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2011年7月30日 (土)

激動の時代を生きた明治天皇・崩御

 

l明治四十五年(1912年)7月30日、明治天皇が崩御され、元号が明治から大正に改元されました。

・・・・・・・・・・

ご存じの方も多いかと思いますが、関係者の日記などから、亡くなられた実際の時間は7月29日の23時43分頃であろうと言われていますが、宮内省の発表では7月30日の午前0時43分・・・

これは、改元の手続きや新天皇となる大正天皇の宮中儀式などを、明治天皇が亡くなられたと同じ日にやらねばならなかったために、発表の時間をズラしたとも言われているのですが、本日はとりあえず、正式発表通り、明治四十五年(1912年)7月30日に明治天皇崩御という事でお話を進めさせていただきます。

・‥…━━━☆

以前、明治天皇のお誕生日の日づけのページで、明治天皇が維新をきかっけに、皇子から武人へと華麗な転身を遂げられた事をお話させていただきました(11月3日参照>>)

Meizitennou500 なんせ、それまでは徳川幕府が決めた御法度によって、天皇は学芸のみに励み、ちょっとでも勇ましい事をしようもんなら、幕府から睨まれるというご時世・・・

朝は宮中のお勤めをし、昼間は学問に励んで、夕方には女官たちを相手にカルタ遊びなどに興じる・・・それが、天皇や貴族の日常でした。

しかし、慶応二年(1868年)の暮れに、父・孝明天皇が亡くなった事を受けて(12月25日参照>>)、翌・慶応三年に践祚(せんそ・天子の位を受け継ぐ事)・・・16歳にして天皇となった明治天皇は、この後、
10月には大政奉還(10月14日参照>>)
12月には王政復古の大号令(12月9日参照>>)
翌年の正月からは鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)
と、まさに動乱の時代に旗印となる役目を担う事になります。

とは言え、未だ16歳・・・さすがに、この時点では、周囲に担ぎあげられた神輿ではありましたが、それが、そのままのあやつり人形で終わらなかったところが、明治天皇のすばらしいところでもあります。

その華麗なる転身に一役買ったのが、あの山岡鉄舟(てっしゅう)・・・

ご存じのように、彼は戊辰戦争の時、幕臣でありながら単身、官軍参謀の西郷隆盛のところに乗り込み、直談判に近い形で今後の方針を話し合い、江戸城を無血開城へと導く、西郷と勝海舟世紀の会談をセッティングした人物です(4月11日参照>>)

維新後は、水戸の伊万里で、知事のような仕事に従事していたものの、それが一段落ついた頃、その西郷から「明治天皇の側近になってほしい」と頼まれたのです。

というのも、明治天皇が即位して明治政府が誕生しても、未だに宮中には昔の女官制度が残ったまま・・・それを払拭すべく、天皇の周囲に、戊辰戦争で武功のあった勇ましい軍人たちを配してはみるものの、皆、天皇と聞くだけで恐れ入り、使いものにならなかったのだとか・・・

そこで、気骨あふれる山岡に、白羽の矢がたったのです。

山岡は、宮内省の役職にはつかず、一個人として天皇に仕える事、そして、その期間を10年に限る事を条件に、明治天皇の侍従役を引き受けます。

・・・で、その時の逸話・・・
ある時、明治天皇は山岡に
「相撲をやろう!」
と言いますが、彼は、
「自分は相撲の心得がないので…」
と断わる・・・

しかし、血気盛んなお年頃の天皇は、有無を言わさず、いきなり山岡にぶつかってきました。

とっさによけて背後へと回り、つんのめった天皇を上から押さえつけて・・・
「陛下、おイタが過ぎまする」
という言葉とともに、日頃の天皇の行動について苦言の数々を吐き始めたとの事・・・

当然、周囲は驚き、山岡を注意するのですが、
「これで、陛下の態度が改まれへんねやったら、今後の出仕はお断りしまっせ」
と、強気・・・一世一代覚悟の苦言だったのです。

その話を聞いて、山岡にもちゃんと詫びをしたという明治天皇・・・これをきっかけに、その態度は一変したと言います。

こうして、単なる官僚のあやつり人形ではなく、新しい日本の君主としての自覚を身につけて行かれる明治天皇・・・

そんな中で、この頃の明治政府の一番の目標とされたのは富国強兵・・・

徴兵制をしいて、国民は皆、兵役に従事する事になるのですが、もちろん、国民のみにその負担を強いたのではなく、明治天皇は、自らが先頭に立って常に軍服を着用し、皇族の男子も軍人になるという事をアピールされました。

天皇自ら率先して軍事を強くするというと、何やらイヤな印象を受ける方もおられるかも知れませんが、それこそ、その時代背景を無視して、ただ反対すれば良いという物ではありません。

あのアヘン戦争を見てください。

当時、イギリスから大量のアヘンを輸入していた清国(中国)・・・イギリスにとっては膨大な利益をもたらしてくれる相手国だったわけですが、役所や軍隊にまでアヘン中毒者がはびこる事態になった清国政府は、「これはいかん!」とばかりにアヘン禁止令を出します。

ところが、これを受けた政府役人が禁止になったアヘンをイギリス商人から没収した事をきっかけに戦争が勃発・・・この戦争に勝利したイギリスは、様々な条約を追加して、清国は、その領土も司法もがイギリスに制限される事になり、事実上、属国のような扱いを受ける事になります。

そんな事が、まかり通っていたのです。

日本の開国の時の条約だってそうです。

黒船の威圧感に負けた感じで結んでしまった不平等な条約・・・あの時も、日本が、それに対抗できる強さを持っていたなら、不平等な条約など結ばずに済んだかも知れません。

強い国だからこそ、同じ舞台に立って、外国との交渉ができる・・・その後のエスカレートぶりは別のお話として、少なくとも、明治の初めの頃は、そういう時代背景だったのです。

天皇を旗印に強い国としての体制を整える・・・明治天皇は政治的にも、精神的な部分でも、元首としての天皇を実践されたのです。

昨日書かせていただいた日清戦争のページで、明治天皇自身はこの開戦に反対しておられたと書かせていただきましたが(7月29日参照>>)、一方では、開戦後は、広島の大本営に赴いて政務をとられ、極寒の地に出征している兵士を思って、ご自分もストーブをお使いにならなかったのだとか・・・

