« 近代日本の日清戦争への足音 | トップページ | 比叡山を日本仏教の母山とした伝教大師・最澄 »

2011年6月 3日 (金)

北条→豊臣→徳川…世渡り上手な外交軍師・板部岡江雪斎

 

慶長十四年(1609年)6月3日、戦国期に優秀な軍師として、北条→豊臣→徳川と渡り歩いた板部岡江雪斎が、この世を去りました。

・・・・・・・・・・・

以前、北条氏に仕えた名軍師中山修理介(なかやましゅりのすけ)さんをご紹介した時に、その軍師なる職業にも、イロイロ種類がある事を書かせていただきました(10月7日参照>>)

くわしくは、ソチラのページで見ていただければうれしいのですが、ここで簡単に説明させていただきますと・・・

占いや風水などによって、合戦の日づけや攻める方角などをアドバイスする陰陽師修験者・・・そこに、気象予報士的な才能も加えた軍配者

有力な武将の下に補佐役としてつく与力が、現地では軍勢の指揮などする旗本軍奉行になったり・・・

殿さまが子供の頃に、教育係として側にいた(もり)や、身の回りの世話をする小姓が、大人になってそのまま殿さまの補佐をするのも・・・

これらは、皆、軍師と呼ばれます。

そんな中で、現在の私たちが軍師と聞いて、最も思い浮かべるイメージであろう軍議などの意思決定機関で、作戦を考えたり、アドバイスしたりする人・・・これらは、大抵複数いて、評定衆と呼ばれていた軍師なわけですが、

そんな軍師たちに共通する仕事の中には、戦で活躍するだけではなく、平時における周辺諸国の情報収集や対外交渉など、今で言うところの外交官的な仕事領国の経営などもあったわけです。

・・・で、本日ご紹介するのは、軍議に参加する評定衆でありながら敏腕外交官・・・いや、実力No,1の外務大臣といった感じ、しかも、かなり世渡り上手な板部岡江雪斎(いたべおかこうせつさい)です。

えぇ???どれが名前で…(@Д@;って私も思いましたが(笑)、板部岡が苗字ですww

もともとは、伊豆下田の僧侶だったと言いますが、その才能を、相模(神奈川県)の戦国大名・北条氏康に認められて、祐筆(ゆうひつ・秘書)に取り立てられます。

それ以降、氏康の嫡男=氏政、そのまた嫡男の氏直と、北条3代に仕えて、奉行から評定衆の一人へ・・・という出世を果たします。

・・・で、上記の通り、平常時の評定衆は、会社で言うところの取締役執行役員のような感じで、領国経営にも当たるわけですが、現在、発見されている北条家の領地経営に関する文書で、最も多く登場するのが、この江雪斎だという事ですので、その活躍ぶりのスゴさもうかがえますね。

ただ、そんな江雪斎さんですが、1度だけ大きな失敗をしております。

それは天正元年(1573年)・・・あの甲斐(山梨県)武田信玄が亡くなったとの噂が飛び交った頃、その真偽を確かめるべく、氏政の命を受けて、病気見舞いと称し、甲斐へとおもむいたのです。

・・・が、その時、江雪斎に対面したのは、信玄の異母弟の武田信綱・・・実は、本当に、すでに信玄は亡くなっていたわけですが、敵もさるもので、信玄に姿形が良く似た信綱を、(すだれ)越しの対面で対応・・・さすがの江雪斎も、これでは見抜けず、まんまと影武者にしてやられてしまったというわけです。

しかし、その後、武田と決裂した北条が、天正十六年(1588年)に徳川家康と同盟を組む時、自ら、家康のもとへとおもむいて、氏直と督姫(とくひめ=良正院・家康の次女)との結婚実現に尽力し、結納の日取りをはじめ、結婚のあれやこれやを取り決めたと言います。

この時、武田の旧領である信濃を巡って、北条とは対立関係にあった徳川を、和睦=婚姻にまで持っていったのですから、その外交手腕は大したものです。

やがて、天下統一にまい進する豊臣秀吉が、氏政・氏直父子に「上洛して挨拶に来てぇな」と、無理難題を言って来た時・・・

上洛を拒む氏政らを、北条氏規(うじのり・氏政の弟)(2月8日参照>>)とともに説得しつつ、自らも天正十七年(1589年)に上洛して秀吉に拝謁し、主君の上洛の件についての最終的な詰めを行い、関係の修復にあたりました。

ところが、こうして、せっかく江雪斎がダンドリを組んだ主君の上洛話は、北条氏照(氏政の弟)や家老の松田憲秀(のりひで)らの反対派に押し切られ、ポシャッってしまうのです。

