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2011年6月30日 (木)

アンケート企画:あなたが見たい歴史上の名勝負は?

 

約2ヶ月ぶりのアンケート企画といきましょう!

その2ヶ月前のアンケート・・・
もし、たった一つだけ、歴史の名場面をS席で見れるとしたら、どの名場面を見てみたいですか?という事でたくさんのご投票をいただき、大変楽しませていただきました(アンケートのページを見る>>)

ただ、「歴史の名場面」と言えば、あまりに多種多様・・・「その他」では思いもよらないコメントをいただき、それはそれで大変うれしいのですが、「確かに、範囲が広すぎたかな?」という反省もあり・・・、

そこで、今回のアンケート・・・
またまた、「ふざけるな!」のお叱り覚悟のお遊びアンケートですが、

もし、たった一つだけ、歴史上の名勝負を見れるとしたら、誰と誰のどの勝負を見てみたいですか?

と、合戦というよりは、単独の勝負的な物にこだわってみました。

30ilal25b100 歴史には、天下を揺るがす大勝負もあれば、取るに足らない勝負もありましょうが、ここは一つ、いつも以上にイタズラ心満載で、お楽しみの一つとして投票に参加していただければ幸いです。

とりあえずは、個人的に「これは?」と思う選択技を15個用意させていただきましたので、「見たい!」という物に清き1票を・・・もちろんその他のご意見もお待ちしております。

  1. 当麻蹶速VS野見宿禰日本初の相撲
    西暦20年~60年頃?垂仁天皇の前で行われた日本初の相撲にして天覧試合…やっぱり砂かぶりで見てみたい!(@Д@;(参照ページ:7月7日>>)
  2. 天智天皇VS天武天皇額田王の取り合い
    「実際には、無かったんだろうなぁ」と思うこの三角関係…でも、天皇と皇太子の間で揺れ動くなんて、女冥利に尽きますヮ(参照ページ:5月5日>>)
  3. 紫式部VS清少納言女同志の影口バトル
    実際には面識の無いお二人ですが、何かとライバル視される以上、清少納言には、もうチョイとばかり宮中に留まっていただき勝負して欲しい!(参照ページ:1月25日>>)
  4. 佐藤忠信VS追手逃亡劇
    主君・源義経を逃がして、一人京都に戻った忠信…しかし、愛しい彼女はすでに北条の…カッコイイ最期希望(参照ページ:9月21日>>)
  5. 竹中半兵衛VS斉藤龍興イジメの仕返し
    日頃のイジメに耐えかねた半兵衛が怒り爆発…仕返しにしてはスケールでかいその全容を見てみたい(参照ページ:2月6日日>>)
  6. 塚原卜伝VS柑村織部立ち合い
    やはり、なんだかんだ名人の立ち合いは見てみたいもの…(参照ページ:2月11日>>)
  7. 斎藤伝鬼坊VS桜井霞之助立ち合い
    今に伝わる「天道流」の元祖のワザを見てみたい(参照ページ:11月21日>>)
  8. 羽柴秀吉VS柴田勝家清州会議
    智略と智略、根回しと根回し、話し合いこそ、本当のバトルなのかも…(参照ページ:6月27日参照>>)
  9. 羽柴秀吉VS徳川家康悪口の言い合い
    小牧長久手の真っ最中ではありますが、是非とも、秀吉の「おしりペンペン」は見てみたい…大河ドラマ「江」でこのシーンが無かったのは残念(参照ページ:3月28日>>)
  10. 村上天流VS樋口定次烏川原の決闘
    天道流対馬庭天流…勝負という限りは、剣豪同志の果たし合いは外せません(参照ページ:3月15日>>)
  11. 柳生宗厳VS疋田景兼立ち合い
    柳生新陰流の開祖を目覚めさせた運命の大一番は、やはり一見の価値あり(参照ページ:4月19日>>)
  12. 宮本武蔵VS佐々木小次郎巌流島の決闘
    剣豪の勝負、ここに極まれり!やっぱり、勝負と言えば、これを見なくちゃはじまらない(参照ページ:4月12日>>)
  13. 風梶之助VS釈迦ヶ嶽雲右門結びの一番
    横綱の土俵入りを初めてやった谷風と2m越す大男の釈迦ヶ嶽…相撲の第1次黄金期を支えた二人の名勝負を砂かぶりまくりで(参照ページ:11月19日>>)
  14. 雷電為右衛門VS○○巡業勝負
    ひょっとして力士が副業かもしれないにも関わらず、96.2%という驚異の勝率を誇る史上最強の大関・雷電為右衛門…果たして相手してくれる力士がいるのか?(参照ページ:2月21日>>)
  15. その他
    「これを見たい!」「こんなの忘れてるヨ!」っていうのがあったらお知らせください
      

「あれを入れたい」「これもイイ」と思いながらも、とにかく上記の15項目に絞ってみました。

幕末が入っていないのは、集団VS集団の合戦&戦争的な勝負はあえて外したとご理解ください(その線引きも、本当は難しいんですが…(゚ー゚;)

・‥…━━━☆

勝手ながら、このアンケートは7月14日に締め切らせていただきました。

投票結果&いただいたコメントは、2011年7月20日【アンケート企画:あなたが見たい歴史上の名勝負は?・結果発表】のページ>>へどうぞ
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2011年6月29日 (水)

壬申の乱での装備や武器は?

 

天武天皇元年(672年)6月29日は、古代屈指の大乱・壬申の乱での最初の戦闘・・・大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)側の武人・大伴吹負(おおとものふけい)による倭京の制圧があった日ですが、その状況につきましては、力不足ながらも、昨年の6月29日に書かせていただきましたので、ソチラで見ていただくとして・・・(2010年6月29日のページへ>>)

本日は、昨年の壬申の乱関連の記事で書き切れなかった、当時の装備や武器についてお話させていただきたいと思います。

・・・・・・・・・

合戦シーンと言って思いだすのは、やはり戦国の合戦や、幕末の鳥羽伏見・・・あるいは、源平の壇ノ浦や一の谷・・・といったところですが、ドラマでよく見る合戦シーンも、最近のドラマは、そういった時代考証は見事に再現されているので、見た目の感じは、あのまんまと考えて間違いなさそうです。

まぁ、戦国の場合は、旗指物やら馬印やら言いだすとキリがないですし、画面の見た目や、視聴者側に敵味方がはっきりわかるようになどなどの工夫をされて省略されている場合もありますが・・・

しかし、源平以前・・・特に奈良時代以前って、どんな感じだったんでしょう?
あまり、イメージが湧きませんね。

・・・で、ここで一服の絵図・・・

Zinzinemaki900
武蔵寺縁起絵図(武蔵寺蔵)

この絵図は『武蔵寺(ぶぞうじ)縁起絵図』に書かれた壬申の乱の瀬田の合戦(7月22日参照>>)を描いた物ですが、ご覧になってすぐにおわかりの通り、描かれている兵士たちは、明らかに平安以降の雰囲気です。

もちろん、昔は、今ほど古代の事の研究も進んでいませんから、平安時代に描かれた奈良時代の人物は、ほとんど平安時代の装束で描かれてしまっても致し方ないところではあります。

では、今の段階でわかっている当時の装備は・・・

Zinzinbuzin4002 壬申の乱当時の武人は、小さな鉄板(小札=こざね)を紐で綴りあわせた桂甲(けいこう)や、後の胴丸(胴体周囲を覆う右脇で開閉する形式の物)に似た短甲(たんこう)などを着用・・・とは言っても、ご覧の通り、手足はほぼ無防備です。

一応頭の(かぶと)は鉄製ですが・・・

そこに、腰に太刀を下げますが、いわゆる反りの無いまっすぐな物で長さは60~70cmといったところでしょうか。

しかし、この装備・・・実は、かなり上級の武人の装備で、実際には、ごくごく一部の人しか、このような武装はしていませんでした。

この壬申の乱に動員された兵士の大多数は農民兵で、しかも、戦国武将のように領内を自らが仕切るという考えが無いので、農繁期であろうが、まったく関係なく、上からの命令で半強制的に徴兵され、大した訓練もないまま、すぐに戦場に送りこまれるのです。

さすがに、合戦の場で丸腰というわけにはいかないので、それらの農民兵には「槍(ほこ)というヤリのような武器が支給されましたが、これが、木の棒の両先端を、削って尖らせただけというチャッチぃ造りの物・・・まぁ、それだったら、いくらでも作れますからね。

Zinsinheimin450 しかも、先ほどの武人のような鎧も兜もなく、まったくの生身・・・そのうえ盾すら持たなかったと言いますから、まさにこんな感じ飛鳥時代の一般人の装束)に、ただ棒を持っただけって事ですね。

そんな彼らを、先ほどのような武装をした上級の武人が指揮するわけです。

ただ、そんな中には、それこそ、ごく一部だけ、馬に乗った最上級の武人もいたようです。

・・・というのは、本日の壬申の乱最初の戦いでの総大将・大伴吹負が、倭古京制圧に乗りこんで来た時の描写・・・

その時、吹負とともに、何人かの武人が馬に乗っていたようで、彼らがその地に突進すると、守っていた敵兵が、蜘蛛の子を散らすように逃げだし始めますが、もちろん、逃げ遅れた者が次々に斬られていきます。

すると吹負は
「俺らが戦いを起こしたんは、農民を殺すためちゃうぞ!
敵の将軍を殺ったれ!むやみに殺すな!」

と言ったとされています。

これは、完全装備した彼らの前には、まともな武器の無い一般兵士は、もはや太刀打ちできないという事であり、馬で来られたら逃げるしかない状況だった事がうかがえますね。

・・・で、以前、戦国時代を通して、戦場で最も有効な武器となったのが「鑓(やり)だとお話しましたが(6月8日参照>>)この頃の最も有効な武器は弓矢です。

おそらくは、上記のように、完全武装でやって来られたら、もう負けなのですから、近づく前に弓矢で撃ってしまえ!って事なのでしょうが、弓矢を装備した武人も、その防具は、先ほどの太刀と同じで、桂甲か短甲に、手足はほぼ無防備・・・

Zinzinbuzin400 この頃の弓は、めっちゃデカイ2mを越える長弓が使われ、矢は先端に鉄製の(やじり)をつけた篠竹製の物で、長さは85cmほど・・・

さらに、腰や背に胡簶(ころく)という筒を下げて、そこに矢を入れるのですが、その数は、一人50本以上だったと言いますから、いかに、これが主流だったかがわかりますね。

壬申の乱の中で最後の戦いとなった瀬田の合戦では、大友皇子側から大海人皇子側へ、「矢が雨のように降って来た」という記述がありますから、やはり、ソコが最後の=守りの要だったということなのでしょうね。
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2011年6月28日 (火)

「信長を殺ったる!」遠藤喜右衛門・命がけの奇策in姉川

 

元亀元年(1570年)6月28日、この日行われた姉川の戦いで、浅井長政の寵臣・遠藤喜右衛門が討たれました。

・・・・・・・・・・

この姉川の合戦からさかのぼる事2年・・・永禄十一年(1568年)の8月に、あの織田信長が琵琶湖の東岸にある佐和山城にやって来ます。

まもなく行う予定である足利義昭を奉じての上洛(9月7日参照>>)・・・その道筋を確認するためです。

尾張(愛知県西部)美濃(岐阜県)に本拠を置く信長が上洛するためには、琵琶湖東岸のルートはとても重要・・・そのために信長は、可愛い妹のお市の方を、ここ北近江を支配する浅井長政に嫁がせて、この道を確保したのです。

そう、この日の佐和山城で、長政は初めて、嫁さんの兄貴=信長と対面しました。

Endounaotune600ak その接待役を命じられたのが、長政の家臣・遠藤喜右衛門直経(えんどうきえもんなおつね)・・・

鎌倉時代がら近江に根を張る家柄で、浅井家が未だ京極氏の被官であった頃(8月7日参照>>)からの譜代の家臣・・・特に喜右衛門は、長政が幼い頃から、傅役(もりやく)相談役として仕えた最も信頼のおける近習でした

もちろん、大役を仰せつかった喜右衛門もはりきって最大級のもてなしをセッティング・・・名物料理にとどまらず、琵琶湖に大網を打って、鯉や鮒などを大漁に捕える所を実演して見せたりなど・・・

接待を受けた信長も大喜びで、11歳年下の長政と本当の兄弟のように語り合い、楽しい一日を過ごしたようです。

やがて日も暮れて、長政は居城の小谷城へと戻り、家臣の皆々もそれぞれが宿に下がり、信長のそばには小姓が14~5人ほど・・・

その時、喜右衛門は、一直線に小谷に馬を走らせます。

すでに寝床に入っていた長政を起こし・・・
「この先、信長公と心一つになる事は難しいと僕は思います。
今夜なら、そばにいるのは十数人の小姓のみ・・・今、この場で討ち果たすのが得策かと・・・」

そう、実は、今日一日、接待役をこなした喜右衛門は、その道すがら、常に信長に目を向け、彼の人となりをずっと見ていたのです。

喜右衛門曰く・・・
(信長は)サルがこずえを伝うようにすばしっこく、鏡に明るく映るように頭が良い」
のだそうです。

この先、ずっと味方でいられるなら良いが、そういかない場合は、大変危険となる人物である事を見抜いていたのですね~

しかし、マジメ人間の長政・・・
「でも、俺は、今日一日ともに過ごして、本当の兄弟のように心うち解け合えたと思てる。
向こうもたぶん・・・せやからこそ、少ない人数で、今夜この地に滞在してくれてはんねやろ?
ここで、殺す事は簡単やけど、そんな風に思ってくれてる人を討つべきやない・・・俺らサムライやで!」

と・・・

確かに、騙し討ちは、武士としても、もともと気持ちが良い物ではありませんし、まして、主君がそう言うなら・・・と、この時は喜右衛門も引き下がります

やがて信長は上洛し、またたく間に畿内を掌握・・・そして、あの緒将への上洛要請です。

その上洛要請に応じなかったのが越前(福井県)朝倉義景(よしかげ)・・・元亀元年(1570年)4月、この上洛拒否を理由に、信長が朝倉攻めたのが手筒山・金ヶ崎城の攻防戦(4月26日参照>>)です。

しかし、この信長の行動に激怒したのが長政の父久政・・・長年、朝倉との同盟を持ち続けていた浅井としては当然なのかも知れません。

家臣の多くも、「昔からよしみのある朝倉につくべき」と主張しますが、喜右衛門の意見は違いました。

「あの日、信長公を討とうと持ちかけたところ、聞いてはくれはりませんでしたよね?
いまさら、気持ちが変わったって言われても通りまへんて。
今や、信長公は天下を掌握する勢い・・・ここで、敵に回すと浅井は滅びます

とピシャリ!

しかし、家老の赤尾清綱(あかおきよつな)こそ、喜右衛門の意見に同調してくれましたが、もはや怒り爆発の久政は、
「何が何でも、信長を殺ったる!」
と、その気持ちを変える事はありません。

またまた、やっぱりマジメ人間の長政も、
「父親に逆らうなんて、できひんモン」
と、結局、朝倉に同調し、信長と戦う事を決意します。

もちろん喜右衛門とて主君の命には逆らえませんから、そう決定した以上は、その命賭けて信長を倒すのみ・・・

一方、浅井の参戦に驚いた信長は、何とか岐阜へと戻り(4月27日参照>>)、態勢を整えた後、いよいよ姉川の合戦となります(6月19日参照>>)

そして、度々書かせていただいている通り、険しい山上にある小谷城を攻めづらいと判断した信長は、その南東にある横山城を包囲して、その救援に長政らがやって来るように仕向けるわけですが・・・

もちろん、そんな事は浅井側でも百も承知・・・

横山城を見捨てて小谷で籠城するのか?
積極的に撃って出て、姉川の河畔で一勝負するのか?

軍議の席では、長政が積極的に撃って出る事を主張するものの、やはり慎重論が大勢を占めます。
なんたって、信長は侮れませんから・・・

そこに喜右衛門、
「勝負する事に越した事はありません。
撃って出ましょう」

と、長政を後押し・・・

「合戦が始まりましたら、僕が、敵陣にまぎれ込んで信長公のそばに行き、討ち果たします・・・狙うは、その首一つです」
捨て身の作戦を提案・・・その場は一気に積極策を支持し、軍議は決定されました。

かくして元亀元年(1570年)6月28日、姉川を挟んでにらみ合う両者・・・午前6時、決戦は開始されます(2007年6月28日参照>>)

最初こそ、浅井朝倉連合軍の優勢で幕を開けた戦いでありましたが、途中から徳川家康配下の榊原康政が迂回して接近、さらに、横山城を包囲していた西美濃三人衆も駆けつけ、形勢は一気に逆転となり、浅井朝倉連合軍の敗色が濃くなってきます。

ここで喜右衛門・・・かねてよりの作戦を決行します。

味方の武将・三田村左衛門の首級を片手にぶら下げて、ただ一人、乱戦にまぎれて敵陣の奥へと入り込む喜右衛門、

「大将はどこにおられるか~~」
と、あたかも、敵の首を取った信長の兵が、主君に、その武功を知らせに行くかのごとくふるまいながら、敵の奥深く、深く・・・

やがて・・・
「見つけた!!」
約20m先・・・喜右衛門は信長の本陣を捕えます。

目標に気持ちを集中し、ゆっくりと近づいていく喜右衛門・・・しかし、喜右衛門が信長に気づくと同時に、喜右衛門に気づいた者がいました。

当時、信長の馬廻り役を務めていた竹中久作(きゅうさく)・・・あの竹中半兵衛の弟です。

久作は、異常に脇目を使う喜右衛門を不思議に思い、そこに注意を向けていたのです。

そう、喜右衛門は、本来、味方であるなら、とうに頭に入っているであろう陣立てのダンドリがまったくわからず、
「あの陣は誰の物、この陣は誰々」
と確認しながらの突進・・・そこを気づかれたのです。

即座に喜右衛門に飛びかかる久作・・・くんずほぐれつの激しい格闘の中、無念ながら喜右衛門は久作に組み敷かれ、その首を取られたのです。

そして、合戦自体の戦況も、ご存じのように浅井朝倉軍の敗戦・・・

喜右衛門が命をかけて守ろうとした主君=長政が信長の前に倒れるのは、その3年後・・・天正元年(1573年)8月27日の事でした(8月27日参照>>)

*姉川の合戦での逸話
【姉川の七本槍と旗指物のお話】2008年の6月28日でどうぞ>>
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2011年6月27日 (月)

敗者だからこそわかる平和…外交官・林権助

 

昭和十四年(1939年)6月27日、明治から大正にかけて外交官として活躍した林権助が80歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

幕末期・・・軍学を修め、様式砲術にも長け、会津藩の大砲奉行として活躍し、あの禁門(蛤御門)の変では、天王山に籠った真木和泉(まきいずみ)(10月21日参照>>)と相対し、鳥羽伏見の戦いでは、新撰組とともに奮戦する林権助(はやしごんすけ)・・・

おかげで、新撰組が主役となったドラマや映画には、彼の名が時々登場するようですが・・・

しかし、その鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)で重傷を負った権助は、江戸に戻る船の中で息を引き取ります。

ともに鳥羽伏見を戦った息子=又三郎も、同じく死亡してしまいます。

Hayasigonsuke600 そう、今回の主役は、その又三郎さんの息子・・・祖父・林権助と同じ名前をを持つ孫林権助さんです。
(区別する時は、祖父の権助さんは“林安定(やすさだ)”と表記されたりします)

こうして、わずか8歳にして、祖父と父を同時に失った権助は、幼いながらも林家の家督を継ぐ事になりました。

しかし、ご存じのように、次に迫るのは会津戦争・・・(9月22日参照>>)

家長として会津若松城の籠城戦に参加し、大人に交じって戦いますが、会津藩は空しく敗れ、明治三年(1870年)に斗南(となみ)と名を変えて、極寒の下北に国替えとなります。

以前からも度々書かせていただいている通り、この国替えは、「全藩流刑=藩ごと流刑にされたと言われるくらい過酷な物でした。

もちろん、それは、会津藩が、官軍に逆らった謀反人集団=賊軍となったからですが・・・

権助も、祖母&母とともに下北へと移り、わずかな食事にも事欠く極貧の生活を続ける事となります。

そこへ、助け舟が・・・

薩摩陸軍少佐を務める児玉実文(さねふみ)でした。

実は彼・・・未だ、薩摩と会津がタッグを組んでいたあの禁門の変時代に、祖父の権助とともに京都の警固に当たっていた人物で、その時に通じたよしみから、現在の林家の困窮ぶりを見るに見かねて手をさしのべてくれたのです。

実文の庇護のもと、彼の自宅にて養育される事になった権助は、やがて東京帝国大学政治学科へ進み、24歳で卒業・・・外務省に入って外交官の道を歩み始めます。

もともと社交的であった権助のキャラは、外国の要人にもウケがよく、彼独自の人脈を形成しながら、各地の領事館首席書記官を務めたり、通商局長を務めたり・・・

やがて、彼を歴史の表舞台に推しあげるのが大正五年(1916年)、39歳にして任務につく事になった駐韓特命全権公使時代です。

そう、あの日韓併合に尽力し、桂太郎小村寿太郎とともに「朝鮮3人男」と評価され、その名を挙げました。

ただし、権助は、国益ばかりを重視して、相手国を押しつぶしにかかるような外交をする人ではありません。

彼の姿勢が垣間見えるのは、明治三十九年(1906年)に起こった清国(中国)による日本船拿捕事件・・・

この時、駐清公使を務めていた権助のところには、日本政府から、「清国への謝罪を求める訓令」が発せられていたのですが、それを受けた権助・・・

もともと、その船が拿捕された容疑が武器の密輸だった事から、日本側に非があると考えた彼は、この日本政府の訓令を無視し続けます。

さらに、その後も、日本が強大な軍事力に物を言わせて強引な政策をとろうとした時には、必ずと言って良いほど、彼は苦言を呈したと言います。

日清日露に撃ち勝って、イケイケムードの日本にあっても、その姿勢を変えなかった権助・・・晩年には宮内省式部長官枢密(すうみつ)顧問官(政治上の重要な事柄などでの天皇の相談役)を務め、昭和天皇からも篤い信頼を受けていたとか・・・

そんな彼の根底に流れていたのは、ただただ自国の国益だけを求める外交官ではなく、アジアの、延いては世界全体の平和のために動く外交官ありたいという気持ちではなかったでしょうか?

