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2011年5月13日 (金)

ペコペコ外交でトクトク貿易…足利義満の戦略

 

応永八年(1401年)5月13日、室町幕府第3代将軍・足利義満が遣明使を派遣・・・これが日明貿易の発端となりました。

・・・・・・・・・・・

日本が、南北朝の動乱(10月27日参照>>)でワチャワチャしてる頃・・・お隣の大国でも大きな変動がありました。

時は正平二十三年・応安元年(1368年)・・・まさに、足利義満(よしみつ)が室町幕府の第3代・将軍に就任した年。

海の向こうの中国では、(げん)の皇帝が北へと追われ、朱元璋(しゅげんしょう)が現在の南京あたりで、洪武帝(こうぶてい)として即位して、中国は明(みん)となったのです。

・・・で、早速彼らは、中国古来のしきたり通り、周辺諸国に使者を送り、建国の報告とともに貢物を出して、その傘下に入る事を要求します。

もちろん、その使者は日本にも来ました。

と言っても、日本は、あの蒙古襲来(10月5日参照>>)のドタバタ以来、中国とは絶交状態・・・さすがに、向こうもよくわかってなかったんでしょうね~

その明の使者は九州大宰府に上陸し、その地の実力者を国王とみなして、彼に国書を届けます。

その人が、あの後醍醐(ごだいご)天皇の息子=懐良(かねなが・かねよし)親王(3月27日参照>>)・・・そう、南朝側の人です。

すでに、この頃は、中央での南朝勢力は、ほぼ衰退していて、北朝である室町幕府は九州探題を派遣したりなんぞしてましたが、なかなか制圧する事ができていなかった状態・・・(8月6日参照>>)

つまり、幕府から見れば、反政府勢力に明の国書が届けられ、しかも「日本国王良懐」(明の記録で名前が反対になってしまってるのは間違えたのか?)と、懐良親王を国王と認めちゃった事になります。

これを知った義満は、急いで、征夷大将軍・足利義満として使者を派遣しますが、時、すでに遅し・・・義満の使者は2度訪問するも、2度とも門前払いで、入国すらさせてもらえませんでした。

しかし、義満、慌てず騒がず・・・元中九年・明徳三年(1392年)10月に南北朝の合一を成し遂げ(10月5日参照>>)た後、私的に貿易を行っていた西国の雄=大内義弘を討ち破って(12月21日参照>>)、晴れて堂々と、日本国の代表として外国との交易に乗り出すのです。

応永八年(1401年)5月13日・・・義満は、僧・祖阿(そあ)正使に、博多の商人・肥富(こいずみ)副使とする遣明使節を派遣します。

この時、明の恵帝に送った国書は
「日本准三宮道義国書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」
という、思いっきりへりくだった書き出しで始まる物で、とにかく「好みを通じたい」というゴマスリスリ丸出しの内容・・・

翌年に明の使者をともなって日本に戻ってきた遣明使節が携えた明帝の返書には「日本国王源道義」とあり、義満を日本の代表として認めた事と、明と日本が、名目上の君臣体制になった事を承認する内容が書かれてありました。

さらに、その翌年の応永十年(1403年)には、新しく即位した永楽帝へ、堂々「日本国王」の名で、お祝いの使者を派遣してます。

っと、ここまでへりくだってゴマすりまくって、義満が欲しかったものは・・・そう、勘合符です。

おかげで、義満の態度にご機嫌が良くなった永楽帝は、義満に明の冠服や金印を贈るとともに、100通の勘合符を発行して、10年に一度の朝貢を承認したのです。

勘合符とは、
明の皇帝1代ごとに発行される通行船の許可証で、これを持っている船だけが、正式な朝貢船として明と交易する事でできるという物です。

「10年に一度の朝貢を承認」って、ヘコヘコしてまで貢物を要求されて、何、喜んどんじゃぁ!!!ヽ( )`ε´( )ノ
と思ってしまいますよね。

なんせ、あの元寇の時には、命かけて彼の国から、この日本を守ったのですから・・・なんで、今頃、こっちから望んで貢物渡しにいかにゃならんのだ!と・・・

実は、この朝貢の制度・・・いわゆるお祝いの倍返しといっしょで、目上の人が目下の人から貰った場合は、貰った以上の物をお返しするのがしきたり・・・

一度の朝貢では、持って行った以上の賜物が返って来るのが常識なので、それだけでも「儲け物」なのですが、さらに、1度に船で運ぶ品物は、その朝貢の品だけではなく、他にも大量の品物を乗せて出航し、それらを現地で売りさばく事ができるのです。

