忍城攻防戦…留守を守った成田氏長夫人と甲斐姫
天正十八年(1590年)6月16日、石田三成らが武蔵忍城南に堤を築いて水攻め中、折からの大雨で堤の西端が決壊し、自軍に被害が出ました。
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天下目前の豊臣秀吉が、関東の大物・北条氏を攻めるべく開始した小田原征伐(3月29日参照>>)。
秀吉が、北条氏政・氏直らの籠る小田原城を22万の大軍で包囲したのは、天正十八年(1590年)4月3日でした(4月3日参照>>)が、本拠を包囲すると同時に、別働隊による支城の攻略も行っていました。(5月29日参照>>)
そんな支城の一つが、成田氏長(うじなが)が城主を務める武蔵忍城(おしじょう)・・・この忍城攻めを任された大将は、あの石田三成でした。
すでに6月1日に忍城を包囲した三成でしたが、忍城は沼地に建てられた鉄壁の要塞・・・攻め込もうとすると、その沼地に足を取られ、どうも先へ進めません。
そこで三成は忍城を水攻めにする事を決意(秀吉の提言であったとも言われます)・・・6月9日(7日とも)、総延長28kmに及ぶ堤防を築きあげました。
・・・と、以前に、この堤防が完成した6月9日の日づけで、忍城の攻防戦について書かせていただいた事もあって、内容が重なる今回は、ここに至るまでの経緯を、チョイと、はしょらせていただきましたので、別働隊の動きに関しては、その6月9日のページ>>や、上杉&前田などが担当した八王子城攻防戦(6月23日参照>>)を見ていただくとありがたいです(*^-^)
・‥…━━━☆
こうして、三成率いる2万3000余の大軍に囲まれた忍城・・・城主の氏長は、精鋭部隊を引き連れて、すでに本拠の小田原城に詰めていましたから、ここに残されていたのは、病身の城代・成田泰季(やすすえ)以下、若干の城兵のみでした。
しかし、ここで、智略あふれる采配を振るのは、氏長の奥方・・・なんせ、この方、あの大田道灌(どうかん)(8月16日参照>>)の血を引く5代めの孫!
以前から度々書かせていただいているように、男尊女卑より身分の上下の差が優先された戦国時代では、城主のいない城で、その主の代わりをするのは奥さま(城主が独身の場合は生母)ですから・・・
彼女の作戦は、すでに、忍城が囲まれる前から始まっていました。
まずは、ありったけの食糧を確保するとともに、城下に住む百姓・町民から坊主や神主まで、とにかく、ありとあらゆる人々を城内に引き込みます。
こうして準備万端整えた後、城が囲まれると、それらの人々を要所々々に配置して城の防御に当たらせ、武器に不得手な女性や子供には旗を持たせたり、太鼓を打ち鳴らさせたりして、あたかも城内に大軍がいるかのように見せかけたのです。
とは言え、この忍城は、先ほども書かせていただいたように、もともと湿地帯の中に建てられた城で、なかなか建物に近づき難く、鉄砲も届かない・・・
って事で、三成は、その作戦を水攻めに切り替え、城の周囲に大堤を築かせる・・・という事になるのですが、ここで三成、築堤工事には、1日:1升の米と+αの日当を出して村人を雇うわけですが・・・
そう、、もうお解りですね!
奥さまは、ここに、城内に取り込んだ百姓たちを紛れ込ませるのです。
彼らが持ち帰った米は、即、城内の兵糧となります。
そして・・・
天正十八年(1590年)6月16日、梅雨も終わりのこの季節・・・折からの大雨で堤の西端が決壊するという事態に・・・
ところが、決壊した堤から流れ出た濁流は、城中ではなく、寄せ手の方向に流れていったのです。
実はこれも・・・奥さまの命を受け、城内から派遣された百姓たちによって、あらかじめ、そうなるような仕掛けが作られていたのだとか・・・
この事態で270余名もの溺死者を出してしまった三成・・・作戦を力攻めに変更し、城の三方から攻めかかります。
ここで、活躍するのが氏長の娘=甲斐(かい)姫です。
・・・と言っても、先ほどの奥方とは成さぬ仲の間柄・・・上記の通り、奥さまは大田資正(すけまさ)の娘ですが、甲斐姫は、氏長が前妻の由良成繁(ゆらなりしげ)の娘との間にもうけた子供です。
しかし、もちろん忍城のピンチは父のピンチ!・・・当然、育ての母と一致団結して守ります。
この時、甲斐姫は19歳・・・男子に恵まれなかった氏長は、幼い頃から、彼女に武術や兵法を学ばせていたと言い、彼女も、それに応えるかのように、一騎当千の武人に成長していたのです。
わずか300騎を従えた甲斐姫は、
小桜威(こざくらおどし=小桜模様の皮でつないだ物)の鎧に
猩々緋(しょうじょうひ=いわゆるスカーレットと呼ばれるこの色です)の陣羽織を羽織り、
手には名刀=波切(なみきり)をふりかざしながら・・・