わずか9歳で味わった戦争の悲惨さや、負け組の惨めさと貧困・・・彼を救ってくれた実文とともに、その故郷である鹿児島に赴いた時には、あの西南戦争(9月24日参照>>)も目の当たりにしたと言います。

一番多感な頃に見た光景は生涯忘れる事がなかったはず・・・

底辺で味わった苦汁に怨恨や愚痴をばかり繰り返すのではなく、底辺を味わった者だからこそ感じる事のできる何かをバネにして、自らの道を究める・・・

権助に限らず、会津の出身者には、そのような生きざまが垣間見える気がします。

そんな権助さん・・・顧問官在任中の昭和十四年(1939年)6月27日80歳の生涯を終えました。

今頃は、先に逝った父と祖父に、自らの出世話を語っているのでしょうか・・・
それとも、世界の平和を視野に入れた、これからの日本の進む道を語っているのでしょうか・・・
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2011年6月26日 (日)

名誉か?重荷か?謙信にとっての関東管領職

 

永禄二年(1559年)6月26日、足利義輝長尾景虎に裏書・塗輿を許し、関東管領上杉憲政の補佐を命じるとともに、信濃出兵に名分を与えました。

・・・・・・・・・

長尾景虎(かげとら)と言えば、ご存じ、上杉謙信の事ですが、越後(新潟県)にいた謙信が関東と関わるようになるのは、天文二十一年(1552年)の事・・・

そもそもは、あの足利尊氏室町幕府を開く際、自分の本拠地が関東であるにも関わらず、南北朝でゴタゴタしていたために、京都で幕府を開かざるを得ない事になり、自らは将軍として京都にいて、領地である関東を治めさせるための役職=鎌倉公方というのを造ったわけです。

ほんで、将軍を尊氏の長男の家系が、鎌倉公方を次男の家系が代々継いでいくわけですが、この鎌倉公方を補佐する役職が関東管領・・・で、この関東管領を、扇谷(おうぎがやつ)上杉家山内(やまのうち)上杉家両上杉家が交代々々でやってたわけです。

ちなみに、その関東管領を補佐する執事・・・扇谷上杉家の執事が、あの太田道灌(どうかん)太田家で、山内上杉家の執事が長尾家です。

もともと越後という土地も、山内上杉家が守護を務め、長尾家が守護代だったのを、謙信の父である長尾為景(ながおためかげ)が、守護の上杉房能(ふさよし)を追いやって、事実上の権力を握ったわけで・・・(8月7日参照>>)

そう、世は戦国に突入して、あっちでもこっちでも下剋上の嵐・・・関東では、あの北条家が力をつけて来て、もはや扇谷だ山内だと言ってられなくなった山内上杉憲政(のりまさ)扇谷上杉朝定(ともさだ)ら両上杉は、古河公方足利晴氏とも一致団結して北条氏康(うじやす)と相対する事になるのですが、天文十五年(1546年)の河越夜戦で奇襲をかけられて見事敗退し(4月20日参照>>)もはや、公方も管領も壊滅状態となります。

Kensinbazyounozu500 やがて天文二十一年(1552年)の正月・・・その山内上杉家の憲政が、とうとう関東を追われ、越後・春日山城にいた謙信を頼って来たわけです。

この時のそれぞれの心の内は、それこそ当人に聞いてみるしかありませんが、ともかく、表面上は、「頼られたんで…」という事で、謙信は早速準備を整え、その年の5月に、初めての関東遠征軍を派遣しました。

ただ、ご存じの通り、越後は雪深い土地・・・退路を断たれる事を懸念して、その遠征軍は12月には帰国します。

とは言え、この頃の長尾家は、まだまだ1枚岩とは言い難い状況・・・そんな中でも、上田長尾政景の反乱を鎮めて(8月1日参照>>)、ようやく越後制覇も目前となった頃、今度は、あの甲斐(山梨県)武田信玄が・・・

もともと、かねてより信濃への領地拡大を図っていた信玄ですが、これに対抗して踏ん張っていた村上義清(9月9日参照>>)、ここに来て信玄に本拠の葛尾城を包囲され、先に信玄に破れて義清のもとに逃げ込んでいた小笠原長時とともに、城を脱出して謙信を頼って逃げて込んで来たのでした(4月22日参照>>)

これによって、謙信は、信玄とも相対する事になります・・・これが、後に5回に渡って繰り広げられるあの川中島の戦い

一方、謙信の援助により、少しは回復した憲政でしたが、結局、永禄元年(1558年)5月、またもや氏康に攻められ、またもや越後に逃亡して来ます。

しかも、今度は、上杉家の系譜と先祖代々のお宝を手に・・・

そう、今回の憲政は、もはや、自分の手に負えなくなった関東管領職を、謙信に譲る決意で頼って来たのです。

未だ24歳の青年にとっては、
「んもう~ どいつもこいつも!(≧ヘ≦)」
(↑謙信、心の叫び)てな感じ?

確かに、越後の一戦国大名にとって関東管領は名誉であり、それなりの魅力もあったでしょうが、信玄との決着は着かんわ、越後からの関東遠征は大変やわ・・・で、この時は丁重にお断りする謙信でしたが、その翌年・・・

三好長慶(みよしながよし)の台頭で京都を追われていた第13代室町幕府将軍・足利義輝(よしてる)が、三好氏と和睦して晴れて都に戻った事で、その義輝から上洛要請があったのです(11月27日参照>>)

こうして、4月27日に上洛を果たした謙信(4月27日参照>>)・・・

かくして永禄二年(1559年)6月26日謙信は、将軍・義輝より、関東管領並みの格式を許されるとともに、信濃出兵の名分を得たのです。

しかし、この時の謙信にとっては、関東管領よりも、信玄と戦う事の大義名分を得た事のほうがうれしかったかも?知れませんね。

将軍のお墨付きを得た事で、一連の信玄との戦いでは、コチラが官軍となり、向こうは賊軍となるのですから・・・

それを示すかのように、この時点での謙信は、あくまて管領並みであり、補佐であるわけで、結局、正式に関東管領職を継ぐのは2年後の永禄四年(1561年)・・・鎌倉の鶴岡八幡宮にて、憲政から家督と管領職を譲られ、その名も上杉政虎(まさとら)と改めた時です。

しかし、結局、これが、謙信自身が自分で自分の首をしめる結果に・・・

なんせ、ここから、天正六年(1578年)に亡くなる(3月13日参照>>)までの間、14回も関東に出陣し、そのうち7回も関東で年を越す事になってしまうのです。

歴史にifは禁物ですが、もし、謙信が関東に力を削がれなければ、あの信玄との決戦は?そして、あの織田信長との関係は?
と、妄想を掻き立てられてしまいます。
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2011年6月24日 (金)

神頼み?悪口?上杉謙信の「武田晴信悪行の事」

 

永禄七年(1564年)6月24日、上杉謙信武田信玄との決戦にのぞみ、春日山城内の看経所と弥彦神社に「武田晴信悪行の事」と題する願文を納めました。

・・・・・・・・・

上杉謙信(長尾景虎)武田信玄(晴信)と言えば、川中島の合戦・・・

このブログでも何度か書かせていただいております通り、川中島の戦いと呼ばれる合戦は合計で5回・・

このうちの第4次の八幡原の戦いが、信玄の弟である信繁(2008年9月10日参照>>)や、天才軍師と呼ばれた山本勘助(2010年9月10日参照>>)をはじめ、多くの死者が出た事で、川中島の中では一番激しかった戦いとされ、一般的に川中島の合戦という場合は、この第4次の戦いを指す事が多いです。

とは言え、この川中島・・・けっこう謎に満ちています。

文献によっては11回あったなんて話もあり、対峙しただけで戦ってない場合もあり、多くの死者が出た第4次でさえ、伝えられるその内容は、実際にはあり得ない「啄木鳥(きつつき)戦法」だの、肉体的に不可能な「車がかりの戦法」だのが登場し(2007年9月10日参照>>)

「確かに、重要人物が亡くなっている以上、戦いがあった事は確かだが、それほど激しい物ではなかったと考える専門家の方も多くおられます。

実際に、川中島の戦いで、どう歴史が変わったのか?というと、あまり大勢の変化はありません。

もちろん、この一連の戦いが引き分けに終わったという事で、より影響を及ぼさなかったという事もあるのでしょうが、しいて言うなら、ここで大物の二人がワチャワチャやっていてくれたいかげで、織田信長が台頭するキッカケになったと言えば、言えなくもない気がします。

しかし、そんなに影響を及ぼさなかった戦いであるにも関わらず、戦国屈指の有名な合戦として語られるのが川中島の特徴・・・

個人的なイメージかも知れませんが、同じく特徴と言えば、戦ったどちらもが悪く描かれないという点も特徴じゃないでしょうか?

普通、ドラマなどで描かれる場合、やはり主人公側から見ると、敵となる人物を悪く描かないと、なんだかオモシロくない・・・

たとえば、大坂の陣なんかでも・・・
豊臣側から見れば、百戦錬磨のタヌキ爺=徳川家康が、未だ実戦経験の無い若武者=豊臣秀頼に無理難題のイチャモンつけて潰しにかかり、それを浪人の身となった日本一の兵=真田幸村(信繁)命をかけて守ろうと・・・となりますが、

家康側から見れば、ここまで力の差があるにも関わらず、あれやこれやと条件を出して、戦いを回避する道を提示しているのに、プライドの高い淀殿が、キーキー声で仕切りまくり、現状を見ないまま破滅へと向かって行った・・・てな感じになるのではないでしょうか。

しかし、川中島で戦った二人の場合は・・・いわゆる好敵手として、両者ともカッコ良く描かれる場合が、多い気がします。

それは、やはり、信玄が死の間際に、
「我が亡き後は謙信を頼れ」と遺言したとか、

逆に、信玄の死を聞いた謙信が
「惜しい人を失った」と言って涙を浮かべたとか、
てなエピソードや、

「敵に塩を送る」=(苦境にある敵を助けること)の語源となったエピソード・・・

永禄十年(1567年)・・・あの今川義元亡き後に信玄が今川との同盟を破った(12月12日参照>>)、それに怒った今川と北条が強力タッグによって、武田領内への塩の供給をストップさせます。

海の無い甲斐&信濃で、塩を止められた事は死活問題・・・苦しむ領民を見兼ねた謙信が、あれだけ川中島で対峙した相手であるにも関わらず、越後から信濃へ塩を送り、武田の領民を助けたという話です。

・・・が、お察しの通り、実際には、そこまでキレイ事ではすませられないのが世の常であります。

夢を壊すようで、心苦しいですが、上記の「塩を送る」話も、実際には、越後の商人が信濃に塩を売って商いをする事を規制しなかったというだけで、それも、例え規制したとしても、ヤミでいくらでも流出するのですから、「したって効果ないやん」てな感じでやらなかっただけと言われています。

もちろん、これは謙信&信玄に限らず、戦国武将のほとんどがそうなわけですが、合戦の前においても、スカッと爽やかに戦いに挑む・・・というよりは、けっこうドロドロとした事をやっちゃってたんですね~

それが、本日ご紹介する、謙信が弥彦神社に納めた永禄七年(1564年)6月24日付けの「たけ田はるのふあくきやうの事(武田晴信悪行の事)」と題する願文・・・(長い前置きで申し訳ないm(_ _)m)

永禄七年(1564年)6月24日と言えば、冒頭のリンクでもお解りの通り、川中島でも最後の戦いとなった第五次=塩崎の対陣の1ヶ月チョイ前という事になります。

この時、謙信は、戦国武将の常として神社に願文を奉納します。

願文というのは、「頑張りますんで今回の戦いに勝たせてください」てな願い事を書いて、それを神様に奉納して、願いを聞き入れてもうらおうという物ですが、合戦に限らず、安産祈願や病気治癒など、当時は、様々な有名人の願文が、いろんな神社に奉納されており、けっこう、これで、謎だった歴史の一部が解明される事もあるシロモノです。

・・・で、気になるその内容は・・・

  1. 飯縄戸隠小菅なんかの有名神社がすっかり衰えて、供物や灯明もあげられへんようなってますやん
  2. 塚原の対陣の時には、駿河の今川義元はんの仲介で和睦して、その時、神さんの前で誓詞を交わして誓ったのに、信玄はすぐに、それを破ってますやん
  3. 信州では、寺社の領地を勝手に誰かに与えたりして、仏法も滅びてまっせ
  4. 武田が何の関係もない隣国を取ろうと野心を抱いてムチャクチャするさかいに、大事な御堂やら御宮が焼失したりしてます・・・これも、晴信は間違てます
  5. (アイツのせいで…)信州の仏神の氏子らが、滅亡させられたり、追放されて流浪の身になったりしてます・・・ここで、神さんが助けてくれはれへんかったら、あの人ら、神様を信じひんようなりまっせ
  6. すでにアイツは自分の親=武田信虎を追い落として流浪の身にさせるという人の道に外れた事やってますやん・・・これ、神様の心に背いてまっしゃろ?
  7. この秋の間に、俺が武田晴信を倒して、本願遂げたあかつきには、お宅の本社やお堂なんかに、出来る限りの事やらしてもらおと思てますさかいに、どうぞ、この件、よろしゅーに・・・、

・・・て、悪口大会になってる気がしないでもない(゚ー゚;・・・

Uesugikensin500 まぁ、謙信に言わせれば、悪口ではなく事実を言ってるだけで、それを神様に報告して、アチラに天罰を、コチラに勝利を・・・って事なわけですが、

謙信は、第3次の前、弘治三年の正月二十日付けでも、同じような願文を更級(さらしな)八幡宮に納めています。

やはり、信玄の悪行を並べ立て、「正義は我にある」「だから勝たせてね」と、神様を納得させるような文章・・・

一方、信玄ももちろん負けていません。

Takedasingen600 同時期ではありませんが、永禄元年(1558年)8月付けで、戸隠(とがくし)神社に奉納した信玄の願文は、
「信濃の12郡が自分の物になるかどうかを占わせたところ“舛の九三”という、必ず得られるという結果が出ましてん。」
とか
「越後の謙信の和を破って戦いを始める事がええかどうかを占ってみたところ、“坤(こん)”て出ましてん・・・これって、先に迷って後に得んって事やから、今年中には国が手に入るって事ですやん。
もし、越後から攻めて来られても、敵が滅亡して、こっちが勝つのが当然です」

とか、コチラは願文というよりは、占いの結果報告なんですが(^-^;

いずれにしても、「人事を尽くして天命を待つ」・・・
戦国武将と言えど、最後の最後は神頼み

今でさえ、受験などでは、必死で勉強した後、最後の最後には神頼みですから、毘沙門天を信じてた謙信と、諏訪明神を仰いでた信玄じゃ、その神頼みにもリキが入っていた事でしょう。
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2011年6月23日 (木)

島津四兄弟の父となった中興の祖・島津貴久

 

元亀二年(1571年)6月23日、島津中興の祖と称され、あの島津四兄弟の父として知られる島津家15代当主の島津貴久が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

永正十一年(1514年)に薩摩島津氏の分家の当主だった島津忠良(ただよし)の長男として生まれた島津貴久(たかひさ)・・・

この頃の島津家は、本家が弱体化し、逆に、分家や国人衆が力を持ち始めていた頃で、若年で14代当主となった島津勝久は、風前の灯となってしまった本家を救ってもらおうと、分家の忠良を頼ります。

そこで大永六年(1526年)・・・忠良の息子であった貴久が、勝久の養子となって、島津本家を継ぎ、本拠地である清水城(鹿児島県鹿児島市)に入ったのですが、もともと、島津の分家は貴久クンとこだけではありませんから、当然の事ながら、他の分家から不満がチラホラ・・・

そこで、かねてより
「我こそが当主にふさわしい」
と思っていた薩州島津家の島津実久(さねひさ)が、仲間を募って反旗をひるがえします。

そこで、忠良らは、実久の仲間の一人となった伊集院重貞伊集院城を攻め落としますが、その間に、実久らは、勝久を味方につけて伊集院城も奪還し、さらに、勝久に守護職を返上するよう、忠良・貴久父子に迫ってきます。

「そんなモン、今更、返すか!」
と、断固拒否して、一旦、鹿児島から退く貴久ら・・・

その後、小競り合いにあけくれながら、日々、鹿児島奪還を目指して奮闘する貴久ですが、この間に生まれたのが、かの島津四兄弟たち・・・

天文二年(1533年)に長兄の義久が、2年後の天文四年に次兄の義弘(7月21日参照>>)が、さらに2年後の天文六年に歳久・・・そして、上の3人とは母が違う4人目の家久は天文十六年(1547年)に生まれます。

25年の歳月を費やし、やがて、実久方の最大拠点である加世田城(鹿児島県加世田市)を攻略した貴久らは、紫原で衝突した最終決戦にも勝利して天文十九年(1550年)に鹿児島に再入城・・・ようやく、名実ともに守護となったのでした。

Simazutakahisa600ats 悲願の鹿児島奪回を果たした貴久・・・次ぎの目標は、島津氏の旧領であった薩摩大隅日向三州の統一を果たす事でした。

その最初の突破口となるのが天文二十三年(1554年)の岩剣城(いわつるぎじょう・鹿児島県姶良市)攻めでした。

ここは、鹿児島からわずかに北へ7kmの国境線にある蒲生(がもう)の出城で、さほど大きくはありませんが、南北と東の3ヶ所を絶壁に囲まれる天然の要害を持つ城・・・

「この城は単独では落とし難い」と考えた貴久は、すでに蒲生軍からの攻撃を受けていた島津配下の肝付兼演(きもつきかねひろ)の居城である加治木城(かじきじょう・鹿児島県姶良市)救援に向かい、その間に3人の息子に、この岩剣城を攻めさせるのです。

そう、この戦いが義久・義弘・歳久の3人の息子の初陣となりました。

そして、岩剣城の急を聞きつけて、救援に駆けつけて来た蒲生範清(のりきよ)を撃退・・・これによって孤立してしまった岩剣城は2ヶ月後に落城します。

これをきっかけに蒲生氏を攻め続けた貴久は、弘治三年(1557年)に蒲生氏を、この一帯から追い払う事に成功しますが、この間には義弘と歳久が重傷を負ったり、貴久自身も危機一髪のめに遭ったりと、まだまだ領内は群雄割拠の状態でした。

永禄三年(1560年)になると、日向の雄・伊藤義佑(よしすけ)(8月5日参照>>)から目をつけられていた飫肥(おび・宮崎県日南市)を所有する豊州島津家島津忠親を助ける意味で、次男の義久を養子に出して警戒・・・

それを察した義佑は、大隅を支配する肝付氏と組んで、北と南から飫肥にチョッカイを仕掛けてきます。

翌・永禄四年には、貴久の弟・忠将(ただまさ)廻城(めぐりじょう・鹿児島県霧島市)にて肝付勢に討ち取られるという苦戦を強いられながらも、さらに翌年の永禄五年には、飫肥から呼び戻した義弘や歳久らとともに、大隅横川城(同霧島市)を落城させるという一進一退の状況が続く中、

永禄九年(1566年)、貴久は剃髪して長男の義久に家督を譲り、隠居しました。

永禄十二年(1569年)、家督を譲られた義久が、これまで抵抗していた菱刈隆秋を降伏に追い込み、ようやく薩摩一国を掌握しますが、その2年後の元亀二年(1571年)6月23日貴久は肝付との抗争のさ中に病死・・・未だ三州統一の夢を果たせないまま、57歳の生涯を終えました。

貴久の死を好機と見た義佑が攻めてくる中、奮戦する息子たち・・・その後、大隅半島の肝付氏を降伏させ、伊藤義佑を豊後に追いやった息子たちが、父の夢であった三州統一を実現するのは、貴久の死から7年後の天正4年(1576年)の事でした。

