« 島津四兄弟の父となった中興の祖・島津貴久 | トップページ | 名誉か?重荷か?謙信にとっての関東管領職 »

2011年6月24日 (金)

神頼み?悪口?上杉謙信の「武田晴信悪行の事」

 

永禄七年(1564年)6月24日、上杉謙信武田信玄との決戦にのぞみ、春日山城内の看経所と弥彦神社に「武田晴信悪行の事」と題する願文を納めました。

・・・・・・・・・

上杉謙信(長尾景虎)武田信玄(晴信)と言えば、川中島の合戦・・・

このブログでも何度か書かせていただいております通り、川中島の戦いと呼ばれる合戦は合計で5回・・

このうちの第4次の八幡原の戦いが、信玄の弟である信繁(2008年9月10日参照>>)や、天才軍師と呼ばれた山本勘助(2010年9月10日参照>>)をはじめ、多くの死者が出た事で、川中島の中では一番激しかった戦いとされ、一般的に川中島の合戦という場合は、この第4次の戦いを指す事が多いです。

とは言え、この川中島・・・けっこう謎に満ちています。

文献によっては11回あったなんて話もあり、対峙しただけで戦ってない場合もあり、多くの死者が出た第4次でさえ、伝えられるその内容は、実際にはあり得ない「啄木鳥(きつつき)戦法」だの、肉体的に不可能な「車がかりの戦法」だのが登場し(2007年9月10日参照>>)

「確かに、重要人物が亡くなっている以上、戦いがあった事は確かだが、それほど激しい物ではなかったと考える専門家の方も多くおられます。

実際に、川中島の戦いで、どう歴史が変わったのか?というと、あまり大勢の変化はありません。

もちろん、この一連の戦いが引き分けに終わったという事で、より影響を及ぼさなかったという事もあるのでしょうが、しいて言うなら、ここで大物の二人がワチャワチャやっていてくれたいかげで、織田信長が台頭するキッカケになったと言えば、言えなくもない気がします。

しかし、そんなに影響を及ぼさなかった戦いであるにも関わらず、戦国屈指の有名な合戦として語られるのが川中島の特徴・・・

個人的なイメージかも知れませんが、同じく特徴と言えば、戦ったどちらもが悪く描かれないという点も特徴じゃないでしょうか?

普通、ドラマなどで描かれる場合、やはり主人公側から見ると、敵となる人物を悪く描かないと、なんだかオモシロくない・・・

たとえば、大坂の陣なんかでも・・・
豊臣側から見れば、百戦錬磨のタヌキ爺=徳川家康が、未だ実戦経験の無い若武者=豊臣秀頼に無理難題のイチャモンつけて潰しにかかり、それを浪人の身となった日本一の兵=真田幸村(信繁)命をかけて守ろうと・・・となりますが、

家康側から見れば、ここまで力の差があるにも関わらず、あれやこれやと条件を出して、戦いを回避する道を提示しているのに、プライドの高い淀殿が、キーキー声で仕切りまくり、現状を見ないまま破滅へと向かって行った・・・てな感じになるのではないでしょうか。

しかし、川中島で戦った二人の場合は・・・いわゆる好敵手として、両者ともカッコ良く描かれる場合が、多い気がします。

それは、やはり、信玄が死の間際に、
「我が亡き後は謙信を頼れ」と遺言したとか、

逆に、信玄の死を聞いた謙信が
「惜しい人を失った」と言って涙を浮かべたとか、
てなエピソードや、

「敵に塩を送る」=(苦境にある敵を助けること)の語源となったエピソード・・・

永禄十年(1567年)・・・あの今川義元亡き後に信玄が今川との同盟を破った(12月12日参照>>)、それに怒った今川と北条が強力タッグによって、武田領内への塩の供給をストップさせます。

海の無い甲斐&信濃で、塩を止められた事は死活問題・・・苦しむ領民を見兼ねた謙信が、あれだけ川中島で対峙した相手であるにも関わらず、越後から信濃へ塩を送り、武田の領民を助けたという話です。

・・・が、お察しの通り、実際には、そこまでキレイ事ではすませられないのが世の常であります。

夢を壊すようで、心苦しいですが、上記の「塩を送る」話も、実際には、越後の商人が信濃に塩を売って商いをする事を規制しなかったというだけで、それも、例え規制したとしても、ヤミでいくらでも流出するのですから、「したって効果ないやん」てな感じでやらなかっただけと言われています。

もちろん、これは謙信&信玄に限らず、戦国武将のほとんどがそうなわけですが、合戦の前においても、スカッと爽やかに戦いに挑む・・・というよりは、けっこうドロドロとした事をやっちゃってたんですね~

それが、本日ご紹介する、謙信が弥彦神社に納めた永禄七年(1564年)6月24日付けの「たけ田はるのふあくきやうの事(武田晴信悪行の事)」と題する願文・・・(長い前置きで申し訳ないm(_ _)m)

