女戦士・鶴姫の勇姿~常山女軍の戦い
天正三年(1575年)6月7日、毛利方の小早川隆景が、上野隆徳の守る備前常山城を攻め落としました。
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時は天正三年(1575年)5月・・・と言えば、そう、あの長篠の戦い(5月21日参照>>)の、まさに、その時ですが、この頃は、将軍=足利義昭や石山本願寺の呼びかけに応じた武将らに包囲網を敷かれながらも浅井&朝倉を倒し(8月27日参照>>)、今度は武田勝頼とあいまみえる織田信長の動向が、はるか西の方にも影響を与えはじめた頃なのです。
未だ敵は多いものの、なんだかんだで畿内を制している信長の勢力が、やがて西へと向く時、これまで西国の雄=毛利の影響を受けて来た、その中間地点にいる諸将たちは、いったいどちらにつくのか???
当時、播磨(はりま・兵庫県)の小大名=小寺氏の家臣だった黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)が、主君の小寺政職(まさもと)の反対を押し切って、織田の傘下になるよう進言するのも、ちょうど、この頃だったと思います(11月29日参照>>)。
とは言え、西国の大名が信長になびき始めるのは、やはり長篠の合戦の後からなのですが、それより前に、信長派を表明していた人・・・それが、備中(岡山県西部)松山城(高梁城とも)の城主・三村元親(みむらもとちか)でした。
それまで毛利の支援を受けていた元親以下三村氏でしたが、実は、彼には、隣国=備前(岡山県東部)美作(みまさか・岡山県北東部)に勢力を拡大しつつあった父=家親(いえちか)を恐れた宇喜多直家に、その父を暗殺されてしまうという過去がありました。
もちろん、直後には弔い合戦を試みた元親でしたが、あえなく敗退・・・以来、いつか恨みを晴らしたいと思っていたのですが、天正二年(1574年)、そんな直家が毛利の傘下となったのです。
「いつか恨みを晴らしたい相手が同じチームに!!」
未だ21歳の若き当主=元親は困惑・・・そんな時に、受け取ったのが信長からのお誘いの誓紙でした。
松山城で開かれた会議では、叔父の三村親成(ちかしげ)など一部の重臣の反対もありましたが、元親の決意は固く、三村氏は毛利からの離反を決定したのでした。
この時、主君=元親の意見に賛成した一人が、元親の妹=鶴姫を妻にし、備前常山(つねやま)城を任されていた上野隆徳(たかのり)でした。
しかし、この離反の知らせを聞いた毛利方・・・当然、黙って見過ごすわけにはいきません。
小早川隆景(こばやかわたかかげ・毛利元就の三男)は、即座に三村氏討伐を主張・・・一方、そもそも宇喜多氏を毛利の傘下に加える事に反対していた吉川元春(きっかわもとはる・元就の次男)は、この討伐にも反対しますが、主に山陰を任されていた元春の意見は通らず、毛利の方針は、山陽道を任されていた隆景の主張した討伐へと決定しました。
かくして天正二年(1574年)の12月上旬に数万の軍勢を率いて備中に入った隆景は、元親の手によって堅固な要塞と化している松山城を後回しにして、次々と支城を攻略するところから始めます。
やがて、年が改まった天正三年(1575年)3月に、いよいよ松山城を取り囲み、本格的な攻撃を開始・・・まずは補給路を断つという持久戦覚悟の万全の攻撃態勢に加え、数の上でも圧倒的に毛利に優勢な状況では、さすがの松山城も耐えきれず、2ヶ月後の5月22日落城したのでした(6月2日参照>>)。
(一旦逃走した元親は、覚悟を決めた6月2日に自刃しています)
そして、この時、松山城とともに、同時攻撃を受けていたのが備前常山城・・・
と、やっと出て来ました~常山城も城主の上野隆徳も初登場だったので、なぜ、常山城が毛利の攻撃を受けていたのかを話したくて、ついつい長くなってしまいましたm(_ _)m
・・・で、堅固な城と評判だった松山城でさえ落城してしまった5月22日には、もはや常山城も、風前の灯となっていました。
そして天正三年(1575年)6月7日・・・大軍に包囲され、「もはや、これまで!」と悟った城主=隆徳は、一族を集めて最後の酒宴を開き、一同に「自害しようと思う」と告げました。
