「信長を殺ったる!」遠藤喜右衛門・命がけの奇策in姉川
元亀元年(1570年)6月28日、この日行われた姉川の戦いで、浅井長政の寵臣・遠藤喜右衛門が討たれました。
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この姉川の合戦からさかのぼる事2年・・・永禄十一年(1568年)の8月に、あの織田信長が琵琶湖の東岸にある佐和山城にやって来ます。
まもなく行う予定である足利義昭を奉じての上洛(9月7日参照>>)・・・その道筋を確認するためです。
尾張(愛知県西部)と美濃(岐阜県)に本拠を置く信長が上洛するためには、琵琶湖東岸のルートはとても重要・・・そのために信長は、可愛い妹のお市の方を、ここ北近江を支配する浅井長政に嫁がせて、この道を確保したのです。
そう、この日の佐和山城で、長政は初めて、嫁さんの兄貴=信長と対面しました。
その接待役を命じられたのが、長政の家臣・遠藤喜右衛門直経(えんどうきえもんなおつね)・・・
鎌倉時代がら近江に根を張る家柄で、浅井家が未だ京極氏の被官であった頃(8月7日参照>>)からの譜代の家臣・・・特に喜右衛門は、長政が幼い頃から、傅役(もりやく)&相談役として仕えた最も信頼のおける近習でした。
もちろん、大役を仰せつかった喜右衛門もはりきって最大級のもてなしをセッティング・・・名物料理にとどまらず、琵琶湖に大網を打って、鯉や鮒などを大漁に捕える所を実演して見せたりなど・・・
接待を受けた信長も大喜びで、11歳年下の長政と本当の兄弟のように語り合い、楽しい一日を過ごしたようです。
やがて日も暮れて、長政は居城の小谷城へと戻り、家臣の皆々もそれぞれが宿に下がり、信長のそばには小姓が14~5人ほど・・・
その時、喜右衛門は、一直線に小谷に馬を走らせます。
すでに寝床に入っていた長政を起こし・・・
「この先、信長公と心一つになる事は難しいと僕は思います。
今夜なら、そばにいるのは十数人の小姓のみ・・・今、この場で討ち果たすのが得策かと・・・」
そう、実は、今日一日、接待役をこなした喜右衛門は、その道すがら、常に信長に目を向け、彼の人となりをずっと見ていたのです。
喜右衛門曰く・・・
「(信長は)サルがこずえを伝うようにすばしっこく、鏡に明るく映るように頭が良い」
のだそうです。
この先、ずっと味方でいられるなら良いが、そういかない場合は、大変危険となる人物である事を見抜いていたのですね~
しかし、マジメ人間の長政・・・
「でも、俺は、今日一日ともに過ごして、本当の兄弟のように心うち解け合えたと思てる。
向こうもたぶん・・・せやからこそ、少ない人数で、今夜この地に滞在してくれてはんねやろ?
ここで、殺す事は簡単やけど、そんな風に思ってくれてる人を討つべきやない・・・俺らサムライやで!」
と・・・
確かに、騙し討ちは、武士としても、もともと気持ちが良い物ではありませんし、まして、主君がそう言うなら・・・と、この時は喜右衛門も引き下がります。
やがて信長は上洛し、またたく間に畿内を掌握・・・そして、あの緒将への上洛要請です。
その上洛要請に応じなかったのが越前(福井県)の朝倉義景(よしかげ)・・・元亀元年(1570年)4月、この上洛拒否を理由に、信長が朝倉攻めたのが手筒山・金ヶ崎城の攻防戦(4月26日参照>>)です。
しかし、この信長の行動に激怒したのが長政の父=久政・・・長年、朝倉との同盟を持ち続けていた浅井としては当然なのかも知れません。
家臣の多くも、「昔からよしみのある朝倉につくべき」と主張しますが、喜右衛門の意見は違いました。
「あの日、信長公を討とうと持ちかけたところ、聞いてはくれはりませんでしたよね?
いまさら、気持ちが変わったって言われても通りまへんて。
今や、信長公は天下を掌握する勢い・・・ここで、敵に回すと浅井は滅びます」
とピシャリ!
しかし、家老の赤尾清綱(あかおきよつな)こそ、喜右衛門の意見に同調してくれましたが、もはや怒り爆発の久政は、
「何が何でも、信長を殺ったる!」
と、その気持ちを変える事はありません。
またまた、やっぱりマジメ人間の長政も、
「父親に逆らうなんて、できひんモン」
と、結局、朝倉に同調し、信長と戦う事を決意します。
もちろん喜右衛門とて主君の命には逆らえませんから、そう決定した以上は、その命賭けて信長を倒すのみ・・・
一方、浅井の参戦に驚いた信長は、何とか岐阜へと戻り(4月27日参照>>)、態勢を整えた後、いよいよ姉川の合戦となります(6月19日参照>>)。
そして、度々書かせていただいている通り、険しい山上にある小谷城を攻めづらいと判断した信長は、その南東にある横山城を包囲して、その救援に長政らがやって来るように仕向けるわけですが・・・
もちろん、そんな事は浅井側でも百も承知・・・
横山城を見捨てて小谷で籠城するのか?
