流星のごとく駆け抜けた天才軍師・竹中半兵衛
天正七年(1579年)6月13日、豊臣秀吉の軍師として知られる竹中半兵衛が、播磨三木城包囲戦の陣中で亡くなりました。
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もう、言わずと知れた秀吉の名軍師・・・戦国武将の中でも、その人気はトップクラスですよね。
竹中半兵衛の通称で呼ばれる事の多い竹中重治(しげはる)・・・という事で、本日も半兵衛さんと呼ばせていただきますが、その半兵衛の竹中氏は、西美濃(岐阜県)に本拠を置く土豪(どごう・その土地の小豪族)=岩手氏の一族と言われています。
弘治元年(1555年)、あの斉藤道三(どうさん)と義龍(よしたつ)父子が戦った斉藤氏の内紛(10月22日参照>>)で、父の重元(しげもと)が道三に味方して負け組となってしまったために、一旦、所領を失っていたのを、その2年後に不破(ふわ)岩手城主・岩手弾正を倒して、その不破郡を手に入れた・・・つまり、一族を乗っ取ったわけですわな。
・・・で、乗っ取ったと言えば有名な、あの稲葉山城乗っ取り事件・・・(2月6日参照>>)
くわしくは、その上記の参照ページで見ていただくとありがたいのですが、とにかく、幼い頃から、兵法の本ばっかり読んでいた半兵衛が、そのひ弱な雰囲気から、主君の斉藤龍興(たつおき)とその仲間たちにからかわれた事にブチ切れ、戦略を練りに練った末、わずか16人でその稲葉山城を乗っ取ってしまい、1年の長きに渡って占拠したというお話です。
それこそ、あの織田信長が8年も攻めあぐねた稲葉山城を、わずか16人ですから・・・その軍略家としての才能を見せつけた一件なわけですが、この時、信長は、半兵衛に
「美濃半国を与える代わりに、その稲葉山城を譲ってチョーダイ」
という破格の取引を申し入れていますが、半兵衛は、それを断わり、主君・龍興と和解して稲葉山城を返し、自らは隠居するという形で決着をつけています。
この、「結局返す」というカッコイイ雰囲気が、半兵衛の人気を倍増させてるわけですが、実際には、そこまでカッコ良くはなく、どちらかと言えば「返さざるをえない」状況に追い込まれた・・・という事のようです。
なんせ、当初の味方は16人・・・たったそれだけの人数で、稲葉山城を乗っ取っただけでは、美濃を制圧した事にはなりません。
国内の土豪が味方となり、多くの者が「反・龍興」の姿勢を見せてくれれば何とかなりますが、そうでなければ、城を一歩出た途端に、謀反人として捕まえられるだけですから・・・
・・・で、結局、半兵衛のもとに馳せ参じる者が少なかったところに来て、あの信長がチョッカイ出して来るもんだから、「人手に渡るんなら返そう」てな感じだったようですが、これが、後に天才軍師の若き日の逸話として語られる事で、なんかカッコイイ感じにアレンジされちゃったんでしょうね。
カッコイイ感じにアレンジと言えば、このあと、隠居した半兵衛のもとに、未だ木下藤吉郎と呼ばれていた豊臣秀吉が、3度に渡って訪れ、頼みまくって家臣にしたというドラマでも有名なシーンですが、これも、どうやら伝説の域を超えない物のようです。
・・・というのも、この稲葉山城乗っ取り事件は永禄七年(1564年)の話ですが、ここで隠居して、しばらく歴史の表舞台を去った半兵衛が、再び、史実とされる歴史に登場して来るのは、信長が浅井・朝倉とゴチャゴチャやりだす元亀元年(1570年)の頃・・・(4月26日参照>>)
この埋もれていた6年間が、秀吉が頼みまくっていた期間だとも考えられますが、6年間で3度じゃ少ない(2年に1回だ(゚ー゚;)し、第一、この時の半兵衛は、朝倉氏に味方していた堀氏の寝返りに関与する形で登場し、その後、秀吉ではなく、信長の家臣団に加わって姉川の合戦に登場するのです。
ご存じのように、その後、秀吉の配下(与力)となりますが、これは主従関係ではなく、言わば、信長社長の会社で働く営業担当と企画担当みたいな感じ?・・・
なので、秀吉が考えた作戦がマズイと思えば、半兵衛が手直しする事もOKでした。
それは、他の武将との関係でも発揮されます。