永禄七年(1564年)6月24日と言えば、冒頭のリンクでもお解りの通り、川中島でも最後の戦いとなった第五次=塩崎の対陣の1ヶ月チョイ前という事になります。

この時、謙信は、戦国武将の常として神社に願文を奉納します。

願文というのは、「頑張りますんで今回の戦いに勝たせてください」てな願い事を書いて、それを神様に奉納して、願いを聞き入れてもうらおうという物ですが、合戦に限らず、安産祈願や病気治癒など、当時は、様々な有名人の願文が、いろんな神社に奉納されており、けっこう、これで、謎だった歴史の一部が解明される事もあるシロモノです。

・・・で、気になるその内容は・・・

  1. 飯縄戸隠小菅なんかの有名神社がすっかり衰えて、供物や灯明もあげられへんようなってますやん
  2. 塚原の対陣の時には、駿河の今川義元はんの仲介で和睦して、その時、神さんの前で誓詞を交わして誓ったのに、信玄はすぐに、それを破ってますやん
  3. 信州では、寺社の領地を勝手に誰かに与えたりして、仏法も滅びてまっせ
  4. 武田が何の関係もない隣国を取ろうと野心を抱いてムチャクチャするさかいに、大事な御堂やら御宮が焼失したりしてます・・・これも、晴信は間違てます
  5. (アイツのせいで…)信州の仏神の氏子らが、滅亡させられたり、追放されて流浪の身になったりしてます・・・ここで、神さんが助けてくれはれへんかったら、あの人ら、神様を信じひんようなりまっせ
  6. すでにアイツは自分の親=武田信虎を追い落として流浪の身にさせるという人の道に外れた事やってますやん・・・これ、神様の心に背いてまっしゃろ?
  7. この秋の間に、俺が武田晴信を倒して、本願遂げたあかつきには、お宅の本社やお堂なんかに、出来る限りの事やらしてもらおと思てますさかいに、どうぞ、この件、よろしゅーに・・・、

・・・て、悪口大会になってる気がしないでもない(゚ー゚;・・・

Uesugikensin500 まぁ、謙信に言わせれば、悪口ではなく事実を言ってるだけで、それを神様に報告して、アチラに天罰を、コチラに勝利を・・・って事なわけですが、

謙信は、第3次の前、弘治三年の正月二十日付けでも、同じような願文を更級(さらしな)八幡宮に納めています。

やはり、信玄の悪行を並べ立て、「正義は我にある」「だから勝たせてね」と、神様を納得させるような文章・・・

一方、信玄ももちろん負けていません。

Takedasingen600 同時期ではありませんが、永禄元年(1558年)8月付けで、戸隠(とがくし)神社に奉納した信玄の願文は、
「信濃の12郡が自分の物になるかどうかを占わせたところ“舛の九三”という、必ず得られるという結果が出ましてん。」
とか
「越後の謙信の和を破って戦いを始める事がええかどうかを占ってみたところ、“坤(こん)”て出ましてん・・・これって、先に迷って後に得んって事やから、今年中には国が手に入るって事ですやん。
もし、越後から攻めて来られても、敵が滅亡して、こっちが勝つのが当然です」

とか、コチラは願文というよりは、占いの結果報告なんですが(^-^;

いずれにしても、「人事を尽くして天命を待つ」・・・
戦国武将と言えど、最後の最後は神頼み

今でさえ、受験などでは、必死で勉強した後、最後の最後には神頼みですから、毘沙門天を信じてた謙信と、諏訪明神を仰いでた信玄じゃ、その神頼みにもリキが入っていた事でしょう。
 .

あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 島津四兄弟の父となった中興の祖・島津貴久 | トップページ | 名誉か?重荷か?謙信にとっての関東管領職 »

戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

昔々の大河ドラマ「天と地と」では、最終回で初めて両雄が対峙しているんですね。この番組の武田信玄役の高橋幸治さんは、10年前から活動をしてないんですが、芸能界引退ではないらしいんです。
川中島の戦いは「引き分け」と見なされますが、上杉から見たら「防衛勝ち」と言えますね。本国の越後を取られていないので。でも武田信玄が「越後を取ろう」と、本気で考えていたかどうかはわかりません。

投稿: えびすこ | 2011年6月24日 (金) 20時28分

えびすこさん、こんばんは~

謙信にとっては、越後を取ったり取られたりより、名ばかりとなった関東管領を現実支配できるかどうかにあったようにも思います。

投稿: 茶々 | 2011年6月25日 (土) 01時34分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 神頼み?悪口?上杉謙信の「武田晴信悪行の事」:

« 島津四兄弟の父となった中興の祖・島津貴久 | トップページ | 名誉か?重荷か?謙信にとっての関東管領職 »