すると、まずは母親が一歩前へ出て、
「目の前で息子(隆徳)が死ぬのは見たくないので、私が一番に逝くわ」と・・・
自分で、腹を刺したりノドを突いたりという事ができない母は、柱に刀をくくりつけて、そこに突進して息絶えたと言います。
続いて15歳の長男=隆秀は・・・
「本来なら、父上の介錯をすべきところですが、後に残るのはツライ」
と、腹を十文字に切りました。
隆徳は、そんな長男の介錯をすると、返す刀で未だ8歳の次男を、片腕で抱くように引き寄せて、その刀で腹を貫きました。
「女なのだから逃げろ」と言われ続けていた16歳の妹も、最後まで逃走を拒み、母を貫いた刀を手に取り、自害しました。
いよいよ残ったのは隆徳本人と、その妻=鶴姫・・・実は、この鶴姫、「乱世には何が起こるかわからぬ」と、幼い頃から太刀や薙刀(なぎなた)をはじめ、槍や馬術に至るまで、武芸のすべてを亡き父=家親から仕込まれていた女戦士だったのです。
愛しい家族の死を目の当たりにした鶴姫・・・
みるみる鬼の形相と化し、
「敵を討たずして死ねるか!」
と叫んだかと思うと、黒髪を解きほぐした頭に鉢巻きを巻き、兜を装着・・・腰には父の形見の宝刀=国平(くにひら)の太刀を刺し、鎧の上に紅の薄衣(うすぎぬ)をひるがえしながら、手に薙刀を持ち、
なんと!敵中に躍り出ていったのです。
それを見た女房たち36人・・・それまでは、奥方に続いて自害するつもりだった彼女たち全員・・・中には、赤ちゃんを背負った女性や、腰の曲がった老婆もいたと言いますが、そんな彼女らが次々と長槍を手に、後に続いたのです。
それを見た男たち・・・さすがに、このまま、男たちだけが自害するわけにはいかず、隆徳以下83人の城兵は、一斉に敵中に撃って出ました。
突然の女軍の出現に戸惑う敵兵は、最初こそバッタバッタと斬り倒されますが、さすがに、すぐさま態勢を整えて、反撃に移ります。
やがて、味方のほとんどが討死した事を見取った鶴姫・・・敵将の浦野宗勝(むねかつ)を見つけると、一騎討ちを申し出ます。
しかし、宗勝に、「女と勝負はできない」と断わられると、
「宗勝殿に、これを献上する!死後を弔って欲しい!」
と、言いながら、あの父の形見の宝剣を投げるようにして城中へと戻っていきました。
城へ戻った鶴姫は、先ほどとはうってかわって安らかな表情となり、夫=隆徳の介錯で自害したと言います。
もちろん、隆徳もそのあとに続き、常山城は落城となりました。
現在、穏やかな瀬戸内の海を望む常山城跡(岡山県岡山市南区&玉野市)には、高徳&鶴姫一族とともに、34人の女戦士のお墓が並んでいるのだとか・・・この勇敢な女戦士たちのお話は、「常山女軍の戦い」と称され、今に伝わります。
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コメント
当市の話を取り上げて下さり、感謝です。地元地区の女性有志で、毎年 、女軍の供養祭が、8月に行われています。
また、常山の近くの麦飯山には、何人目の秀勝さんかは不明ですが、陣を張ったと聞いたことがあるような・・?!
投稿: syun | 2011年6月 7日 (火) 20時59分
続きです。児島湾の干拓で、今では、常山からは穀倉地帯や団地など田園風景が見られます。海は遠くなってしまいました。
投稿: syun | 2011年6月 7日 (火) 21時52分
syunさん、こんばんは~
女性たちが踊りを踊っておられるシーンを見た事があるのですが、それが供養祭でしょうか???
(記憶が曖昧で申し訳ないです( ´;ω;`))
そうですか…
海は遠くなったのですね
投稿: 茶々 | 2011年6月 8日 (水) 01時54分
先週土曜日に、“映っちゃった”で“心霊スポット”に取り上げられていました。今までは供養の為に山腹の広場で盆踊りをしていましたが、山崩れで道が崩落し、道の復旧もままならず、ここ数年は盆踊りが開催出来ない状態が続いている…との事です。どうにか出来ないのでしょうか。
投稿: クオ・ヴァディス | 2016年10月 8日 (土) 14時56分
クオ・ヴァディスさん、こんにちは~
TVでやってましたね~
早く、復旧してほしいです。
投稿: 茶々 | 2016年10月 8日 (土) 16時57分