壬申の乱での装備や武器は?
天武天皇元年(672年)6月29日は、古代屈指の大乱・壬申の乱での最初の戦闘・・・大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)側の武人・大伴吹負(おおとものふけい)による倭京の制圧があった日ですが、その状況につきましては、力不足ながらも、昨年の6月29日に書かせていただきましたので、ソチラで見ていただくとして・・・(2010年6月29日のページへ>>)
本日は、昨年の壬申の乱関連の記事で書き切れなかった、当時の装備や武器についてお話させていただきたいと思います。
・・・・・・・・・
合戦シーンと言って思いだすのは、やはり戦国の合戦や、幕末の鳥羽伏見・・・あるいは、源平の壇ノ浦や一の谷・・・といったところですが、ドラマでよく見る合戦シーンも、最近のドラマは、そういった時代考証は見事に再現されているので、見た目の感じは、あのまんまと考えて間違いなさそうです。
まぁ、戦国の場合は、旗指物やら馬印やら言いだすとキリがないですし、画面の見た目や、視聴者側に敵味方がはっきりわかるようになどなどの工夫をされて省略されている場合もありますが・・・
しかし、源平以前・・・特に奈良時代以前って、どんな感じだったんでしょう?
あまり、イメージが湧きませんね。
・・・で、ここで一服の絵図・・・
この絵図は『武蔵寺(ぶぞうじ)縁起絵図』に書かれた壬申の乱の瀬田の合戦(7月22日参照>>)を描いた物ですが、ご覧になってすぐにおわかりの通り、描かれている兵士たちは、明らかに平安以降の雰囲気です。
もちろん、昔は、今ほど古代の事の研究も進んでいませんから、平安時代に描かれた奈良時代の人物は、ほとんど平安時代の装束で描かれてしまっても致し方ないところではあります。
では、今の段階でわかっている当時の装備は・・・
壬申の乱当時の武人は、小さな鉄板(小札=こざね)を紐で綴りあわせた桂甲(けいこう)や、後の胴丸(胴体周囲を覆う右脇で開閉する形式の物)に似た短甲(たんこう)などを着用→・・・とは言っても、ご覧の通り、手足はほぼ無防備です。
一応頭の冑(かぶと)は鉄製ですが・・・
そこに、腰に太刀を下げますが、いわゆる反りの無いまっすぐな物で長さは60~70cmといったところでしょうか。
しかし、この装備・・・実は、かなり上級の武人の装備で、実際には、ごくごく一部の人しか、このような武装はしていませんでした。
この壬申の乱に動員された兵士の大多数は農民兵で、しかも、戦国武将のように領内を自らが仕切るという考えが無いので、農繁期であろうが、まったく関係なく、上からの命令で半強制的に徴兵され、大した訓練もないまま、すぐに戦場に送りこまれるのです。
さすがに、合戦の場で丸腰というわけにはいかないので、それらの農民兵には「槍(ほこ)」というヤリのような武器が支給されましたが、これが、木の棒の両先端を、削って尖らせただけというチャッチぃ造りの物・・・まぁ、それだったら、いくらでも作れますからね。
しかも、先ほどの武人のような鎧も兜もなく、まったくの生身・・・そのうえ盾すら持たなかったと言いますから、まさにこんな感じ(←飛鳥時代の一般人の装束)に、ただ棒を持っただけって事ですね。
そんな彼らを、先ほどのような武装をした上級の武人が指揮するわけです。
ただ、そんな中には、それこそ、ごく一部だけ、馬に乗った最上級の武人もいたようです。
・・・というのは、本日の壬申の乱最初の戦いでの総大将・大伴吹負が、倭古京制圧に乗りこんで来た時の描写・・・
その時、吹負とともに、何人かの武人が馬に乗っていたようで、彼らがその地に突進すると、守っていた敵兵が、蜘蛛の子を散らすように逃げだし始めますが、もちろん、逃げ遅れた者が次々に斬られていきます。
すると吹負は
「俺らが戦いを起こしたんは、農民を殺すためちゃうぞ!
敵の将軍を殺ったれ!むやみに殺すな!」
と言ったとされています。
これは、完全装備した彼らの前には、まともな武器の無い一般兵士は、もはや太刀打ちできないという事であり、馬で来られたら逃げるしかない状況だった事がうかがえますね。
・・・で、以前、戦国時代を通して、戦場で最も有効な武器となったのが「鑓(やり)」だとお話しましたが(6月8日参照>>)、この頃の最も有効な武器は弓矢です。
おそらくは、上記のように、完全武装でやって来られたら、もう負けなのですから、近づく前に弓矢で撃ってしまえ!って事なのでしょうが、弓矢を装備した武人も、その防具は、先ほどの太刀と同じで、桂甲か短甲に、手足はほぼ無防備・・・
この頃の弓は、めっちゃデカイ2mを越える長弓が使われ、矢は先端に鉄製の鏃(やじり)をつけた篠竹製の物で、長さは85cmほど・・・
さらに、腰や背に胡簶(ころく)という筒を下げて、そこに矢を入れるのですが、その数は、一人50本以上だったと言いますから、いかに、これが主流だったかがわかりますね。
壬申の乱の中で最後の戦いとなった瀬田の合戦では、大友皇子側から大海人皇子側へ、「矢が雨のように降って来た」という記述がありますから、やはり、ソコが最後の=守りの要だったということなのでしょうね。
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コメント
飛鳥時代の出来事を描いた時代絵巻を見ても、飛鳥時代なのに平安時代の衣冠束帯や十二単を着ていると言う、明らかな矛盾がありますね。ちなみに奈良時代の貴族の衣装は中国の物を採用した感じで、まるで同じなんですよね。
「大坂の陣」での真田と井伊の赤揃え対決では、背中につけた旗で見分けがついたと思います。
投稿: えびすこ | 2011年6月29日 (水) 17時21分
えびすこさん、こんばんは~
入り乱れると、ゴチャゴチャになったでしょうね~
大海人皇子も赤旗でした。
投稿: 茶々 | 2011年6月29日 (水) 23時15分
おばんどす。
もし、自分自身が駆りだされた農民だったら、作るのも常備するのも大変な弓よりも、石礫を使うでしょう。
現在でもパレスチナなどの映像でよく見ますが、原始的ですがとても有効かつ強力な武器なのでしょう。
石いっぱい持って、自分の命を一番に、適当にお茶濁して終わっとこ…。
そんな所でしょうか。
当時の農民兵の戦意もこんなものなのかも…。
(先祖の苦労が身に沁みる~!現代人で良かったよかった…。)
ではでは
投稿: azuking | 2011年6月30日 (木) 01時12分
azukingさん、こんばんは~
確かに…石は良いですね~
>適当にお茶濁して…
それが良いと思います。
投稿: 茶々 | 2011年6月30日 (木) 02時58分