自身の心にそぐわない出来事であっても、国の方針がそうと決まれば、元首としてそれを全うする・・・明治天皇のそんなお心が垣間見えます。

やがて、その日清戦争と、続く日露戦争に勝利した(5月27日参照>>)日本は、それこそ、欧米列強と同じ舞台に立って交渉できる世界の日本となるわけですが、その頃から天皇は、持病の糖尿病と慢性腎炎が悪化し、会議中にもまどろむ事が多くなります。

この年の7月に入って高熱を出し、昏睡状態に入った明治天皇は、明治四十五年(1912年)7月30日尿毒症を併発して59年間の生涯を閉じられたのです。

茶目っけがあり、楽天的で明るかったという明治天皇・・・一般的に、明治に生きた人々が楽天的で明るかったと言われるのも、何事も、国民の模範となるべく新しい事に挑戦していった明治天皇の影響があったのかも知れませんね。
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2011年7月29日 (金)

日清戦争…成歓の戦い

 

明治二十七年(1894年)7月29日、日清戦争において、日本側の戦死者・第1号を出した陸戦・成歓の戦いがありました。

・・・・・・・・・

国内の混乱を抑えきれない朝鮮に、それぞれの思惑を以って介入する事から始まった日本清国(中国)による日清戦争・・・

連合艦隊がデビュー戦の豊島(プンド)沖海戦に勝利を飾った同じ7月25日、朝鮮政府から大鳥圭介公使のもとに、すでに朝鮮南部の牙山(アサン)に集結している清国軍の撃退が要請されます。

翌日の26日に、その連絡を受けた混成旅団長・大島義昌(おおしまよしまさ)少将は、牙山に駐屯する清国軍の数が、これ以上増えないうちに叩くべく、歩兵+騎兵約3000名を率いて、牙山に向けて南下を開始しました。

ところが、日本軍約3000に対して、約4000名という数の上でも優位に立っていたにも関わらず、清国軍を率いる葉志超(ようしちょう)提督は、日本軍の接近を知ると、牙山を捨てて兵を分散・・・主力を、北東2kmの地点にある成歓(ソンファン)に移動させ、残りを南方の公州(コンジュ)へと振り分けました。

一方、7月28日・・・敵地を見下ろせる高台に到着した大島少将は、その後、徹底した情報収集を行います。

その結果、主力部隊が成歓に退いた事を確信した大島少将は、軍を成歓の方面に進める事を決意しますが、これがなかなか難しい・・・

なんせ、この高台を下りれば、見通しの良い全州(チョンジュ)街道・・・ここを行けば、敵からも丸見えですから・・・

そこで大島少将・・・隊を右翼と左翼の二手に分け、しかも夜に行軍して夜襲を仕掛ける作戦に出ます。

かくして明治二十七年(1894年)7月29日午前0時に左翼隊が出発し、続いて午前2時右翼隊が出発します。

が、しかし・・・
地の利の無い場所での夜の行軍・・・ほとんど前が見えない暗闇の中で、そばに流れていた川に落ちる者や、水田にハマって身動きとれなくなる者が続出・・・

そんなこんなの午前3時20分・・・右翼隊のトップを進んでいた部隊が、突然、清国軍の猛射撃を受けてしまいます。

そこにいたのは、歩兵第21連隊第3大隊・・・第12中隊長の松崎直臣(なおおみ)大尉をはじめ、不意の攻撃を受けた日本軍は、日清戦争開戦以来初めての戦死者を出してしまいました。

ちなみに、この時、突撃ラッパを吹いている最中に被弾したのが木口小平(きぐちこへい)・・・彼が、絶命した後も、ラッパを口から離さなかった事が噂話となって日本に伝わり、やがて「シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」の美談として、小学校の教科書にも掲載されていた事は、ご存じの方も多いでしょう。

こうして、苦戦を強いられながらも、やがて、その先頭集団に砲兵部隊が合流するに至って勝機を取り戻した日本軍は、この日の午前8時、成歓を陥落させる事に成功したのです。

日本軍の戦死者が34名なのに対し清国軍の戦死者は約400名とも・・・生き残った清国の兵士たちは全州へと敗走しました。

Nissinasan922
牙山大激戦日本大勝利之図(国立国会図書館蔵)

その2日後の7月31日・・・日本は、各国の公使に『交戦通告書』を交付・・・国際法上、日清戦争が成立したのでした。

ただ、明治天皇はこの開戦にずっと反対の姿勢であったとか・・・

立憲君主としてやむなく詔(みことのり)を出されましたが、
「今回の戦争は不本意・・・大臣たちが戦争はやむおえないと言ったので裁可しただけです」
とおっしゃり、宮中の宣戦奉告の式典も欠席されたのだそうです。

こうして、明治天皇のお心とはうらはらに、日清戦争は更なる激戦へと進んでいく事になりますが、そのお話は、平壌が陥落した9月16日のページでどうぞ>>
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2011年7月28日 (木)

真夏の夜の怪談話5…姫路城の七不思議の不思議

 

昨年の播州皿屋敷>>
宮本武蔵の妖怪退治>>

そして先日の姫路城の刑部姫>>
・・・と、姫路城の七不思議と称される物をご紹介して来ましたが・・・

個人的には、武蔵の妖怪と刑部(おさかべ)姫はつながってる気がするのですが、どうやら、七不思議というくくりでは、妖怪・長壁(おさかべ)刑部姫の伝説は別物だという事で・・・

ならば、七不思議と称される以上、あと4つの不思議がある事になるわけですが・・・

残りのうちの一つは『傾いた天守閣』・・・

この姫路城の普請を任された腕自慢の大工の棟梁・桜井源兵衛さん・・・城が完成したお披露目の祝宴に、妻とともに出席するのですが、その宴の席で・・・

「お城が巽(たつみ=南東)の方角に傾いているんじゃないか?」
と誰かが言いだします。

「気のせいじゃ!気のせいじゃ」
と、その場では事無きを得たものの、翌朝、天守閣近くで、ノミをくわえた源兵衛の死体が発見されます。

皆の前で天守閣の傾きを指摘された事を苦にした源兵衛が、ノミをくわえたまま天守閣から飛び降り自殺をはかったのです。

以来、天守閣は年々、東南の方向に傾きはじめ、江戸時代には
♪東傾く姫路の城は 花のお江戸が恋しいか♪
という歌まで流行ったとのこと・・・

実はコレ、源兵衛さんの設計ミスが原因ではなく、建っている場所の地盤沈下が原因・・・昭和の大修理の際、本当に東南に60cmほど傾いていた事が確認されましたが、その時に天守閣の土台がコンクリートで補強され、今は大丈夫との事・・・

