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2011年5月18日 (水)

設楽原で準備万端…どうする?勝頼at長篠の合戦

 

天正三年(1575年)5月18日、三河長篠城救援のため、織田信長・徳川家康連合軍約3万が設楽原に到着しました。

・・・・・・・・・・・

もとより作手(つくで・愛知県新城市)に本拠を置く奥平家は、大国に囲まれた弱小豪族の常として、今川松平武田と、その都度、主筋をめまぐるしく変えながら生き残っておりました。

そんな奥平家・・・武田信玄が亡くなってからは徳川家康に近づき、天正三年の春には、作手城主・奥平貞能(おくだいらさだよし)の嫡男・貞昌(信昌)と家康の長女・亀姫(盛徳院)との結婚が決まり、事実上の徳川方となります(9月8日参照>>)

一方、亡き信玄の後を継いで武田の当主となった武田勝頼(かつより)は、天正二年(1574年)6月に、父でも落とせなかった高天神城を落として絶好調(5月12日参照>>)・・・翌・天正三年3月には、その勢いのまま、1万5000と言われる大軍を率いて南下して、奥三河(愛知県北東部)に侵入します。

そんな勝頼にとって、三河を攻める重要な位置にあるのが、その三河の北部に位置するこの長篠城・・・ここを、守っていたのが、家康の娘婿に決まったばかりの奥平貞昌だったのです。

ただし、城兵は、わずか500ほど・・・そんな長篠城を武田の大軍が囲んだのは、4月21日の事でした(4月21日参照>>)

その後、5月8日には、本格的な城攻めが開始されますが、家康とて、この時に単独で出せる援軍は、わずかに数千程度・・・さらに援軍を出して長篠城を救うには、家康と同盟関係にある織田信長に頼むしかないわけですが、そんな信長は、現在、畿内の敵対勢力でめいっぱいの状況で、現に、この直前までは、摂津(大阪府北部)の陣中にいました。

しかし、さすがは信長・・・家康から勝頼南下の動きを聞いた事で、最小限の守りを残し、すばやく大阪を引き払い、すでに4月28日には岐阜に戻って、細川藤孝(幽斎)筒井順慶など、信長傘下の武将に出陣を要請するとともに、武器弾薬の提供を呼び掛けていたのです。

一方の長篠・・・命賭けて踏ん張る貞昌は、なかなかよく戦います。

なんせ、武田の傘下から徳川に乗り換えたのですから、もし、開城となれば、一族郎党、命はありませんから、籠城の持久戦に持ち込んで、何とか活路を見い出そうと奮戦に継ぐ奮戦を重ねておりました。

ところが、5月13日・・・兵糧蔵のあった曲輪(くるわ・堀と堀の間に広場)を突破されてしまいます。

もはや、兵糧は、現在身近に確保したぶんだけ・・・先は見えてしまいました。

一方、岐阜にて態勢を整えた信長・・・この同じ5月13日、総勢3万と言われる大軍を率いて岐阜を出陣・・・その日のうちに、あの桶狭間の直前にも必勝祈願した熱田神宮に立ち寄った後、一路、家康の待つ岡崎へと向かいます。

翌・14日・・・いよいよ危なくなった長篠城の状況を家康に知らせるべく、長篠城から伝令が放たれます。

これが、以前書かせていただいた鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)・・・翌・15日、家康のもとに到着した彼が見た物は、まさに、その前日の14日、嫡男・信忠ともども、家康と合流したばかりの信長の姿だったのです(5月16日参照>>)

その強右衛門の報告により、もはや一刻の猶予もない事を知った信長&家康は、5月17日に岡崎を進発・・・一路、決戦の場へと向かいます。

一方の武田軍・・・先の強右衛門の捕獲により、信長がすでに近くにいる事は承知・・・このまま、信長の大軍に逆包囲をされてしまっては、コチラが劣勢となってしまいます。

包囲を緩めて来たる敵に先制攻撃をかけるか?
包囲を解いたまま、一旦引きあげるか?