思えば、13~4歳で本家の家督を継いでから、戦いにあけくれる日々を過ごした貴久・・・

(中国)琉球はおろか、インドとの交易も視野に入れていたとされる貴久は、かの岩剣城の戦いにおいて、日本で最初に鉄砲を実戦使用した人とも言われます(鉄砲の初見は諸説あり)

その絆を以って、後に九州の覇者となる島津四兄弟・・・その基盤を造ったのは、まさに、この父=貴久であった事でしょう。
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2011年6月22日 (水)

松平正綱が日光に造った「人生の並木路」

 

慶安元年(1648年)6月22日、徳川家光・家綱・2代の将軍に老中として仕えた松平正綱が、73歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

松平正綱(まさつな)・・・

老中として仕えたのは、上記の家光と家綱ですが、最初に出仕したのは初代将軍の徳川家康で、もちろん2代将軍の秀忠にも仕え、家光・家綱・・・と、まさに、徳川時代の始まりを支えた人でした。

ただ、戦場にて武功を挙げるタイプの人ではなく、官僚として政務をこなす人だったので、どちらかと言えば、目立たない地味な役周り・・・

彼の養子が、後に「知恵伊豆」の異名をとる松平伊豆守信綱なので、ご本人には失礼ながら、「知恵伊豆のお父さん」というイメージの正綱さんですが、実は、彼は、あの有名な日光の杉並木を造ったお方・・・

もちろん、徳川の威勢を背負って街道を整備したというのではなく、アレを彼が個人で植え、育成したという事です。

・‥…━━━☆

天正四年(1576年)に遠江(とおとうみ静岡県西部)大河内秀綱の次男として生まれた正綱は、その後、長沢松平家(長沢城を本拠とした松平家)松平正次の養子となって松平姓を名乗り、文禄元年(1592年)の17歳の時に、未だ豊臣家の五大老の一人であった徳川家康に(たぶん小姓?として)出仕しました。

4年後の慶長元年(1596年)、相模国(神奈川県)淘緩(ゆるき)郡万田(まんだ)380石の知行を賜った時には、そのうれしさに、早速、具足をあつらえようとしたところ、家康が、
「まだまだ、給料低いんやさかい、武器の用意は、ワシがしたるがな」
と、自分の鎧を正綱に与えたと言いますから、かなり、家康さんのお気に入りとなっていたのでしょうね。

果たして、その家康さんから貰った具足をつけて、あの関ヶ原の合戦に挑んだ正綱は、戦後に山城国のうちの500石を賜っていますから、武勇もなかなかのものだったのかも知れません。

やがて、家康が江戸で将軍職についた時には、正綱も同行し、従五位下右衛門佐(うえもんのすけ)に任じられます。

その後、家康が大御所となって駿府城に移った時にも彼は同行・・・

慶長十五年(1610年)10月に、駿府城で大きな火災が発生した時には、パニックに陥った人々を前に、納戸から晒(さらし)を持ち出して結び合わせ、それを石垣の上に垂らして、その綱をたどって堀へと逃げるよう指示して、多くの人命を救ったと言います。

この時は、その冷静沈着な誘導ぶりを絶賛した家康から、三河(愛知県東部)幡豆(はず)のうちの3000石を加増されたのだとか・・・

その後も、家康の近臣として勘定奉行などをこなし、大坂の陣でも家康のぞばに・・・やがて家康が亡くなった時には、その葬列にも連なり、翌年に慰霊が久能山から日光に改葬(4月10日参照>>)される時にも、供として従ったと言います。

ここで、終われば、有能な官僚というよりは、単に家康さんのお気に入りだったのかな?って感じですが、正綱は、その後も、2代将軍・秀忠の娘=和子後水尾(ごみずのお)天皇(4月13日参照>>)入内(にゅうだい)するおりに、酒井忠世土井利勝老中たちとともに同席したり、家光が3代将軍に就任するために上京する時にも、これに従ったり・・・と、まさに徳川初期の重要な出来事に、ことごとく顔を見せています。

徳川の節目節目に顔を見せる・・・これは、やはり、彼が優秀な官僚であったからに他ならないでしょう。

寛永二年(1625年)には2万2100石を以って、相模玉縄藩(たまなわはん=神奈川県鎌倉市)の初代藩主となった正綱・・・彼が日光東照宮の参道に杉を植樹し始めるのは、この年から・・・

Nikkousuginamiki700
日光杉並木

徒歩移動しかなかった昔の旅人たちにとって、街道沿いの街路樹と言えば、疲れた時に日陰の涼しさを提供してくれるもので、日本でも、奈良や平安の昔から、並木を植樹するという事があったようで、それこそ、幕府の大名や旗本衆に呼び掛けて、公費でまかなう事もできたはず・・・

でも、正綱は、そうは、しませんでした。

思えば、17歳で家康に出仕して380石の知行を得た時から、目立たぬ中にも、ただひたすら、徳川家のためにと働いた日々・・・

途中、家光から疎まれ、幕閣から排除された事もありましたが、わずかの期間で復帰し、最終的に譜代大名の藩祖として名を残せた事は、彼にとって誇りであり、その人生は、徳川家への感謝に満ちあふれた物だったのでしょう。

24年もの長きに渡って、日光に杉を植えて整備し続けた正綱は、慶安元年(1648年)6月22日未だ杉並木の完成を見ないまま、73歳の生涯を閉じました。

彼の死後に完成した日光の杉並木は、現在、世界最長の並木道としてギネスに認定されているのだとか・・・

そこには、私費を投じる事で自らの気持ちを1本1本の杉の木に込めて植えていった、正綱という人の人生が写しだされているのかも知れません。

まさに♪人生の並木路♪・・・古っ!
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2011年6月21日 (火)

北の大地に蜂起!アイヌの英雄・シャクシャインの戦い

 

寛文九年(1669年)6月21日、総酋長シャクシャインの呼びかけに応じて全蝦夷のアイヌが一斉に蜂起したシャクシャインの乱が勃発しました。

・・・・・・・・・・

寒冷の地である蝦夷島(えぞがしま=北海道)に、独自の文化を育んだ人々・・・

ここに住んだアイヌ民族の歴史については、未だ不明な点が多いですが、おおよそ13~14世紀頃には、現在の私たちが知り得るようなアイヌ文化が形成されたと考えられています。

そんな中、鎌倉時代に代々執権を継承した北条氏は、津軽地方に多くの領地を持っていた事もあって、あの前九年の役(9月17日参照>>)で滅びた安倍貞任(さだとう)の遺児を祖とする(異説あり)安東(安藤)代官に任じて、その津軽地方の支配を任せていたわけですが、2代執権の北条義時の時代から、安東氏は蝦夷管領(えぞかんれい)という役職にに任命されます。

・・・と言っても、この役職は、蝦夷を支配するというのではなく、蝦夷に住むアイヌ民族と和人(日本人)との交易を統轄する役目・・・

そう、アイヌの人たちは、以前から、島内はもちろん北方とも交易を行っていましたが、特に、この13世紀頃からは、津軽海峡を挟んだ日本との交易が盛んになっていたのです。

青森の十三湊(とさみなと)を拠点とする和人との交易は、14~15世紀に入ってますます盛んとなり、やがては、その交易で得た利益や経済的地位が、彼らアイヌ自身の政治や支配関係に影響を及ぼすまでになり、アイヌ民族の中でも、集団間の対立が生まれたりもしました。

しかし、何と言っても、アイヌの人たちの不満は、和人とのトラブル・・・当初こそ友好的に行われていたアイヌと和人の交易でしたが、次第に蝦夷島に移住してきた和人と衝突するようになります。

そんな中で、最初の大きな反乱となったのが長禄元年(1457年)に発生したコマシャインの戦い・・・この乱の鎮圧で頭角を現して、安東氏の娘婿となったのが、若狭から流れて来た蠣崎季繁(かきざきすえしげ)なる人物でした。

・・・と言っても、ここまでは伝説の域を超えない不確かな話なのですが・・・

とにかく、その季繁から数えて5代めに当たるという蠣崎慶広(かきざきよしひろ)・・・この人の見事な世渡りで、文禄二年(1593年)1月に、当時の天下人である豊臣秀吉から正式な蝦夷地の支配を認められ(1月5日参照>>)、さらに、蠣崎から松前に改姓した慶広は、征夷大将軍となった徳川家康から、蝦夷地における交易独占権を公認される事に成功します。

こうして江戸期には、アイヌとの交易は松前藩の独占となるのです。

アイヌと松前藩の交易も、最初のうちはお互いの利益に見合う正統な条件に基づいて行われていましたが、やがて、徐々に徐々に、松前藩の有利なように改定されていきます。

たとえば、当初は、アイヌが持ち込む干鮭100本に対して30kgの米俵と交換していたのが、いつの間にやら10kgの米俵との交換になってしまったり・・・

あるいは、前年に約束した数が揃わなかった場合は、翌年には、その倍の数を揃えるよう決められ、そのぶんが揃えられなければ、子供を人質に差し出さねばならないとか・・・

当然、アイヌの人たちには和人に対する不満が蓄積されていく事になりますが、そんな中で一つの事件が起こります。

もともと、シャベチャリ川(静内川)の漁業権をめぐって、日高地方より東に住むメナシクルというアイヌ民族と、それより西に住むシュムクルは100年以上に渡って対立していましたが、その抗争に負けそうになったシュムクルが松前藩の力を借りようとしたところ、使者として向かった青年が、帰り道に亡くなってしまったのです。

実際には、その死因は天然痘だったと言われていますが、かねてからの和人に抱く不信感から、アイヌの村々には「彼は松前藩に毒殺された」と誤って伝えられてしまったのです。

それを受けて、
「同族で争っている場合じゃない!」
と立ちあがったのが、メナシクルのリーダー=シャクシャインでした。

松前藩をはじめ、弘前藩(青森県)盛岡藩(岩手県)に残る記録には、
「シャクシャインは64歳前後の男性で経験豊富な首長であった」との事・・・

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↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために、趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

こうして、東西の蝦夷島に住むアイヌ民族に、「対・松前藩を旗印に、ともに立ち上がろう」と呼びかけたシャクシャインのもとには、約2000人のアイヌの人々が集結したのです。

寛文九年(1669年)6月21日、一致団結して立ちあがったシャクシャインらは、港に停泊していた交易船を襲撃・・・さらに和人居住地も襲撃し、鷹待(たかまち=鷹狩用の鷹を捕獲する人)や砂金掘りなども襲撃します。

彼らの急襲に対応しきれなかった日本人たち・・・記録によれば、この時、350人余りの日本人が殺害されたと言います。

もちろん、この知らせを聞いた松前藩は、すぐに対応・・・松前城下の警備を固めると同時に、幕府を通じて弘前・盛岡・久保田(秋田県)3藩に出兵を要請します。

その間にも、松前を目指して進軍するシャクシャインに率いられたアイヌ軍・・・しかし、弓矢が主体だったアイヌ軍に対して、松前藩は鉄砲で応戦したため、8月上旬頃からは少し停滞気味となり、シャクシャインは長期戦を視野に入れての作戦変更を行います。

しかし、松前藩は、この間に、アイヌ民族たちの分断を図ります。

もともと、いくつかの集団に分かれていたアイヌ軍ですから、個々に分断され、半ば脅しのような交渉で降伏を促されると、徐々に恭順な態度へと変化してしまうのは仕方のないところ・・・

やがて、態度を変えないシャクシャインらだけが孤立していく事になります。

とは言え、戦いが長引いてアイヌとの交易がストップするのは、松前藩にとっても死活問題・・・そこで、松前藩はシャクシャインに和睦を申し出ます。

一方のアイヌ側にとっても、この交易にストップは生活に支障の出る事・・・シャクシャインはその申し出に応じる事にします。

こうして、蜂起から4カ月後の10月23日・・・日高のピポク(新冠町)にあった松前藩の陣営にて、開かれる事になった和睦の儀式。

しかし、この酒宴の席で、シャクシャインは騙し討ちされてしまうのです。

指導者を失ったアイヌ軍は急速にその力を失い、またたく間に乱は鎮圧・・・結局、このシャクシャインの戦いは、松前藩の支配力をさらに強化させる結果となってしまいました。

120年後の寛政元年(1789年)には、クナシリ・メナシの戦いという、やはり、一方的な交易に不満を持つアイヌ民族の乱も勃発しますが、コチラもアイヌ側の敗北となり、松前藩の支配はさらに強化され、アイヌの人々は、ますます苦しい立場に立たされます。

やがて、幕末目前の寛政四年(1792年)、ロシアが直接、通商を求めて来た事に脅威を感じた幕府は、蝦夷島を幕府の直轄地として、直接支配当たります。

その後、明治維新となって、ご存じのように蝦夷島は北海道と名を変え(2月10日参照>>)、開拓による新天地を求めて、多くの日本人が移住する事となるのですが・・・(1月12日参照>>)

明治三十二年(1899年)に公布された「北海道旧土人保護法」によって、これまで受けて来た差別からアイヌ民族が保護されるようになっていきますが、それは、日本の法律によって、彼らを日本人としてしまう事でもあり、彼ら独自の文化が失われる事でもありました。

この状況には、20世紀になってやっと批判の声が上がり始め、1970年代頃には、アイヌの文化を伝承すべく活動が展開され、平成九年(1997年)に、先ほどの「北海道旧土人保護法」が廃止となり、新たな「アイヌ文化振興法」が施行され、やっとこさ、日本政府は、アイヌが日本民族とは異なる民族である事を認めました。

さらに平成二十年(2008年)の6月6日、ようやく、国会がアイヌ民族を先住民族と認める決議をしたのです。

遠き昔に立ちあがった誇り高き民族の末裔たちの戦いは、21世紀になって、やっと一つの節目を迎える事ができました。
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2011年6月20日 (月)

男と男のアブナイ関係…若衆歌舞伎

 

慶安五年(承応元年・1652年)6月20日、江戸幕府が、若衆歌舞伎役者の前髪を剃らせ男色を禁止・・・続く27日には、若衆歌舞伎もを禁止にしました。

・・・・・・・・・・・

やっちゃいましたね・・・若衆歌舞伎。

こういう禁止令が出る場合って、大抵は流行の末、エスカレートし過ぎた輩が登場して問題となって禁止・・・ってパターンなわけですが・・・

そもそもは、あの出雲阿国(いづものおくに)が、京都は鴨川の河原で興業を開始した阿国歌舞伎・・・(6月25日参照>>)

当時、豊臣秀吉が京都の町を囲むように設置した御土居(12月3日参照>>)を一歩出た鴨川のほとりは、それこそ、京の人々が解放感を味わう事のできる一大リゾート地で、そこで行われる歌あり踊りありのエンターテーメントショーは、またたく間に大ヒットし、慶長十二年(1607年)2月20日には、江戸城に招かれ、本丸にて勧進歌舞伎の上演をするほどまでの人気となりました。

しかし、ヒットすればヒットしたで、それを真似て同じような興業を行う団体が出て来るのも当然のなりゆき・・・これらは女歌舞伎としてもてはやされました。

ただ、阿国歌舞伎も場合は、それこそ、女性が男役を演じる・・・今で言うタカラヅカのような感覚で、お色気と言ってもチラリズム的な小気味いい物でしたが、新しい団体が増えるにつれ、お色気専門のストリップショーのような物も現われて、どんどんエスカレート・・・

結局、寛永六年(1629年)10月23日、江戸幕府が風紀を乱すとして、女歌舞伎・女舞・女浄瑠璃を禁止令を発令するのです(10月23日参照>>)

しかし、そうなると法の合い間を縫って、新たな商売が誕生するのは人の常・・・

「女がダメなら男でやろう!」
という事で誕生したのが、美少年による若衆歌舞伎です。

そもそも、男と男のアブナイ関係は太古の昔から存在するわけですが、有名なのは、あの吉田兼好『徒然草(つれづてぐさ)に登場する一説・・・

「御室に、いみじき児(ちご)のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばんと企む法師どもありて…」

確かに、この「遊び」がアノ「遊び」とは限りませんが、「どうやって誘い出して遊ぼうかとたくらむ・・・」なんて言い回しは、なんだかとても怪しい・・・

ただ、この徒然草の記述に関しては、当時の稚児は、高貴な身分の出身者が多かったので、「少しでも取り入って経済的援助を得ようとした事を書いている」との指摘もありますが、たとえ、この徒然草の内容がそうであったとしても、当時、女性と交わる事が厳禁とされた僧の世界では、半ば公然と男色が行われていたというのはあったようです。

あの源義経も、牛若丸と呼ばれた鞍馬の稚児時代には、法師たちに遊ばれたと言われ、毎夜々々天狗と・・・のアノ話は、「えっ??もしかして天狗って、アレのアレなの?!!(゚ロ゚屮)屮」と言った解釈もあるのだとか・・・

そんな男色が武士の間に広まっていくのは、鎌倉時代以降の事で、その要因というのもいくつかあるようですが、やはり、一番は、「合戦に女性を連れていけない」というのが最も大きいようです。

もちろん、木曽義仲巴御前のように例外はありますが、一般的には女性を伴った出陣は少なく、むしろ、男と男の命がけの戦いの場=戦場を神聖化する考えも多く浸透していて、その場合は、「合戦の何日か前からは、女性は甲冑に触れてはならない」なんていうジンクス的なタブーもあり、女性は敬遠される傾向が強かったのです。

・・・となると、この時の武士の状況は、女人禁制の仏門に入った平安時代のお坊さんと同じになるわけで・・・

そんな中、出陣中に身の回りの世話から夜のお相手までを担当したのが寵童(ちょうどう)と呼ばれる少年たちなわけですが、それが、いずれは、出陣中だけでなく平時もという事になっていくのはご存じの通り・・・

こうして、僧から武士へと移動した男色は、「忍ぶ恋」とか「衆道(しゅうどう)などと呼ばれて、あの『葉隠(はがくれ)(10月10日参照>>)では、戦国武将の理想の愛の形として、むしろ奨励されるくらいでした。

有名なところでは、あの武田信玄春日源助(虎綱・高坂昌信とも)に宛てたラブレターが知られてますね(7月5日参照>>)

さらに有名と言えば織田信長森蘭丸も・・・って聞きますが、蘭丸の役職は小姓(10月7日・軍師の種類参照>>)で、信長の小姓は、蘭丸の他にもいっぱいいたわけですので、、小姓のすべてが寵童なのではなく、あくまで、身の回りの世話をする若い見習い武将である小姓から、殿さまのお気に入りとなった少年が寵童に抜擢される事が多かったようです。

なんせ、それで主君との間に切っても切れない信頼感ができるわけですから、そこから出世して、やがては側用人(そばようにん)となり、城持ち大名になったりもするので、むしろエリートコースです。

もちろん、それも殿さましだいですが・・・秀吉なんかは、美少年の小姓をそばに呼び寄せては「お前にキレイな姉ちゃんおったら紹介して!」と言ってたそうなので、あくまで女一本を崩さなかった人なのでしょう。

やがて、江戸時代になって、町民文化が発展しはじめると、それも町人へと移っていきます。

・・・というのも、よく、道楽の代名詞として「飲む・打つ・買う」と言いますが、飲むは、もちろんお酒・・・そして打つはバクチ=賭け事で、買うは女遊び・・・

そんな三大道楽をやりつくした人間が、「何か、もっとオモシロイ、変わった遊びは?」と探していたところに、例の女歌舞伎が禁止されて、グッドタイミングで誕生した若衆歌舞伎だったのです。

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若衆歌舞伎図(出光美術館蔵)

もちろん、若衆歌舞伎も、最初のうちは普通に美少年のお芝居だったわけですが、やっぱり、それはどんどんエスカレートしていくもので・・・

それにしても、女歌舞伎の禁止が寛永六年(1629年)10月23日で、若衆歌舞伎慶安五年(承応元年・1652年)6月20日・・・わずか23年で禁止令が出るほどの盛況ぶりとは、いやはや大したものです。

しかし、そうなると法の合い間を縫って、新たな商売が誕生するのは人の常・・・(2回目)

前髪を剃った若衆は「野郎」と名を変え、結局、同じような事を・・・

しかも、元禄年間(1668年~1703年)の好景気になって、禁がちょっと緩むと、彼らは芝居をするだけでなく、酒席に招かれてては芸を売り、身も売るというのが当たり前のようになり、若衆歌舞伎の役者とは別に、呼び込み専門の少年をかかえる者も登場・・・

しかも、芝居をする役者を「舞台子」と呼び、宴会と夜専門を「蔭子(かげこ)と呼ぶなんて、はっきりとした名称も決まり、立派に商売が成り立っていたとか・・・

明和元年(1764年)に成立した『菊の園』という書には、湯島天神芝神明社市ヶ谷八幡社などに合計10ヶ所の抱え屋と呼ばれる場所があり、321人の蔭子が働いていた・・・なんて事が書かれているとか・・・

そうなると、表社会のちゃんとしたお芝居の師匠と、その弟子の関係もおかしくなってきます。

普通は、有名役者のもとに「どうか弟子にしてください!」と役者志望の少年が門を叩くわけですが、野郎歌舞伎がここまで流行ると、むしろ、師匠が、いかに美少年の役者をかかえているかで、その儲けが変わってくるわけで・・・

師匠自らが美少年探しに奔走し、見つけた美少年に大金を払って弟子になってもらう・・・いわゆるスカウトが横行し、中には、「十両盗めば首が飛ぶ」と言われたこの時代に、6年契約で七十七両の契約金を支払って15歳の少年を獲得した師匠もいたとか・・・

ちなみに、この時代は、関東者よりも、京や大坂の関西の美少年が人気だったのだそうで、そのセンスも上方流が受け、関西弁の耳触りの良さも好評だったとか・・・

江戸の関ジャニ???