おそらく、この源兵衛さんのお話は、建った当初はわからなかったのが、徐々に傾いている事に誰かが気づいた事で、いつしか生まれた伝説なのでしょうね~

5つめの不思議は『切腹丸』・・・

現在も、姫路城郭内の備前丸の東側に「切腹丸(はらきりまる)と呼ばれる場所があります。

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姫路城内にある「切腹丸」

建物の石打棚(いしうちだな)検視役人の座で下の板場が切腹場、前の井戸が首洗いの井戸・・・しかも、生い茂る木立による薄暗い感じが相まって、いつしか、ここが切腹の場所とされ「切腹丸」を呼ばれるようになったのだとか・・・

とは言え、正体見たり枯れ尾花で恐縮ですが、実際には、ここは帯郭櫓(たいかくやぐら)と呼ばれる場所で、山際が迫っている場所にある事から、掘を越えて来る敵に攻撃を仕掛けた場所だと考えられおり、ここで切腹をした記録は一つもないとの事・・・

そして6つ目の不思議は『千姫を襲う怨霊』・・・

ご存じ!千姫は、あの徳川家康の孫娘・・・2代め・秀忠さんと、大河の主役・お江さんとの間に生まれた姫で、豊臣秀頼に嫁いでいましたが、大坂夏の陣で大坂城が落城する時に救出され、後に本多忠刻(ただとき)結婚して姫路城にやって来る(2009年2月6日参照>>)のですが・・・

以前、実は・・・という事で、実際には、こうだったのではないか?というお話をさせていただきましたが(2007年2月6日【千姫・ご乱行の真相】参照>>)、伝説上では、大坂城から彼女を命がけで救出する際に、ひどいヤゲドを負ってしまった坂崎出羽守(さかざきでわのかみ)の事を嫌った千姫が、イケメンの忠刻と結婚し、彼女にフラれた出羽守が、花嫁行列に斬り込み、大勢によってたかって殺されてしまう・・・てな事になってます。

・・・で、姫路城に輿入れした千姫は、度々妊娠するも、毎度々々流産して子宝に恵まれない・・・そこで、祈祷師の祈祷を受けたところ、
「千姫には、秀頼と坂崎出羽守、二人の怨霊がとりついて、子孫繁栄を阻止している」
と告げられたとか・・・

実際に(私は、まだ見てないのですが)大阪城天守閣には、秀頼の死霊に宛てた
「怨念を解いてください」
との千姫の願文が残っているらしいです。

姫路城の北西にある天満宮も、このお告げを聞いた千姫が、秀頼と坂崎を祀るために建てたのだと・・・おかげで、その後、待望の姫が授かったと言われています。

そして、いよいよ最後、7つ目の不思議・・・
と、いきたいところなのですが、どうしても7つ目の不思議が見つからない・・・

姫路城下には、竪町(たてまち)という場所があって、城郭から南北の縦に通じていたから名づけられたものの、そこは山陽道の往来から見ると東西の横になるので「横に竪町」といわれて姫路の七不思議の一つとして語られてる・・・なんて話も聞きましたが、これは、城下のお話で、姫路城の七不思議じゃない(ノ_-。)・・・

ひょっとして、これは・・・
「6つしかないのに七不思議と呼ぶのが7つ目の不思議」
という、例のアレですか?

コレ、昔から漫才のオチによく使われていたので、私は、てっきりお笑いのネタだと思ってたんですが、今回調べてわかったのは、意外に「6つしかない七不思議」というのが、数多くあるという事・・・

以前、このブログでも「知恩院の七不思議(2月24日参照>>)や、本家ホームページのほうでも「比叡山の七不思議(HPの【平安京魔界マップ】参照>>)をご紹介していますが、このように7つ目の不思議があるほうが、むしろ珍しいのだそうです。

・・・で、「6つしかないのに七不思議と呼ぶのが7つ目の不思議」というパターンの場合では、
「本当の7つ目の不思議を知ると、呪われる」
のだそう・・・

ひぇ~~!!
姫路城はそのパターンなのか?
今回、6つ目でやめといて助かったぜぃ
ヾ(;´Д`A

退散、退散・・・
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2011年7月27日 (水)

戦国からの脱却…第3代将軍・徳川家光誕生

 

元和九年(1623年)7月27日、徳川家光が第3代の江戸幕府・征夷大将軍に任ぜられました。

・・・・・・・・・・・・

徳川家光は慶長九年(1604年)、第2代江戸幕府将軍・徳川秀忠と、その正室の小督(おごう)もしくは於江与(おえよ)もしくは(ごう)・・・と名前がいっぱいあってややこしいですが、そう、今年の大河ドラマの主役お江さんとの間に生まれます。

異母兄で長男の長丸が、わずかな歳で亡くなってしまっていたため、次男として生まれた家光ですが、その昔、かの徳川家康が、そして、家康の長男である徳川信康が使った、徳川家の長男が名乗る幼名・竹千代を継ぎ、長男としての扱いを受けていました。

Tokugawaiemitu600b しかし、幼い頃の家光は病弱でおとなしく、内気でネクラで、やる事成す事がどん臭かったと言います。

一方、家光には、2歳違いで忠長(当時は幼名・国松)という弟が生まれますが、この弟がこれまた真逆で、聡明でしっかりしてて明るくて、なにもかもに積極的・・・そのせいなのか、母の江が、弟の忠長ばかりをかわいがったとか・・・。

そのうち、家臣の間にも、
「ひょっとしたら、この先、弟君の忠長様が家督を継ぐかも知れない」
なんて噂もたちはじめます。

そんな空気を察して警戒していたのが、家光の乳母=春日局(かすがのつぼね・お福)・・・

『春日局譜略』によれば・・・
元和元年(1615年)、父・秀忠と母・江に嫌われている事に悩んだ12歳の家光が自殺を図ろうとしたところを見つけた春日局が、慌てて抱きしめて思いとどまらせ、その足で、「伊勢参り」と称して江戸城を出て、駿府にいる家康に、涙ながらの直訴をしたと・・・

