当だったのですから、3段撃ちなんて神業をできるはずもなかったでしょう。

第一、戦況をよ~~く見てください。

騎馬武者がぬかるみに足を取られたなら、鉄砲隊だってぬかるみに足を取られなきゃオカシイですが、信長側だけが整然と乱れる事なく、作戦を遂行したというのは何とも、腑に落ちません。

一方の武田の騎馬隊は・・・

これも、騎馬隊・騎馬軍団と聞くと、いわゆる軍事パレードなどで見かける騎兵が整然と並んだ姿を思い浮かべてしまいますが、この戦国時代にあの光景はありえません。

だって、この時代、馬に乗る事を許された武将とは、どんな人たちでしょう?

一応は、名のある武将で、それぞれが家臣を持ち、それぞれが独自の訓練をしているわけで、イザという時にだけ、殿さまクラスの騎馬武者が集まって隊列を組むなんて事はできないはずで、おそらくは、それぞれの殿さまを守る多くの歩兵が回りにいた状態で戦闘していたでしょう。

しかも、この頃の日本馬は、現在の西洋馬と違って、ポニーを一回り大きくした程度のサイズで、周囲に槍など持つ歩兵に囲まれれば、もはや確認も難しかった事でしょうし、走る速さも、人とあまり変わらなかったと思われます。

また、一説には武田方にも1500挺の鉄砲があったとか・・・さすがに、これは盛りすぎだとしても、結局のところは、同じように鉄砲隊を持ち、同じように騎馬武者がいた者同志が戦ったというところが現実でしょう。

もともと、兵の数が倍違うのですから、同じように鉄砲隊も騎馬武者もいたのなら、倍の数いる方が勝ちます・・・まして、堅固な城柵をほどこして準備していたのなら・・・

結局、勝頼の敗因は、倍近い相手に戦いを挑んでしまった事・・・そこには、信玄以来の重臣との確執があった事に加え、寸前のところでヤラれてしまった砦への奇襲・・・

これで、「退路を断たれた」と判断した勝頼は、決死の覚悟で、倍近い相手に向かって突き進むしかなくなった・・・というところではないでしょうか?

●長篠の後の徳川VS武田の遠江争奪戦については
【長篠の直後…徳川VS武田~諏訪原城の戦い】でどうぞ>>
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

武田信玄の頃には本州にも火縄銃がありましたね。火縄銃は雨上がりでないと使えないですね。
先日何気なく書いた事が、文中に記載されていてうれしいです。(o^-^o) 折を見てトリビアを記載します。

投稿: えびすこ | 2011年5月21日 (土) 21時21分

えびすこさん、こんばんは~

信玄は三増峠の戦いで、見事に鉄砲を使いこなしてますから、おそらく、武田にも立派な鉄砲隊がいた事でしょうね。

戦国武将の銅像の中には、ちゃんとポニーサイズに乗ってる物もありますね…見た目にはアレですが、本当は、こっちが正解なんでしょう。

投稿: 茶々 | 2011年5月21日 (土) 23時37分

長篠の戦い、興味深く読ませていただきました。小生若かったころ天目山を訪ねたことがあります。四年前になるか長篠の古戦場を見ようとしましたが駅を一つ間違えたのか歩けど行けど展望が開けず、体力不調もあり、こんな空気のところだろうと自分に言い聞かして引き返しました。この戦い、信玄が育てた忍びの頭領が信長に買収され「織田軍は武田の軍勢に怯えきっている」と偽の情報を伝え、それを真に受けた勝頼が、突撃する決心をしたのだとの説もありますね。三方ヶ原の戦いのとき家康が逃げ帰った浜松城に突入しなかった勝頼の臆病さが見られないのは結果を上げ続けた武田の騎馬隊の強さを過信していたかもしれません。信長は禁手とされていた馬を専ら撃てと命令したか、信玄の宿将たちは愛馬が撃たれて倒れると、戦場に仁王立ち、長槍を突き出す信長の足軽兵らと渡り合うしかなかったか、と想像は巡ります。これは源平の下関、壇の浦合戦のとき、義経が平家の軍船の水手を討って操船できないようにしたのに似ています。さらに目を転じ第二次世界大戦末期、世界最強だった独タイガー戦車隊が連合軍の戦車群を撃破していくが最後は油尽きて敗北したバルジ会戦にも似ています。長篠の戦いを経て、武田家が衰滅していく様は、平家一門の最期と同じ様に、日本人が哀惜する滅びの美学の典型かなと思われますが、信頼した者の裏切りに会う分だけより哀切ですね。そして武田滅亡の姿がすぐ後の「敵は本能寺にあり」の道に投影されていったように思います。ありがとうございました。