やっぱ、人気が出たら、キリの良い所で「東京進出!」とかあったのんかな?
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2011年6月19日 (日)

いよいよ姉川…小谷に迫る信長と同盟者・家康

 

元亀元年(1570年)6月19日、徳川家康にも加勢を求めた織田信長が、浅井長政討伐のため岐阜を出陣しました。

・・・・・・・・・・

永禄十一年(1568年)9月、第15代将軍・足利義昭を奉じて上洛した織田信長(9月7日参照>>)・・・以来、着々と畿内での覇権を固める中、元亀元年(1570年)1月、「禁中(御所)御修理、武家御用(将軍の命令)、そのほか静謐(せいひつ)のため」との理由をつけて、諸国の大名に上洛を呼び掛けたのです。

つまり、「御所の修理とか、その他モロモロの件を平穏に済ませるためにも…と将軍さんが呼んでるから会いに来てネ」と・・・

名目は将軍ですが、それはイコール、その将軍を奉じて上洛した信長の傘下に入るという事ですから、当然、応じない大名もいるわけで・・・

その一人が越前(福井県)を支配する朝倉義景(よしかげ)・・・なんせ、もともと、信長の織田家は、朝倉とともに尾張(愛知県西部)や越前の守護大名だった斯波(しば)に仕えていた家臣同士で、しかも、朝倉家はその守護代を務めていた直臣でしたが、織田家はもっと下の陪臣(ばいしん・家臣の家臣)だったわけですから、
「そんなん、頭下げれるかい!」
と、義景が思ってしまうのも無理のないところ・・・

・・・で、ここんとこ勢いのある信長は、義景の上洛拒否を「これ幸い」とばかりに、越前攻めを決行します。

これが、元亀元年(1570年)4月26日の手筒山城・金ヶ崎城の攻防戦(4月26日参照>>)です。

ところが、もう、あとチョットで、義景の本拠地・一乗谷・・・ってところで、突然のニュースが!

「北近江(滋賀県北)を支配する浅井長政が、義景の味方につき、こっちに向かって攻めて来る」というのです。

ご存じのように、信長は、この長政に、妹のお市の方を嫁がせて、すっかり味方につけたつもりでいて、長政も、信長の命令で近江南部を支配する六角氏を攻めたりなんぞしてたわけですが、ここに来て、昔馴染みの朝倉のピンチを見過ごせず寝返ったのです。

福井と滋賀・・・その真ん中に信長・・・このままでは挟み撃ちに遭う!とばかりに、信長は決死の覚悟で岐阜へと撤退します・・・有名な金ヶ崎の退き口です(4月27日参照>>)

5月21日・・・なんとか無事に岐阜に戻った信長ですが、もちろん、このままで終わらせるわけにはいきません。

それは、裏切った長政も重々承知・・・信長の近江進攻を警戒すべく、美濃(岐阜県)との国境にある長比(たけくらべ)刈安尾(かりやすお)などの場所に城砦を構築して準備を整えます。

Anegawaitikankeizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために、趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

・・・が、しかし、信長の行動は素早く、翌・6月に入ってすぐ、永原城(滋賀県野洲市永原)に残して来た佐久間信盛長光寺城(滋賀県近江八幡市長光寺町)を守らせた柴田勝家に檄を飛ばします。

それに、早速応えてくれたのが勝家・・・わずかの手勢だけで守っていた最前線の城を、「今がチャンス」とばかりにチョッカイを出して来た六角承禎(じょうてい・義賢)義治(よしはる)親子野洲(やす)にて撃退し、散り散りにさせてくれました(6月4日参照>>)

さらに、そのスキに、鎌刃城(かまはじょう・滋賀県米原市番場)堀秀村と、長比城(滋賀県米原市長久寺)樋口直房を調略によって寝返らせ(6月13日の真ん中あたり参照>>ここに竹中半兵衛が関与してます)長政から離反させる事に成功した信長・・・これで、彼の北近江への進攻を妨げる物は、すべて排除されました。

かくして元亀元年(1570年)6月19日、同盟者である徳川家康に出陣を要請するとともに、自らも岐阜城を出陣・・・その日のうちに長比城へと入ったのでした。

一方、信長からの援軍依頼を受けた徳川家では、その依頼に応じて出陣するか否かが話し合われていました。

というのも、あの今川氏の滅亡(12月27日参照>>)によって、1年チョイ前に徳川の傘下となったばかりの高天神城(静岡県小笠郡大東町下土方)小笠原氏助(うじすけ・信興)が、未だ今川時代の気質が抜けきれず、何かとチャンスをうかがう気配をかもし出していたからです。

そんな状態で大量の兵を率いて家康が本拠地を留守にすれば、それをきっかけに、何か事を起こすかも知れません。

しかし、軍議の席で、あの本多忠勝が物申します。
「気になる事があります!
信長さんは、一見、味方のようにふるまってはりますけど、実はそうでないように思いますよって、今回の出陣は大事と考えたほうがええかと・・・」

その意見を採用して、必要最低限の守備兵を国境沿いに残し、精鋭部隊を引き連れて、自ら出陣する事を決意した家康・・・ここで、ピッカ~~ンナイスなアイデアがひらめきます。

そうです、その出陣に、かの氏助も連れて行けば良いのです。

氏助と、その兵が、家康とともにいるなら、その留守のスキを狙われる事もありません。

家康は早速、氏助にも出陣を依頼・・・それも、彼の持つ兵力の半分を守備に残し、「残りの半分を率いて、ともに出陣せよ」と・・・

ただ、ここでゴタゴタしていたために、家康は初戦に遅れをとる事になり、その間に北国脇(ほっこくわき)往環を通って小谷城近くへと達していた信長が、早くも21日に小谷の村々に放火・・・

ただ、以前も書かせていただいたように、小谷城は険しい山上にあり、なかなか攻めるに難しい・・・そこで、南側にある横山城(滋賀県長浜市堀部町)を囲み、長政らが救援に来るように仕向けるわけですが・・・

果たして6月24日・・・長政からの「小谷危うし」の連絡を受けて救援に駆け付けた朝倉軍と合流して、小谷城の南東に姿を現した浅井軍・・

そして、一方の信長軍には家康が合流・・・

姉川を挟んでにらみ合った両者は、いよいよ・・・と、このお話は、4年も前のページではありますが、2007年6月28日のページで>>

ところで、なんだかんだウマイ事言って連れて来られた感のある小笠原氏助とその配下なんですが・・・なんと、意外にも、この小笠原隊が、姉川本番では大活躍!のお話は2008年の6月28日のページでどうぞ>>
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2011年6月17日 (金)

乱世に咲いた可憐な花~武田の姫・黄梅院殿

 

永禄十二年(1569年)6月17日、武田信玄の長女・黄梅院殿が、わずか27歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・

私・・・先日来より、政略結婚に翻弄された戦国の女性が不幸一辺倒ではない事を、何度か主張して参りました(4月22日参照>>)

それは、近年の研究によって明らかになりつつある女性の役割・・・

政略結婚によって嫁いだ女性たちは、実家と婚家との架け橋となる重要な役割を果たしつつ、おそらくは、その役割を担える事を誇りに思っていたであろう事・・・

また、結婚後は、婚家の大黒柱として家内の事を仕切り、夫が病気、あるいは亡くなった時には、その代役として政務をこなす事もあったであろうと考えるからです。

たとえば、悲劇の政略結婚の代表格とされるお市の方も、浅井家&柴田家との架け橋となる重責を担って嫁ぎ、なんだかんだで死ぬ直前まで3人の娘たちとともに過ごし、最後は、おそらく、自らの意思で勝家とともに散ったと思うのです(4月23日参照>>)

もちろん、志半ばで死ぬ事は悲しい事で、できれば天寿を全うするのがベストですが、平和な時代と違って、男だって明日をも知れぬ戦国の世なのですから、その中で、自らの意思でその最期を決定できたという事は、武家に生まれた女としては、ある意味、満足ではなかったのかな?と思うのです(あくまで個人の価値観ですが…(゚ー゚;)

しかし、その末路によっては、やはり、悲劇的な政略結婚の犠牲となる場合もあると思います。

その代表格が、本日の黄梅院ではないでしょうか・・・

・‥…━━━☆

黄梅院殿・・・戦国女性の常として、その実名は残っておらず、これは出家した後の法号で、その読み方も「おうばいいん」「こうばいいいん」かは確定されていません。

Takedasingen600b 黄梅院は、彼女の父=武田信玄(当時は晴信)が、最初の正室をわずか1年で亡くし、その次に、今川義元の仲立ちで迎えた正室の転法輪三条公頼(てんぽういんさんじょうきんより)の娘・三条殿(三条の方)(7月28日参照>>)との間に、23歳の時にもうけた娘で、長男の義信(よしのぶ)、次男の竜芳(りゅうほう)の次ぎに生まれた、初めての女の子=長女です。

そんな事で、幼い頃は、ものすごく大事にされ、可愛がられて育ったと言いますが、わずか12歳で、早くも結婚話が決まります。

相手は相模(神奈川県)北条氏でした。

そもそもは・・・
天文六年(1537年)に、信玄の姉が今川義元に嫁いで、両家の同盟が成った事で、その前から武田と敵対していた北条は、今川と断交・・・

その後、しばらくの間は抗争を繰り返していたものの、天文十四年(1545年)には、今川と北条が和睦の道へ・・・

しかし、天文十九年(1550年)に義元に嫁いでいた信玄の姉が亡くなった事を受けて、翌年、義元の娘が信玄の嫡男のもとに嫁ぐ事が決まると、またまたその関係は微妙な物に・・・

そんなところに、当時、北条と同盟を結んでいた古河(こが)公方足利晴氏が、北条と敵対する上杉謙信(当時は長尾景虎)同盟を結んでしまったのです。

つまり、北条氏康は、今川&武田&足利&長尾(上杉)・・・と、これら全部を敵に回す事になってしまったわけです。

そんな状況を打開しようと持ち上がったのが、氏康の嫡男・氏政と黄梅院の結婚を証とした同盟関係の成立だったわけです(3月3日参照>>)

こうして決まった天文二十三年(1554年)12月の輿入れは・・・
輿が12挺、長持42挺、
小山田信有(弥三郎)を警護役責任者に3000の騎馬武者、
徒歩の人数は1万人だったと・・・

こういう記録の場合、大抵はオーバーに数を盛る物ではありますが、その分を差し引いても、豪華絢爛な輿入れ行列だった事は確かで、それも、信玄の彼女への愛情の証と言われています。

こうして、両家の架け橋となる大役を担って小田原城へと入った黄梅院・・・結婚の儀式が行われたのは、翌・天文二十四年の正月だったと言いますが、その年の11月8日には、早くも第1子の嫡男が生まれているところを見れば、夫婦の関係も、なかなか良かったのではないかと・・・

ただ、残念な事に、その第1子は、その後の系図や史料に登場しない所から、比較的早くに亡くなったと思われます。

しかし、その子を含め、生涯に7人の子供を出産し、そのうち5人は元気に育ちます。

ご存じ、この後に北条家を継ぐ事になる氏直(11月4日参照>>)
後に千葉邦胤(ちばくにたね)と結婚する女の子・芳桂院
その邦胤の婿養子に入って千葉氏を継ぐ直重(なおしげ)
大田氏資(うじすけ)の養子となって大田家を継ぐ氏房(うじふさ)
小田原開城後に徳川家康に仕える直定・・・

氏政は、なかなかの愛妻家であったようですし、子供たちにも囲まれ・・・小田原で過ごしたこの頃が、黄梅院にとって、一番幸せな時期だった事でしょう。

しかし、そんな時間は長くは続きませんでした。

永禄三年(1560年)5月、あの桶狭間で今川義元が倒れる(5月19日参照>>)と、信玄は、密かに家康と同盟を結び、駿河への進攻を開始するのです。

当然ですが、これは、今川&北条&武田で結んだ三国同盟を事実上破棄した事になります。

もちろん、その真意は信玄本人に聞くしかありませんが、かの同盟の時に義元の娘を妻に迎えてした嫡男・義信を死に追いやってまで決行する(10月19日参照>>)という固い決意のもとの行動でした。

そして、とうとう、永禄十一年(1568年)12月、義元の後を継いでいた今川氏真(うじざね)今川館に攻め、信玄が駿河を奪い取ったのです(12月13日参照>>)

これに激怒したのが北条氏康・・・なんせ氏康は、その氏真に、娘・早川殿(=氏政の妹)を嫁がせているわけで、しかも、この時、今川館を脱出する氏真とともにいた早川殿は、乗る輿すらなく、徒歩にて命からがら逃げたのだとか・・・

勝手な同盟破棄のうえに、娘のそんな状況を聞かされたひにゃ、到底、許せるはずもなく、怒りは、信玄の娘である黄梅院へと向けられ、即刻離縁となってしまったのです。

・・・と、ここで、黄梅院は、すぐに甲斐に送り返されたという事がよく言われますが、実は、それを確定する史料は残っておらず、研究者の中には、そのまま小田原で亡くなったのではないか?と考える方もいます。

そう、その心痛のあまりか・・・黄梅院殿の死は、この離縁から、わずか半年後なのです。

ただ、離縁の時に、父・信玄から与えられた(氏政からの堪忍分という説も)十六貫二百文の知行が、彼女が亡くなった後に創建された黄梅院(山梨県甲斐市・現在は“伝黄梅院跡”となっている)というお寺の造営費用として使われ、そこには彼女の墓もあったというところから、「甲斐に戻っていたのだろう」との意見が主流となっています。

しかし、この曖昧さが、彼女の最期を物語っているようで、なんとも胸がつまります。

もし、小田原に残っていたとしても、おそらくは、可愛い子供たちに会う事など許されなかったでしょうし、甲斐に戻っていたとしても、引き離された幼子を思いながら、たった一人で、身の置き場の無い日々を送っていたに違いありません。

「離縁後の史料がない」・・・これこそが、何よりも「彼女の居場所が無かった」事のように思えてなりません。

永禄十二年(1569年)6月17日、武田と北条の間に可憐咲いた花は、わずか27年でひっそりと・・・
その場所すら伝えずに散っていった
のです。
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2011年6月16日 (木)

忍城攻防戦…留守を守った成田氏長夫人と甲斐姫

 

天正十八年(1590年)6月16日、石田三成らが武蔵忍城南に堤を築いて水攻め中、折からの大雨で堤の西端が決壊し、自軍に被害が出ました。

・・・・・・・・

天下目前の豊臣秀吉が、関東の大物・北条氏を攻めるべく開始した小田原征伐(3月29日参照>>)

秀吉が、北条氏政・氏直らの籠る小田原城を22万の大軍で包囲したのは、天正十八年(1590年)4月3日でした(4月3日参照>>)が、本拠を包囲すると同時に、別働隊による支城の攻略も行っていました。(5月29日参照>>)

そんな支城の一つが、成田氏長(うじなが)が城主を務める武蔵忍城(おしじょう)・・・この忍城攻めを任された大将は、あの石田三成でした。

すでに6月1日に忍城を包囲した三成でしたが、忍城は沼地に建てられた鉄壁の要塞・・・攻め込もうとすると、その沼地に足を取られ、どうも先へ進めません。

そこで三成は忍城を水攻めにする事を決意(秀吉の提言であったとも言われます)・・・6月9日(7日とも)総延長28kmに及ぶ堤防を築きあげました。

・・・と、以前に、この堤防が完成した6月9日の日づけで、忍城の攻防戦について書かせていただいた事もあって、内容が重なる今回は、ここに至るまでの経緯を、チョイと、はしょらせていただきましたので、別働隊の動きに関しては、その6月9日のページ>>や、上杉&前田などが担当した八王子城攻防戦(6月23日参照>>)を見ていただくとありがたいです(*^-^)

・‥…━━━☆

こうして、三成率いる2万3000余の大軍に囲まれた忍城・・・城主の氏長は、精鋭部隊を引き連れて、すでに本拠の小田原城に詰めていましたから、ここに残されていたのは、病身の城代・成田泰季(やすすえ)以下、若干の城兵のみでした。

しかし、ここで、智略あふれる采配を振るのは、氏長の奥方・・・なんせ、この方、あの大田道灌(どうかん)(8月16日参照>>)の血を引く5代めの孫!

以前から度々書かせていただいているように、男尊女卑より身分の上下の差が優先された戦国時代では、城主のいない城で、その主の代わりをするのは奥さま(城主が独身の場合は生母)ですから・・・

彼女の作戦は、すでに、忍城が囲まれる前から始まっていました。

まずは、ありったけの食糧を確保するとともに、城下に住む百姓・町民から坊主や神主まで、とにかく、ありとあらゆる人々を城内に引き込みます。

こうして準備万端整えた後、城が囲まれると、それらの人々を要所々々に配置して城の防御に当たらせ、武器に不得手な女性や子供には旗を持たせたり、太鼓を打ち鳴らさせたりして、あたかも城内に大軍がいるかのように見せかけたのです。

とは言え、この忍城は、先ほども書かせていただいたように、もともと湿地帯の中に建てられた城で、なかなか建物に近づき難く、鉄砲も届かない・・

って事で、三成は、その作戦を水攻めに切り替え、城の周囲に大堤を築かせる・・・という事になるのですが、ここで三成、築堤工事には、1日:1升の米と+αの日当を出して村人を雇うわけですが・・・

そう、、もうお解りですね!