・・・で、その訴えに心動かされた家康が、江戸城を訪問・・・皆が居並ぶ前で、孫二人に「ジッチャンがお菓子をあげる」
と、家光には、側に寄らせて手渡しでお菓子を与えたのに対し、同じように近づこうとした忠長には、
「お前は、そこに控えとけ」
と言って、お菓子を投げて渡し、家光は後継ぎ、忠長はその家臣という立場をはっきりさせた・・・という有名なエピソードとなるわけですが・・・

まぁ、お察しの通り、おそらく、春日局の直訴も、お菓子のエピソードも後世の創作でしょうが、一般的には、家光の世継決定は、元和元年以降と考えられています。

しかし、実は、もう少し早く・・・
慶長十七年(1612年)2月15日付けの家康の書状という物が残っています。

それは、家光&忠長の母・江どのに宛てた訓誡(くんかい)・・・

それには、
「嫡男とそれ以外の男子は違う」
「弟が兄より威勢が強いのは家の乱れのもとである」

など、16項目に渡る戒めが書いてあるそうです。

原本の残っていない写しのみの訓誡状ですが、信用度が高く、これが、「母・江が忠長を溺愛」の噂の根源となっているようですが、言い替えれば、この時点で、家康は家光を3代めにする事を決めていたという事になります。

この時点での江の忠長溺愛はそれほどでもなかったかも知れないし、春日局の直訴もなかったかも知れませんが、少なくとも、家康の目には「そうなるかも知れない」兆候が見てとれ、「そうなる前にクギを刺した」という感じだったのかも知れません。

では、なぜ、家康は家光を後継者に選んだのか?

それこそが訓誡状にある
「弟が兄より威勢が強いのは家の乱れのもとである」です。

戦国の常識では、兄弟たちの中で最も優れた者が家督を継ぐ事が、その家が生き残る方法だったわけですが、徳川家が天下を取った以上は、それをそのままにしておけば、徳川家内の乱れにもなりますし、他家からの脅威も常に感じなければなりません。

なんせ、兄弟で争ってるうちに家そのものが衰退しかねないし、どこかの大名に優秀な息子が生まれたら、徳川家に取って替わられるかも知れません。

力のあるなしに関わらず、年齢の順に家督を継ぐ・・・

これを将軍家自らが実践すれば、他の大名も「右へならえ」で、いつしか、それが一般常識となります。

乱世には能力優先だけれども、世の中が安定すれば秩序を優先する・・・これが、家康の今後の方針だった事でしょう。

家康が決定した3代め家光は、まさに戦国からの脱却・・・安定した江戸時代への幕開け宣言だったと言えるかも知れません。

とは言え・・・元和二年(1616年)、その御大・家康が亡くなると、忠長擁立派の動きが活発になる事も確か・・・

なんせ、家光が元服した同じ日に忠長も元服する・・・なんていうのは、未だ、ライバル心ありありの感じがします。

もちろん、忠長自身や母の江が、本当にその気だったかどうかは微妙ですが、少なくとも、忠長のそばにいた人たちは、未だ、世継ぎの夢は捨て切れていなかったでしょう。

そこに父の代わりに・・・とばかりに裁定したのが秀忠です。

本年の大河ドラマでは、なぜか父の家康に反発心ありありの行動をとってる秀忠さんですが、史料で見る限りでは、秀忠という人は、いたってマジメで、父・家康の言う事をそのまま実行する人ですから、この時も「父上様のお心の通りに・・・」とばかりに、元和九年(1623年)7月27日将軍職を息子・家光に譲り、第3代将軍・徳川家光の誕生となるのです。

これで、兄弟の後継者争いは一安心・・・

と思いきや、秀忠が亡くなると、やはり、何やら不穏な空気が流れたのでしょうか???

大御所として君臨した父・秀忠との二元政治から解放された家光が親政を行う中、結局、弟・忠長は、悲しい末路を遂げる事になるのですが・・・そのお話は12月6日のページでどうぞ>>
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2011年7月26日 (火)

秀吉の京の夢…幻の方広寺・大仏殿

 

慶長十九年(1614年)7月26日、徳川家康方広寺大仏殿の開眼供養を延期するよう命じました。

・・・・・・・

天正十四年(1586年)・・・豊臣秀吉は、奈良・東大寺の大仏をしのぐ大きな大仏と大仏殿を、京都に建立する事を計画します。

その大仏の高さは六丈三尺(約19m)で大仏殿の高さは二十丈(約60m)・・・東大寺の大仏が14.7mで大仏殿が46.8mなので、まさに一回り大きいといった感じ・・・

本来なら、20年はかかるであろう大プロジェクトを、わずか5年で頼むと、諸大名に命令を出したとか・・・

しかし、ちょうど小田原征伐(7月5日参照>>)と重なったために、思うように工事が進まなくなった事から、始め、銅製の大仏を計画していたのを乾漆像に切り替えて続行・・・まずは、文禄四年(1595年)大仏殿のほうが先に完成しました。

ところが翌・慶長元年(1596年)、近畿地方を激しい地震が襲い、なんと、完成寸前だった大仏が倒壊・・・すでに大仏開眼供養の日程も決まっているのに、主役がいないではお話にならない┐(´-`)┌

そこで秀吉は、ウソかマコトか、7日7晩に渡って信州(長野県)の善光寺の如来が「我を京都の阿弥陀ヶ峰に祀れ」と告げる夢を見たと称して、善光寺の御本尊を大仏の代わりにお迎えする事になったのです。

「権力に任せてムチャ言うなョ秀吉・・・」
と、お思いかも知れませんが、実は、この頃の善光寺の如来様は、戦国乱世の翻弄されて、アッチャコッチャに引っ越しさせられています。

まずは武田信玄が信州に力を伸ばした頃、甲斐(山梨県)に善光寺を建てたのでそこへ移動・・・その後、織田信長が武田を倒したので岐阜に善光寺を建てて、そっちへ移動・・・さらに信長が本能寺で倒れると、息子の織田信雄によって尾張(愛知県西部)清州へお引っ越し・・・次に徳川家康によって浜松へ引っ越して・・・と、ほぼ40数年間、引っ越し続きだったのです。

だから、京都にお連れして良いってわけでもありませんが、とにかく、善光寺の御本尊は、一路京都へ・・・そして、来たる慶長三年(1598年)8月22日に開眼供養の式典が行われる事が正式発表されます。