寄せ手の真っただ中へと飛び込んみ、並みいる兵をメッタ斬りに奮戦する姿は、まるで真紅の牡丹の花のようであったとか・・・
しかし、ご存じのように、そうこうしている間に、肝心の小田原城が、秀吉本隊の包囲に耐えかねて開城をしてしまいます(7月5日参照>>)。
そのニュースを聞いても、にわかに信じなかった氏長夫人と甲斐姫・・・なおも抵抗し続ける忍城に、氏長自身が赴いて説得に当たった事で、やっと開城となるのです。
こうして、最後まで抵抗した忍城の名声は高まり、落とせなかった三成には、合戦ベタのレッテルが貼られる事になるのですが・・・
途中にも書かせていただいたように、現在では、この水攻め案を出したのは秀吉で、現地で指揮に当たっていた三成は、むしろその作戦に反対したと言われています。
なんせ、はなから沼地に建ってる忍城・・・その城が水に強い構造になっている事は、現地で見れば察しがつきますからね。
逆に、現地を見てない秀吉が、その財力に物を言わせた大がかりな作戦で攻め落とそうしたパフォーマンス的な作戦が水攻めで、官僚的で生真面目な性格だった三成は、単にそれに従っただけだったって事なのだうと言われています。
とにもかくにも、ここで大活躍をした甲斐姫・・・この後に、一族そろって蒲生氏郷(がもううじさと)に預けられ、氏長は、福井で1万石を与えられたと言いますが、またまたその留守に、福井城を乗っ取ろうとした家臣の浜田将監(しょうげん)兄弟に氏長夫人は殺され、その母の仇を甲斐姫が討つという武勇伝も残り、甲斐姫は、その勇ましさに感動した秀吉の側室となる・・・
なんていう、後日談ゴロゴロの姫ですが、実を言うと、この甲斐姫自体が、江戸期の軍記物で誕生した架空の人物説もありますので、どこまでが事実かというのは微妙なところなのですが・・・
しかし、城攻めの天才の秀吉が、小田原攻めで唯一落とせなかった城・・・となると、そのような伝説を語りたくなる気持ちもわからないではありませんね。
追記:2012年11月に公開された映画『のぼうの城』の茶々の感想は2012年11月9日のページへ>>
追記の追記:そのページに書ききれなかった感想第2弾は2012年12月11日のページへ>>
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コメント
「のぼうの城」公開が楽しみだったのですが、
震災の影響(水攻めのシーンが津波を連想させるとか・・・)で公開が延期になっています。
投稿: wani | 2011年6月16日 (木) 19時16分
水攻めは「天任せ」ですね。川の流れを変えただけでは、うまくいかない事もあります。
「ツナミ」で思い出しましたが、サザンの桑田さんが歌う「TSUNAMI」を、店とかで流すのも自粛しているとか。
投稿: えびすこ | 2011年6月16日 (木) 19時40分
waniさん、こんばんは~
ココログ広場では、
いつもありがとうございますo(_ _)oペコッ
そうですか…
公開が延期になってるんですね
(はっきりした日にちを知らなかったもので…)
残念ですね~
投稿: 茶々 | 2011年6月16日 (木) 22時34分
えびすこさん、こんばんは~
>サザンの…
その話、私も聞いた事ありますが、
どうなんでしょう?
個人的には、ちょっと行きすぎのような気もしますが…
投稿: 茶々 | 2011年6月16日 (木) 22時36分
成田氏長の奥方が太田資正の娘とは知りませんでした。成田家は関東御家人の流れを引く名家。忍城攻防戦は他の籠城戦と比較して、陰鬱さがなく、カラットした印象を受けている。これも岩附城同様に『水城』の特徴である接近戦に持ち込めない攻防戦によるのかな。江戸時代の忍藩、奥平松平の家老職に長篠合戦の際、磔となった鳥居強右衛門の子孫が務め、廃藩置県を迎えている。歴史の流れを感じます。
投稿: 銀次 | 2011年6月17日 (金) 04時22分
銀次さん、こんにちは~
>カラットした印象を…
だからこそ甲斐姫の爽やかな伝説も生まれるのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年6月17日 (金) 11時01分
「のぼうの城」は延期なんですか!!!
地元なので楽しみだったのですが・・・
。・゚゚・(>_<)・゚゚・。
地震対応で忙しくて完全に忘れていましたが・・・
(;^_^A アセアセ
投稿: 桃色熊軍曹 | 2011年6月17日 (金) 18時25分
桃色熊軍曹さん、こんばんは~
私も知らなかったので、ネットで調べてみましたら、2012年の秋に…と1年間延びたようです。
投稿: 茶々 | 2011年6月17日 (金) 18時30分
茶々さんこんばんは~!