奥さまは、ここに、城内に取り込んだ百姓たちを紛れ込ませるのです。

彼らが持ち帰った米は、即、城内の兵糧となります。

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武州忍城之図(国立国会図書館蔵)

そして・・・
天正十八年(1590年)6月16日、梅雨も終わりのこの季節・・・折からの大雨で堤の西端が決壊するという事態に・・・

ところが、決壊した堤から流れ出た濁流は、城中ではなく、寄せ手の方向に流れていっのです。

実はこれも・・・奥さまの命を受け、城内から派遣された百姓たちによって、あらかじめ、そうなるような仕掛けが作られていたのだとか・・・

この事態で270余名もの溺死者を出してしまった三成・・・作戦を力攻めに変更し、城の三方から攻めかかります。

ここで、活躍するのが氏長の娘=甲斐(かい)です。

・・・と言っても、先ほどの奥方とは成さぬ仲の間柄・・・上記の通り、奥さまは大田資正(すけまさ)の娘ですが、甲斐姫は、氏長が前妻の由良成繁(ゆらなりしげ)の娘との間にもうけた子供です。

しかし、もちろん忍城のピンチは父のピンチ!・・・当然、育ての母と一致団結して守ります。

この時、甲斐姫は19歳・・・男子に恵まれなかった氏長は、幼い頃から、彼女に武術や兵法を学ばせていたと言い、彼女も、それに応えるかのように、一騎当千の武人に成長していたのです。

わずか300騎を従えた甲斐姫は、
小桜威(こざくらおどし=小桜模様の皮でつないだ物)の鎧
猩々緋(しょうじょうひ=いわゆるスカーレットと呼ばれるこの色です)の陣羽織を羽織り、
手には名刀=波切(なみきり)をふりかざしながら・・・

寄せ手の真っただ中へと飛び込んみ、並みいる兵をメッタ斬りに奮戦する姿は、まるで真紅の牡丹の花のようであったとか・・・

しかし、ご存じのように、そうこうしている間に、肝心の小田原城が、秀吉本隊の包囲に耐えかねて開城をしてしまいます(7月5日参照>>)

そのニュースを聞いても、にわかに信じなかった氏長夫人と甲斐姫・・・なおも抵抗し続ける忍城に、氏長自身が赴いて説得に当たった事で、やっと開城となるのです。

こうして、最後まで抵抗した忍城の名声は高まり、落とせなかった三成には、合戦ベタのレッテルが貼られる事になるのですが・・・

途中にも書かせていただいたように、現在では、この水攻め案を出したのは秀吉で、現地で指揮に当たっていた三成は、むしろその作戦に反対したと言われています。

なんせ、はなから沼地に建ってる忍城・・・その城が水に強い構造になっている事は、現地で見れば察しがつきますからね。

逆に、現地を見てない秀吉が、その財力に物を言わせた大がかりな作戦で攻め落とそうしたパフォーマンス的な作戦が水攻めで、官僚的で生真面目な性格だった三成は、単にそれに従っただけだったって事なのだうと言われています。

とにもかくにも、ここで大活躍をした甲斐姫・・・この後に、一族そろって蒲生氏郷(がもううじさと)に預けられ、氏長は、福井で1万石を与えられたと言いますが、またまたその留守に、福井城を乗っ取ろうとした家臣の浜田将監(しょうげん)兄弟氏長夫人は殺され、その母の仇を甲斐姫が討つという武勇伝も残り、甲斐姫は、その勇ましさに感動した秀吉の側室となる・・・

なんていう、後日談ゴロゴロの姫ですが、実を言うと、この甲斐姫自体が、江戸期の軍記物で誕生した架空の人物説もありますので、どこまでが事実かというのは微妙なところなのですが・・・

しかし、城攻めの天才の秀吉が、小田原攻めで唯一落とせなかった城・・・となると、そのような伝説を語りたくなる気持ちもわからないではありませんね。

追記2012年11月に公開された映画『のぼうの城』茶々の感想2012年11月9日のページへ>>
追記の追記:そのページに書ききれなかった感想第2弾2012年12月11日のページへ>>
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2011年6月15日 (水)

歴史のifを思う…謎多き梅北の乱

 

文禄元年(1592年)6月15日、薩摩湯之尾の地頭=梅北国兼が、佐敷城を襲撃し、乗っ取りました・・・梅北の乱、あるいは梅北一揆と呼ばれる、秀吉の朝鮮出兵の真っ最中に九州で起こった反乱です。

・・・・・・・・・・

その時の豊臣秀吉の心の内となると、未だ謎多き朝鮮出兵ではありますが・・・
●【豊臣秀吉の朝鮮出兵の謎】(3月26日参照>>)
●【秀吉はなぜ家康を朝鮮に行かせなかったのか?】(1月26日参照>>)

とにかく、文禄元年(1592年)4月13日、秀吉が派遣した第一軍が、朝鮮半島の釜山(プサン)に上陸し(4月13日参照>>)、世に言う文禄の役が開始されました。

肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に拠点を置き、続いて第二軍・第三軍・・・と次々と渡海する中、薩摩島津義弘らも、それに続くはずでした。

ところが、その島津の家臣で、湯之尾(鹿児島県伊佐市)地頭だった梅北国兼(うめきたくにかね)が、事を起こします。

当時、その最前線の基地である名護屋城へ向かう船を待つ=「船待ち」と称して、肥後佐敷(さじき)城下(熊本県芦北町)に居座っていた国兼たちは、文禄元年(1592年)6月15日、隙を見て、約300の将兵を率いて佐敷城を包囲したのです。

この時、国兼らは、すでに周辺領民の了解も得ており・・・

と、了解どころか、その周辺の農民や町民たちも自ら参戦し、反乱軍の数は700・・・一説には2000以上にも膨れ上がっていたと言いますから、かなり計画的に進められた反乱行動であったようです。

一方、囲まれた佐敷城・・・ここは、あの九州征伐(4月17日参照>>)の時に、最後まで戦った島津をしっかりと警戒するために、秀吉が信頼を寄せる加藤清正に造らせた「境目の城」=重き要所だったのです。

しかし、現在、その領主の清正や、城代を任されていた加藤重次は、かの朝鮮出兵に出払っているわけで・・・

留守を預かっていたのは、安田弥蔵(やぞう・弥右衛門)(酒井)善左衛門(ぜんざえもん)井上彦左衛門(ひこざえもん)井上弥一郎(やいちろう)ら、わずかな手勢・・・大きな兵力差に、もはや彼らも打つ手はありませんでした。

やむなく、彼らは、ほぼ無抵抗で城門を開いて、梅北方の将兵を迎え入れる事に・・・

そして3日後の6月17日、弥蔵らは酒宴の席を設けて国兼ら、主だった者たちを招待・・・

もはや降伏が決定して、すっかり油断していた国兼らが、勧められるがままに酒を飲みはじめたところ、まずは善左衛門が国兼に斬りかかり、続いて弥蔵らも、これに続き・・・

こうして、乱の中心人物を倒した弥蔵らは、そのまま佐敷城を奪い返す事にも成功し、乱は、わずか3日で終結する事となりました。

Simaduyosihiro600a 結局・・・この乱のせいで、すでに遅れ気味だった島津の朝鮮出兵を、さらに遅らせる事になってしまい、義弘自身が「日本一の遅陣」と言わねばならないハメとなり、豊臣政権下での、その後の島津の立場を悪くしてしてしまいました。

と、現在残る史料では、すぐに鎮圧された小さな事件として記録される梅北の乱ですが、一方では、乱は15日間に渡っていたという説もあり、その戦後処理の内容からも、かなり重要な事件だった可能性も浮上している、謎多き反乱なのです。

秀吉から「悪逆人」と言われた首謀者の国兼とその仲間は、その首が名護屋城に届けられた後、浜辺にてさらし首・・・

そして、国兼が率いた300人の中に、島津歳久(としひさ・義弘の弟)の家臣が多くいたとして、彼は7月18日に、その責任を取る形で切腹しようとするものの、体が不自由だったために家臣に首を切られています。

さらに、やはり同じような理由で阿蘇宮司だった阿蘇惟光(あそこれみつ)が、熊本花岡山で斬首されました

国兼の旧領であった山田郷(鹿児島県姶良市)に、乱の不成功を告げに行った重臣・7名も自ら切腹し、その後、捕えられた国兼の妻は、名護屋城へと送られ、火あぶりの刑に処せられます。

わずかに、国兼の子供たちだけが、散り散りになって逃亡する事に成功したという事ですが、その後の行方はわかっていません。

こうして、乱に加担した者以外にも、多くの犠牲者を出した梅北の乱なのですが、不思議な事に、その旧領の山田庄馬場(姶良市北山)には、梅北神社なる神社が存在するのです。

なぜか、地元では国兼は神として祀られているのです。

そこに残る2基の石灯籠には貞享(1684年~1687年)と元禄(1688年~1703年)の元号が見てとれるところから、江戸時代もはじめの頃には、すでに崇拝の対象となっていたようですし、後に献納された石碑の筆者は、あの西郷隆盛の実の弟の西郷従道(つぐみち)だと言います。

そう、この梅北の乱は、国兼個人の反乱として処理されたものの、実は、そうではない可能性がプンプン臭うわけですよ。

もちろん、当初から、九州征伐への恨み朝鮮出兵への反対運動・・・と、国兼個人ではない様々な反乱理由が取り沙汰されていたわけですが、それだけでは、神として祀られ、幕末維新の時代にも崇められるかどうか・・・。

乱が失敗したために、すべての責任をかぶって、切られるシッポとなってしまった国兼ですが、ひょっとして、この乱が成功していれば・・・

そして、この出来事によって豊臣政権が揺るぎ、あの関ヶ原より先に島津の手によって崩壊していたなら・・・

歴史好きの心をくすぐり、ロマンをかきたてられる謎多き反乱ですね。
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2011年6月14日 (火)

「生き方が男前」…幕末から昭和を駆けた新島八重

 

昭和七年(1932年)6月14日、幕末の会津戦争で男装して活躍し、後に同志社の創立者となる新島襄の妻として知られる新島八重が、86歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・

奇しくも、2日前=2011年6月12日付けの朝日新聞に、『2013年のNHK大河ドラマは福島が舞台 新島襄の妻が主人公』という記事が掲載されました↓
http://www.asahi.com/culture/update/0611/TKY201106110568.html
(記事は、時間が経つと排除される事があります)

私も、コメント欄で教えていただき「そうなのか~」と思っていたところ、本日は、そのご命日という事で、以前書かせていただいた会津戦争終結の日(9月22日参照>>)のお話とかぶりながらも、新島八重(にいじまやえ)さんをご紹介したいと思います。

・‥…━━━☆

上記の通り、後に新島襄(にいじまじょう)と結婚するので新島八重さんですが、旧姓は山本・・・山本八重(八重子)と言い、会津藩砲術師範であった山本権八を父に、同じく、砲術・軍学者山本覚馬(かくま)(5月13日参照>>)を兄に持つ、砲術一家に生まれた女性・・・

Niizimayae433 父や兄の影響を受けて、幼い頃から砲術に慣れ親しんで来た彼女は、人に砲術を指南できるほどの腕前ではありましたが、年頃になった19歳の時、自宅に寄宿していた藩校・日新館の教授である川﨑尚之助と結婚する事になり、以来、父から鉄砲を持つ事を禁止されていました。

しかし、慶応四年(明治元年・1868年)5月・・・ご存じ、会津戦争の勃発です(5月1日参照>>)

八重は、いても立ってもいられず、父に隠れて、密かに鉄砲の練習を再開・・・

やがて、9月14日・・・会津若松城への総攻撃が開始された(9月14日参照>>)のを確認した八重は、その2日後、学者肌であった夫=尚之助と離婚し、男装姿に7連発銃をかついで、堂々、入城するのです(8月23日参照>>)
追記:正式な離婚の時期は会津戦争終了後との見方もあります)

そして、城内の兵には砲術を指導し、婦女子には弾薬の製造を教えるほか、自ら銃を背負い夜襲をかけるという、それはもう縦横無尽の活躍ぶりを見せます。

しかし、ご存じのように、その奮闘空しく、会津藩は降伏・・・若松城が開城となる前日、煌々と輝く月明かりに照らされた三の丸の白壁に、彼女は、持っていたかんざしで歌を書きとめました。

♪あすよりは 何国(いづこ)の誰が ながむらん
   なれし御城に 残す月影 ♪

Wakamatuzyouaidusensou

激戦に次ぐ激戦で、もはやボロボロとなった白壁・・・思い出がいっぱい詰まったこの城が、明日から他人の物となる

何とも、悲しみがこみあげて来る歌です。

開城となった、その日、
「女子供は放免されるが、男は切腹」
との噂が流れると、男装して戦っていた彼女は、「清く立派な最期を迎えたい」と、男の列に交じっていましたが、途中で女だとバレて、放免されてしまいました。

・・・とは言え、以前も書かせていただいたように、朝敵の負け組となった会津藩のその後は、たいへんな苦労の連続だったわけですが・・・

それからしばらく経った明治四年(1871年)、すでに死んだと思ってあきらめていた兄=覚馬が京都にいる事を知った八重は、兄を頼って上京・・・京都府顧問となっていた兄の勧めで、京都女紅場(後の府立第一高女)の事務見習いとして働きます。

この頃に、激戦のさ中に行方不明となっていた前夫=尚之助と再会したという事ですが、お互いに、もう愛情は冷めており、何がどうなるという事もなかったようです。

やがて、その京都女紅場で茶道教室を開いていた女性(第13代・千宗室の母)と仲良くなって茶道をはじめる一方で、キリスト教にも興味を持ち始めた八重・・・

そんな時に知り合ったのが、時々兄のもとへ遊びに来ていた2歳年上の青年・・・「日本に、キリスト教の大学を造りたい」と奔走していた新島襄(にいじまじょう)(1月23日参照>>)でした。

またたく間に恋に落ちた二人・・・いや、どちらかというと、襄の一目ぼれ??

彼は、ある時、「どんなタイプの女性が好き?」と聞かれ、
「夫が東を向けと言ったら、ずっと東を向いているような女性は嫌いです」
と答えたと言います。

お互いの意見を尊重し合い、自分自身の信念を持った女性が好きだった・・・今では、普通ですが、当時の日本では非常に珍しいタイプの女性・・・

しっかりした自分の意見を持ち、男勝りで何事にも動じない八重に、襄は一発でハートを撃ち抜かれたのです。
(さすが、砲術一家・・・一発必中!)

八重は八重で、何かと煙たがられる自分の性格を、むしろ長所と受け止めてくれて、男女平等&レディファーストを心得た襄に心惹かれていったのです。

明治九年(1876年)、京都初のキリスト教の洗礼を受けた八重は、翌日、襄とともにキリスト教の結婚式を挙げ、二人は夫婦となりました。

それこそ、お互いを尊重し合う仲の良い夫婦でしたが、そんな夫婦像を理解してくれる人は、まだまだ少なかったようです。

彼女は、客人の前でも、夫の事を「ジョー」と呼び捨てにし、車に乗る時も、自分がさっさと先に乗る・・・
襄が「こう思うんだけど・・・」と切り出せば、
「それ、違うと思う」とピシャリ!

そんな態度が、周囲から見れば、夫をかしづかせているように見え、ようやく設立に漕ぎつけた同志社の学生たちからも
「悪妻」
「鵺
(ぬえ)のような化物」
と、非常に評判が悪かったと言います。

でも、襄は、そんな八重が大好き!

♪めずらしと 誰か見ざらん 世の中の
  春にさきだつ 梅の初花  ♪

襄にとっては、時代の最先端を行く八重の生きかたを自分が理解しているのだから、世間の評判など、どうでも良かったのでしょう。

なんせ、「春にさきだつ梅の花」ですから・・・

こうして、二人にしかわからない愛の形をはぐくんで来たオシドリ夫婦でしたが、明治二十三年(1890年)、襄が病に倒れて帰らぬ人となってしまいました。

その後は、若き日に出会った茶の道を極めながらも、日清日露の両戦争で、赤十字社の篤志(とくし)看護婦として尽力した功績により、皇族以外の女性で初めて勲六等を受章しました。

昭和七年(1932年)6月14日86歳で亡くなるその日まで、自分の生き方を崩さず、常に前向きを貫いた新島八重・・・

生前の襄が、アメリカの友達への手紙に
「she is not handsome at all, but what i know of her is that she is a person who does handsome.」
と記した事があったとか・・・

「彼女は見た目は決して美しくはありませんが、生き方がハンサムなのです」
そして、「自分には、それで充分だ」と・・・、まさに、おっしゃる通りの「男前」・・・

しかし、そんな彼女は、襄が亡くなった後も、その彼の部屋を、ずっと生前のままに残していたのだとか・・・男勝りの影にある秘めたる彼女のやさしさを、愛する人だけが見抜いていたのかも知れません。
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*このブログの八重と会津戦争関連のページ

*このブログの「八重の桜」関連のページ

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2011年6月13日 (月)

流星のごとく駆け抜けた天才軍師・竹中半兵衛

 

天正七年(1579年)6月13日、豊臣秀吉軍師として知られる竹中半兵衛が、播磨三木城包囲戦の陣中で亡くなりました。

・・・・・・・・・・

もう、言わずと知れた秀吉の名軍師・・・戦国武将の中でも、その人気はトップクラスですよね。

竹中半兵衛の通称で呼ばれる事の多い竹中重治(しげはる)・・・という事で、本日も半兵衛さんと呼ばせていただきますが、その半兵衛の竹中氏は、西美濃(岐阜県)に本拠を置く土豪(どごう・その土地の小豪族)岩手氏の一族と言われています。

Takenakahanbee600 弘治元年(1555年)、あの斉藤道三(どうさん)義龍(よしたつ)父子が戦った斉藤氏の内紛(10月22日参照>>)で、父の重元(しげもと)道三に味方して負け組となってしまったために、一旦、所領を失っていたのを、その2年後に不破(ふわ)岩手城主・岩手弾正を倒して、その不破郡を手に入れた・・・つまり、一族を乗っ取ったわけですわな。

・・・で、乗っ取ったと言えば有名な、あの稲葉山城乗っ取り事件・・・(2月6日参照>>)

くわしくは、その上記の参照ページで見ていただくとありがたいのですが、とにかく、幼い頃から、兵法の本ばっかり読んでいた半兵衛が、そのひ弱な雰囲気から、主君の斉藤龍興(たつおき)とその仲間たちにからかわれた事にブチ切れ、戦略を練りに練った末、わずか16人でその稲葉山城を乗っ取ってしまい、1年の長きに渡って占拠したというお話です。

それこそ、あの織田信長が8年も攻めあぐねた稲葉山城を、わずか16人ですから・・・その軍略家としての才能を見せつけた一件なわけですが、この時、信長は、半兵衛に
「美濃半国を与える代わりに、その稲葉山城を譲ってチョーダイ」
という破格の取引を申し入れていますが、半兵衛は、それを断わり、主君・龍興と和解して稲葉山城を返し、自らは隠居するという形で決着をつけています。

この、「結局返す」というカッコイイ雰囲気が、半兵衛の人気を倍増させてるわけですが、実際には、そこまでカッコ良くはなく、どちらかと言えば「返さざるをえない」状況に追い込まれた・・・という事のようです。

なんせ、当初の味方は16人・・・たったそれだけの人数で、稲葉山城を乗っ取っただけでは、美濃を制圧した事にはなりません。

国内の土豪が味方となり、多くの者が「反・龍興」の姿勢を見せてくれれば何とかなりますが、そうでなければ、城を一歩出た途端に、謀反人として捕まえられるだけですから・・・

・・・で、結局、半兵衛のもとに馳せ参じる者が少なかったところに来て、あの信長がチョッカイ出して来るもんだから、「人手に渡るんなら返そう」てな感じだったようですが、これが、後に天才軍師の若き日の逸話として語られる事で、なんかカッコイイ感じにアレンジされちゃったんでしょうね。

カッコイイ感じにアレンジと言えば、このあと、隠居した半兵衛のもとに、未だ木下藤吉郎と呼ばれていた豊臣秀吉が、3度に渡って訪れ、頼みまくって家臣にしたというドラマでも有名なシーンですが、これも、どうやら伝説の域を超えない物のようです。

・・・というのも、この稲葉山城乗っ取り事件は永禄七年(1564年)の話ですが、ここで隠居して、しばらく歴史の表舞台を去った半兵衛が、再び、史実とされる歴史に登場して来るのは、信長が浅井・朝倉とゴチャゴチャやりだす元亀元年(1570年)の頃・・・(4月26日参照>>)

この埋もれていた6年間が、秀吉が頼みまくっていた期間だとも考えられますが、6年間で3度じゃ少ない(2年に1回だ(゚ー゚;)し、第一、この時の半兵衛は、朝倉氏に味方していた堀氏の寝返りに関与する形で登場し、その後、秀吉ではなく、信長の家臣団に加わって姉川の合戦に登場するのです。

ご存じのように、その後、秀吉の配下(与力)となりますが、これは主従関係ではなく、言わば、信長社長の会社で働く営業担当と企画担当みたいな感じ?・・・

なので、秀吉が考えた作戦がマズイと思えば、半兵衛が手直しする事もOKでした。

それは、他の武将との関係でも発揮されます。

ある武将が、いつも作戦を半兵衛に手直しされるのを快く思わず、「今日こそは、口出しさせないゾ!」と構えていたところ、その日に限って半兵衛は、「これは良い作戦だ!!」とベタ褒めに褒めました。

・・・で、その武将だって、なんだかんだ言っても、天才と呼ばれる半兵衛に褒められればウレシイもので、「そ~っすかぁ」とデヘデヘ油断したところをすかさず、「こうしたら、もっとエェねんけどな」と、結局、口出しして帰ったのだとか・・・見事な作戦勝ちです。

とは言え、半兵衛の役割は、そうした軍略担当なわけで、実際に、「敵の首をいくつ取った」という具体的な武功が無い事から、柴田勝家滝川一益なども、最初のうちは、本当に半兵衛がスゴイのかどうかを疑っていたようですが、要所々々で、冷静に敵の動向を分析し、自らの思う作戦を理路整然と語り、それが、また適格である事から、徐々に周囲の皆々とのわだかまりも解けていったと言います。

やがて、秀吉が中国方面担当の総大将を命じられると、半兵衛も、ともに遠征し、播磨三木城の攻略に際して「兵糧攻め」を立案します。

世に言う「三木の干(ひ)殺し」です(3月29日参照>>)

結果的には、かなりの長期間に渡ってしまう、この籠城戦ですが、合戦で最も大きな人的被害を出す城攻めにおいて、自軍のダメージを極力少なくする秀吉お得意の戦略は、この三木城に始まったと言えるかも知れません。

ただ、戦いが長期であったぶん、この三木城籠城戦の間に様々な事が・・・

尼子勝久に城番を命じていた上月城(こうづきじょう・兵庫県)毛利からの攻撃を受けるわ(7月3日参照>>)有岡城荒木村重(むらしげ)(12月16日参照>>)反旗をひるがえすわ・・・秀吉も、村重の説得に、有岡城へ行ったりもしました。

しかも、その有岡城では、秀吉の後に説得に向かった黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)が、そのまま戻らなかった事から、村重側に寝返ったと見た信長が、人質として預かっていた「如水の息子を殺せ!」との命令を出してしまうのです。

しかし、「如水が裏切るはずがない!」と信じていた半兵衛の機転により、息子の命は救われます。

果たして天正七年(1579年)10月16日に開城された有岡城からは、土牢に監禁されていた如水が発見されるのです。

やはり、半兵衛の読み通り、如水は寝返ってはいなかったのです・・・と、くわしくは、10月16日【有岡城・落城~如水と半兵衛とその息子たちと…】のページ>>で見ていただきたいのですが・・・