決断が迫られる中の天正三年(1575年)5月18日、織田&徳川連合軍は、長篠城の1里(4km)手前・・・設楽原(したらがはら)に到着したのです。

すぐにでも逆包囲か?
・・・と、思いきや、連合軍は、その設楽原で小休止・・・

実は、家康と合流直後の14日に開いた軍議の時点で、信長の方針はすでに決定していたのです。

それは、長篠城を逆包囲するのではなく、手前の設楽原に多数の城柵・馬防柵を築き、そこに武田軍をおびき寄せて戦う事・・・

「味方を一人も失う事なく、敵を全滅させる」・・・これが、信長の当初からの揺るぎない方針だったわけですが、実は、この事が、この長篠の戦いでも、最も重要な部分なのです。

Nagasinokassenzubyoubu500 長篠合戦図屏風(犬山城白帝文庫蔵)

以前も書かせていただき、また、教科書等にもあるように、この長篠合戦図屏風より受けるイメージから、これまでは、信長の鉄砲3段撃ちによって武田の騎馬軍団がバッタバッタと倒されるといった、信長大勝利の感の強かった長篠の戦いですが、どうやら、そうではないのではないか?というのが、ここ最近の見方となっているのは、皆さま、ご存じの通り・・・

鉄砲撃ちまくったというワリには、実際に、ここ設楽原で見つかっている弾の数が非常に少ない事、合戦が終焉を迎えるまで8~9時間もかかった事・・・第一、3段撃ちできるほどの=3000挺もの鉄砲が、信長に確保できたのかという様々な疑問・・・

って事で、従来の長篠の戦いのイメージが崩れつつあるわけですが、そうなると、最も勝敗を分けたのが、この事前の城柵の構築だったという事になります。

設楽原に到着後まもなく、その信長の計画通りに、柵や土塁の構築に取り掛かる連合軍・・・

ここ設楽原は、原っぱと言っても、ただ、広~い原野というのではなく、いくつもの細い川が縦断する湿地帯で、ところどころ起伏のある丘陵にもなっていましたから、それらの地形を利用して、連吾(れんご)の手前に馬防柵を3重・・・その後ろに空堀や土塁を築き、さらに背後に起伏を活かした切崖を設け・・・と言った具合。

それは、まるで原っぱの半分が城になったかような様相だったと言います。

さらに、もう一つ重要な事があります。

そう、このまま武田軍が、城を包囲したまま、あるいは、軍を退いてしまってはもともこもない・・・何とか、ここ設楽原に出張って来てくれなければ、どうにもなりません。

そこで、信長・・・
「自軍の準備が未だ整っていない」
「兵は疲れていてヤル気なし!」
「ヤル気あったって、もともと信長兵は弱いんだヨ」

てな、信長軍に対するマイナスな噂を流すのです。

これには、家臣の佐久間信盛が、武田方に寝返ったフリをして、その噂を流したなんて言われていますが・・・

信盛の関与があったかなかったかは微妙ですが、この時に、家臣に宛てた勝頼の手紙は現存するそうで、そこに
「士気が低くてヤル気のない信長軍」
と書いている事から、勝頼が、信長軍を、そのように思っていた事は確かなようです。

そして、これだけではなく、さらに、もう一つ・・・
信長は、勝頼を設楽原へおびき出すための作戦を決行するのですが、そのお話は、それが決行される5月20日のページへどうぞ>>
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

あれま!?… 
弱小豪族の小生の先祖が500程度の城兵で頑張ってるやないの!!
この先どないなんの~!!(キャハ!!)

この話、何度か聞かされました。 
ただ客観的な歴史背景を教えてくれる方がいなくて…。
(「うちの先祖はあーだのこーだの」同じ様な自慢話ばっかり…アホチャウカ!ソレシカナインカイ!!)
茶々様、宜しくお願い致します。

投稿: azuking | 2011年5月19日 (木) 02時36分

ッazukingさん、こんにちは~

えぇご先祖様なんですかぁ?
「弱小豪族」と書いちゃってゴメンナサイですo(_ _)o

でも、毛利元就もそうですが、はじめは大国に囲まれ、あっちいにつき、こっちにつきする中から、のし上がっていく事こそが戦国の醍醐味…

奥平さんは、長篠を守り抜いて一気に出世ですね。

投稿: 茶々 | 2011年5月19日 (木) 11時28分

茶々様
合戦の内容は疑わしいけど、武田家が傾いたのは事実ですよね。新田次郎の小説で読みましたが、今までの合戦内容が事実だとして、何で柵に向かって行ったんでしょう?

投稿: いんちき | 2011年5月19日 (木) 11時28分

いんちきさん、こんにちは~

以前の長篠の戦いのページにも書かせていただいた私の個人的な見方ですが、多くの信玄以来の重臣が亡くなったのは、諫死ではなかったか?と思います。

あの信玄の遺言の時点で、いやひょっとしたら、もっと先から、勝頼が武田家を継ぐ事を快く思わなかった家臣が多くいて、信玄が亡くなった時点で、もはや崩壊の一途をたどったのではないかと…

主君と家臣の信頼関係がくずれてしまっていたのだと想像します。

投稿: 茶々 | 2011年5月19日 (木) 16時20分

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