豊臣家五奉行・増田長盛…最後の大仕事
慶長二十年(元和元年・1615年)5月27日、豊臣政権下で五奉行の一人であった増田長盛が自害しました。
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増田長盛(ましたながもり)・・・上記の通り、豊臣家五奉行の一人で、以前には、【それぞれの関ヶ原】(9月14日参照>>)と題して、関ヶ原当時の長盛さんの動向などを少し書かせていただいてはいるのですが、実質的には初登場・・・かな?
ともあれ、長盛さんは、近江国益田郷(滋賀県長浜市)出身とも、尾張国増田村(愛知県稲沢市)出身とも言われます。
天正元年(1573年)に、当時は、まだ織田信長の家臣であった豊臣(羽柴)秀吉に見い出されて200石で召し抱えられたのが、歴史の舞台への初登場・・・
この時、28歳だったと言いますから、けっこうな遅咲き・・・おそらくは、すでに何かしらの道を歩んでいたのでしょうが、これまでは芽が出なかったという事でしょうか?
とにもかくにも、その秀吉の配下として働く中、あの天正十二年(1584年)の小牧長久手の戦い(4月9日参照>>)で武功を挙げ、家禄は2万石に上昇・・・
『武家事紀(ぶけじき)』によれば、
「長盛もっとも損得の心計に長ず」
とある事から、
どうやら、豊臣政権下では、その財政に長けた部分をかわれ、石田三成とともに、官僚的な役割を担っていたようです。
一方では、対東国の政策にも重用され、上杉景勝との外交交渉にあたったり、小田原征伐(7月6日参照>>)の戦後処理を行ったりもしています。
続く朝鮮出兵では、兵糧や武器弾薬の輸送を受け持つとともに、それら東国の武将を束ねる役割もこなしています。
やがて、豊臣秀長(秀吉の弟)亡きあとに大和郡山城を継いでいた秀保(ひでやす)も亡くなった(1月27日参照>>)事を受けて郡山城へ入城し、大和・紀伊・和泉の3ヶ国の代官となり20万石を賜りました。
・・・と、ここまで、遅咲きのわりには順調に出世コースを歩んできた長盛・・・
さらに、大出世の五奉行に・・・となるのですが、後から思えば、これが、彼の苦悩の始まりでした。
秀吉が、その死にあたって、未だ幼き息子・秀頼の、そして豊臣政権の未来を託して任命した五大老と五奉行だったわけですが、ご存じのように、この中の大老筆頭である徳川家康が、秀吉の死の直後から、妙な動きをしはじめます。
先にも書いたように、豊臣政権下で東国の支配、あるいは窓口となって交渉にあたっていた長盛は、おそらく、家康とも親しい関係にあったはずです。
しかし、五奉行となったからには、単なる家臣=社員ではなく、豊臣コーポレーションの経営者の一人なわけで、自分の思いそのままの勝手な行動をとるわけにはいきません。
そんな長盛は、五奉行の一人として、家康の不法行為を訴える弾劾状(だんがいじょう)(7月18日参照>>)にも署名しましたし、家康の暗殺をもくろむ三成が、小西行長と密会する場所に同席した事もありました。
ところが、この暗殺計画を家康本人にばらしてしまうのも長盛です。
しかも、その後も奉行の一人として大坂城に張りつき、兵糧の準備をしたり、諸将の奥さんを人質同然に大坂城に収容する準備したり、さらに伏見城の攻撃(7月19日参照>>)にまで参戦したり・・・と、せっせと西軍の一員として働いておきながら、一方では、三成の挙兵を家康に知らせたのも彼=長盛なのです。
以前も書かせていただいたように、関ヶ原の直前には、「上杉に謀反の疑いあり」として、諸将を連れて会津征伐へと向かっていた家康・・・
その家康が、小山で軍議を開いたのが7月25日・・・その時に、家康は、会津征伐をとりやめて西へと取って返す(7月25日参照>>)・・・つまり、三成と戦う事を表明し、今ともにいる諸将に、自分につくか?相手につくか?と問うわけですが、それは、すでに、その6日前に長盛からの「三成が大谷吉継を味方にして挙兵する」という知らせを受けていたからなのです。
まさに、関ヶ原の戦いを左右したとも言える長盛の行動・・・これを、スパイととるのか?二股ととるのか?どっちつかずととるのか?