無事助けられた如水は、息子も無事だった事を大いに喜ぶのですが、その時には、その息子の命を助けてくれた半兵衛は、もう、この世にはいなかったのです。

実は、この年の4月・・・半兵衛は、三木城包囲真っ最中の陣中で病に・・・

病状の深刻さを心配した秀吉は、一旦、半兵衛を京都へと戻し、ゆっくり静養するように命じますが、すでに、自らの死期を悟っていた半兵衛は、
「武士たる者、戦場で死にたい!」
と、秀吉に懇願して、再び陣中に戻り、天正七年(1579年)6月13日未だ36歳という若さで、肺結核(または肺炎)に倒れたのでした。

思えば、あの稲葉城乗っ取り事件が、半兵衛21歳の時・・・

そして、享年36・・・

うち、6年間ほどは、その動向すらわからず・・・

と言う事は、半兵衛が歴史の表舞台で大活躍したのは、わずか10年にも満たない事になります。

そのわずかの間を、流星のごとき輝きを放ちながら通り過ぎて行った天才軍師・・・彼の生きた10年は、400年以上経った今でも、私たちを魅了し、この先もずっと、戦国屈指の人気を誇っていくに違いありません。
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2011年6月12日 (日)

自らの死後も見据える智略の将=小早川隆景

 

慶長二年(1597年)6月12日、毛利元就亡き後、孫の輝元を支え、兄の吉川元春とともに、「毛利の両川」と呼ばれた小早川隆景が亡くなりました。

・・・・・・・・・

ご存じ、西国十三州に君臨した毛利元就(もとなり)が、正室の妙玖(みょうきゅう)(11月30日参照>>)との間にもうけた3人の息子のうちの一人です。

嫡男=隆元は「仁の人」
次男=元春は「勇の人」
三男=隆景は「智の人」

当時、世間では、こう称されていたと言います。

この3人の中でも、本日主役の小早川隆景(こばやかわたかかげ)は、
「危険な戦いをせずに、謀(はかりごと)を以って敵を屈服させる達人である」
と評価されています。

Kobayakawatakakage480 そのたぐいまれなる智将ぶりは、すでに少年の頃からあったとか・・・

隆景は、13歳の時から3年間、当時は、まだ毛利家の主君であった大内義隆のもとに人質に出されますが、3年後に、人質を許されて帰国した彼は、

父=元就に、
「大内家はやがて滅びましょう」予言したのです。

「義隆公の怠慢に家臣の心が離れていくのを、陶隆房(すえたかふさ・晴賢)が何とかまとめている状態・・・」
と、その時の大内家内の様子を見事に見抜いていますね~。

そして、ほどなく、大寧寺の変を起こした隆房によって大内氏は牛耳られるのです(8月27日参照>>)

そんな隆房を倒して、毛利が大内氏に取って代わる一大決戦となった厳島の戦い(10月1日参照>>)での隆景は、村上水軍を率いて参戦し、大きく迂回して敵を欺いた後に上陸・・・という、ここでも見事な智将ぶりを見せてくれています。

ご存じの、毛利の3本の矢=「三矢の訓え(さんしのおしえ)の話のもととなった、元就が3人の息子に送った「三子(さんし)教訓状」(11月25日参照>>)を見ても、父=元就が、隆景に大きな期待を寄せていた事が読み取れますね。

・・・で、そんな偉大な父=元就が亡くなった時には、すでに長男の隆元もこの世にはなく、その嫡男(つまり元就の孫)輝元が毛利を継ぐ事になるわけですが、未だ若年な輝元を、次男の元春は吉川家へ、三男の隆景は小早川家へと、ともに養子に出た二人(9月27日参照>>)見事にサポートし、「毛利の両川」と呼ばれたのは有名なお話です。

ところで、そんな隆景は、上記の通り、智略の武将ではあったものの謀略は好まない、いたってマジメな人だったようです。

なんせ、奥さんに対する時も肩衣(かたぎぬ)に袴をつけて、まるで客人を迎えるかのような態度で接していたのだとか・・・(だから子供がおらんのか?(゚ー゚;)

あの本能寺の変の直後も、備中高松城を水攻め中の羽柴(後の豊臣)秀吉が、主君=織田信長の死を知って、とにかく早く畿内へ戻りたいとばかりに、その死を隠したまま、早急に和睦へとこぎつけたわけですが・・・(6月4日参照>>)

その後、交渉成立のお祝いとして秀吉から贈られて来た酒樽を、「毒が入ってるかも…」と警戒して飲まない家臣たちの前で、
「すでに誓書を交わした後で、そんな事するかいな!飲めへんかったら、かえって失礼に当たる」
と言って、真っ先に口をつけたと言います。

さらにその後、先の和睦交渉が、信長の死を隠しての交渉だった事がわかった後でも、
「追い撃ちをかけて秀吉を討とう」
という兄=元春に対して、
「一旦、起請文を以って和睦したものを、敵の災いに乗じて約束を破るなんざ、武士の恥や!」
と言って、追跡をしなかったとか・・・やっぱマジメ

その事を、人づてに聞いたであろう秀吉は、天下人になった後、隆景を参謀として重用し、あの五大老の中に、輝元と隆景・・・と、毛利が二人も存在している事こそが、その信頼の証とも言えます。

さらに、あの小田原征伐の時などは、秀吉は、わざわざ隆景を呼び出し、この長期戦をどのようにこなして行けば良いかのアドバイスを求めています。

そして隆景は
「城攻めを休んで、弓鉄砲も休んで、夜討ちの用心だけは怠らず、味方に長期戦の覚悟をさせたうえで、気を張り過ぎて疲れないように、狂喜乱舞の宴会を開いたり、茶会を楽しんだりして、相手にも、長期戦になる事を悟らせましょう」
と、父=元就が、あの尼子氏の月山富田(がっさんとだ)を落とした時(11月21日参照>>)長期戦の経験を語ったと言います。

いやはや、あの小田原攻めで、秀吉は現地におねさんの次に大好きな淀殿を呼び、諸将たちに「君らも、奥さんや側室を呼んじゃいな」なんて言って、陣中で千利休にお茶を点てさせた・・・なんてのも、隆景さんのアドバイスによるものだったんですね~

・・・で、結局、根負け気味の小田原城も天正十八年(1590年)7月5日に開城となるわけですが・・・(7月5日参照>>)

しかし、そこまで信頼されているにも関わらず、隆景が秀吉への警戒を解く事はありませんでした。

そして、晩年・・・案の定、そのカンは当たります。

すでに40歳になっている輝元に子供がいなかった事で、秀吉は、自分の養子となっている甥っ子(正室・おねの兄=木下家定の息子)秀俊を、「毛利家の養子にしてはどうか?」と持ちかけてくるのです。

キターーーーー!!(゚ロ゚屮)屮
これ、元就が二人の息子たちにやった例の、養子になって乗っ取り作戦です(再び9月27日参照>>)

しかし、さすがは智略の隆景・・・
「殿下のお耳には達してない話ですけど、実は、もう内々で決めてますんで…」と・・・

もちろん、実際には、まだ決まっていないハッタリですが・・・
「我が異母弟=穂田元清(ほいだもときよ)の子の秀元(11月7日参照>>)で、もう、輝元も承諾しております」

こう、はっきり言われたら、秀吉も
「ん…まぁ、一族の中にふさわしい者がおるんやったら、それに越した事はないわなぁ」
と、引き下がるしかなかったとか・・・

もちろん、その後すぐに輝元に手紙を書いて事情を説明・・・これを聞いた輝元は、即座に秀元を養子にして、毛利家の後継者として披露したのです。

しかし、智略の隆景・・・これだけでは、まだ、安心しませんでした。

そう、秀吉が名前を出した秀俊です。

この時、隆景は、すでに元就の末っ子=秀包(ひでかね)を養子にしていたにも関わらず、「秀俊を養子に迎えて跡取りとしたい」と申し出るのです。

この頃の毛利家は100万石を有していて、隆景の小早川家も50万石・・・この大きな領地ゆえに警戒されるのであれば、小早川の50万石を秀吉の血筋に返す事で、本家の毛利家への警戒を解こうとしたのです。

かくして文禄三年(1594年)、かの秀俊クンは隆景の養子となり、小早川秀秋と名乗ります。

その翌年には隠居して、小早川家の家督を秀秋に譲った隆景・・・こうして、本家=毛利家を守った隆景は、慶長二年(1597年)6月12日卒中で急死します。

享年65歳・・・それは、自らの死後の事をも見据えた見事な判断でした。

ただ、関ヶ原=徳川家康という大波を越えるには、もう一人、隆景クローンが必要だっのかも知れませんが・・・
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2011年6月10日 (金)

緒方洪庵と適塾

 

文久三年(1863年)6月10日、天然痘の治療に貢献し、日本近代医学の祖と讃えられる緒方洪庵が、江戸にて54歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・

人気ドラマ「JIN-仁」に、初盤の重要な役どころとして登場し、有名度がさらに増した緒方洪庵(おがたこうあん)先生・・・

Kouanzou450 文化七年(1810年)に、備中国(岡山県)足守藩の下級藩士・佐伯瀬左衛門惟因(これより)の三男として足守(岡山市北区足守)に生まれました。

幼い頃から病気がちで体が弱く、武士で大成する事は難しいと考えていた14歳の洪庵少年…
そんな時、父の仕事が大坂勤務になった事で、ともに大坂にやって来ます。

「体が弱いなら勉学で身をたてよう」と考えた洪庵は、翌・15歳で、蘭方医の中天游(なかてんゆう)の門を叩き、そこで蘭学を・・・特に医学を中心に学びました。

大坂で4年間学んだ後、江戸へ出て坪井信道(つぼいしんどう)宇田川玄真(げんしん)(12月18日参照>>)らのもとで5年間・・・その後、長崎に遊学して、オランダ人医師・ニーマンから医学はもちろん、最新の西洋事情についても学びます。

そして天保九年(1838年)・・・29歳になった洪庵は、大坂に戻って瓦町(大阪市中央区瓦町)にて医者として開業すると同時に、蘭学塾「適塾」を開きました。

同じ年には、ともに中天游のもとで学んだ先輩の娘=八重さんとの結婚も果たしています。

Dscn2340a800 その7年後に、適塾は、現在の場所=大阪市中央区北浜3丁目に移転しますが、その移転理由は、門下生の増えすぎ・・・そう、すでにこの時点で、洪庵の名声はスゴイ事になっていたのです。

洪庵が優れた医者であったというだけでなく、優れた教育者であった事は、この適塾出身者の、その後の活躍を見ても明らかです。

尊王の牽引者であった橋本左内(10月7日参照>>)、維新の立役者=大村益次郎(11月5日参照>>)、昨日の日清戦争にも登場した函館戦争の生き残り=大鳥圭介(おおとりけいすけ)(6月9日参照>>)、その函館戦争で博愛精神を貫いた医師=高松凌雲(りょううん)(5月18日参照>>)、日本赤十字社の創設者=佐野常民(つねたみ)(12月7日参照>>)・・・そして、ご存じ、慶応義塾を創設する1万円札でおなじみの福沢諭吉(11月25日参照>>)などなど・・・まだまだ沢山・・・

そんな適塾の教育事情は、主に蘭書の会読でしたが、その予習のために使用するヅーフ辞書(長崎のオランダ商館長・ヅーフが作成した蘭和辞書)が、わずかに1冊しかなく、塾生たちは、それが置いてある「ヅーフ部屋」に集まっては、奪い合うように見ていたと言います。

かの福沢諭吉も
「西洋日進の書を読む事は、日本国中でも誰にでも出来る事やない!俺らだけができるんやv(^o^)v」
と、むしろ、勉強できる事を自慢げに語り、
「あれほど勉強した日々もなかったなぁ…けど、逆に、勉強以外の事は無頓着で、食器まで仲間と共同で使たりして、身なりもムチャクチャやったわ~」
と、自伝にて、その青春時代を懐かしそうに振り返っています。

現存する適塾の2階にある32畳の大部屋は、そんな塾生たちが、1人1畳を与えられて寝泊まりを含む日常生活をしていた部屋で、成績の良い者から順に、日当たりの良い快適な場所を勝ち取る事ができたとか・・・

Dscn2331a800
適塾の大部屋
適塾への行き方は、本家ホームページの「中之島歴史散歩」>>で紹介しています。

それも、洪庵先生の生徒たちを発奮させるための愛ある仕掛けの一つ・・・ちなみに、一番アカン場所は階段の横=写真の「出口」と書かれた看板のあたりなのですが、そこは夜中にトイレに行く塾生に踏まれる事山のごとしなのだそうで、ベッタコの定位置でした。

とは言え、やはり、洪庵の業績で特筆すべきは、あの天然痘との戦いでしょうね。

当時流行していた天然痘・・・唯一の予防法は、人から検出したワクチンを人に打つ「人痘法」という物でしたが、これには、予防のつもりが本格的に天然痘にかかってしまうというリスクがありました。

洪庵自身も、これで死者を出しています。

そんな中、嘉永二年(1849年)に牛から摘出した牛痘ワクチンが日本に入って来て、洪庵も、肥前佐賀藩から(1月18日参照>>)分苗式でこれを分けてもらい、古手町(大阪市中央区道修町)除痘館なる施設を設けて予防接種を開始するのですが、まだまだ庶民の医学に対する知識の薄い当時ですから、「牛のワクチンを打ったら牛になる」なんて噂がたって、受けに来る人は、ほとんどおらず・・・

このワクチンというのは、人の腕に植えつけてから7日で効力を失う・・・つまり、7日のうちに次の人に植えつけないと、そこで終わってしまうわけで、新しく打ちに来てくれる人がいないとワクチンそのものが無くなってしまうのですよ。

そんなこんなしてるうちに、資金もなくなって来るのですが、ここで洪庵、めげません!

洪庵は、勢力的に地方の医師たちに分苗をする事で何とか活路を見い出します。

それは、苗を維持するとともに、徐々に、全国に広がっていくという事にもなるのですが、一難去ってまた一難・・・広がったら広がったで、ニセワクチンを投与して金儲けをしようという詐欺集団も現われ・・・

今度は、それに対抗すべく、何度も何度も幕府に申請・・・やがて、その願いかなって、安政五年(1858年)、ようやく洪庵の予防活動のみが幕府公認となった事で種痘が免許制となり、やっと本格的な予防が開始される事になります。

また、同じ安政五年(1858年)に、コレラが流行した時には、『虎狼痢治準』を刊行して、その予防にも尽力しています。

やがて、幕府からの度々の要請に応じて、文久二年(1862年)には、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕した洪庵・・・

「大坂がえぇねんけどなぁ・・・」
と、慣れ親しんだ土地を離れる事に、ちょっぴり寂しげだったと言いますが、結局、その翌年の文久三年(1863年)6月10日、江戸の医学所頭取役宅で突然吐血して窒息・・・帰らぬ人となってしまいました。

「人の為に生活して己の為に生活せざるを医業の本体とす」
洪庵が、その生涯を通じて発した思いは、若き精鋭たちに引き継がれていった事でしょう。

そして、忘れてはならないのは、奥さんの八重さん・・・病弱な洪庵を支え、全国から集まる塾生の母となり、自身も9人の子供を立派に育てあげました。

適塾が、あの松下村塾に勝るとも劣らない功績を残せた影に、彼女の努力があった事も、ここに付け加えておきます。
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2011年6月 9日 (木)

海軍陸戦隊が仁川上陸~いよいよ日清戦争へ…

 

明治二十七年(1894年)6月9日、大鳥圭介公使以下、約500名の海軍陸戦隊の将兵が、朝鮮半島の仁川に上陸しました。

・・・・・・・・

明治八年(1875年)の江華島(カンファド)事件を機に、日朝修好条規(江華条約)を締結して、開国&独立を宣言した朝鮮でしたが、内乱に次ぐ内乱で政情が安定せず、困り果てた朝鮮政府は、清国(中国)鎮圧軍の出兵を依頼・・・

朝鮮との外交関係においては国と均等的な立場にありたい日本は、清国が大量に出兵した事を受けて、「このままでは朝鮮が清国の属国となってしまう」と恐れ、明治二十七年(1894年)6月2日、日本も出兵する事を決定しました(くわしくは6月2日参照>>)

Ootorikeisuke600 かくして明治二十七年(1894年)6月9日大鳥圭介(おおとりけいすけ)公使は、海軍陸戦隊の約500名を護衛に、朝鮮半島の仁川(インチョン)に上陸し、翌日には、首都の漢城(ハンソン)に入りました。

もちろん、清国の出兵はもっと早く、6月8日には2500名を越える部隊を牙山(アサン)に上陸させて、すでに南下を開始していました。

そして、清国の動員数を知った日本は、さらに1000名規模の先発隊を派遣し、6月10日には本隊も、9隻の輸送船に分乗して、日本を出航しました。

・・・と言っても、この時点では、出兵はあくまで公使館や在留邦人の保護のためであって、向かうべき相手は、朝鮮で内乱を起こしている反乱軍でした。

ところがドッコイ・・・大量の日本軍の派兵に驚いた清国は、速やかに乱の鎮圧を急ぎ、日本軍が到着する頃には、すっかり内乱が鎮圧されてしまっていた事から、話は急展開してしまうのです。

「すでに何もない所に大量の兵士がやってきた」
この事実だけが強調された現地では、「大義名分のない派兵」として、朝鮮政府と各国の在留公使たちから非難を浴びてしまったのです。

漢城にいた大鳥も、慌てて、日本からの更なる派兵を断わり、現地の軍隊も即時撤兵すべく、6月15日には、清国側の代表である袁世凱(えんせいがい)との会談をセッティングしました。

清国側も、もともと、あの天津条約で、「朝鮮に対しては均等の仲でいよう」と、日本と約束していたにも関わらず、今回、自分とこが大量出兵した事で、日本の出兵を誘発してしまった事は重々ご承知で、この後は、両国ともに即時撤兵して、以前の状況の戻す事が肝心と考えていたのです。

なので、今回の会談は、いたってすんなりと・・・あっさり合意して終了するはずでした。

ところが、この場に日本側が提出した「朝鮮内政改革案」が物議をかもし出すのです。

そこには、
「日清両国で乱を鎮圧する事」
「日清両国の委員による朝鮮政府の改革断行」

が、記されてあったのです。

これに対する清国の返答は
「すでに乱は鎮圧されてるし、朝鮮の改革は、朝鮮政府自身が行うべきもの」
というもの・・・ごもっともです。

ところが、この清からの提案拒否を納得しなかった日本・・・

Mutumunemitu500 その中心となっていたのは、第2次伊藤博文内閣の外務大臣=陸奥宗光(むつむねみつ)でした。

実は、この頃、日本国内の政情において、伊藤内閣が絶体絶命の危機にさらされていたのです。

以前も書かせていただいたように、明治新政府の一番の目標は、開国以来結ばれた不平等な条約を改正して欧米列強と対等に交渉を行う事でしたが、それらの一つ一つに内閣と議会がかみ合わず、内輪モメする事、山のごとし・・・

それは、伊藤から頼まれた明治天皇
「内閣と議会が互いの主張を譲り合って、私(天皇)の政治を補佐しなさい」
という異例の『和協同(わちゅうきょうどう)の詔勅』を出すほどでした。

そんな中で、今回の大量出兵に対して、何の成果も得られずに撤兵したなら、国内世論は沸騰し、伊藤内閣が退陣に追い込まれる!と、陸奥は思ったのです。

さらに、提案が拒否されれば武力衝突も辞さない日本の強硬外交に対して、ここに来て、ロシアイギリスが介入・・・

「朝鮮半島から撤兵しないのであれば、日本は重大な責任を負うだろう」
というロシアの脅しに対しては
「朝鮮半島を支配しようなんて気は、さらさらありません・・・内政の改革が実行されたら速やかの撤兵しますよって・・・」
と、うまくかわした陸奥は、逆に、イギリスとの日英通商航海条約を締結します。

イギリスはイギリスで、ロシアと清国が朝鮮半島に南下して来ている事に非常に警戒感を抱いていたので、それを阻止するような動きの日本と友好関係を築いておきたかったのです。

このイギリスの賛同は、日本の強硬姿勢に弾みをつけてしまいました。

7月10日に日本が朝鮮に提出した「日本単独の内政改革案」は16日に拒否され、22日を回答期限とした「過去に清国と結んだ条約破棄」の要請にも朝鮮政府からの回答が得られなかった事を受けて、いよいよ、日清戦争へと突入するのです

・・・が、そのお話は、次の動きのあった7月25日【日清戦争・開戦!豊島沖海戦】>>のページでどうぞ。
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2011年6月 8日 (水)

戦国女戦士の必須アイテム「薙刀」~なぜ女性の武器?