ところが・・・です。
ご本尊が京都に到着した7月・・・この5月に病に倒れたものの、ここのところ快復傾向にあった秀吉が再び危篤状態に・・・

当然の事ながら、
「これは善光寺ご本尊の祟りでは?」
との噂がたつ・・・で、結局、
「ご本尊が、夢枕に立たれ、信濃の地に帰りたいとおっしゃられた」
という事にして、8月17日、ご本尊は再び善光寺に返されたのです。

しかし・・・そう、ご存じのように、秀吉は、その翌日の慶長三年(1598年)8月18日に亡くなってしまいます(8月18日参照>>)

秀吉の悲願だった事もあり、8月22日には、大仏も如来もいない大仏殿にて、予定通り、主人公不在の大仏開眼供養が行われました。

その後、この一大プロジェクトは、息子の秀頼が受け継ぎ、もはや急ぐ事もなくなった事で、本来の願いだった銅製の大仏の鋳造を行いますが、慶長七年(1602年)・・・なんと、その鋳造中のミスで、火災が発生し、大仏は焼失してしまいます。(この火災は放火だったという説も…)

そして慶長十三年(1608年)、再び、大仏殿の再建と大仏の鋳造に挑戦する秀頼・・・今度は順調に行程が進み、慶長十七年(1612年)に、ようやく完成しました。

慶長十九年(1614年)には梵鐘も完成し、いよいよ正真正銘の開眼供養を行おうとした矢先の慶長十九年(1614年)7月26日家康からストップがかけられたのです。

そう、去る7月21日・・・
「作られた梵鐘に、家康を呪う文章が書かれている」
と、イチャモンをつけた(7月21日参照>>)家康が、ここに来て、開眼供養の中止をも言って来たのです。

ご存じのように、このトラブルが解決できず(8月20日参照>>)、あの大坂の陣へと突入していく事になり、それが豊臣家の運命も決めてしまいます。
(大坂の陣については【大坂の陣の年表】で>>

豊臣家が滅亡してから後・・・寛文二年(1662年)の地震で、少し痛んだ大仏様は「木造で造り直す」として壊され、その銅は、徳川幕府が新しく発行した通貨・寛永通宝の鋳造に再利用されたとか・・・

さらに寛政十年(1798年)・・・落雷によって大仏殿も木造の大仏も焼失・・・その後、同じような規模の大仏殿が再建される事はありませんでした。

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方広寺(方広寺への行き方は、本家HP「京都歴史散歩:七条通を歩く」へどうぞ>>

現在も、京都東山に残る方広寺・・・あの大坂の陣のもととなった梵鐘が、当時のまま残りますが、秀吉の頃には東西約200m、南北約260mあったと言われる壮大な境内は、かなり縮小された形となってしまいました。

平成十二年(2000年)には、現在の方広寺の南隣にある京都国立博物館の敷地内から、大仏殿の遺構が発見され、その大きさが記録通り、奈良の大仏をしのぐ物であった事が確認されました。

こうして方広寺が縮小される一方で、江戸時代に大きな発展を遂げたのは、いち時は「大仏の代わりに」と京都へ運ばれたご本尊を持つ善光寺・・・

戦国時代に荒廃の一途をたどっていた善光寺は、家康から寺領を寄進されて手厚く保護され、「一生一度は善光寺詣り」と、善男善女の参拝の耐えない大きな寺院へと生まれ変わりました。

今は幻となってしまった豊臣の世の方広寺跡の博物館敷地内では、平成二十一年(2009年)にも大きな発見があり、10tトラック1万台ぶんの大量の土を運んで、その整地を行った事が明らかとなっています。

天下人によって変わる運命・・・
天下人によって書き換えられる歴史・・・

以前、阪神大震災で有馬温泉極楽寺が半壊した時、その建物の下から、秀吉の湯殿の跡が発見されたというニュースがありました。

この湯殿の事は、地元の人には伝承として語られていたものの、その存在を証明する確かな史料はなく、伝説上のシロモノとの判断がされていましたが、上記の通り、偶然にも発見されました。

どうやら家康が、太閤の湯と呼ばれていたその湯殿の上に土を盛り、徳川家が手厚く保護する極楽寺を建てて、湯殿を末梢したという事のようです。

そう言えば、大阪城も・・・昭和三十四年(1959年)に、地中に埋もれた石垣が発見されるまで、現在の大阪城が徳川時代の物で、秀吉の大阪城が、その地下にスッポリ埋められている事は、誰も知りませんでした(2007年8月18日参照>>)

建物も、そして出来事の記録も・・・
徳川家に末梢された豊臣の跡が、まだまだ埋もれているような気がしてなりません。

もちろん、これは「徳川が悪い」という意味ではありません。

そんな徳川の大坂城も、明治維新後は、新政府によって、東洋一の軍事施設に造りかえられるわけですから・・・あくまで時代の流れの中での出来事です。

だって、そんな埋もれた歴史を、一つ一つひも解いて行く事が、これまた楽しいんですからね。
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2011年7月25日 (月)

日清戦争・開戦!豊島沖海戦

 

明治二十七年(1894年)7月25日、日清戦争において、連合艦隊初の海戦・豊島沖海戦がありました。

・・・・・・・・・・

明治維新とともに開国を果たした日本に続き、鎖国状態を解除した朝鮮でしたが、その内情はいたって不安定・・・そこに双方の思惑を絡めて介入していく日本と清国(中国)(6月2日参照>>)に、さらにロシアイギリスも・・・

7月10日に日本が朝鮮に提出した「日本単独の内政改革案」は16日に拒否され、22日を回答期限とした「過去に清国と結んだ条約破棄」の要請にも朝鮮政府からの回答が得られなかった事を受けた(6月9日参照>>)大鳥圭介(おおとりけいすけ)公使は、その22日の夜に王宮・景福宮(キョンボックン)を包囲・・・約1時間ほどで武装解除させて、当時、朝鮮政府を牛耳っていた(ミン)一族を追放して大院君(テウォングン)を政権に復帰させました。

一方、大陸でのそんなこんなを見据える日本では、7月19日、すでに日本海軍にあった常備艦隊西海(さいかい)艦隊を合わせた新艦隊=連合艦隊を誕生させ、その司令長官に薩摩出身の伊東祐亨(ゆうこう)が就任・・・作戦立案担当の軍令部長には、同じく薩摩出身の樺山資紀(かばやますけのり)が就任しました。

