武士の情けの収容所に響く「歓喜の歌」
大正七年(1918年)6月1日、ベートーベンの「第九」が、徳島県にあった板東俘虜収容所のドイツ兵捕虜によって全曲演奏され、これが、日本における「第九」の初演となりました。
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今では、年末恒例の曲となっているベートーベンの交響曲第9番ニ短調・・・日本では「第九(だいく)」と呼ばれ、合唱を伴って演奏される第4楽章は「歓喜の歌」として親しまれています。
しかし、近年の研究で明らかとなった、この曲の日本初演は、東京や大阪ではなく、徳島・・・そして、年末ではない6月1日の事だったのです。
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時は1914年(大正三年)6月・・・ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻が銃撃されたサラエボ事件をきっかけに始まった第一次世界大戦は、ヨーロッパを主戦場に、イギリス・フランス・ロシアなどの連合軍と、ドイツ・オーストリアの同盟軍との戦いに世界中の多くの国が参戦するという人類史上初の世界大戦となりました。
当時の日本は、イギリスとの日英同盟に基づいて連合国側として参戦・・・8月にはドイツに宣戦布告して、中国の青島(チンタオ)にあったドイツ軍の極東拠点を攻撃して、要塞を陥落させました。
この時、降伏したドイツ軍から、捕虜となって日本に送られて来たドイツ兵は約4600人・・・彼らは、北海道を除く全国各地に点在する収容所に振り分けられる事になりますが、そのうちの約1000人が、徳島県板野郡板東町(現在の鳴門市大麻町)にあった板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ)に収容されたのです。
(俘虜は第二次世界大戦以前の公式名称で、意味は捕虜と同じです)
それにしても、捕虜と言えば、その置かれた立場から、どうしても過酷で暗いイメージ・・・あまりにも苦しい収容所の生活から抜け出そうとして脱走する、なんて映画も過去に見た記憶がありますが、そんな所で、「第九」の初演とは???
実は、日本の陸軍省では、1899年(明治三十二年)にオランダのハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された「ハーグ陸戦条約(ハーグ協定)」を適用した捕虜規定を、明治四十四年(1911年)の時点で決めていて、捕虜に対する人道的な扱いをするように定めていたのです。
当時、ロシアに囚われてシベリアに送られたドイツ軍捕虜は、その手紙の中に
「(日本に収容された)わが同胞は救いと考えた」
と、書いているほど、日本側の捕虜の扱いは人道的だったのです。
特に、板東俘虜収容所の所長であった松江豊寿(まつえとよひさ)大佐は、
「博愛の精神と武士の情けをもって俘虜に接する事」
を、全職員に訓告し、それを実践・・・捕虜たちの自主活動を推進した人だったのです。
一定の秩序のもとよく組織された彼らには生産労働が許され、収容所の敷地内には、西洋野菜を栽培する農園や酪農園、ウイスキー蒸留生成工場がなどが作られ、それ以外にも、トマトケチャップやハム、パンや石鹸なども製造していました。
また、地域との交流も許されていましたから、それらの製造方法を、周辺地域の人に指導するという事も度々ありました。
もともと、捕虜たちの中には、すでに社会人として就労していた中で志願兵となって戦いに挑んだ者も多かった事で、家具職人や時計職人、楽器職人や写真家など、様々な技術を持っていた者もたくさんいて、彼らの技術を活かして現地に建設されたドイツ橋という石橋も、現在に残っています。
そんな彼らは、文化活動も盛んで、日本語教室も開かれたほか、講演会や演劇やスポーツも楽しんでいて、収容所には、地元の人々の見学が絶えなかったと言います。
そんな中で、大正七年(1918年)6月1日に行われたのが、彼ら=ドイツ兵捕虜によるベートーベンの交響曲第9番の演奏・・・これが、日本初の「第九」という事です。
ただし・・・
