わずか7歳で女城主となった立花誾千代
天正三年(1575年)5月28日、男子のなかった大友家臣の立花道雪が、娘の誾千代に立花家の家督を譲りました。
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豊後(ぶんご・大分県)にその威勢を誇った大友宗麟(おおともそうりん)に仕えた重臣の中の重臣=立花道雪(たちばなどうせつ・戸次鑑連=べっきあきつら)・・・
後継ぎとなるべく男子がいなかった事から、通常の男性当主の相続と同じ手続きを踏み、主家である大友家の許しを得た上で、娘の誾千代(ぎんちよ)を立花家の当主としたという事ですが・・・
以前書かせていただいた井伊直虎(いいなおとら)(8月26日参照>>)は、男となって当主を継ぎましたが、コチラは女性のまま・・・
年代がさほど変わらないという事は、擁護してくれる大物主家がいるか?いないか?の差・・・という事なのでしょうか???
そこのところは、もう少し調べてみたいところではありますが・・・
とにかく、この誾千代さん・・・様々な伝説を残す勇将=道雪が、57歳にしてやっと授かった女の子です(*姉がいたという説もありますが、その姉も早世していますので家督相続には無関係)。
その年齢から、さらに、次の子供をもうける事が難しいと思ったのでしょうね~
誾千代には、幼い頃から、男顔負けの当主としての教育をほどこしていたようです。
そして、天正三年(1575年)5月28日・・・道雪は、自身の高齢を踏まえて、わずか7歳の誾千代に家督を譲ったのです。
その教育のおかげか、誾千代は色白の美人ながら、武芸に長け、また、父親のDNAを受け継ぐその度胸の良さは、男顔負けだったと言います。
やがて13歳の時に、同じく、大友家の家臣だった高橋紹運(じょううん・ 鎮種= しげたね)の息子・高橋統虎(むねとら)と結婚・・・彼を婿に迎えた事で、誾千代は城主の座を降りる事になりますが、それまでの6年間をそつなく・・・いや、むしろ、立派に城主の職務を全うしていたのですから、たとえ父の手助けがあったにせよ、その優秀さはなかなかの物でしょう。
ところで、この誾千代さんの婿となった統虎・・・結婚を機に立花宗茂(むねしげ)と名乗りますが、もう、皆さんご存じですよね。
そう、この宗茂こそ、父の道雪が、武将の中の武将と見込んだ男・・・
なんせ、彼は高橋家の長男ですから、本来なら、その高橋家を継ぐ立場・・・しかも、それほどの器量の持ち主なのですから、父・紹運も、最初のうちは婿に出す気などまったくなく、断わり続けていたのですが、それこそ、道雪が再三に渡って頼み込んだ来るもので、結局、情にほだされて・・・という事のようです。
その結婚から4年後の天正十三年(1585年)に道雪は亡くなってしまいますが(9月11日参照>>)、その翌年には、宗茂の実父・紹運も岩屋城で壮絶な最期を遂げます(7月27日参照>>)。
この時、南からの敵=島津に攻め込まれ、大友は風前の灯状態・・・島津は、その勢いのまま立花城へも手を伸ばしますが、ここで宗茂、見事に守り抜きます。
さらに、その翌年、宗麟の要請により、九州平定に乗り込んで来た豊臣秀吉の力を借り、島津を撃退するのですが、ここで、宗茂の優秀さに秀吉が惚れ込みます。
それは、「大友はいいから、立花を傘下に入れたい!」と秀吉に思わせるほど・・・それは、秀吉をして「その忠義 鎮西一、その剛勇 また鎮西一」とまで言わせました。
で、結局、九州征伐後に秀吉は、立花家を大友から独立した直臣として取り立て、宗茂は筑後(福岡県南部)柳川13万石の大名への大出世を果たすのです。
ここまでの大出世に、妻の誾千代さんもさぞかし・・・と、思いきや、彼女にとっては、あまり快く思う事のできない出来事だったのです。
確かに、夫の出世はうれしい半面、妻の立場としては、孤独を感じる出来事でもあります。
まして、誾千代にとって、彼は婿養子・・・
そうなんです。
誾千代は、亡き父と、ともに過ごしたこの立花城を離れる事ができなかったのです。