すでに7月9日には戦闘準備を完了させて、朝鮮海域周辺に複数の艦隊を進出させていた清国・・・日本も負けじとばかりに、清国に最後通牒(つうちょう)を交付し、7月23日、連合艦隊は佐世保港を出港しました。

かくして明治二十七年(1894年)7月25日、先に仁川(インチョン)に派遣されていた八重山武蔵の両艦と合流すべく、豊島(プンド)を航行する連合艦隊・・・

しかし、両艦を発見できないまま、あたりを探索していた午前6時30分・・・逆に、清国の巡洋艦・済遠(さいえん)と広乙(こうおつ)が接近して来るのを確認します。

さらに、清国の両艦は、連合艦隊の行く手を塞ぐかのような態勢とり、戦闘準備を整えた模様・・・清国艦船の動きを確認した伊東中将は、午前7時25分、両国の艦隊の距離が3000mに縮まった事を受けて、砲撃を開始したのです。

先頭にいて、連合艦隊の猛攻をモロに受けた済遠は、まもなく大破したものの、その後の追撃を振り切って逃走します。

後ろにいた広乙も猛攻を受け、一旦、進路を変えて逃げようとしますが、更なる攻撃を受けて牙山(アサン)近くの湾口にて座礁・・・やむなく、自ら火薬庫に火をつけて、自爆を遂げたのです。

思わぬ遭遇戦となって開始された連合艦隊史上初の海戦・・・それは、気温30度の炎天下の中、日本の大勝に終わったのでした。

Nissinpundooki
朝鮮豊島近海激戦日軍艦隊大勝利の図(静岡県立中央図書館蔵)

この報を受けた日本では、大勝利を報道する錦絵が巷に溢れ、大国・清国を相手に奮闘する姿に、日本人は熱狂したと言います。

そしてまもなく、日清戦争における本格的な戦闘が開始される事に・・・

と、この日清戦争のお話は、それぞれのページで…
●【成歓の戦い】>>
●【平壌が陥落】>>}
●【黄海海戦】>>
●【旅順口攻略】>>
●【威海衛が攻略…そして終結へ】>>
●【下関条約締結】>>
●【従軍記者・正岡子規】>>
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2011年7月24日 (日)

島津のメンタルトレーナー~軍師・川田義朗

 

文禄四年(1595年)7月24日、軍配者的軍師として島津義久&義弘兄弟に仕えた川田義朗が亡くなりました。

・・・・・・・・・

もともとは安易な気持ちで始めたブログが、こうして5年半続けて来れたというのも、いつも訪問してくださる皆々さまのおかげと感謝しておりますm(_ _)m

「徐々にアクセス数が減るんじゃないか?」
「いつか、誰も見ないブログになるんじゃないか?」

という不安を抱えながら、続けていたブログですが、

今のところ、毎日の平均的アクセス数は、徐々に増えつつある傾向・・・脳天気な私は、「アクセスの増加は、イコール応援して下さる方が増えているのだ」と自分勝手に良い方に解釈して、それが、日々の更新の原動力となっております。

閲覧してくださる皆さまにとっては、単に「今日も見てやろうか」と思って来てくださっているだけなのかも知れませんが、その一人一人のお気持ちが積み重なってアクセス数となって反映され、それが、私の励みとなっているわけです。

よく、スポーツ選手が言いますよね?
「皆さまの応援があって優勝できました!」なんて・・・

でも、本当は、応援したからって実質的に何かあるわけじゃない・・・しかし、熱いエールを受けると、選手自身のモチベーションが上がり、頑張ろうという意欲を産みだし、さらに努力する元気を産む・・・そして、それが結果となって現われる。

目には見えない「気持ち」という物を押し上げる・・・そう、これがメンタルトレーニング
(やっと話をつなげたゼ!ヽ(*≧ε≦*)φ)

本日、ご登場となった川田義朗(かわだよしあき)は、軍配者的軍師と称される人です。

以前、北条氏に仕えた軍師・中山修理介(なかやましゅりのすけ)さんのページ(10月7日参照>>)で、軍師と呼ばれる人たちの大まかな分類をさせていただきましたが、軍配者軍師というのは、陰陽師修験者の観点から風水的に戦略を考えて合戦の日取りを占ったり、必勝祈願の儀式的な事を仕切ったりという事をする軍師の事・・・

理にかなった兵法というよりは、神がかり的な指導をする軍師です。

21世紀の現代に生きる皆さまにとっては、出発日を占いで決めたり、必勝祈願のお祈りをしたりという事は、非科学的で、「武将たる者が神頼みなんて┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~」って思われるかも知れませんが、実は、これがメンタルの観点からは、非常に重要な事なのです。

そんな軍師・川田義朗が歴史上に登場するのは永禄十年(1567年)頃、未だ薩摩一国の統一に奮闘していた頃の島津氏(6月23日参照>>)・・・とある戦いで多くの戦死者が出た時、その戦死者の霊を慰める血祭(ちまつり=慰霊祭)の指揮を取るという形で登場します。

ちなみに、この義朗という人には、島津の家臣で軍師でもあった伊集院忠朗(いじゅういんただあき)の弟子として腕を磨き、一人前の軍師なったという話もありますが、実際のところは、どこで、その軍師としての奥義を身につけたのかは謎に包まれています。

Simazuyosihisa500atsc とは言え、天正四年(1576年)には、島津義久(よしひさ)から正式に軍配を任された義朗は、その2年後に起こった大友宗麟(そうりん)との合戦・耳川の戦い(11月11日参照>>)で、少し苦戦を強いられ、陣形が崩れそうになった時、自らが祈りを捧げて軍神を降臨させて、一斉に挙げる鬨(とき)の声を扇動し、味方を3方に分けて突進させたと言います。

もちろん、実際に軍神が降臨したわけじゃないですが、その様子を見た将兵には、「神が我が味方についた!」という一体感も生まれ、さらに一斉に鬨の声を挙げる事によって、精神集中・・・見事、全隊の士気を高めて崩れかけた陣形を立てなおして勝利に導く事ができたわけです。

さらに天正十二年(1584年)の沖田畷(おきたなわて)の戦い(3月24日参照>>)では、戦いの前に、敵の大将である龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)死を予言してみせたと言います。