投稿: 植松 樹美 | 2011年5月22日 (日) 07時35分

山県昌景、内藤昌豊、馬場信春、原昌胤ら、武田家の重臣の多くが戦死したことからも、「御旗・楯無も御照覧あれ」の言葉を口にしたのでしょうか?

(この言葉の記事も読んでみたいな~。)

神格化されるほどの親の後を継ぐのはかなりツライのかも…

ではでは

投稿: azuking | 2011年5月22日 (日) 07時36分

当時の鉄砲といまの鉄砲と、銃構造のうえで決定的な違いがあります。当時の鉄砲(現在では種子島銃、或いは単に種子島などと呼びます)では銃本体の中に火薬室がありここに黒色火薬を装填していました。現在の銃では銃本体ではなく、弾の側に薬きょうというかたちで火薬室を装備する構造をとります。
火薬というシロモノは、燃焼・発火の際に必ず燃えカスを残すという厄介な性質を有していて、上記の構造変化はこれを極力回避することを目的とした、銃の構造上の「進化」です。燃えカスというのは燃えなかったカスの事ではなく、燃えたカスを指します。燃えたカスは燃焼・発火した場所の周辺に固く固くコビり着いて、銃の物理的操作・物質上の運動に大きな支障を来たしてしまいます。具体的には、種子島タイプの銃(銃本体に火薬を装填するタイプ)では一発発射する毎に入念な燃えカス除去・掃除を行なう必要があります。これを怠ると次弾発射の際に銃弾が燃えカスにより引っかかってしまって銃身を通ってゆかず、銃本体の火薬室の破裂をしばしば引き起こします。そうなると、運が良くて引き金を引く手指若しくは手が吹っ飛び、運が悪ければ照準を定めるために寄り添わせている筈の頭が半分ほど吹き飛ぶことになります。

現在でも「種子島銃同好会」なるものが存在してマニアのひと達が全国大会を開いたりしていますが、その中の競技種目で「速射」があります。その「速射」の程度はしかし優勝者クラスでも20分間(20秒間ではありません)に20発程度撃つのがせいぜいです。1発撃った後には火薬の燃えカス掃除に、熟練者でも1分くらい時間を要するのが現実です(これの手を抜くと、手か頭のどちらか或いは両方が吹き飛ぶ)。

このような種子島銃の銃構造では三段撃ちなどの手法で延々と撃ち続ける、というのは物理的にムリであり、荒唐無稽です。種子島銃の愛好者のかた(マニアのひと)に言わせれば、種子島のことをまったく知らない人間が机上の空論で立案したマンガの様な戦法、ということらしいです。