 

昨日の鶴姫の関連で書かせていただきます。

戦国シュミレーションゲームが人気の今日この頃・・・ゲームでは勇猛な武将に交じって、ちょっぴりセクシーな衣装で登場する女戦士たちも大活躍ですね。

つい先日ご紹介させていただいた立花誾千代(ぎんちよ)(5月28日参照>>)井伊直虎(いいなおとら)(8月26日参照>>)などなど・・・鎧の意味をなしてないやん!とツッコミたくなるような露出度で登場して、場面を華やかに彩ります(目の保養(゚▽゚*))

もちろん、実際に、戦国期に活躍した女性戦士は、数多くいたわけで・・・

昨日、ご紹介した上野隆徳(たかのり)の正室=鶴姫(6月7日参照>>)
城主の留守を守った吉岡妙林尼(みょうりんに・妙麟尼)(3月8日参照>>)
若武者のごとく颯爽と現われてダンナを救う富田信高夫人(8月25日参照>>)
武田勝頼に最後まで味方した高遠城で奮戦した諏訪勝右衛門(すわかつえもん)の妻(3月2日参照>>)
城攻めの天才・秀吉にひと泡吹かせた忍城成田氏長夫人甲斐(6月16日参照>>)

実際には戦ってないけど、完全装備の姿がカッコイイ真田の嫁=小松姫(7月25日参照>>)や、あの淀殿も、大坂の陣では甲冑姿に身を包み、ヤル気満々だったとか・・・

ほかにも、まだブログに登場していなくて、これから書いていきたい女武者たちは数多くいるのですが、そんな彼女たちに共通する武器が薙刀(長刀=なぎなた)・・・

これは、戦国時代だけでなく、その後の江戸時代を通じても、奥女中がタスキをかけて鉢巻きをして薙刀を持って夜回りをする・・・なんてシーンが時代劇にもよく登場します。

そもそもは、狩猟をしていた古代の頃から長柄の武器=いわゆる(やり)は、生活に根付いていたわけですが、そんな槍の先端に反りのある刀を装着した薙刀は、殺傷能力が高い事から、南北朝以前は薙刀を重用した武将も数多くいました。

源平合戦の時代に活躍した、あの武蔵坊坊弁慶が薙刀で奮戦する姿は、なかなかカッコイイものです。

ところが、戦国時代になって、その戦い方が個人戦から集団戦に代わった事で、おおがかりで振り回しがちな薙刀は、人が密集している場所では使い難い・・・となって、足軽の登場とともに、薙刀は戦場から姿を消していくのです。

かと言って、戦場では刀が主流になる事もありませんでした。

戦国期には、その戦い方も変わると同時に、防具の仕様もどんどん進歩しました。

進歩した甲冑は、それまでよりはるかに軽量となり、かつ、防御にも優れているうえ、簡単な物なら、けっこう安価で手に入る事から、下級家臣や足軽たちも身につけるようになりますから、ちょっとやそっと刀で斬ったくらいじゃ、相手にダメージを与えられなくなります。

そこで、戦国時代の合戦の主流となったのが槍です。

これなら、鎧の隙間を狙って相手を殺傷する事も可能ですし、戦闘技術の未熟な足軽や農民兵にも、リーチが長いぶん有利となり、充分に戦えるからです。

戦国の後半には、鉄砲も登場しますが、日頃の訓練も含め、様々な条件が整わないと効力を発揮しない鉄砲よりはなんだかんだで、やっぱり槍が主流だったのです。

そんなこんなで、戦場から消えた薙刀は、女性の武器として生き残るのです。

Awadutomoe900
粟津戦線から退く巴御前

薙刀&女武者と言えば、やはり源平合戦の頃の巴御前(1月21日参照>>)が目に浮かびますが、あの勇姿そのままに、戦国女性に受け継がれていたのですね~

薙刀が女性の武器となった理由は・・・
おそらくは、彼女たちの主戦場が城であったからでしょう。

殿さま以下、男たちが合戦へと向かった場合、城を守るのは、わずかな城兵と、奥さん以下、女性たち・・・

以前、大河ドラマ関連からの政略結婚(4月22日参照>>)のところで書かせていただいたように、男尊女卑より、身分の上下のほうが優先された戦国時代では、城主のいない城内で最も上の身分となるのは、その城主の奥さま(城主が独身の場合は生母)ですから、力弱くとも、主人として城を仕切らねばなりませんし、いざ、という時には、戦わねばなりません。

なんせ、ダンナが合戦に出てるという事は戦時下なのですから、いつ何どき、城攻めを受けるかわかりませんから・・・

そこで、城で戦う女性にとって、薙刀は好都合だったのです。

なんせ、城は、野っ原の戦場と違い、集団戦にもつれ込み難いです。

また、刀先が重いので、扱いづらそうに見えますが、かえってその刀先の重さが遠心力を産む事で、グルグルとふり回すだけで、かなりの殺傷能力が出ます。

しかも、その重さのために、どうしても下に行ってしまう先っぽは、逆に、相手の足を狙う事になり、これがなかなか・・・戦場での合戦に慣れてる普通の男兵士は、上からの上半身への攻撃には敏感ですが、足はけっこう無防備なのです。

昨日の、鶴姫率いる女軍団に、しばらくの間、毛利方が翻弄されるのも、そういった、男と女の戦い方の違いがあったのですね。

戦国時代に薙刀をふるって武勇伝を残した彼女たち・・・そんな彼女たちの勇姿が語り継がれ、「薙刀を持った女性は強い!」・・・と、江戸時代には、「女性は薙刀」という観念が定まっていったものと思われます。
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2011年6月 7日 (火)

女戦士・鶴姫の勇姿~常山女軍の戦い

 

天正三年(1575年)6月7日、毛利方の小早川隆景が、上野隆徳の守る備前常山城を攻め落としました。

・・・・・・・・・・

時は天正三年(1575年)5月・・・と言えば、そう、あの長篠の戦い(5月21日参照>>)の、まさに、その時ですが、この頃は、将軍=足利義昭石山本願寺の呼びかけに応じた武将らに包囲網を敷かれながらも浅井&朝倉を倒し(8月27日参照>>)、今度は武田勝頼とあいまみえる織田信長の動向が、はるか西の方にも影響を与えはじめた頃なのです。

未だ敵は多いものの、なんだかんだで畿内を制している信長の勢力が、やがて西へと向く時、これまで西国の雄=毛利の影響を受けて来た、その中間地点にいる諸将たちは、いったいどちらにつくのか???

当時、播磨(はりま・兵庫県)の小大名=小寺氏の家臣だった黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)が、主君の小寺政職(まさもと)の反対を押し切って、織田の傘下になるよう進言するのも、ちょうど、この頃だったと思います(11月29日参照>>)

とは言え、西国の大名が信長になびき始めるのは、やはり長篠の合戦の後からなのですが、それより前に、信長派を表明していた人・・・それが、備中(岡山県西部)松山城(高梁城とも)の城主・三村元親(みむらもとちか)でした。

それまで毛利の支援を受けていた元親以下三村氏でしたが、実は、彼には、隣国=備前(岡山県東部)美作(みまさか・岡山県北東部)に勢力を拡大しつつあった父=家親(いえちか)を恐れた宇喜多直家に、その父を暗殺されてしまうという過去がありました。

もちろん、直後には弔い合戦を試みた元親でしたが、あえなく敗退・・・以来、いつか恨みを晴らしたいと思っていたのですが、天正二年(1574年)、そんな直家が毛利の傘下となったのです。

「いつか恨みを晴らしたい相手が同じチームに!!」
未だ21歳の若き当主=元親は困惑・・・そんな時に、受け取ったのが信長からのお誘いの誓紙でした。

松山城で開かれた会議では、叔父の三村親成(ちかしげ)など一部の重臣の反対もありましたが、元親の決意は固く、三村氏は毛利からの離反を決定したのでした。

この時、主君=元親の意見に賛成した一人が、元親の妹=鶴姫を妻にし、備前常山(つねやま)城を任されていた上野隆徳(たかのり)でした。

しかし、この離反の知らせを聞いた毛利方・・・当然、黙って見過ごすわけにはいきません。

小早川隆景(こばやかわたかかげ・毛利元就の三男)は、即座に三村氏討伐を主張・・・一方、そもそも宇喜多氏を毛利の傘下に加える事に反対していた吉川元春(きっかわもとはる・元就の次男)は、この討伐にも反対しますが、主に山陰を任されていた元春の意見は通らず、毛利の方針は、山陽道を任されていた隆景の主張した討伐へと決定しました。

Kobayakawatakakage480 かくして天正二年(1574年)の12月上旬に数万の軍勢を率いて備中に入った隆景は、元親の手によって堅固な要塞と化している松山城を後回しにして、次々と支城を攻略するところから始めます。

やがて、年が改まった天正三年(1575年)3月に、いよいよ松山城を取り囲み、本格的な攻撃を開始・・・まずは補給路を断つという持久戦覚悟の万全の攻撃態勢に加え、数の上でも圧倒的に毛利に優勢な状況では、さすがの松山城も耐えきれず、2ヶ月後の5月22日落城したのでした(6月2日参照>>)
(一旦逃走した元親は、覚悟を決めた6月2日に自刃しています)

そして、この時、松山城とともに、同時攻撃を受けていたのが備前常山城・・・

と、やっと出て来ました~常山城も城主の上野隆徳も初登場だったので、なぜ、常山城が毛利の攻撃を受けていたのかを話したくて、ついつい長くなってしまいましたm(_ _)m

・・・で、堅固な城と評判だった松山城でさえ落城してしまった5月22日には、もはや常山城も、風前の灯となっていました。

そして天正三年(1575年)6月7日・・・大軍に包囲され、「もはや、これまで!」と悟った城主=隆徳は、一族を集めて最後の酒宴を開き、一同に「自害しようと思う」と告げました。

すると、まずは母親が一歩前へ出て、
「目の前で息子(隆徳)が死ぬのは見たくないので、私が一番に逝くわ」と・・・

自分で、腹を刺したりノドを突いたりという事ができない母は、柱に刀をくくりつけて、そこに突進して息絶えたと言います。

続いて15歳の長男=隆秀は・・・
「本来なら、父上の介錯をすべきところですが、後に残るのはツライ」
と、腹を十文字に切りました

隆徳は、そんな長男の介錯をすると、返す刀で未だ8歳の次男を、片腕で抱くように引き寄せて、その刀で腹を貫きました

「女なのだから逃げろ」と言われ続けていた16歳の妹も、最後まで逃走を拒み、母を貫いた刀を手に取り、自害しました。

いよいよ残ったのは隆徳本人と、その妻=鶴姫・・・実は、この鶴姫、「乱世には何が起こるかわからぬ」と、幼い頃から太刀や薙刀(なぎなた)をはじめ、槍や馬術に至るまで、武芸のすべてを亡き父=家親から仕込まれていた女戦士だったのです。

愛しい家族の死を目の当たりにした鶴姫・・・
みるみる鬼の形相と化し、
「敵を討たずして死ねるか!」
と叫んだかと思うと、黒髪を解きほぐした頭に鉢巻きを巻き、兜を装着・・・腰には父の形見の宝刀=国平(くにひら)の太刀を刺し、鎧の上に紅の薄衣(うすぎぬ)をひるがえしながら、手に薙刀を持ち、

なんと!敵中に躍り出ていったのです。

それを見た女房たち36人・・・それまでは、奥方に続いて自害するつもりだった彼女たち全員・・・中には、赤ちゃんを背負った女性や、腰の曲がった老婆もいたと言いますが、そんな彼女らが次々と長槍を手に、後に続いたのです。

それを見た男たち・・・さすがに、このまま、男たちだけが自害するわけにはいかず、隆徳以下83人の城兵は、一斉に敵中に撃って出ました。

突然の女軍の出現に戸惑う敵兵は、最初こそバッタバッタと斬り倒されますが、さすがに、すぐさま態勢を整えて、反撃に移ります。

やがて、味方のほとんどが討死した事を見取った鶴姫・・・敵将の浦野宗勝(むねかつ)を見つけると、一騎討ちを申し出ます。

しかし、宗勝に、「女と勝負はできない」と断わられると、
「宗勝殿に、これを献上する!死後を弔って欲しい!」
と、言いながら、あの父の形見の宝剣を投げるようにして城中へと戻っていきました。

城へ戻った鶴姫は、先ほどとはうってかわって安らかな表情となり、夫=徳の介錯で自害したと言います。

もちろん、隆徳もそのあとに続き、常山城は落城となりました。

現在、穏やかな瀬戸内の海を望む常山城跡(岡山県岡山市南区&玉野市)には、高徳&鶴姫一族とともに、34人の女戦士のお墓が並んでいるのだとか・・・この勇敢な女戦士たちのお話は、「常山女軍の戦い」と称され、今に伝わります。
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2011年6月 6日 (月)

第2次蒙古襲来~弘安の役

 

弘安四年(1281年)6月6日、博多湾に10万の軍勢で蒙古が襲来・・・世に言う弘安の役の勃発です。

・・・・・・・・・・

文永五年(1268年)閏1月・・・の皇帝=フビライ・ハーンからよこされた国書を無視した日本・・・大帝国から売られたケンカ=日本始まって以来とも言える未曽有の危機を乗り越えるべく、未だ18歳の北条時宗第8代執権に就任したのは、その国書から2ヶ月後の事でした。

新しきリーダーに、未だ盤石とな言い難い内政ではありつつも、来るべき敵に備えて、北九州を中心とした要地の防備に尽力する時宗・・・

やがて、文永十一年(1274年)10月5日に対馬(つしま)沖に現われた元軍は、またたく間にかの地を占領(10月15日参照>>)、10月19日には博多湾に侵入してきました・・・

これが文永の役(10月19日参照>>)なわけですが、一旦は博多を落されながらも、翌日に忽然と姿を消した元軍・・・ご存じのように「神風のおかげ」と言われる、突然の元軍撤退ですが、とにもかくにも、こうして一度めの蒙古襲来に、日本は耐えわけです。

一方のフビライ・・・

日本への文永の役と同時に、南宋への侵出も開始していたフビライは、1276年、南宋の首都=臨安(りんあん=現在の杭州)を陥落させ、南宋を滅亡に追いやります。

ただ、その後も、南宋皇帝の遺児を掲げた生き残りによる反乱がしばらくは続きましたが、それも3年後の1279年3月に完全粉砕・・・ここに、名実ともに中国全土を統一したのです。

こうして、思う存分、日本に目を向ける事ができるようになったフビライ・・・わずか3カ月後の弘安二年(1279年)6月に、元への服属を要求する使者を日本に派遣して来たのです。

ところが、周福(しゅうふく)を正使とするこの一行=3名を、日本側は大宰府で斬首してしまいます。

もはや臨戦態勢の日本・・・というか、すでに、この4年前の建治元年(1275年)に、執権=時宗は、元の使者=5名を斬首して、その徹底抗戦の姿勢を見せていました(9月7日参照>>)、フビライのところには、そのニュースが届いていなかったようで、どうやら、今回の斬首事件で初めて、前回も同じような事になっていた事を知った・・・という事のようです。

とにかく、これに激怒したフビライ・・・中国全土を支配したモンゴル民族の威信にかけて、日本に再度の遠征軍を派遣する決意を固めたのです。

実は、この遠征軍の派遣は、フビライにとっても好都合な事でした。

・・・というのも上記の通り、中国全土を支配したという事は、先の南宋の生き残りのように最後まで抵抗する者もいる事はいるものの、そんな数はほんの一部・・・それより、はるかに多くの将兵が、すんなりと降伏して服属しているわけで、この頃、フビライが抱える兵の数は、ハンパなく多いものとなっていたのです。

一説には、首都の臨安だけで40万人もいたのだとか・・・

そんな彼らのすべてを元軍の兵士とすれば、それこそ膨大な費用がかさむわけですが、かと言って何かあったらすぐ解雇!とすると、それはそれで、いらぬ反乱に発展するかも知れません。

そこで、フビライは、旧南宋軍や漢人(中国北部の民族)や高麗(朝鮮)人などを中心にして日本遠征軍を再編成・・・それこそ、攻略したあかつきには、そこが彼らの新天地になるとでも言わんばかりの膨大な遠征軍が組織されたのです。

その数は、約10万人とも言われます。

こうして、弘安四年(1281年)1月4日・・・フビライは諸将に、日本再征軍の出陣を発令しました。

高麗の港=合浦(がっぽ)から出発する東路軍と、旧南宋の慶元(けいげん・現在の寧波)から出発する江南軍・・・大きく2手に分かれた軍団は、合計:3500隻という前代未聞の船団を組んで海を渡ります

Moukosyuuraigennnofune900
元軍の船(宮内庁三の丸尚蔵館蔵「蒙古襲来絵詞」部分)

・・・とは言え、実は、その中の多くが、まるで移民団のごとき非戦闘員であったとか・・・

近年の研究では、10万と言えど、ほとんどが鋤(すき)や鍬(くわ)などを武器として持つ農民兵で、弓矢などの装備が許されていたのは、監視役の軍人=約3000人ほどだったと言われます。

一方の、日本側は、九州と関東の御家人を合計すれば、約4万のプロ戦闘集団だったとも・・・

とにもかくにも、世界最大とも言える大艦隊は、5月21日に対馬に上陸・・・26日には壱岐(いき)を攻撃した後、前回と同様に、博多湾沿岸から上陸すべく、一部の船団が長門(山口県)へと向かいます。

かくして弘安四年(1281年)6月6日博多湾上に姿を見せた蒙古=元軍・・・しかし、彼らが見た物は・・・

渡す限りの海岸に築かれた鉄壁の防塁=石築地(いしついじ)でした。

そう、執権=時宗は、前回の文永の役を踏まえて、元軍の上陸を阻むべく、要所要所に防塁を築いて準備万端整えていた(3月10日参照>>)のです。

さぁ、どうする元軍・・・

と、このお話の続きは、次に動きのあった7月1日のページへどうぞ>>o(_ _)oペコッ
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2011年6月 4日 (土)

比叡山を日本仏教の母山とした伝教大師・最澄

 

弘仁十三年(822年)6月4日、伝教大師として知られる天台宗の開創者・最澄が56歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・

第29代・欽明天皇の時代に、百済(くだら)聖明王(せいめいおう)から、仏像拝みセットをプレゼントされた仏教伝来に始まる日本の仏教・・・(3月30日参照>>)

日本古来の神を優先する物部氏と、渡来系の束ね役として仏教を推す蘇我氏とのスッタモンダの末、物部守屋(もののべのもりや)(7月7日参照>>)を倒した蘇我馬子(そがのうまこ)日本初の僧寺・法興寺(元興寺=建っていた場所は現在の飛鳥寺の場所ですが、元興寺自身は平城京遷都とともに現在のならまちに移転)建立して(4月8日参照>>)徐々に日本に浸透していった仏教は、やがてその蘇我氏と天皇家の血をひく聖徳太子の時代に、国家の思想的基盤になるまでに至り、神教と並ぶ2大宗教となりました。

その後、ますます盛んになる仏教は、まるで国教のごとき勢いで、天皇自ら、各地に国分寺&国分尼寺建立の詔(みことのり)を発布し、あの東大寺大仏開眼(10月15日参照>>)という一大イベントを経て、南都奈良仏教の最盛期を迎えます。

とは言え、あまり勢力が強くなり過ぎると、何かと問題も起きるわけで・・・っで、これら南都の宗教勢力を払拭するかのごとく、奈良のお寺は奈良に置いたまま(それまでは都が移転すると寺も新都に移転してました)平安京という新しい都に遷都したのが、第50代・桓武天皇でした(10月1日参照>>)

こうして、日本的な文化の開花期と言われる平安時代へと突入するわけですが、仏教界でも、ここに、日本生まれの日本人のための宗派が誕生するのです。

それが、伝教大師(でんぎょうだいし)最澄による比叡山を本拠地とする天台宗と、弘法大師(こうぼうだいし)空海による高野山を本山とする真言宗です。

・‥…━━━☆

Saityou600 最澄は、神護景雲元年(767年)の近江国滋賀郡にて、志賀漢人系の渡来氏族の豪族の子として生まれたと言います。

12歳で近江国分寺に入って、大国師行表(ぎょうひょう)の弟子となり、14歳で得度(とくど=出家の儀式)・・・その名を最澄と名乗りました。

その後、19歳の時に東大寺の戒壇(かいだん=正式な戒を受ける場所)にて受戒して僧の資格を得ますが、その直後・・・突如として比叡山に登って一乗止観院(いちじょうしかんいん)という草庵を建てて、そこで山林修業の生活を始めたのです。

当時の仏教界の墜落を見て独自の道を歩み始めた・・・といった感じですが、時に延暦七年(788年)、最澄=21歳、この一乗止観院が、後に根本中堂と呼ばれます。

ここで、ただひたすら修業に励む最澄・・・
「浄戒を身具するまではお布施を受ける法要には出ない」
「空智を得るまでは世間との関係を断つ」
「功徳は己に受けない」

などなど・・・当時の願文には、並々ならない決意が記されています。

こうして、徐々に僧としての力を身につけ、その名も知られるようになっていくわけですが、ここに、最澄にとってラッキーサプライズが起こります。

そう、それが、あの桓武天皇の平安京遷都・・・鳴くよ(794)ウグイス平安京から見て、比叡山が、(うしとら)の方角=鬼門に当たる場所である事から、そこを本拠地とする最澄に、桓武天皇は多大の信頼を置くようになるのです。

延暦十六年(797年)には、十禅師(宮内庁御用達の10人の僧)の一員となり、翌・延暦十七年(798年)からは、毎年、一乗止観院にて法華経講会を開きますが、これがまた大評判!