結局、誾千代は、立花城郊外の宮永に館を建てて引き籠ってしまい、一方の宗茂は、当然の事ながら柳川へ栄転・・・夫婦は別居状態となります。
そうなれば、宗茂も、いずれは、別に側室をもうける事に・・・その事から、夫婦は大変仲が悪く、常に険悪ムードだったと言われています。
しかし、この後、関ヶ原の合戦で西軍にくみした宗茂が、負け戦となって九州に戻って来た時には(11月3日参照>>)、彼女は数十名の従者をしたがえて、自ら出迎えに行っています。
その追撃に東軍が迫った時には、武装して館を出撃して東軍を威嚇・・・宗茂に開城を説得しに来た加藤清正などは、わざわざ迂回して柳川城に向かったほどでした。
合戦後、柳川城が没収されて、宗茂が改易となった後は、彼女は肥後玉名郡腹赤村(熊本県玉名郡長洲町)に隠居しながらも、夫の再起を願って、寺社参りを欠かさなかったと言いますから、宗茂を嫌っていた・・・というわけではなく、やはり立花城を離れたくなかったという事なのでしょう。
そんな誾千代さんですが、関ヶ原のわずか2年後、慶長七年(1602年)10月17日に34歳の若さで亡くなってしまいます。
彼女が願っていた宗茂の柳川城への復帰は、18年後の元和六年(1620年)に実現しますが、その時にはもう、誾千代の姿は無かったのです。
考えてみると、今で言うところの単身赴任・・・旦那さんの転勤に奥さんがついて行くかどうかは、当人の年齢や立場や環境で、一慨に、こっちが正解!とは言えない物があります。
たとえ、奥さんがついて行かず、旦那さんが単身赴任となっても、それで愛情がない、旦那の事が嫌いと決めつける事ができないのは、皆さまご承知の通り・・・
誾千代さんも宗茂さんも・・・どちらも、すばらしい人材だっただけに、なんとか、ともに暮らす方法はは無かったのかな?と、ちょっと残念に思える人生です。
追記:立花誾千代の肖像画がないか検索してみたら、戦国無双の画像ばっか出てきた(爆)人気なのねん
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コメント
茶々さん、こんにちは!
立花誾千代、実はすごく好きな女傑の一人です。お父さんの道雪と誾千代で短編ドラマがあってもいいのに!と思うほど…
無双ネタではないけど、もう一人好きな女傑である甲斐姫と一騎打ちではなく、軍勢を与えて闘わせてみたい、と思うくらい男性武将に負けず劣らずのカリスマ性を発揮できると思うので(笑)…
投稿: 御堂 | 2011年5月29日 (日) 06時04分
御堂さん、こんにちは~
ホント、ドラマで見てみたい女傑ですよね~
>甲斐姫と一騎打ちではなく、軍勢を与えて闘わせて…
う~ん、
その両者の采配を見てみたいものです。
投稿: 茶々 | 2011年5月29日 (日) 12時05分
茶々さん、こんちにちは
戦国無双ってゲームですよね。
うといので、よくわからないのですが・・・
女性で当主になっている人がいるんですね。井伊直虎を含め、知りませんでした。
投稿: いんちき | 2011年5月30日 (月) 11時31分
いんちきさん、こんにちは~
私も、ゲーム自体はした事ないのですが、女性キャラが奇抜な衣装で大暴れって感じで、誾千代さんのようなキャクターは人気のようです。
投稿: 茶々 | 2011年5月30日 (月) 16時41分
我が故郷、柳川藩藩祖「立花宗茂公」ご正室
誾千代さまの話は郷土史家等の間で、いまでも語り継がれていますよ。かなりの女傑だったらしいです。道雪公、宗茂公、誾千代姫を祀る「三柱神社」もあり、秋には大祭があります。誾千代姫の菩提寺「良清寺」には、肖像画もありますよ。この寺の道を挟んで反対側には、側室八千様の菩提樹「瑞松院」があり、聞くところによると、夜な夜な魂が飛びかって火花を散らしたとか?茶々様、一度柳川にいらして川下りを楽しんで、名物のうなぎのセイロ蒸しをご堪能下さい。
投稿: masiro | 2011年6月 8日 (水) 13時38分
masiroさん、こんばんは~
柳川で川下り…
いいですね~一度、行ってみたいです。
投稿: 茶々 | 2011年6月 9日 (木) 02時09分