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2011年6月 9日 (木)

海軍陸戦隊が仁川上陸~いよいよ日清戦争へ…

 

明治二十七年(1894年)6月9日、大鳥圭介公使以下、約500名の海軍陸戦隊の将兵が、朝鮮半島の仁川に上陸しました。

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明治八年(1875年)の江華島(カンファド)事件を機に、日朝修好条規(江華条約)を締結して、開国&独立を宣言した朝鮮でしたが、内乱に次ぐ内乱で政情が安定せず、困り果てた朝鮮政府は、清国(中国)鎮圧軍の出兵を依頼・・・

朝鮮との外交関係においては国と均等的な立場にありたい日本は、清国が大量に出兵した事を受けて、「このままでは朝鮮が清国の属国となってしまう」と恐れ、明治二十七年(1894年)6月2日、日本も出兵する事を決定しました(くわしくは6月2日参照>>)

Ootorikeisuke600 かくして明治二十七年(1894年)6月9日大鳥圭介(おおとりけいすけ)公使は、海軍陸戦隊の約500名を護衛に、朝鮮半島の仁川(インチョン)に上陸し、翌日には、首都の漢城(ハンソン)に入りました。

もちろん、清国の出兵はもっと早く、6月8日には2500名を越える部隊を牙山(アサン)に上陸させて、すでに南下を開始していました。

そして、清国の動員数を知った日本は、さらに1000名規模の先発隊を派遣し、6月10日には本隊も、9隻の輸送船に分乗して、日本を出航しました。

・・・と言っても、この時点では、出兵はあくまで公使館や在留邦人の保護のためであって、向かうべき相手は、朝鮮で内乱を起こしている反乱軍でした。

ところがドッコイ・・・大量の日本軍の派兵に驚いた清国は、速やかに乱の鎮圧を急ぎ、日本軍が到着する頃には、すっかり内乱が鎮圧されてしまっていた事から、話は急展開してしまうのです。

「すでに何もない所に大量の兵士がやってきた」
この事実だけが強調された現地では、「大義名分のない派兵」として、朝鮮政府と各国の在留公使たちから非難を浴びてしまったのです。

漢城にいた大鳥も、慌てて、日本からの更なる派兵を断わり、現地の軍隊も即時撤兵すべく、6月15日には、清国側の代表である袁世凱(えんせいがい)との会談をセッティングしました。

清国側も、もともと、あの天津条約で、「朝鮮に対しては均等の仲でいよう」と、日本と約束していたにも関わらず、今回、自分とこが大量出兵した事で、日本の出兵を誘発してしまった事は重々ご承知で、この後は、両国ともに即時撤兵して、以前の状況の戻す事が肝心と考えていたのです。

なので、今回の会談は、いたってすんなりと・・・あっさり合意して終了するはずでした。

ところが、この場に日本側が提出した「朝鮮内政改革案」が物議をかもし出すのです。

そこには、
「日清両国で乱を鎮圧する事」
「日清両国の委員による朝鮮政府の改革断行」

が、記されてあったのです。

これに対する清国の返答は
「すでに乱は鎮圧されてるし、朝鮮の改革は、朝鮮政府自身が行うべきもの」
というもの・・・ごもっともです。

ところが、この清からの提案拒否を納得しなかった日本・・・

Mutumunemitu500 その中心となっていたのは、第2次伊藤博文内閣の外務大臣=陸奥宗光(むつむねみつ)でした。

実は、この頃、日本国内の政情において、伊藤内閣が絶体絶命の危機にさらされていたのです。

以前も書かせていただいたように、明治新政府の一番の目標は、開国以来結ばれた不平等な条約を改正して欧米列強と対等に交渉を行う事でしたが、それらの一つ一つに内閣と議会がかみ合わず、内輪モメする事、山のごとし・・・

それは、伊藤から頼まれた明治天皇
「内閣と議会が互いの主張を譲り合って、私(天皇)の政治を補佐しなさい」
という異例の『和協同(わちゅうきょうどう)の詔勅』を出すほどでした。

そんな中で、今回の大量出兵に対して、何の成果も得られずに撤兵したなら、国内世論は沸騰し、伊藤内閣が退陣に追い込まれる!と、陸奥は思ったのです。

さらに、提案が拒否されれば武力衝突も辞さない日本の強硬外交に対して、ここに来て、ロシアイギリスが介入・・・

「朝鮮半島から撤兵しないのであれば、日本は重大な責任を負うだろう」
というロシアの脅しに対しては
「朝鮮半島を支配しようなんて気は、さらさらありません・・・内政の改革が実行されたら速やかの撤兵しますよって・・・」
と、うまくかわした陸奥は、逆に、イギリスとの日英通商航海条約を締結します。

イギリスはイギリスで、ロシアと清国が朝鮮半島に南下して来ている事に非常に警戒感を抱いていたので、それを阻止するような動きの日本と友好関係を築いておきたかったのです。

このイギリスの賛同は、日本の強硬姿勢に弾みをつけてしまいました。

7月10日に日本が朝鮮に提出した「日本単独の内政改革案」は16日に拒否され、22日を回答期限とした「過去に清国と結んだ条約破棄」の要請にも朝鮮政府からの回答が得られなかった事を受けて、いよいよ、日清戦争へと突入するのです

・・・が、そのお話は、次の動きのあった7月25日【日清戦争・開戦!豊島沖海戦】>>のページでどうぞ。
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