かくして延暦二十三年(804年)、37歳となった最澄は、遣唐使として中国に渡るわけですが、この時、同じく、遣唐使として海を渡ったのが、修業中の空海でした。

とは言っても、すでに高僧の名をほしいままにしている最澄の待遇は還学僧(げんがくそう)=朝廷から認定された国費での留学生だったのに対して、未だ無名の空海は、お金を払って遣唐使船に乗せてってもらうだけの私費留学生・・・この時ばかりは、7歳の年の差以上に、最澄は空海より、遥か上にいる存在だったのです。

しかし、この事が、後の二人の関係に、大きく関わってきます。

ところで、この時の二人・・・遣唐使時代に顔を合わせた形跡がな無い事から、おそらく、彼らは別々の船に乗ったのだろうと言われていますが、以前も書かせていただいたように遣唐使船は4艘で1団体(4月2日参照>>)・・・この時、同時に船出したうちの第3船は暴風雨のために途中で引き返し、第4船は消息不明となっています。

つまり、無事、大陸に到着した2艘のうちのどちらかに最澄が、残りのもう一つに空海が乗っていたわけで、どちらか一方、あるいは二人ともが3番目や4番目に乗っていたら、その後の天台宗&真言宗の誕生もどうなっていたか・・・まさに、歴史の女神のイタズラが、その後の日本も変えたのですね~

こうして、無事、唐に渡った最澄は、到着後、ただちに天台山のあるに台州(だいしゅう)に向かい、そこにある国清寺(こくせいじ)の僧・行満(ぎょうまん)から、中国の正統天台宗の教えと大乗戒(だいじょうかい=大乗の菩薩が受持する戒)を受けると同時に、多数の経典を書写するなど、とにかく、勢力的に本場の仏教を学び、吸収していきます。

・・・というのも、国費の留学生は、遣唐使節とともに唐に渡って、遣唐使節とともに帰って来なくてはならない・・・つまり、(公費だから当然かも知れないけれど)滞在の日数が決まっていのです。

最澄の場合は、実質8ヶ月しか中国にはいられませんでした。

もちろん、私費で行った空海は滞在し放題・・・

やがて、まもなく帰国という頃、一応、「滞在中にやらねば・・・」と目標にしていた事を達成した最澄は、ふと、現在の唐で、密教なる物が流行っている事に気づき、慌てて、その門を叩いて、にわか密教を学んでみたりしますが、とてもとても、残ったわずかな時間で学べる物ではなく・・・

帰国後の延暦二十五年(806年)には、桓武天皇のもとで天台宗の創立が公認され、まさに宗祖となった最澄ですが、密教を思う存分学べなかった事は、彼の心残りとなったのです。

一方、やりたい事がやれる環境にあった空海は、まずはサンスクリット語インド哲学を学ぶところからはじめ、その後、真言密教の大成者であった青龍寺(せいりゅうじ)恵果(えいか)を訪ね、その大法を授けられた後、2年後に帰国します。

その後、密教に興味を持った嵯峨天皇によって、空海は仏教の星となっていくわけなのですが・・・そう、ここで、中国で思いっきり学べなかった最澄の心残りです。

何にでもベストを尽くさないと気がすまないマジメ最澄は、「どうしても密教の事を知りたい!」とばかりに、自分よりもはるかに地位の低い空海に教えを乞う事になるわけですが・・・

マジメ最澄の質問攻めに空海はウンザリし、経典の貸し借りでトラブり、果ては、弟子の引き抜きにまで発展し、結局、この事が両者の間に大きな亀裂を生む事になってしまったわけです(12月14日参照>>)

こうして、晩年には空海との決別がありつつも、南都仏教と教義上での激しい論争にも負ける事なく、天台宗の基礎を築きあげた最澄ではありましたが、弘仁十三年(822年)6月4日56歳でその生涯を閉じます。

「我が為に仏を作る勿(なか)れ、我が為に経を写す勿れ、我が志を述べよ」

この精神を引き継いだ弟子たちによって、比叡山は日本仏教の母体と言えるほどの隆盛を極める事となるのです。
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2011年6月 3日 (金)

北条→豊臣→徳川…世渡り上手な外交軍師・板部岡江雪斎

 

慶長十四年(1609年)6月3日、戦国期に優秀な軍師として、北条→豊臣→徳川と渡り歩いた板部岡江雪斎が、この世を去りました。

・・・・・・・・・・・

以前、北条氏に仕えた名軍師中山修理介(なかやましゅりのすけ)さんをご紹介した時に、その軍師なる職業にも、イロイロ種類がある事を書かせていただきました(10月7日参照>>)

くわしくは、ソチラのページで見ていただければうれしいのですが、ここで簡単に説明させていただきますと・・・

占いや風水などによって、合戦の日づけや攻める方角などをアドバイスする陰陽師修験者・・・そこに、気象予報士的な才能も加えた軍配者

有力な武将の下に補佐役としてつく与力が、現地では軍勢の指揮などする旗本軍奉行になったり・・・

殿さまが子供の頃に、教育係として側にいた(もり)や、身の回りの世話をする小姓が、大人になってそのまま殿さまの補佐をするのも・・・

これらは、皆、軍師と呼ばれます。

そんな中で、現在の私たちが軍師と聞いて、最も思い浮かべるイメージであろう軍議などの意思決定機関で、作戦を考えたり、アドバイスしたりする人・・・これらは、大抵複数いて、評定衆と呼ばれていた軍師なわけですが、

そんな軍師たちに共通する仕事の中には、戦で活躍するだけではなく、平時における周辺諸国の情報収集や対外交渉など、今で言うところの外交官的な仕事領国の経営などもあったわけです。

・・・で、本日ご紹介するのは、軍議に参加する評定衆でありながら敏腕外交官・・・いや、実力No,1の外務大臣といった感じ、しかも、かなり世渡り上手な板部岡江雪斎(いたべおかこうせつさい)です。

えぇ???どれが名前で…(@Д@;って私も思いましたが(笑)、板部岡が苗字ですww

もともとは、伊豆下田の僧侶だったと言いますが、その才能を、相模(神奈川県)の戦国大名・北条氏康に認められて、祐筆(ゆうひつ・秘書)に取り立てられます。

それ以降、氏康の嫡男=氏政、そのまた嫡男の氏直と、北条3代に仕えて、奉行から評定衆の一人へ・・・という出世を果たします。

・・・で、上記の通り、平常時の評定衆は、会社で言うところの取締役執行役員のような感じで、領国経営にも当たるわけですが、現在、発見されている北条家の領地経営に関する文書で、最も多く登場するのが、この江雪斎だという事ですので、その活躍ぶりのスゴさもうかがえますね。

ただ、そんな江雪斎さんですが、1度だけ大きな失敗をしております。

それは天正元年(1573年)・・・あの甲斐(山梨県)武田信玄が亡くなったとの噂が飛び交った頃、その真偽を確かめるべく、氏政の命を受けて、病気見舞いと称し、甲斐へとおもむいたのです。

・・・が、その時、江雪斎に対面したのは、信玄の異母弟の武田信綱・・・実は、本当に、すでに信玄は亡くなっていたわけですが、敵もさるもので、信玄に姿形が良く似た信綱を、(すだれ)越しの対面で対応・・・さすがの江雪斎も、これでは見抜けず、まんまと影武者にしてやられてしまったというわけです。

しかし、その後、武田と決裂した北条が、天正十六年(1588年)に徳川家康と同盟を組む時、自ら、家康のもとへとおもむいて、氏直と督姫(とくひめ=良正院・家康の次女)との結婚実現に尽力し、結納の日取りをはじめ、結婚のあれやこれやを取り決めたと言います。

この時、武田の旧領である信濃を巡って、北条とは対立関係にあった徳川を、和睦=婚姻にまで持っていったのですから、その外交手腕は大したものです。

やがて、天下統一にまい進する豊臣秀吉が、氏政・氏直父子に「上洛して挨拶に来てぇな」と、無理難題を言って来た時・・・

上洛を拒む氏政らを、北条氏規(うじのり・氏政の弟)(2月8日参照>>)とともに説得しつつ、自らも天正十七年(1589年)に上洛して秀吉に拝謁し、主君の上洛の件についての最終的な詰めを行い、関係の修復にあたりました。

ところが、こうして、せっかく江雪斎がダンドリを組んだ主君の上洛話は、北条氏照(氏政の弟)や家老の松田憲秀(のりひで)らの反対派に押し切られ、ポシャッってしまうのです。

そして、その年の11月・・・ご存じのように、秀吉は北条のぶっ潰し小田原征伐を決意します(11月24日参照>>)

ここで、とうとう北条を見限ったのか?
開戦からしばらくして後、なんと江雪斎は、秀吉の軍門に下るのです。

しかしながら、そもそもは、秀吉に「上洛する」との約束をして小田原に戻っていた江雪斎・・・結局は、それが実現しなかったわけですから、秀吉から見れば、約束破りの憎いヤツ・・・。

って事で、小田原征伐が終わった後は、秀吉からの激しい怒りが江雪斎にぶつけられました。

ところが、ここで江雪斎慌てず騒がず・・・「すべての責任は自分にある」として、一切の弁明をしなかったのだとか・・・

Toyotomihideyoshi600 ・・・で、お察しの通り、この実直な態度に秀吉カンゲキ!

その罪を許すどころか、御伽衆(おとぎしゅう・主君の側に仕えて話し相手となる)として、彼を配下に加えたのです。

もともと、先の上洛のダンドリを組んだ際に、自ら茶を点ててもてなしたという逸話が残るくらいに江雪斎の事を気に入っていた秀吉・・・一方の江雪斎から見れば、すでに、秀吉の好みのキャラクターを見抜いていたのかも知れませんね。

以後、姓を岡野と改めて、秀吉に仕えた江雪斎・・・

やがて、秀吉の死後に訪れた関ヶ原の合戦では、ちゃっかりと家康につき、小早川秀秋の寝返り作戦にも力を発揮しました。

私的には、和歌や茶道を好む風流人だったという江雪斎・・・慶長十四年(1609年)6月3日、伏見にて、その生涯を閉じます。

・・・が、世渡り上手な彼のおかげで、息子以下、岡野家は、旗本として江戸時代を生き残り、200年ほど後の文化十四年(1817年)には、水野忠成(みずのただあきら・水野家へ婿養子に入った)という老中にまで上り詰める人材を輩出する事になるのです。
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2011年6月 2日 (木)

近代日本の日清戦争への足音

 

明治二十七年(1894年)6月2日、清国の出兵に対して、第二次伊藤博文内閣が朝鮮への派兵を決定しました。

・・・・・・・・・・・

大きな犠牲をはらいながらも、明治維新を成し遂げた新生日本にとって、一番の目標は、日本という国を世界に認めてもらい、対等な外交関係を築く事・・・

まずは手始めに、近くの東アジアへ・・・とばかりに積極的に動き、明治四年(1871年)には、お隣の清国(中国)との日清修好条規を締結しました。

しかし、こうして江戸時代の関係を払拭して、新たに近代的な外交を築くという事は、一方の江戸時代の外交関係をそのままに継続する事は難しくなるわけで・・・

そう、これまで、日本と同様の鎖国を行いながら、江戸時代に国交を築いていた朝鮮とは、逆に、明治維新以来、国交が途絶えた状態となってしまったのです。

当時の朝鮮を支配していたのは、清国への従属と攘夷(じょうい・外国を排除)を掲げる大院君(テウォングン)・・・

しかし、1873年(明治6年)、大院君は皇后・閔妃(ミンビ)の一族によって失脚させられてしまいます。

一方、日朝交渉が進展しない事にいら立つ日本では、征韓論も巻き起こったり(10月24日参照>>)なんぞしながらの1875年(明治八年)9月20日・・・朝鮮の首都・漢城(ハンソン・現在のソウル)近くの江華島付近において、日本と朝鮮の武力衝突江華島(カンファド)事件が起こります。

「英国船が来襲するとの噂にピリピリしていたところに登場した日本船を西洋船と誤認して攻撃した」と主張する朝鮮側と、
「日章旗を掲げていたんだから誤認するはずない」と主張する日本側と・・・

双方の主張は食い違うものの、明確な謝罪を要求した日本に対して、朝鮮側が、日朝修好条規(江華条約)を締結するとともに、江華島事件と、これまでの日朝交渉の停滞に対する謝罪文を出した事で、この事件は決着しました。

そして、この日朝修好条規では、朝鮮を「自主ノ邦(くに)」=独立国と規定していた事で、これをきっかけに欧米諸国とも条約を結んだ朝鮮は、一気に開国の道へと進みます。

こうして新たな道を進み始めた朝鮮ですが、まだまだその基盤は緩い状態・・・1882年(明治十五年)7月、漢城で大規模な兵士の反乱(壬午事変)が勃発します。

この乱では、その時、在留していた日本人も多く殺された事で、事態を重く見た明治政府は鎮圧軍を派遣・・・しかし、この乱の鎮圧に活躍したのは、やはり、日本と同様に兵を派遣して来た清国の鎮圧軍でした。

この出来事で清国の力を見せつけられ、日本のような近代化政策はムリと判断した朝鮮政府は、再び、清国を宗主国とする服属関係を基盤とした親清政策へと方向転換・・・

しかし、もちろん、すでに一度独立国となって新たな道を歩み始めた以上、またもや清国の属国となってしまう事をヨシとしない人たちは、まだまだいるわけで・・・

日本としても、隣国・朝鮮の近代化は、自国の政財界への影響も大きいわけですし、日本と同じような独立した近代立憲君主制国家の樹立を夢見る彼ら=開化派を支援しようという動きもできてきます。

こうして日本側の支援を得た開化派は、1884年(明治十七年)にクーデター(甲申事変)を決行・・・しかし、これも、出兵した清国軍に鎮圧されてしまいます。

これによって緊張高まる日本VS清国・・・この緊張を緩和するために、翌1885年(明治十八年)に日本側全権・伊藤博文と清国側全権・李鴻章(りこうしょう)によって、天津条約が結ばれます。

この条約の締結によって、日清両国とも、漢城から即時撤退する事、今後、朝鮮に出兵する時は事前に通告する事となりました。

Bigotnissin600
 ビゴーの風刺画(横浜開港資料館蔵)
日清戦争と言えば、必ず教科書に登場するこの絵…CORЀE=魚(朝鮮)を釣り上げようと競う左(日本)と右(清国)を、漁夫の利を狙って橋の上から眺めるロシア

とは言え、朝鮮国内では、未だ停滞した政治が続き、物価の高騰も留まる所を知らず・・・

その結果、1894年(明治二十七年)、不満を持った農民による反乱が勃発・・・2月に起こった反乱は、またたく間に全土に広がり、もはや国内は内乱状態となります。

後に甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)、もしくは、東学(とうがく=民間信仰をベースにいた朝鮮独自の思想を持つ宗教結社)の信者が多く関与していた事から東学の乱とも呼ばれる反乱です。

その鎮圧に困り果てた朝鮮政府は、清国に鎮圧軍の出兵を依頼します。

もとより、朝鮮の支配権を強化したい気満々の清国は、即座に、これに応じて出兵・・・

これは、日本も捨ててはおけません。

朝鮮の内乱をほったらかしにするだけじゃなく、その鎮圧を清国に丸々まかせてしまっては、天津条約で約束した日清両国の均等平等関係はどうなるんだ?って事になりますから・・・

かくして、朝鮮への介入が叫ばれる中の明治二十七年(1894年)6月2日、伊藤博文内閣は、現地にある公使館や在留邦人の保護を理由に軍隊駐留権を定めた済物浦(チェムルポ)条約に基づき、出兵を決定したのでした。

こうして、お互いに派兵した日清両国は、やがて本格的な戦争へと突入・・・これが日清戦争です。

・・・とこの続きのお話は、大鳥圭介海軍陸戦隊と供に仁川に上陸した6月9日【いよいよ日清戦争へ…】でどうぞ>>
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2011年6月 1日 (水)

武士の情けの収容所に響く「歓喜の歌」

 

大正七年(1918年)6月1日、ベートーベン「第九」が、徳島県にあった板東俘虜収容所のドイツ兵捕虜によって全曲演奏され、これが、日本における「第九」の初演となりました。

・・・・・・・・・

今では、年末恒例の曲となっているベートーベン交響曲第9番ニ短調・・・日本では「第九(だいく)と呼ばれ、合唱を伴って演奏される第4楽章「歓喜の歌」として親しまれています。

しかし、近年の研究で明らかとなった、この曲の日本初演は、東京や大阪ではなく、徳島・・・そして、年末ではない6月1日の事だったのです。

・‥…━━━☆

時は1914年(大正三年)6月・・・ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻が銃撃されたサラエボ事件をきっかけに始まった第一次世界大戦は、ヨーロッパを主戦場に、イギリスフランスロシアなどの連合軍と、ドイツオーストリア同盟軍との戦いに世界中の多くの国が参戦するという人類史上初の世界大戦となりました。

当時の日本は、イギリスとの日英同盟に基づいて連合国側として参戦・・・8月にはドイツに宣戦布告して、中国青島(チンタオ)にあったドイツ軍の極東拠点を攻撃して、要塞を陥落させました。

この時、降伏したドイツ軍から、捕虜となって日本に送られて来たドイツ兵は約4600人・・・彼らは、北海道を除く全国各地に点在する収容所に振り分けられる事になりますが、そのうちの約1000人が、徳島県板野郡板東町(現在の鳴門市大麻町)にあった板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ)に収容されたのです。
(俘虜は第二次世界大戦以前の公式名称で、意味は捕虜と同じです)

それにしても、捕虜と言えば、その置かれた立場から、どうしても過酷で暗いイメージ・・・あまりにも苦しい収容所の生活から抜け出そうとして脱走する、なんて映画も過去に見た記憶がありますが、そんな所で、「第九」の初演とは???

実は、日本の陸軍省では、1899年(明治三十二年)にオランダハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された「ハーグ陸戦条約(ハーグ協定)を適用した捕虜規定を、明治四十四年(1911年)の時点で決めていて、捕虜に対する人道的な扱いをするように定めていたのです。

当時、ロシアに囚われてシベリアに送られたドイツ軍捕虜は、その手紙の中に
(日本に収容された)わが同胞は救いと考えた」
と、書いているほど、日本側の捕虜の扱いは人道的だったのです。

Matuetoyohisa400 特に、板東俘虜収容所の所長であった松江豊寿(まつえとよひさ)大佐は、
「博愛の精神と武士の情けをもって俘虜に接する事」
を、全職員に訓告し、それを実践・・・捕虜たちの自主活動を推進した人だったのです。

一定の秩序のもとよく組織された彼らには生産労働が許され、収容所の敷地内には、西洋野菜を栽培する農園酪農園ウイスキー蒸留生成工場がなどが作られ、それ以外にも、トマトケチャップやハム、パンや石鹸なども製造していました。

また、地域との交流も許されていましたから、それらの製造方法を、周辺地域の人に指導するという事も度々ありました。

もともと、捕虜たちの中には、すでに社会人として就労していた中で志願兵となって戦いに挑んだ者も多かった事で、家具職人や時計職人、楽器職人や写真家など、様々な技術を持っていた者もたくさんいて、彼らの技術を活かして現地に建設されたドイツ橋という石橋も、現在に残っています。

そんな彼らは、文化活動も盛んで、日本語教室も開かれたほか、講演会や演劇やスポーツも楽しんでいて、収容所には、地元の人々の見学が絶えなかったと言います。

そんな中で、大正七年(1918年)6月1日に行われたのが、彼ら=ドイツ兵捕虜によるベートーベンの交響曲第9番の演奏・・・これが、日本初の「第九」という事です。

ただし・・・
本来は混声の合唱であるのが、収容所には男性しかいなかったため、合唱部分はすべて男性用に編曲・・・また、足らなかった楽器部分をオルガンで代用したため、
「この演奏を初演とは言えない」
とする声がある事も確かです。

また、この出来事を有名にするきっかけともなった2006年製作の映画『バルトの楽園』では、近隣住民を招待した演奏会となっていましたが、実際には、収容所内で行われた小規模な演奏会で、演奏を聞いた日本人が収容所の関係者だけという事で、広く、日本人が親しんだというわけでもなく
やはり「これを日本での初演とするのは…」
との異論もあります。

まぁ、音楽の専門家の方から見れば、できるだけパーフェクトな演奏を日本初としたいお気持ちもわかります。

とにもかくにも、後に祖国に帰った捕虜たちの間で、この収容所での生活を懐かしむ「バンドー会」なる親睦会が、各地で結成されたと言いますから、日本人としては、なんとなくウレシイです。

これらの事で、この板東俘虜収容所は、今なお最も有名な俘虜収容所と言われ、捕虜と住民たちの交流は、文化的にも学問的にも、さらに、食文化の西洋化にまで・・・日本とドイツに大きな影響を与え、両国の発展を促したとの評価を受けています。
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