近代日本の日清戦争への足音
明治二十七年(1894年)6月2日、清国の出兵に対して、第二次伊藤博文内閣が朝鮮への派兵を決定しました。
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大きな犠牲をはらいながらも、明治維新を成し遂げた新生日本にとって、一番の目標は、日本という国を世界に認めてもらい、対等な外交関係を築く事・・・
まずは手始めに、近くの東アジアへ・・・とばかりに積極的に動き、明治四年(1871年)には、お隣の清国(中国)との日清修好条規を締結しました。
しかし、こうして江戸時代の関係を払拭して、新たに近代的な外交を築くという事は、一方の江戸時代の外交関係をそのままに継続する事は難しくなるわけで・・・
そう、これまで、日本と同様の鎖国を行いながら、江戸時代に国交を築いていた朝鮮とは、逆に、明治維新以来、国交が途絶えた状態となってしまったのです。
当時の朝鮮を支配していたのは、清国への従属と攘夷(じょうい・外国を排除)を掲げる大院君(テウォングン)・・・
しかし、1873年(明治6年)、大院君は皇后・閔妃(ミンビ)の一族によって失脚させられてしまいます。
一方、日朝交渉が進展しない事にいら立つ日本では、征韓論も巻き起こったり(10月24日参照>>)なんぞしながらの1875年(明治八年)9月20日・・・朝鮮の首都・漢城(ハンソン・現在のソウル)近くの江華島付近において、日本と朝鮮の武力衝突=江華島(カンファド)事件が起こります。
「英国船が来襲するとの噂にピリピリしていたところに登場した日本船を西洋船と誤認して攻撃した」と主張する朝鮮側と、
「日章旗を掲げていたんだから誤認するはずない」と主張する日本側と・・・
双方の主張は食い違うものの、明確な謝罪を要求した日本に対して、朝鮮側が、日朝修好条規(江華条約)を締結するとともに、江華島事件と、これまでの日朝交渉の停滞に対する謝罪文を出した事で、この事件は決着しました。
そして、この日朝修好条規では、朝鮮を「自主ノ邦(くに)」=独立国と規定していた事で、これをきっかけに欧米諸国とも条約を結んだ朝鮮は、一気に開国の道へと進みます。
こうして新たな道を進み始めた朝鮮ですが、まだまだその基盤は緩い状態・・・1882年(明治十五年)7月、漢城で大規模な兵士の反乱(壬午事変)が勃発します。
この乱では、その時、在留していた日本人も多く殺された事で、事態を重く見た明治政府は鎮圧軍を派遣・・・しかし、この乱の鎮圧に活躍したのは、やはり、日本と同様に兵を派遣して来た清国の鎮圧軍でした。
この出来事で清国の力を見せつけられ、日本のような近代化政策はムリと判断した朝鮮政府は、再び、清国を宗主国とする服属関係を基盤とした親清政策へと方向転換・・・
しかし、もちろん、すでに一度独立国となって新たな道を歩み始めた以上、またもや清国の属国となってしまう事をヨシとしない人たちは、まだまだいるわけで・・・
日本としても、隣国・朝鮮の近代化は、自国の政財界への影響も大きいわけですし、日本と同じような独立した近代立憲君主制国家の樹立を夢見る彼ら=開化派を支援しようという動きもできてきます。
こうして日本側の支援を得た開化派は、1884年(明治十七年)にクーデター(甲申事変)を決行・・・しかし、これも、出兵した清国軍に鎮圧されてしまいます。
これによって緊張高まる日本VS清国・・・この緊張を緩和するために、翌1885年(明治十八年)に日本側全権・伊藤博文と清国側全権・李鴻章(りこうしょう)によって、天津条約が結ばれます。
この条約の締結によって、日清両国とも、漢城から即時撤退する事、今後、朝鮮に出兵する時は事前に通告する事となりました。
ビゴーの風刺画(横浜開港資料館蔵)
日清戦争と言えば、必ず教科書に登場するこの絵…CORЀE=魚(朝鮮)を釣り上げようと競う左(日本)と右(清国)を、漁夫の利を狙って橋の上から眺めるロシア
とは言え、朝鮮国内では、未だ停滞した政治が続き、物価の高騰も留まる所を知らず・・・
その結果、1894年(明治二十七年)、不満を持った農民による反乱が勃発・・・2月に起こった反乱は、またたく間に全土に広がり、もはや国内は内乱状態となります。
後に甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)、もしくは、東学(とうがく=民間信仰をベースにいた朝鮮独自の思想を持つ宗教結社)の信者が多く関与していた事から東学の乱とも呼ばれる反乱です。
その鎮圧に困り果てた朝鮮政府は、清国に鎮圧軍の出兵を依頼します。
もとより、朝鮮の支配権を強化したい気満々の清国は、即座に、これに応じて出兵・・・
これは、日本も捨ててはおけません。
朝鮮の内乱をほったらかしにするだけじゃなく、その鎮圧を清国に丸々まかせてしまっては、天津条約で約束した日清両国の均等平等関係はどうなるんだ?って事になりますから・・・
かくして、朝鮮への介入が叫ばれる中の明治二十七年(1894年)6月2日、伊藤博文内閣は、現地にある公使館や在留邦人の保護を理由に軍隊駐留権を定めた済物浦(チェムルポ)条約に基づき、出兵を決定したのでした。
こうして、お互いに派兵した日清両国は、やがて本格的な戦争へと突入・・・これが日清戦争です。
・・・とこの続きのお話は、大鳥圭介が海軍陸戦隊と供に仁川に上陸した6月9日の【いよいよ日清戦争へ…】でどうぞ>>
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コメント
うわーん、本能寺の変じゃない~><
投稿: しまだ | 2011年6月 2日 (木) 22時22分
しまださん、こんばんは~
あまりに、毎年、本能寺だとマズイかな?と…(゚ー゚;
投稿: 茶々 | 2011年6月 3日 (金) 01時54分
横浜市なら開港記念日だけど。市政記念日とは言わない。
投稿: やぶひび | 2011年6月 7日 (火) 07時39分
やぶひびさん、こんにちは~
>開港記念日
なるほど…そうなんですね~
投稿: 茶々 | 2011年6月 7日 (火) 12時22分