これも、今の科学の世の中を思えば、完全にハッタリですが、大勢の信頼を一身に浴びる義朗が堂々と宣言すれば、それが戦う者たちのモチベーションを挙げる事になるわけです。

そして、ご存じのように、この時の隆信は、あまりにも積極的な押せ押せ攻撃があだとなり、壮絶な討死を遂げています。

もちろん、戦い終わった後に、敵兵の首を並べた場所での儀式を仕切り、その供養のための祈祷を行うのも彼の役目でした。

さらに、その戦後の論功行賞でモメた時には、義朗がクジを引いて、将兵たちの恩賞を決めたとか・・・

「なんで、クジで褒美を決められなアカンねん!(#`Д´)」
との声もありましょうが、コレも、戦国時代の場合は、意外に理にかなっているのです。

・・・というのも、戦国時代というのは殿さまのワンマン経営・・・時には判断ミスも犯しますし、えこひいきによる片手落ちの恩賞となってしまう事もしばしば・・・そんな時、クジ引きは、ある意味、全員に公平なわけで、しかも、この時代の神がかり的な人が引くクジは、神のお告げでもあるわけですから、誰からも文句の出ない方法として重宝されたのです。

その後も、島津の各戦線にあって、出陣の日取りなどを決め、軍師として活躍した義朗でしたが、その出生も不明なら、その死亡も・・・

文禄四年(1595年)7月24日に亡くなったとされてはいますが、その死因も、その時に何歳であったかもわからず、後世に多くの謎を残したまま、この世を去りました。

合戦に最も重要な将兵のモチベーション・・・士気を高める役割をこなした義朗がいればこその、九州に轟く島津の快挙だったのかも知れませんね。
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2011年7月22日 (金)

真夏の夜の怪談話4…姫路城の刑部姫

 

とりあえず、今年も始めちゃいましょう!
「真夏の夜の怪談話」シリーズwww

昨年は
【播州皿屋敷】>>
【会津若松・新町化物屋敷】>>
宮本武蔵の妖怪退治】>>
と、3つの伝説を書かせていただきましたが、
(他にも、真夏の夜じゃないけど怖い話を書いていますので、コチラ>>でどうぞ)

このうち、「播州皿屋敷」と「宮本武蔵の妖怪退治」は、実は「姫路城の七不思議」と言われているお話・・・

とは言え、七不思議の全容については、また、いずれかの機会にお話させていただくとして、本日は、昨年の「宮本武蔵の妖怪退治」スピンオフというか、「いや、こっちが先だろ?」エピソード0というか・・・妖怪・長壁(おさかべ)についてのお話です。

・‥…━━━☆

その宮本武蔵が妖怪を退治した事によって救われたという長壁明神・・・そのページにも書かせていただきましたが、その長壁明神は、現在も天守閣の最上階に祀られ、姫路城の守護神として信仰されているわけですが、そもそも、なぜに、ここに祀られるようになったのか?

時は・・・
現在の姫路城を構築した池田輝政が城主の時代・・・

「夜の子の刻(午前0時頃)に太鼓を打ったら悪鬼が現われて人を殺した(←なぜ、太鼓を打つ?=近所迷惑)
とか、
「ある家臣が、一丈(約3m)ばかりある毛むくじゃらの手に、壁に投げつけられて死んだ」(←これは家臣は悪くない)
など、城内に様々な怪奇現象が起きます。

そんなこんなの慶長十四年(1609年)、5層6階の壮大な天守が完成してまもない12月・・・輝政本人に「天狗からの書状」という物が届きました。

そこには、
「輝政夫婦に悪霊が呪いをかけている・・・命が惜しければ神仏に祈願し、城の鬼門の方角(北東)八天塔(はってんとう)を建て、善政を行うことじゃ~」
と書かれていました。

「これは、姫山から総社に遷した地主神の祟りでは?」
と、一部には噂されましたが、この書状の内容を見ての通り、これは政道批判でもあります。

そもそも壮麗な城を構築・・・という事は、それだけ労力もハンパなかったわけで、それには多くの領民がかりだされました。

農繁期にでも有無を言わさずかりだされた農民たちも多かったはず・・・しかも、徴収される年貢は、以前の2割増しになったとか・・・

てな事で、これは、誰かの政治批判と受け止めて黙殺されたのですが(庶民の批判をシカトすんな~(`Д´)/)その後まもなく、輝政は病に倒れます。

領内という領内から薬師が呼ばれ、医者が呼ばれ・・・しかし、誰もその原因もわからず、もちろん治す事などできず輝政は一日中、高熱にうなされるばかりでした。

ついに、「もう、これしかない!」
祈祷師が呼ばれます。

城下でも評判のその祈祷師は、輝政の顔を見るなり、
刑部姫の祟りでござ~る!
城の普請に際して、刑部姫の霊を慰めるのを忘れはりましたな」
と・・・

刑部姫(おさかべひめ)とは、姫路城の建つ姫山地主神と伝えられる姫でした(やっぱりそうなんかい!(ノ;´Д`)ノ)

妖怪・長壁「今昔画図続百鬼」
(田中直日氏蔵)

その昔・・・

ある天皇の時代に、その皇后が不倫してデキちゃった子を産んでしまいますが、当然、普通に育てる事ができず、生まれた女の子は刑部姫と名づけられ、都から遠く離れたこの地で育てられる事になりました。

ところが、どうしても皇后の不貞を許せなかった天皇は、姫を抹殺するよう部下に命令・・・

あちこち訪ね歩いた部下は、ついに、この地で姫を見つけ、未だ幼い彼女の首をはねてしまうのです。

以来、姫はこの地に住みつき、地主神になったのだとか・・・

それから何十年・・・いや何百年・・・
この静かなたたずまいの山が大好きだった姫でしたが、いつしか、その山を切り崩し、石垣を組み、壮大な天守閣が築きあげられた事で、行き場を失った姫の魂が、空中をさまよい歩き、城主・輝政にとりついたというわけです。

