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2011年6月20日 (月)

男と男のアブナイ関係…若衆歌舞伎

 

慶安五年(承応元年・1652年)6月20日、江戸幕府が、若衆歌舞伎役者の前髪を剃らせ男色を禁止・・・続く27日には、若衆歌舞伎もを禁止にしました。

・・・・・・・・・・・

やっちゃいましたね・・・若衆歌舞伎。

こういう禁止令が出る場合って、大抵は流行の末、エスカレートし過ぎた輩が登場して問題となって禁止・・・ってパターンなわけですが・・・

そもそもは、あの出雲阿国(いづものおくに)が、京都は鴨川の河原で興業を開始した阿国歌舞伎・・・(6月25日参照>>)

当時、豊臣秀吉が京都の町を囲むように設置した御土居(12月3日参照>>)を一歩出た鴨川のほとりは、それこそ、京の人々が解放感を味わう事のできる一大リゾート地で、そこで行われる歌あり踊りありのエンターテーメントショーは、またたく間に大ヒットし、慶長十二年(1607年)2月20日には、江戸城に招かれ、本丸にて勧進歌舞伎の上演をするほどまでの人気となりました。

しかし、ヒットすればヒットしたで、それを真似て同じような興業を行う団体が出て来るのも当然のなりゆき・・・これらは女歌舞伎としてもてはやされました。

ただ、阿国歌舞伎も場合は、それこそ、女性が男役を演じる・・・今で言うタカラヅカのような感覚で、お色気と言ってもチラリズム的な小気味いい物でしたが、新しい団体が増えるにつれ、お色気専門のストリップショーのような物も現われて、どんどんエスカレート・・・

結局、寛永六年(1629年)10月23日、江戸幕府が風紀を乱すとして、女歌舞伎・女舞・女浄瑠璃を禁止令を発令するのです(10月23日参照>>)

しかし、そうなると法の合い間を縫って、新たな商売が誕生するのは人の常・・・

「女がダメなら男でやろう!」
という事で誕生したのが、美少年による若衆歌舞伎です。

そもそも、男と男のアブナイ関係は太古の昔から存在するわけですが、有名なのは、あの吉田兼好『徒然草(つれづてぐさ)に登場する一説・・・

「御室に、いみじき児(ちご)のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばんと企む法師どもありて…」

確かに、この「遊び」がアノ「遊び」とは限りませんが、「どうやって誘い出して遊ぼうかとたくらむ・・・」なんて言い回しは、なんだかとても怪しい・・・

ただ、この徒然草の記述に関しては、当時の稚児は、高貴な身分の出身者が多かったので、「少しでも取り入って経済的援助を得ようとした事を書いている」との指摘もありますが、たとえ、この徒然草の内容がそうであったとしても、当時、女性と交わる事が厳禁とされた僧の世界では、半ば公然と男色が行われていたというのはあったようです。

あの源義経も、牛若丸と呼ばれた鞍馬の稚児時代には、法師たちに遊ばれたと言われ、毎夜々々天狗と・・・のアノ話は、「えっ??もしかして天狗って、アレのアレなの?!!(゚ロ゚屮)屮」と言った解釈もあるのだとか・・・

そんな男色が武士の間に広まっていくのは、鎌倉時代以降の事で、その要因というのもいくつかあるようですが、やはり、一番は、「合戦に女性を連れていけない」というのが最も大きいようです。

もちろん、木曽義仲巴御前のように例外はありますが、一般的には女性を伴った出陣は少なく、むしろ、男と男の命がけの戦いの場=戦場を神聖化する考えも多く浸透していて、その場合は、「合戦の何日か前からは、女性は甲冑に触れてはならない」なんていうジンクス的なタブーもあり、女性は敬遠される傾向が強かったのです。

・・・となると、この時の武士の状況は、女人禁制の仏門に入った平安時代のお坊さんと同じになるわけで・・・

そんな中、出陣中に身の回りの世話から夜のお相手までを担当したのが寵童(ちょうどう)と呼ばれる少年たちなわけですが、それが、いずれは、出陣中だけでなく平時もという事になっていくのはご存じの通り・・・

こうして、僧から武士へと移動した男色は、「忍ぶ恋」とか「衆道(しゅうどう)などと呼ばれて、あの『葉隠(はがくれ)(10月10日参照>>)では、戦国武将の理想の愛の形として、むしろ奨励されるくらいでした。