本来は混声の合唱であるのが、収容所には男性しかいなかったため、合唱部分はすべて男性用に編曲・・・また、足らなかった楽器部分をオルガンで代用したため、
「この演奏を初演とは言えない」
とする声がある事も確かです。
また、この出来事を有名にするきっかけともなった2006年製作の映画『バルトの楽園』では、近隣住民を招待した演奏会となっていましたが、実際には、収容所内で行われた小規模な演奏会で、演奏を聞いた日本人が収容所の関係者だけという事で、広く、日本人が親しんだというわけでもなく
やはり「これを日本での初演とするのは…」
との異論もあります。
まぁ、音楽の専門家の方から見れば、できるだけパーフェクトな演奏を日本初としたいお気持ちもわかります。
とにもかくにも、後に祖国に帰った捕虜たちの間で、この収容所での生活を懐かしむ「バンドー会」なる親睦会が、各地で結成されたと言いますから、日本人としては、なんとなくウレシイです。
これらの事で、この板東俘虜収容所は、今なお最も有名な俘虜収容所と言われ、捕虜と住民たちの交流は、文化的にも学問的にも、さらに、食文化の西洋化にまで・・・日本とドイツに大きな影響を与え、両国の発展を促したとの評価を受けています。
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コメント
映画でも取り上げられた「歓喜の歌」ですね。松江大佐を松平健さんが演じました。
投稿: えびすこ | 2011年6月 1日 (水) 17時07分
えびすこさん、こんにちは~
そう、マツケンさんでした( ̄ー ̄)
投稿: 茶々 | 2011年6月 1日 (水) 17時32分
茶々さん、こんばんは!
「バルトの楽園」という映画でしたね。映画の宣伝などでも「第九」の初演のエピソードが採り上げられていましたが、いざ観てみると、最後の方でパン職人のドイツ兵捕虜が、日独の混血児で孤児となった女の子を引き取って、日本でパン屋さんを開こうと収容所から旅立った件りは涙があふれました!(神戸の異人館街にあるパン屋さんのエピソードをアレンジしたものと思いますが…)
この記事へTBさせて下さいませ、お願いします!
投稿: 御堂 | 2011年6月 1日 (水) 20時22分
御堂さん、トラバありがとうございます。
他にも写真屋さんとか…
今も続いているお店や会社があるようですね。
感動します。
投稿: 茶々 | 2011年6月 1日 (水) 23時22分
松江大佐のリーダーシップや人間性が
素晴しかったのでしょうね。
人格を認めた付き合いができるなんて
文化レベルの高いお話です。
ドイツ人にとっての日常生活そのものに
驚き積極的に取り入れたのでしょうね。
いま1000人ヒトを集めて多様に
生活文化の伝達ができるでしょうか。
と考えされられる良いお話でした。
投稿: あっくん | 2011年6月 2日 (木) 01時21分
あっくんさん、こんにちは~
ホント、いいお話ですね~
投稿: 茶々 | 2011年6月 2日 (木) 11時33分
映画見ました。とてもいい映画でした。
収容所も行きました。
こじんまりとした外国でした。
本当は村の人は招待されてなかったのですね。フムフム
投稿: ぶるー | 2011年6月 4日 (土) 11時44分
ぶるーさん、こんにちは~
収容所、行かれたんですかぁ?
私も、行ってみたいです。
(まだ、渦潮も見た事ないです)
>本当は村の人は…
「第九」の演奏会には呼ばなかったかも知れませんが、実際に、地域の人との交流はあったわけですし、やはり映画なら、そのほうが盛り上がるので、そんな創作なら良いと思います。
投稿: 茶々 | 2011年6月 4日 (土) 16時57分
茶々さん、こんばんは。
風邪をひいてあまり行動できません。
それなので手短く書きます。
坂東以前に徳島市に収容所がありました。今の徳島県庁のあたりです。
その収容所の隣が旧制徳島中学校今の城南高校です。祖父はその頃中学生でした。
投稿: non | 2016年11月 4日 (金) 17時21分
nonさん、こんばんは~
幕府の施設が軍の施設になり、軍の施設が学校や官庁になってる場合が多いですね。
投稿: 茶々 | 2016年11月 5日 (土) 02時00分