ある武将が、いつも作戦を半兵衛に手直しされるのを快く思わず、「今日こそは、口出しさせないゾ!」と構えていたところ、その日に限って半兵衛は、「これは良い作戦だ!!」とベタ褒めに褒めました。
・・・で、その武将だって、なんだかんだ言っても、天才と呼ばれる半兵衛に褒められればウレシイもので、「そ~っすかぁ」とデヘデヘ油断したところをすかさず、「こうしたら、もっとエェねんけどな」と、結局、口出しして帰ったのだとか・・・見事な作戦勝ちです。
とは言え、半兵衛の役割は、そうした軍略担当なわけで、実際に、「敵の首をいくつ取った」という具体的な武功が無い事から、柴田勝家や滝川一益なども、最初のうちは、本当に半兵衛がスゴイのかどうかを疑っていたようですが、要所々々で、冷静に敵の動向を分析し、自らの思う作戦を理路整然と語り、それが、また適格である事から、徐々に周囲の皆々とのわだかまりも解けていったと言います。
やがて、秀吉が中国方面担当の総大将を命じられると、半兵衛も、ともに遠征し、播磨三木城の攻略に際して「兵糧攻め」を立案します。
世に言う「三木の干(ひ)殺し」です(3月29日参照>>)。
結果的には、かなりの長期間に渡ってしまう、この籠城戦ですが、合戦で最も大きな人的被害を出す城攻めにおいて、自軍のダメージを極力少なくする秀吉お得意の戦略は、この三木城に始まったと言えるかも知れません。
ただ、戦いが長期であったぶん、この三木城籠城戦の間に様々な事が・・・
尼子勝久に城番を命じていた上月城(こうづきじょう・兵庫県)が毛利からの攻撃を受けるわ(7月3日参照>>)、有岡城の荒木村重(むらしげ)(12月16日参照>>)が反旗をひるがえすわ・・・秀吉も、村重の説得に、有岡城へ行ったりもしました。
しかも、その有岡城では、秀吉の後に説得に向かった黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)が、そのまま戻らなかった事から、村重側に寝返ったと見た信長が、人質として預かっていた「如水の息子を殺せ!」との命令を出してしまうのです。
しかし、「如水が裏切るはずがない!」と信じていた半兵衛の機転により、息子の命は救われます。
果たして天正七年(1579年)10月16日に開城された有岡城からは、土牢に監禁されていた如水が発見されるのです。
やはり、半兵衛の読み通り、如水は寝返ってはいなかったのです・・・と、くわしくは、10月16日【有岡城・落城~如水と半兵衛とその息子たちと…】のページ>>で見ていただきたいのですが・・・
無事助けられた如水は、息子も無事だった事を大いに喜ぶのですが、その時には、その息子の命を助けてくれた半兵衛は、もう、この世にはいなかったのです。
実は、この年の4月・・・半兵衛は、三木城包囲真っ最中の陣中で病に・・・。
病状の深刻さを心配した秀吉は、一旦、半兵衛を京都へと戻し、ゆっくり静養するように命じますが、すでに、自らの死期を悟っていた半兵衛は、
「武士たる者、戦場で死にたい!」
と、秀吉に懇願して、再び陣中に戻り、天正七年(1579年)6月13日、未だ36歳という若さで、肺結核(または肺炎)に倒れたのでした。
思えば、あの稲葉城乗っ取り事件が、半兵衛21歳の時・・・
そして、享年36歳・・・
うち、6年間ほどは、その動向すらわからず・・・
と言う事は、半兵衛が歴史の表舞台で大活躍したのは、わずか10年にも満たない事になります。
そのわずかの間を、流星のごとき輝きを放ちながら通り過ぎて行った天才軍師・・・彼の生きた10年は、400年以上経った今でも、私たちを魅了し、この先もずっと、戦国屈指の人気を誇っていくに違いありません。
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コメント
茶々さん、こんばんは!
ほんと半兵衛ってかっこいいですよね!
もっと長生きしてほしかったです…
官兵衛って感謝の気持ちを込めて半兵衛の旗印かなんかを受け継いでますよね?
そのエピソード好きなんですが…
でも、信長ではなく秀吉に仕えたいっていうのはあくまで伝説なんですね?
ちょっと残念かもしれません。
とにかく、秀吉の天下取りに貢献した二兵衛は大好きです!
