長州が外国船を攻撃!下関戦争・勃発
文久三年(1863年)5月10日、長州藩が関門海峡に停泊中のアメリカ商船に砲撃しました。
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ペリーの黒船来航に始まった幕末の動乱・・・
不平等な条約のまま開国に踏み切った幕府と、それに反対する攘夷(じょうい・外国を排除)派・・・
その攘夷派は、やはり外国を嫌っていた時の天皇=孝明天皇と結び付いて尊王攘夷運動(10月2日参照>>)となり、特に過激に尊王攘夷を唱える水戸藩・薩摩藩・長州藩の3藩は、外国の公使館焼き打ち(12月12日参照>>)など、実際に外国とモメ事を起こしたりなんぞします。
万延元年((1860年)には、安政の大獄という強行手段で攘夷派を一掃しようとした井伊直弼(いいなおすけ)が桜田門外で暗殺される(3月3日参照>>)に至り、幕府は、なんとか朝廷との関係を改善しようと、公武合体政策を打ち出します。
これは、時の将軍=第14代・徳川家茂(いえもち)と、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)を結婚させ、両者が互いに手を結んで融和をはかろうというもの・・・(8月26日参照>>)
文久二年(1862年)2月に婚礼が無事行われ、翌・文久三年の3月には、江戸幕府将軍として230年ぶりに上洛して、孝明天皇との謁見を果たした家茂・・・
しかし、孝明天皇の外国嫌いは、未だ変わらず・・・その会見で、家茂は、攘夷の決行を約束させられてしまいます。
すでに開国を決定してしまっている幕府としては、いまさら攘夷は不可能と考え、とりあえずはの、その場しのぎの約束だったわけですが、ここを突っ込まずして引き下がれない長州は、朝廷を通じて、そのはっきりした日づけの決定を迫りました。
その約束の日が文久三年(1863年)5月10日だったのです。
その日の朝・・・長州藩は、沿岸の大砲は下関沖に砲口を向け、海上には帆走軍艦を2隻、蒸気軍鑑を2隻配備して、瀬戸内海の海運の要所である下関(馬関)海峡を封鎖します。
やがて、そこを通りかかったアメリカ商船・ペンブローク号に向けて砲撃を開始!・・・翌日の未明にも砲撃を行い、ペンブローク号は、そのまま姿を消しました。
続く23日には、フランス通報艦・キャンシャン号を攻撃・・・ペンブローク号の一件を知らないフランス側は、話し合いをすべく、書記官らを上陸させますが、長州藩兵は、彼らにも銃撃を加えて負傷させてしまいます。
さらに26日・・・オランダ東洋艦隊所属のメデューサ号が海峡に進入した時にも、彼らは、海から陸から、次々と砲弾を浴びせたのです。
さすがに今回は、先の外国船への砲撃のニュースを聞いていたオランダ・・・しかし、ご存じのように、オランダは鎖国をしていた江戸時代にも友好関係があった国ですから、「俺らは大丈夫やろ」とやって来たところを攻撃され、死者4名を出し、船体にも大きな被害を受けてしまったのです。
次々と外国船を撃ち払い、勝利に湧く長州藩・・・
しかし、一方では、この外国船砲撃のニュースを聞いて、死を覚悟した人物が長州藩の中にもいました。
あの高杉晋作です。
すでに上海に遊学して、欧米列強の恐るべき軍事力を知っていた晋作は、このままでは終わらない事に気づいていたのです。
案の定、それから1ヶ月も経たない6月1日・・・アメリカの軍鑑が1隻。
これを見た長州藩では、沿岸に設置された砲台が一斉に火を吹き、長州藩の軍鑑3隻が攻撃準備に入りますが、この3隻はたちまちのうちにアメリカ軍鑑の餌食に・・・
外国軍鑑による報復の開始です。
これらの抗戦を下関事件・・・翌年に再び起こる衝突を四国艦隊下関砲撃事件と、分けて呼ばれる事もありますが、その両方を総称して下関戦争と呼ばれる事が多い気がします。
とにもかくにも、始まってしまった外国との抗争・・・このお話の続きは、また、いずれかの「その日」に書かせていただくつもりでいます。
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コメント
かなりむちゃくちゃの戦争だったようですね。これで、維新の原動力になったかも。
投稿: やぶひび | 2011年5月11日 (水) 08時39分
やぶひびさん、こんばんは~
下関戦争、薩英戦争…
痛い目をした藩によって維新へと引率されていくのですから、やはり、原動力ですよね~
投稿: 茶々 | 2011年5月11日 (水) 18時39分