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2011年6月27日 (月)

敗者だからこそわかる平和…外交官・林権助

 

昭和十四年(1939年)6月27日、明治から大正にかけて外交官として活躍した林権助が80歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

幕末期・・・軍学を修め、様式砲術にも長け、会津藩の大砲奉行として活躍し、あの禁門(蛤御門)の変では、天王山に籠った真木和泉(まきいずみ)(10月21日参照>>)と相対し、鳥羽伏見の戦いでは、新撰組とともに奮戦する林権助(はやしごんすけ)・・・

おかげで、新撰組が主役となったドラマや映画には、彼の名が時々登場するようですが・・・

しかし、その鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)で重傷を負った権助は、江戸に戻る船の中で息を引き取ります。

ともに鳥羽伏見を戦った息子=又三郎も、同じく死亡してしまいます。

Hayasigonsuke600 そう、今回の主役は、その又三郎さんの息子・・・祖父・林権助と同じ名前をを持つ孫林権助さんです。
(区別する時は、祖父の権助さんは“林安定(やすさだ)”と表記されたりします)

こうして、わずか8歳にして、祖父と父を同時に失った権助は、幼いながらも林家の家督を継ぐ事になりました。

しかし、ご存じのように、次に迫るのは会津戦争・・・(9月22日参照>>)

家長として会津若松城の籠城戦に参加し、大人に交じって戦いますが、会津藩は空しく敗れ、明治三年(1870年)に斗南(となみ)と名を変えて、極寒の下北に国替えとなります。

以前からも度々書かせていただいている通り、この国替えは、「全藩流刑=藩ごと流刑にされたと言われるくらい過酷な物でした。

もちろん、それは、会津藩が、官軍に逆らった謀反人集団=賊軍となったからですが・・・

権助も、祖母&母とともに下北へと移り、わずかな食事にも事欠く極貧の生活を続ける事となります。

そこへ、助け舟が・・・

薩摩陸軍少佐を務める児玉実文(さねふみ)でした。

実は彼・・・未だ、薩摩と会津がタッグを組んでいたあの禁門の変時代に、祖父の権助とともに京都の警固に当たっていた人物で、その時に通じたよしみから、現在の林家の困窮ぶりを見るに見かねて手をさしのべてくれたのです。

実文の庇護のもと、彼の自宅にて養育される事になった権助は、やがて東京帝国大学政治学科へ進み、24歳で卒業・・・外務省に入って外交官の道を歩み始めます。

もともと社交的であった権助のキャラは、外国の要人にもウケがよく、彼独自の人脈を形成しながら、各地の領事館首席書記官を務めたり、通商局長を務めたり・・・

やがて、彼を歴史の表舞台に推しあげるのが大正五年(1916年)、39歳にして任務につく事になった駐韓特命全権公使時代です。

そう、あの日韓併合に尽力し、桂太郎小村寿太郎とともに「朝鮮3人男」と評価され、その名を挙げました。

ただし、権助は、国益ばかりを重視して、相手国を押しつぶしにかかるような外交をする人ではありません。

彼の姿勢が垣間見えるのは、明治三十九年(1906年)に起こった清国(中国)による日本船拿捕事件・・・

この時、駐清公使を務めていた権助のところには、日本政府から、「清国への謝罪を求める訓令」が発せられていたのですが、それを受けた権助・・・

もともと、その船が拿捕された容疑が武器の密輸だった事から、日本側に非があると考えた彼は、この日本政府の訓令を無視し続けます。

さらに、その後も、日本が強大な軍事力に物を言わせて強引な政策をとろうとした時には、必ずと言って良いほど、彼は苦言を呈したと言います。

日清日露に撃ち勝って、イケイケムードの日本にあっても、その姿勢を変えなかった権助・・・晩年には宮内省式部長官枢密(すうみつ)顧問官(政治上の重要な事柄などでの天皇の相談役)を務め、昭和天皇からも篤い信頼を受けていたとか・・・

そんな彼の根底に流れていたのは、ただただ自国の国益だけを求める外交官ではなく、アジアの、延いては世界全体の平和のために動く外交官ありたいという気持ちではなかったでしょうか?

わずか9歳で味わった戦争の悲惨さや、負け組の惨めさと貧困・・・彼を救ってくれた実文とともに、その故郷である鹿児島に赴いた時には、あの西南戦争(9月24日参照>>)も目の当たりにしたと言います。

一番多感な頃に見た光景は生涯忘れる事がなかったはず・・・

底辺で味わった苦汁に怨恨や愚痴をばかり繰り返すのではなく、底辺を味わった者だからこそ感じる事のできる何かをバネにして、自らの道を究める・・・

権助に限らず、会津の出身者には、そのような生きざまが垣間見える気がします。

そんな権助さん・・・顧問官在任中の昭和十四年(1939年)6月27日80歳の生涯を終えました。

今頃は、先に逝った父と祖父に、自らの出世話を語っているのでしょうか・・・
それとも、世界の平和を視野に入れた、これからの日本の進む道を語っているのでしょうか・・・
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コメント

こんにちわ、茶々様。
林権助さん、全く知りませんでした。

今日も茶々様に感謝です。

ところで話は変わりますが
明治維新後、賊軍となった藩から多くの科学者や政治家、教育家が誕生していますよね。
これはどうしてなのでしょう?
普通に『負けじ魂』と考えるのが一般的だとは思いますが、それにしても後世に残る人物が輩出されているのが不思議です。

よろしければ教えてください
o(_ _)oペコッ

投稿: DAI | 2011年6月27日 (月) 20時37分

再来年の大河ドラマの主人公の新島八重さんもそう(会津藩)ですね。「負け組から勝ち組になる」と言う、発想の転換が今の日本に必要だと思います。戦後の日本・ドイツ・イタリアで見ても当てはまるでしょうか?
スポーツや芸術で見て日独伊のウェートは高いです。自動車産業では欧州はドイツの独壇場ですよ。

「ブログ1000人登場」まで、あと11人ですね。

投稿: えびすこ | 2011年6月27日 (月) 21時55分

DAIさん、こんばんは~

そう、不思議ですね。
やはり、ハングリー精神なのでしょうか?

あと、明治維新後からしばらくは、優秀な青年を支援する土壌という物もあったかも知れませんね。

権助を助けた児玉さんのように、優秀な人材を育てる事で社会に貢献する事をステータスとするホンモノのお金持ちがいましたからね。

投稿: 茶々 | 2011年6月27日 (月) 22時37分

えびすこさん、こんばんは~

今回の震災に向けて、外国人から送られた応援メッセージの中に、
「日本は必ず復興する…なぜなら、それは日本だからだ」
というのがありました。

日本人は、どん底から這い上がる事のできる、世界で最も優秀な民族だからとの事…

感動しました。

PS:「ブログ1000人まで…」気に留めていただいてありがとうございます

投稿: 茶々 | 2011年6月27日 (月) 22時42分

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