投稿: さるすべ | 2011年5月22日 (日) 12時27分

植松樹美さん、こんにちは~

確かに、合戦での信長は、義経とかぶる所があるように感じますね。
それまでにない手法=革新的な作戦を実行する所など…

現代の私たちから見れば、合戦=戦争なんだから、「何でもあり」のような気もしますが、常識という物は時代によって変わるもの。

実際には、どんな風だったのか…見てみたくてたまりません。

投稿: 茶々 | 2011年5月22日 (日) 16時07分

azukingさん、こんにちは~

偉大な父を持つ2代めは、ホント大変ですよね~

何かを決断すれば「間違っている」と言われ、何かを取りやめれば「臆病者」と言われます。

古い重臣たちからの信頼を得るのは、難しいものです。

投稿: 茶々 | 2011年5月22日 (日) 16時10分

さるすべさん、こんにちは~

>三段撃ちなど…物理的にムリ

藤本正行氏の研究と、それを発展させた名和弓雄氏の見解で、「三段撃ちではなく4人組なら可能」というのが発表されてますね。

実際に、火縄銃を愛好している方の論理なので、かなり説得力あると思います。

また、機会がありましたら、それについても書いてみたいと思います。

投稿: 茶々 | 2011年5月22日 (日) 16時19分

三段撃ちは真偽はともかく浪漫ではあります。


話は変わりますが、土屋昌次のガッツはすごいですね。土屋昌恒、秋山親久など伝説になった人物を兄弟に持つだけの事はあります。

土屋昌次(金丸)も武田晴信の守役で奉行として重用されたものの、他の豪族に比べると身分は低かったですし、兄弟らが養子に入った先の義父、土屋貞綱(岡部)は名門ではあるものの、今川家が滅びた後に武田家に加入した人で、完全な譜第ではないんですよね。
彼らの忠臣さは一体どこから来るんだろうと考えてしまいます。


それに比べて穴山さんは・・・・
まぁ彼にしても同格であった晴信に、無理やり甲斐連合軍に臣従させられていた、という感はあったでしょうからしょうがないのですかね。


近くの隣人、遠くの親戚と言ったところでしょうか。

投稿: おみそしる | 2011年5月31日 (火) 10時20分

おみそしるさん、こんばんは~

勝頼自害の時もそうですが、早々に寝返った人、最後まで盾となった人…様々ですね~

なぜ、そうしたのか?
となると、それこそ人それぞれで、心の奥底は読みとれないのでしょうが、とても興味津々です。

投稿: 茶々 | 2011年5月31日 (火) 19時32分

ごぶさたです。
いつもながら楽しく読ませていただきました。
私はぼそぼそ続けてます。がんばらなくちゃ

投稿: エコリン | 2011年10月 3日 (月) 01時56分

エコリンさん、お久ぶりです。

いつもバタバタしていてなかなか訪問できませんが、お互いに、末永く続けて参りましょうね。

投稿: 茶々 | 2011年10月 3日 (月) 17時03分

二流資料がベースですが
武田方とは鉄砲の数ではなく、金属の製法の違いで射程の差があったという説もあります
精錬度が高い合金であれば、火薬の量が増やせますから、当然射程も伸びます。信長はこれを細川藤孝らにこっそり準備(文献的には大鉄砲)させていたとか。

織田軍も当然新旧装備色々だったわけですが、長射程のものを揃えて、1の柵と3の柵の間の幅を自軍に有利なように配置したみたいな話です。1の柵に取り付いた敵は長射程の銃を1発限りで撃って気勢をくじき、2の柵についたところを汎用銃で一斉射撃って感じですか。

もともとこの手のものは、家康がこっそりスナイパーライフルとして少数開発していて(だからこそ国力で大きく上回る信玄に対して強気の対応が可能だった)、これを織田軍が量産して長篠につながっていった、みたいな話も聞いていますので、酒井の奇襲+家康のエンジニアリング+織田の量産効果って感じの勝利だったように個人的には理解しています。さらに後年これを改良したシャスポー銃っぽい元込銃も開発していたようで、この手の研究では徳川家が圧倒的に先行していたようです。

後に勝頼が武器商人?を躑躅ヶ崎に住まわせようとしましたが、単に当時の火筒であればそこまでしなくても買えるわけで、薄々織田・徳川軍では(当時)一般流通していないカスタムモデルが使われていることに気がついて居たのではないかと思います

投稿: | 2014年2月 8日 (土) 06時30分

コメントありがとうございます。

そうですね~謎はつきませんね。

そもそも、古戦場で発見されている弾の数の少なさが謎ですから…
残る史料と現場検証の違いが、謎を深めているのでしょうね。
まぁ、それだけ、多くの仮説をたてられるので、歴史好きにはたまらないですが…

投稿: 茶々 | 2014年2月 8日 (土) 14時41分

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