歴史のifを思う…謎多き梅北の乱
文禄元年(1592年)6月15日、薩摩湯之尾の地頭=梅北国兼が、佐敷城を襲撃し、乗っ取りました・・・梅北の乱、あるいは梅北一揆と呼ばれる、秀吉の朝鮮出兵の真っ最中に九州で起こった反乱です。
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その時の豊臣秀吉の心の内となると、未だ謎多き朝鮮出兵ではありますが・・・
●【豊臣秀吉の朝鮮出兵の謎】(3月26日参照>>)
●【秀吉はなぜ家康を朝鮮に行かせなかったのか?】(1月26日参照>>)
とにかく、文禄元年(1592年)4月13日、秀吉が派遣した第一軍が、朝鮮半島の釜山(プサン)に上陸し(4月13日参照>>)、世に言う文禄の役が開始されました。
肥前名護屋城(佐賀県唐津市)に拠点を置き、続いて第二軍・第三軍・・・と次々と渡海する中、薩摩の島津義弘らも、それに続くはずでした。
ところが、その島津の家臣で、湯之尾(鹿児島県伊佐市)の地頭だった梅北国兼(うめきたくにかね)が、事を起こします。
当時、その最前線の基地である名護屋城へ向かう船を待つ=「船待ち」と称して、肥後佐敷(さじき)城下(熊本県芦北町)に居座っていた国兼たちは、文禄元年(1592年)6月15日、隙を見て、約300の将兵を率いて佐敷城を包囲したのです。
この時、国兼らは、すでに周辺領民の了解も得ており・・・
と、了解どころか、その周辺の農民や町民たちも自ら参戦し、反乱軍の数は700・・・一説には2000以上にも膨れ上がっていたと言いますから、かなり計画的に進められた反乱行動であったようです。
一方、囲まれた佐敷城・・・ここは、あの九州征伐(4月17日参照>>)の時に、最後まで戦った島津をしっかりと警戒するために、秀吉が信頼を寄せる加藤清正に造らせた「境目の城」=重き要所だったのです。
しかし、現在、その領主の清正や、城代を任されていた加藤重次は、かの朝鮮出兵に出払っているわけで・・・
留守を預かっていたのは、安田弥蔵(やぞう・弥右衛門)、境(酒井)善左衛門(ぜんざえもん)、井上彦左衛門(ひこざえもん)、井上弥一郎(やいちろう)ら、わずかな手勢・・・大きな兵力差に、もはや彼らも打つ手はありませんでした。
やむなく、彼らは、ほぼ無抵抗で城門を開いて、梅北方の将兵を迎え入れる事に・・・
そして3日後の6月17日、弥蔵らは酒宴の席を設けて国兼ら、主だった者たちを招待・・・
もはや降伏が決定して、すっかり油断していた国兼らが、勧められるがままに酒を飲みはじめたところ、まずは善左衛門が国兼に斬りかかり、続いて弥蔵らも、これに続き・・・
こうして、乱の中心人物を倒した弥蔵らは、そのまま佐敷城を奪い返す事にも成功し、乱は、わずか3日で終結する事となりました。
結局・・・この乱のせいで、すでに遅れ気味だった島津の朝鮮出兵を、さらに遅らせる事になってしまい、義弘自身が「日本一の遅陣」と言わねばならないハメとなり、豊臣政権下での、その後の島津の立場を悪くしてしてしまいました。
と、現在残る史料では、すぐに鎮圧された小さな事件として記録される梅北の乱ですが、一方では、乱は15日間に渡っていたという説もあり、その戦後処理の内容からも、かなり重要な事件だった可能性も浮上している、謎多き反乱なのです。
秀吉から「悪逆人」と言われた首謀者の国兼とその仲間は、その首が名護屋城に届けられた後、浜辺にてさらし首・・・
そして、国兼が率いた300人の中に、島津歳久(としひさ・義弘の弟)の家臣が多くいたとして、彼は7月18日に、その責任を取る形で切腹しようとするものの、体が不自由だったために家臣に首を切られています。
さらに、やはり同じような理由で阿蘇宮司だった阿蘇惟光(あそこれみつ)が、熊本花岡山で斬首されました。
国兼の旧領であった山田郷(鹿児島県姶良市)に、乱の不成功を告げに行った重臣・7名も自ら切腹し、その後、捕えられた国兼の妻は、名護屋城へと送られ、火あぶりの刑に処せられます。
わずかに、国兼の子供たちだけが、散り散りになって逃亡する事に成功したという事ですが、その後の行方はわかっていません。
こうして、乱に加担した者以外にも、多くの犠牲者を出した梅北の乱なのですが、不思議な事に、その旧領の山田庄馬場(姶良市北山)には、梅北神社なる神社が存在するのです。
なぜか、地元では国兼は神として祀られているのです。
そこに残る2基の石灯籠には貞享(1684年~1687年)と元禄(1688年~1703年)の元号が見てとれるところから、江戸時代もはじめの頃には、すでに崇拝の対象となっていたようですし、後に献納された石碑の筆者は、あの西郷隆盛の実の弟の西郷従道(つぐみち)だと言います。
そう、この梅北の乱は、国兼個人の反乱として処理されたものの、実は、そうではない可能性がプンプン臭うわけですよ。
もちろん、当初から、九州征伐への恨み、朝鮮出兵への反対運動・・・と、国兼個人ではない様々な反乱理由が取り沙汰されていたわけですが、それだけでは、神として祀られ、幕末維新の時代にも崇められるかどうか・・・。
乱が失敗したために、すべての責任をかぶって、切られるシッポとなってしまった国兼ですが、ひょっとして、この乱が成功していれば・・・
そして、この出来事によって豊臣政権が揺るぎ、あの関ヶ原より先に島津の手によって崩壊していたなら・・・
歴史好きの心をくすぐり、ロマンをかきたてられる謎多き反乱ですね。
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