投稿: 暗離音渡 | 2011年6月14日 (火) 00時10分
暗離音渡さん、こんばんは~
う~ん、黒田官兵衛もそうですが、与力っていうのは、
信長の命で、「秀吉の与力につく」って事なので、秀吉の家臣という事ではないでしょうね。
まぁ、官兵衛の場合は、途中から、その信長が亡くなってしまうので、これまた、違って来るのかも知れませんが…
投稿: 茶々 | 2011年6月14日 (火) 01時10分
この時代の与力は平たく言うと「助っ人」(今は球界ですら死語)みたいなものですね。竹中半兵衛は文字通り「助っ人」となりますね。柴田勝家の与力だった前田利家などは、若い時は「付き人」のような立場でしたね。
投稿: えびすこ | 2011年6月14日 (火) 17時32分
えびすこさん、こんばんは~
与力も軍師、
小姓も成長して軍師になったりしますしね。
半兵衛が秀吉の家臣なら、信長の陪臣って事になりますから、やっぱ、違いますね
指揮命令系統は臨機応変なのでしょうが…
投稿: 茶々 | 2011年6月14日 (火) 19時06分
こんばんは。毎日『今日の主役は誰かな?』と期待して観覧させてもらってます。
戦国武将で大好きな武将の1人の竹中重治。短い生涯でこれだけ有名で、人気のある武将はあまりいないんじゃないんでしょうか。
“天才軍師”は冷静沈着で客観的に物事を見極め、自分の思ったとおりに事を進める。全く逆の性格な自分の憧れだったりします。
もし、同じ時代、同じ場所に生まれたのなら、『あんたに付いて行くぜぇ!!』って押しかけていると思えるくらいです・・・門前払いでしょうケド。
今川義元が桶狭間で散り、武田信玄が病に倒れ、明智光秀が謀反を起こしたように、竹中半兵衛が短命だったのは運命だったと考えると、うまく言えませんが、この時代の“人の運命”が本当に凄いモノだと感じます。上手く伝える事が出来ないこの歯がゆさも、自分のそばに半兵衛が居たら、きっと解りやすく伝えてくれる・・・はぁ~。
本当にこのブログが大好きです。これからも楽しみにしてます。
投稿: 佐賀の田舎モン | 2011年6月19日 (日) 23時06分
佐賀の田舎モンさん、こんばんは~
元気が湧くお言葉…ありがとうございます。
半兵衛はやっぱ、カッコイイですね~
これからも、
ご期待にそえるよう、踏ん張っていきますですo(_ _)oペコッ
投稿: 茶々 | 2011年6月19日 (日) 23時25分
お久しぶりです。
わたしも半兵衛大好きです。もっと長生きしていれば…(ノ_-。)
リクエストなのですが、半兵衛の正室、安藤守就の娘(得月院)について知りたいです。
恋愛結婚だったりしたらいいなぁ…なんて妄想してみたりしてますr(^ω^*)))
おねがいしますm(_ _)m
投稿: 瀬名 | 2012年2月 4日 (土) 13時19分
瀬名さん、こんばんは~
半兵衛の結婚ですか~
また、調べてみて、良いお話になりそうだったら書いてみますね。
投稿: 茶々 | 2012年2月 5日 (日) 01時42分
竹中半兵衛(重治ともいう)は、黒田官兵衛(孝高ともいう)と共に、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を支えた武将として知られている上に、真田昌幸にも勝るとも劣らない、知略の持ち主ですが、36歳の若さで急死したのが残念でしたね。もしも半兵衛が、あと30年長生きしていたら、豊臣家の運命が違っていたかもしれません。ただし、竹中家自体は、半兵衛の息子の竹中重門が、家督を継いだのが救いだと思います。
投稿: トト | 2016年4月27日 (水) 08時35分
トトさん、こんばんは~
関ヶ原で、その重門を敗北寸前に東軍へと寝返らせて勝組にしたのは、半兵衛に命守られた黒田長政ですからね~
ドラマを感じます。
投稿: 茶々 | 2016年4月28日 (木) 01時25分
記事を読んで見て、改めて半兵衛の才能の凄さを感じました。半兵衛と官兵衛のこんなエピソードを聞いた事があります。-ある時、官兵衛が信長から書状を貰いました。その内容は“一国を与える”というもの。大喜びの官兵衛でしたが、其れを見ていた半兵衛は、書状を取り上げて“破り捨てて(!)”しまいました。怒る官兵衛に向かって半兵衛は「こんな書状ごときで喜ぶお主は阿呆だ。信長公が、いつお心変わりして約を違えるかもわからぬのに。」と諭します。半兵衛の真意に気付いた官兵衛は、其れ以降、二度と書状の事を口にしなくなりました。
-因みに、半兵衛のいまわの際の言葉は「信長公は気まぐれな御気性ゆえ、ご油断なされぬ様に。」だそうです。半兵衛には、信長の持つ危うさが見えていたのですね…。歴史に“if(もしも)は禁物だ”というけれど、私は「もし半兵衛が長生きしていたら、“本能寺の変”は無かったのではないか?」と思ってしまいます。
投稿: クオ・ヴァディス | 2018年10月19日 (金) 21時48分
クオ・ヴァディスさん、こんばんは~
二兵衛のエピソードはどれもカッコイイです(*^-^)
投稿: 茶々 | 2018年10月20日 (土) 00時25分