有名なところでは、あの武田信玄春日源助(虎綱・高坂昌信とも)に宛てたラブレターが知られてますね(7月5日参照>>)

さらに有名と言えば織田信長森蘭丸も・・・って聞きますが、蘭丸の役職は小姓(10月7日・軍師の種類参照>>)で、信長の小姓は、蘭丸の他にもいっぱいいたわけですので、、小姓のすべてが寵童なのではなく、あくまで、身の回りの世話をする若い見習い武将である小姓から、殿さまのお気に入りとなった少年が寵童に抜擢される事が多かったようです。

なんせ、それで主君との間に切っても切れない信頼感ができるわけですから、そこから出世して、やがては側用人(そばようにん)となり、城持ち大名になったりもするので、むしろエリートコースです。

もちろん、それも殿さましだいですが・・・秀吉なんかは、美少年の小姓をそばに呼び寄せては「お前にキレイな姉ちゃんおったら紹介して!」と言ってたそうなので、あくまで女一本を崩さなかった人なのでしょう。

やがて、江戸時代になって、町民文化が発展しはじめると、それも町人へと移っていきます。

・・・というのも、よく、道楽の代名詞として「飲む・打つ・買う」と言いますが、飲むは、もちろんお酒・・・そして打つはバクチ=賭け事で、買うは女遊び・・・

そんな三大道楽をやりつくした人間が、「何か、もっとオモシロイ、変わった遊びは?」と探していたところに、例の女歌舞伎が禁止されて、グッドタイミングで誕生した若衆歌舞伎だったのです。

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若衆歌舞伎図(出光美術館蔵)

もちろん、若衆歌舞伎も、最初のうちは普通に美少年のお芝居だったわけですが、やっぱり、それはどんどんエスカレートしていくもので・・・

それにしても、女歌舞伎の禁止が寛永六年(1629年)10月23日で、若衆歌舞伎慶安五年(承応元年・1652年)6月20日・・・わずか23年で禁止令が出るほどの盛況ぶりとは、いやはや大したものです。

しかし、そうなると法の合い間を縫って、新たな商売が誕生するのは人の常・・・(2回目)

前髪を剃った若衆は「野郎」と名を変え、結局、同じような事を・・・

しかも、元禄年間(1668年~1703年)の好景気になって、禁がちょっと緩むと、彼らは芝居をするだけでなく、酒席に招かれてては芸を売り、身も売るというのが当たり前のようになり、若衆歌舞伎の役者とは別に、呼び込み専門の少年をかかえる者も登場・・・

しかも、芝居をする役者を「舞台子」と呼び、宴会と夜専門を「蔭子(かげこ)と呼ぶなんて、はっきりとした名称も決まり、立派に商売が成り立っていたとか・・・

明和元年(1764年)に成立した『菊の園』という書には、湯島天神芝神明社市ヶ谷八幡社などに合計10ヶ所の抱え屋と呼ばれる場所があり、321人の蔭子が働いていた・・・なんて事が書かれているとか・・・

そうなると、表社会のちゃんとしたお芝居の師匠と、その弟子の関係もおかしくなってきます。

普通は、有名役者のもとに「どうか弟子にしてください!」と役者志望の少年が門を叩くわけですが、野郎歌舞伎がここまで流行ると、むしろ、師匠が、いかに美少年の役者をかかえているかで、その儲けが変わってくるわけで・・・

師匠自らが美少年探しに奔走し、見つけた美少年に大金を払って弟子になってもらう・・・いわゆるスカウトが横行し、中には、「十両盗めば首が飛ぶ」と言われたこの時代に、6年契約で七十七両の契約金を支払って15歳の少年を獲得した師匠もいたとか・・・

ちなみに、この時代は、関東者よりも、京や大坂の関西の美少年が人気だったのだそうで、そのセンスも上方流が受け、関西弁の耳触りの良さも好評だったとか・・・

江戸の関ジャニ???

やっぱ、人気が出たら、キリの良い所で「東京進出!」とかあったのんかな?
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コメント

歌舞伎でも江戸系と上方系はテイストが違いますね。

やはり関西地区では関ジャニ8の人気は高いですか?

投稿: えびすこ | 2011年6月20日 (月) 22時14分

えびすこさん、こんばんは~

>関西地区では関ジャニ8の人気は…

さぁ、どうなんでしょう?
特に関西だから…という事ではなく、全国的に人気があるのでは?

投稿: 茶々 | 2011年6月20日 (月) 22時58分

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