甲斐姫の名前は、なんとなく聞いたことがある気がしてましたが、成田の姫だったのですね。そして、秀吉の側室の一人。
改めて検索してみるとゲーム画像が…KOEIが戦国無双で出しているみたいで、一般的知名度も案外高いかも…どういう人か知らなかったのがお恥ずかしい…
いろいろ論争があるみたいですが、私もかっこよくて凛々しい姫君が好きなので、実在であって欲しいものです。
投稿: おみ | 2011年6月17日 (金) 23時20分
おみさん、こんばんは~
>実在であって欲しい
そうですね。
19歳の美しい姫が颯爽と…
って、場面を想像しただけでワクワクします。
投稿: 茶々 | 2011年6月17日 (金) 23時50分
>実在であって欲しい
2012年8月 京都醍醐寺で、甲斐姫のものと思われる和歌が見つかったそうですよ。
大阪夏の陣の後、鎌倉東慶寺に入った秀頼の娘 奈阿姫(天秀尼)の従者が甲斐姫ではないかと言われています。
投稿: かずきち | 2012年12月22日 (土) 15時26分
かずきちさん、こんばんは~
情報ありがとうございます。
醍醐の花見の短冊のお話は、2012年12月11日の「感想第2弾」的なページ>>にチョコッとだけ書かせていただいたんですが、このページにソチラへのリンクを貼るのを忘れてしまっていました。
申し訳ないです。
(今、末尾の部分に追記させていただきました)
確かに朗報ですね。
ただ、醍醐寺の学芸員さんは、「甲斐姫と 奈阿姫の母が、同じ成田氏なので母子のように親しかった」と推測されているようですが、そこのところは専門家でも意見がわかれるようで、甲斐姫の武蔵成田氏と、奈阿姫の母の伊勢成田氏は出自が違うとの考えもあるようです。
成田氏の系図が成立したのが江戸時代で、戦国以前の部分は当主の名前も違っていたりして、ややこしいらしいです。
なんせ、史料が少ないですからね~
新たな発見があって、甲斐姫の存在が明らかになる日に期待しますね。
投稿: 茶々 | 2012年12月23日 (日) 02時52分
茶々さん、こんにちは。
甲斐姫に関しての事を調べましたが、三成を悪く書いたのは江戸時代の記述ですし、三成よりも秀吉とか重臣たちを責めるべきなのに三成は責めを負いますね。何だか中間管理職の悲劇みたいですね。
でもそれでなめた東軍が関ヶ原で戦うと大苦戦をしました。案外甲斐姫の方が三成の実力を知っている感じがします。
そうでないとわざわざ秀吉の側室になり、天秀尼の母とか言われることは無いと思います。
でも考えてみますと則天武后、クレオパトラ、巴御前みたいな勇猛果敢な女性はいますし、当時では天皇になっていた神功皇后みたいな方もいますので、何故三成や甲斐姫があんなに馬鹿にされないといけないのかなと思いました。
島津の基礎は島津常盤が作りましたし、政宗はどちらかと言いますと母の義姫にです。
私は保守派ですが、女性を馬鹿にする記述には腹が立ちます。
投稿: non | 2015年6月25日 (木) 17時53分
nonさん、こんばんは~
甲斐姫に関しては、未だ研究は進んでませんね。
彼女が登場するのは軍記物ばかりで、一級史料が少ないから仕方無いですが、現在確実な物は、醍醐の花見の時に詠まれた短冊1枚だけですからね~
史料が無いという事は、それだけ、空想にふける余地があるという事でもありますが…
投稿: 茶々 | 2015年6月26日 (金) 02時29分
茶々さん、こんにちは。
一級資料に無いとはいえ、和歌が残っていたり、成田記が残っていますので実在したと思っています。
でも敵だったのに側室になるとは茶々も甲斐姫も秀吉に惚れたのでしょうか?
面白いと思いました。
そう言えば太田道灌の子孫と言いますと家康の側室で水戸徳川の初代の頼房の養母のお梶の方もそうですね。
何だか太田家は豊臣、徳川に縁が深いですね。
投稿: non | 2015年6月26日 (金) 17時30分
nonさん、こんばんは~
>茶々も甲斐姫も秀吉に惚れたのでしょうか?
そうですね~
側室については、何度か書かせていただいてますが、ある程度身分のある方たちの正室とか側室とか言う場合は、基本、政略や戦略、あるいは両家が結びたい縁などによる縁談で、愛情は無関係だと思います。
好きでそばに置く場合は、「室」とは呼ばず「愛妾」と言うと思います。
なんせ、当時は恋愛結婚は身分の低い者がするはしたない行為でしたから(秀吉とおねさんは秀吉の身分が低かったので…)
くわしくは大河ドラマ「江」に思う政略結婚と女性の役割>>を見ていただくとありがたいです。
投稿: 茶々 | 2015年6月27日 (土) 02時42分