そして、その年の11月・・・ご存じのように、秀吉は北条のぶっ潰し小田原征伐を決意します(11月24日参照>>)

ここで、とうとう北条を見限ったのか?
開戦からしばらくして後、なんと江雪斎は、秀吉の軍門に下るのです。

しかしながら、そもそもは、秀吉に「上洛する」との約束をして小田原に戻っていた江雪斎・・・結局は、それが実現しなかったわけですから、秀吉から見れば、約束破りの憎いヤツ・・・。

って事で、小田原征伐が終わった後は、秀吉からの激しい怒りが江雪斎にぶつけられました。

ところが、ここで江雪斎慌てず騒がず・・・「すべての責任は自分にある」として、一切の弁明をしなかったのだとか・・・

Toyotomihideyoshi600 ・・・で、お察しの通り、この実直な態度に秀吉カンゲキ!

その罪を許すどころか、御伽衆(おとぎしゅう・主君の側に仕えて話し相手となる)として、彼を配下に加えたのです。

もともと、先の上洛のダンドリを組んだ際に、自ら茶を点ててもてなしたという逸話が残るくらいに江雪斎の事を気に入っていた秀吉・・・一方の江雪斎から見れば、すでに、秀吉の好みのキャラクターを見抜いていたのかも知れませんね。

以後、姓を岡野と改めて、秀吉に仕えた江雪斎・・・

やがて、秀吉の死後に訪れた関ヶ原の合戦では、ちゃっかりと家康につき、小早川秀秋の寝返り作戦にも力を発揮しました。

私的には、和歌や茶道を好む風流人だったという江雪斎・・・慶長十四年(1609年)6月3日、伏見にて、その生涯を閉じます。

・・・が、世渡り上手な彼のおかげで、息子以下、岡野家は、旗本として江戸時代を生き残り、200年ほど後の文化十四年(1817年)には、水野忠成(みずのただあきら・水野家へ婿養子に入った)という老中にまで上り詰める人材を輩出する事になるのです。
 .

あなたの応援で元気100倍!

人気ブログランキングへ    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 近代日本の日清戦争への足音 | トップページ | 比叡山を日本仏教の母山とした伝教大師・最澄 »

家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

上記の「軍師のパターン」で1番目が山本勘助で、2番目が太原雪斎や、竹中半兵衛と黒田如水、3番目が片倉小十郎や直江兼続で、3番目は時代が下ると家老や側用人と言う感じになりますね。
珍しい名字ですが末裔は今は岡野姓ですか?
この人の末裔の「水野忠成」は、土曜時代劇最後の作品に登場しました。前田吟さんが演じました。

投稿: えびすこ | 2011年6月 3日 (金) 16時56分

えびすこさん、こんばんは~

水野忠成さんの老中就任は、家斉の大御所政治の頃ですね~

賄賂はあまりよろしくありませんが、賄賂が横行するという事は、それだけ景気が良かったという事で、政治家としてはどうだったんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2011年6月 4日 (土) 01時59分

いい話ですね。

投稿: minoru | 2011年6月 4日 (土) 07時20分

「武田信玄の影武者を見抜けなかった」とありますが、板部岡は生前の信玄に会った事があるんですか?外交担当なら会っている可能性はありますね。
政治家の賄賂。国会議員が特定業者から賄賂を受け取ったと言う汚職は最近聞かないですね。政治浄化が進んだのか、経済が停滞しているのか?

投稿: えびすこ | 2011年6月 4日 (土) 08時51分

minoruさん、ありがとうございます

投稿: 茶々 | 2011年6月 4日 (土) 16時38分

えびすこさん、こんにちは~

確信はありませんが、北条と武田は三国同盟を結んだ事もあるわけですし、当時からの外交担当の評定衆なら、面識がある確率が高いと思うのですが…(゚ー゚;

投稿: 茶々 | 2011年6月 4日 (土) 16時41分

紅雪斎は紹介ありがとうございます。
最近わかったのですが家紋からおっていったら私は紅雪斎の一族子孫でした。

投稿: 岡野 | 2017年10月27日 (金) 03時51分

岡野さん、おはようございます。

そうですか…ご先祖様なのですね。
昨年の大河では、演技派の俳優さんがイイ味出してはりましたね。

投稿: 茶々 | 2017年10月27日 (金) 06時15分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 北条→豊臣→徳川…世渡り上手な外交軍師・板部岡江雪斎:

« 近代日本の日清戦争への足音 | トップページ | 比叡山を日本仏教の母山とした伝教大師・最澄 »