しかも、その同じ船で運ばれる品物は、たとえ向こうで売りさばく予定でも、十把ひとからげで、全部が貢物と判定されるため、関税がかからないのです。

もちろん、帰りの船には、大陸からの輸入品満載!!・・・もう、ウホウホの儲け話です。

さらに、まだオマケが・・・というより、義満にとっては、これが一番のウホウホかも・・・

それは、皇帝からのお返しの賜物のほとんどが、中国の銅銭だった事・・・

当時の日本は、国家による貨幣の鋳造はしておらず、この中国の銅銭が正式な通貨・・・これを、輸入できるのが、将軍=義満だけという事になりますから、ズバリ!幕府だけが通貨の発行権を独占できるという事になるわけですね。

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儲けたぶんで建てちゃいました…いや、その前に建てとるな

あまりの隆盛ぶりに、義満は天皇にとって代わろうとしていたのでは?(8月22日参照>>)という噂もチラホラありますが、果たして・・・
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南北朝・室町時代」カテゴリの記事

コメント

ペコペコごますりでホクホク  これって外交上手なんですかね?まぁ、もうかったならまだいいけど、近頃はペコペコするだけでなんか得してたかな・・・?

投稿: Hiromin | 2011年5月13日 (金) 21時27分

Hirominさん、こんばんは~

義満さんは、商売人気質だったのかも知れませんね。

「頭下げるだけで儲かるんやったら、なんぼでも下げまっせ」てな感じですか??

投稿: 茶々 | 2011年5月14日 (土) 01時52分

毎回勉強させてもらってます。
義満さんも有史以来の相当なやり手!!義教さんが尊敬するだけあります。義満さんと神戸とのつながり、また義教さんのことも(歴史上の評価など)お願いします。(スミマセン、得意な分野でないので…)
ではでは

投稿: azuking | 2011年5月14日 (土) 02時32分

なぜ、ペコペコ外交だったのか?よくわかりました。いや~相変わらずわかりやすいですね。それでいて、さりげなく気になる「義満が天皇に」なんてコラムも!すごい!金星です。

投稿: minoru | 2011年5月14日 (土) 06時25分

日本は外貨が「公式貨幣」だった時代が長いですが、「永楽通宝」は小判ができる江戸時代初期まで有効だったと記憶しています。

余談ですが、足利将軍は徳川将軍に比べると寿命が短い人が多いですね。30才以下で死んだ人が目立ちます。足利将軍で60代まで生きた人は、確か足利義昭だけだったような?

投稿: えびすこ | 2011年5月14日 (土) 09時02分

azukingさん、こんにちは~

そうですね~
義教さんと言えば、くじ引きと恐怖政治で、何かと悪い印象の事ばかり目立ちますが、それこそ、先見の目があるからこそ足利将軍家の未来を思い、イロイロ模索した人だったような気がします。

もっともっと知識を深めて、そこらあたりのスルドイ内容が書けるよう頑張ります。

投稿: 茶々 | 2011年5月14日 (土) 16時10分

minoruさん、こんにちは~

お褒めの言葉をいただいて…
単純な性格なので、素直に喜ばせていただきます。

また、元気の出るコメントがいただけるような内容を頑張って書きたいと思います。

投稿: 茶々 | 2011年5月14日 (土) 16時12分

えびすこさん、こんにちは~

>足利将軍は徳川将軍に比べると寿命が短い人が多い

やはり、時代に寄るストレスの溜まり具合が違うんでしょうか???
まぁ、実際に、将軍自ら戦ってますしね。

投稿: 茶々 | 2011年5月14日 (土) 16時14分

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