どれも同じのように見えますが、微妙に違います。
スパイなら、
完全に家康側でありながら、気持ちを隠して、その身を大坂城に置き、情報を流す・・・あくまで、大坂城内での行動はフェイクです。
二股なら、
どっちが勝っても良いように、大坂城では万全の事をやりながら、一方では「家康さんの味方でっせ」と言わんばかりに情報を流す・・・どちらにもイイ顔の八方美人です。
しかし、私個人的には、失礼ながら、長盛さんは3番目のどっちつかずだったような気がします。
なぜなら、スパイ&二股・・・これらは二つとも、したたかでないとやれません。
どちらも、平気な顔をして目の前の相手を裏切る事のできる・・・ある意味、根性の座った悪人でないと・・・
しかし、その後の長盛さんの人生を見る限りでは、そこまでの世渡り上手ではなかったような気がします。
結局は、五奉行としての職務を全うしなければならないという実直な思いと、これまで仲間として親しくして来た家康を憎み切れないやさしさとの葛藤の中にあったようにも思うのです。
まるで、両親の離婚に際して、「パパが好きか?」「ママが好きか?」との難問をつきつけられた子供のように、その選択を思い悩んでいたのかも知れません。
そんな長盛の心が影響したのか・・・合戦後には、命こそ取られなかったものの、大和郡山城は没収され、その身柄は高野山へ預けられる事になるのです。
これまた、どっちつかずな処分・・・
その後、高野山を出て武蔵岩槻城(埼玉県岩槻市)の高力清長(こうりききよなが)の預かりとなるのですが、彼は、その地で悶々とした日々を送っていたと言います。
それから14年・・・
『明良洪範(めいりょうこうはん)』によれば、
「長盛さんって、豊臣恩顧の深い人やよって、今後の大坂の様子や秀頼さんの行く末を見てみたいでっしゃろ?
この際やから、大坂へ行ってみたら?って家康さんが言うてはりますけど・・・」
と、清長が長盛に言ったのだとか・・・
そう、「再び大坂城に入って、情報を送れ」と家康が言ってる=スパイをやれ!って事です。
それに対して長盛は
「ありがたいこってす・・・普通の大将なら、喜んで受けはりますやろなぁ。
けど、僕はあきませんわ。
今の状態で、大坂城に入って、新規の者たちになんやかんや命令したところで、誰が、耳を傾けてくれますやろ。
このまま、ここにいてますわ」
と、キッパリと断わったのだそうです。
長盛がキッパリ断わったこの大坂の陣(大坂の陣の年表参照>>)では、はじめ尾張の徳川義直(よしなお)に仕えていた長盛の次男・盛次が、途中の夏の陣から豊臣側に寝返った事で、戦後、その責任をとるかたちで、長盛に自刃の命令が出たと・・・つまり、一般的には長盛の自刃は命令による物だったとされているようです。
しかし、上記の『明良洪範』には、慶長二十年(元和元年・1615年)5月27日、自らの自刃の直前に言ったという長盛の言葉が残されています。
その時、去る5月8日に大坂城が落城し、秀頼と淀殿の自刃と豊臣家の滅亡(5月8日参照>>)を聞いた長盛は・・・
「このたびの乱の結末をお聞きしました・・・
時節が到来して秀頼公が自害されたうえは、何を頼みに生きていられましょう。
お暇乞(いとまご)いを賜(たまわ)ります」
この言葉を最後に、男・長盛、71歳・・・見事、自刃して果てます。
そこには、最後の最後まで、五奉行としての職務を全うしたかった長盛の実直さが見え隠れしてならないのです。
もっとうまく生きようと思えば生きられたでしょう。。
平気でウソをつけるなら、大名として生き残れたかも・・・
しかし、そんな長盛が五奉行としての最後の大仕事に選んだのは、恩義ある豊臣家とともに、その身を終わらせる事だった・・・という事なのかも知れません。
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コメント
何時も楽しく拝見しています。お陰様で、歴史を少しは複眼で感じられます。
ところで、大老、奉行以外に中老という方もいらっしゃったんですね。また、紹介下さい。
投稿: syun | 2011年5月29日 (日) 15時59分
syunさん、こんにちは~
三中老ですか…
いくつかの史料には登場しますが、実際に機能していたのかどうか、謎の部分が多いですね~
関ヶ原の時、五奉行はとりあえず(増田さんもいますので…)全員西軍、五大老も家康に味方した前田利長以外は、一応、皆西軍ですが、三中老は全員東軍(生駒親正は引退して息子が)で参戦ですから…
本当に大老と奉行の仲裁役を果たしていたのかどうか?
もっと、くわしく調べてみたいと思います。
投稿: 茶々 | 2011年5月29日 (日) 17時51分