積極的に撃って出て、姉川の河畔で一勝負するのか?
軍議の席では、長政が積極的に撃って出る事を主張するものの、やはり慎重論が大勢を占めます。
なんたって、信長は侮れませんから・・・
そこに喜右衛門、
「勝負する事に越した事はありません。
撃って出ましょう」
と、長政を後押し・・・
「合戦が始まりましたら、僕が、敵陣にまぎれ込んで信長公のそばに行き、討ち果たします・・・狙うは、その首一つです」
と捨て身の作戦を提案・・・その場は一気に積極策を支持し、軍議は決定されました。
かくして元亀元年(1570年)6月28日、姉川を挟んでにらみ合う両者・・・午前6時、決戦は開始されます(2007年6月28日参照>>)。
最初こそ、浅井朝倉連合軍の優勢で幕を開けた戦いでありましたが、途中から徳川家康配下の榊原康政が迂回して接近、さらに、横山城を包囲していた西美濃三人衆も駆けつけ、形勢は一気に逆転となり、浅井朝倉連合軍の敗色が濃くなってきます。
ここで喜右衛門・・・かねてよりの作戦を決行します。
味方の武将・三田村左衛門の首級を片手にぶら下げて、ただ一人、乱戦にまぎれて敵陣の奥へと入り込む喜右衛門、
「大将はどこにおられるか~~」
と、あたかも、敵の首を取った信長の兵が、主君に、その武功を知らせに行くかのごとくふるまいながら、敵の奥深く、深く・・・
やがて・・・
「見つけた!!」
約20m先・・・喜右衛門は信長の本陣を捕えます。
目標に気持ちを集中し、ゆっくりと近づいていく喜右衛門・・・しかし、喜右衛門が信長に気づくと同時に、喜右衛門に気づいた者がいました。
当時、信長の馬廻り役を務めていた竹中久作(きゅうさく)・・・あの竹中半兵衛の弟です。
久作は、異常に脇目を使う喜右衛門を不思議に思い、そこに注意を向けていたのです。
そう、喜右衛門は、本来、味方であるなら、とうに頭に入っているであろう陣立てのダンドリがまったくわからず、
「あの陣は誰の物、この陣は誰々」
と確認しながらの突進・・・そこを気づかれたのです。
即座に喜右衛門に飛びかかる久作・・・くんずほぐれつの激しい格闘の中、無念ながら喜右衛門は久作に組み敷かれ、その首を取られたのです。
そして、合戦自体の戦況も、ご存じのように浅井朝倉軍の敗戦・・・
喜右衛門が命をかけて守ろうとした主君=長政が信長の前に倒れるのは、その3年後・・・天正元年(1573年)8月27日の事でした(8月27日参照>>)。
*姉川の合戦での逸話
【姉川の七本槍と旗指物のお話】は2008年の6月28日でどうぞ>>
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コメント
いつも楽しいお話ありがとうございます。今日のお話も楽しませて頂きました。私たちのこの国は何千年という歴史があり、その中で一人一人がそれぞれの思いを持って生きたその積み重ねの上で私たちも生きているのだと思います。
今日の遠藤喜右衛門の話も主人や主家の為に挑んだ乾坤一擲の挑戦、それを阻む竹中久作・・・まさに勝負は時の運、喜右衛門は無念だったでしょうがその思いは十分に伝わってきました。
茶々さんがこうした一般にはあまり知られていない話を紹介することでそれぞれの人の思いが後の世まで伝わっていくのだと思います。私もいつか歴史HPを作りたいを考えていますが、茶々さんのように歴史に生きたそれぞれの人の思いを伝えられるようなHPにしたいと思っています。これからも健康に留意して頑張ってください。
投稿: へいたろう | 2011年6月28日 (火) 21時34分
へいたろうさん、こんばんは~
ほんとに…
有名無名に関わらず、身分の上下に関わらず、歴史上に生きた人々のうち、誰一人欠けても、今の日本は無かったかも知れません。
力不足ながらも、今、その時を精一杯生きた人々の思いを、少しでも伝えていけたらと思います。
元気の出るコメントをありがとうございました。
励みになります。
また、遊びに来てくださいo(_ _)oペコッ
投稿: 茶々 | 2011年6月28日 (火) 22時26分