・・・で、慌てて祈祷師の進言通りに、天守閣に姫の霊を慰める祠を建立・・・それが、長壁(おさかべ)明神であると・・・

なるほど、刑部=長壁なわけですね。

おかげで輝政の病は快復に向かったという事ですが・・・

いや、しかし、それでも姫は、自分の住みかに何の断わりもなく乗り込んで来た輩への恨みの気持ちがどうしても捨てられない・・・

特に、幸せ気分満載の奥さまを見ると、女ごころがウズく・・・そして夜な夜な城主夫婦の寝床にやって来ては、恨み事を言う妖怪と化して現われるのです。

殿さまが、うやうやしく「いざ!本番!」
となると、奥さまがハラハラと泣きだす・・・

「今夜も、あの亡霊が現われるかと思うと、怖くて怖くて・・・」

Dscn7634a800
姫路城・天守閣

・・・で、ここで、あの宮本武蔵の伝説(宮本武蔵の妖怪退治>>)へとつながっていくのです。

そう、武蔵は、この刑部姫の妖怪と化した悪しき部分だけを斬って捨て、刑部姫は成仏・・・そして、「わらわを、悪しき因縁から救ってくれた」褒美の剣を貰ったというわけですね(ホンマかいな)

今は、妖怪ではなく、美しい十二単を着た刑部姫が、姫路城を見守ってくれている事でしょう。

とは言え、気持ち的には、天守閣で、あんまりイチャイチャしない方が良いような気がしないでもない・・・(゚ー゚;
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2011年7月21日 (木)

頼朝に挙兵を決意させた強力ブレーン・文覚

 

建仁三年(1203年)7月21日、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した真言宗の僧・文覚が、流罪先に向かう途中で66歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・・・

それこそ、戦国時代なら、
今川義元をバックアップした戦う坊さん・太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚)(10月10日参照>>)や、
徳川家康をサポートし、明智光秀かも知れないと噂されるほどのキレ者・南光坊天海(なんこうぼうてんかい)(10月2日参照>>)などなど・・・

武将のブレーンとなって活躍し、黒衣の宰相(さいしょう)と称された猛き僧もいましたが、その400年も前の鎌倉時代のはじめに、あの源頼朝(よりとも)のブレーンとなって活躍した戦国を彷彿とさせる猛々しい僧がいたのです。

Mongaku600 名は文覚(もんがく)・・・その人生は、まさに波乱万丈で、いつか、この方を主役に抜擢したスペシャルなドラマを見てみたいと思うほど・・・

まずは、その出家のきっかけが、すでに波乱万丈です。

彼はもともと、遠藤盛遠(もりとお)と名乗っていた北面の武士(院御所に北側の部屋に詰めて警固する武士)・・・

未だ若き文覚は、袈裟御前(けさごぜん)という女性に恋をします。

しかし、彼女は、すでに人妻・・・何とかその思いを遂げたいと迫る文覚に、彼女は
「ならば、夫を殺してちょうだい」
と言います。

未だ血気盛んな頃だった文覚は、ある夜、夫の殺害計画を企て、闇にまぎれてこっそりと屋敷へと侵入・・・暗闇の中で、夫を斬り殺しました。

ところが、その殺した相手は夫ではなく、男装した袈裟御前その人だったのです。

文覚の激しい愛と、夫への貞操とのハザマで思い悩んだ彼女の下した決断は、夫のフリをして、殺害しに来る文覚に、自らが斬り殺される事でした。

わずか18歳で壮絶かつ悲劇的な経験をしてしまった文覚・・・

以来、彼女の菩提を弔うために出家して、自らを戒めるがごとく、那智にはじまり大峰山高野山・・・遠くは信濃の戸隠や出羽の羽黒山にまで赴いて荒行に次ぐ荒行を重ねました。

こうして、日本国中の霊場という霊場を巡り、やがて京都に舞い戻った時には、「祈祷するだけで飛ぶ鳥も落とす」というほどの評判の験者となっていたのです。

そして、この京都は高雄にある神護寺に入った文覚・・・ご存じのようにこの神護寺は、皇位を狙った道鏡の野望を阻止した和気清麻呂(わけのきよまろ)(2月21日参照>>)が建立したお寺ですが、この頃にはその権威を失い、建物もボロボロの荒れ放題となっていのです。

そこで、文覚・・・あの後白河法皇への直談判を決行します。

ふところに勧進帳(かんじんちょう=寺院の建立や修復のための金品に寄進をお願いする書状…主に寺の由緒や歴史を語り寄付を即します)をたずさえ、いざ!後白河法皇の御所・法住寺殿へ・・・

ところが、当然ですが、門番に止められます。

「かくかくしかじか」
と、自分の思いを門番に告げ、通してくれるよう頼みますが、
「今、法皇様は、管弦演奏を楽しんではる真っ最中なんで・・・」
と、門番は取り合ってくれません

「ならば!!」
門番をけちらして中へ・・・そう、もともと武士だった上に荒行を重ねた文覚は、門番なんて相手にならないほどのマッチョ僧・・・あれよあれよと言う間に、ズイズイズイ~っと奥へ進み、なんと宴の席にまで入り込んで、法皇の目の前で勧進帳を読み上げたのです。

ちょうど、その時、藤原師長(もろなが)の琵琶に合わせて源資時(すけとき)が和琴を奏で、今まさに法皇が歌いだそうとした瞬間! かぶさるかのように聞こえ出した文覚のがなり声・・・と、カラオケの十八番を寸前に阻止された後白河法皇は、もはや怒り爆発!

なんと、文覚は、寄付どころか、伊豆への流罪となってしまうのです。

ところがドッコイ!
人生波乱万丈な人は、こういう時でもタダでは起きない。

この伊豆への流罪が、彼の人生を、またまた別の方向へと導くのです。

そうです・・・この時、文覚と同じように、伊豆へと流されていたのが、あの源頼朝です。

いつしか同じ流人の身として、頼朝の屋敷に訪れるようになった文覚・・・と言っても、繊細で寡黙、マジメ人間の頼朝はひたすら聞き役で、豪快で大胆不敵な文覚が、一方的に、都の情勢や流行についておもしろおかしく話すといった感じの会話でありました。

しかし、若者でありながら流人の制約の中で念仏三昧の生活を送っていた頼朝にとっては、いつしか、その訪問が心待ちになり、文覚への信頼も着々と積み重なっていったのです。

そんなある日、いつもとは違った雰囲気で頼朝のもとへやって来た文覚・・・いつも、あれだけしゃべりまくる文覚が、あまり物を言わず、「本日は天下の情勢についてお話しましょう」と、おもむろに一つの包みを、頼朝の前に差し出します。

不思議に思いながら、その包まれた布を剥いでみると・・・中にはドクロ!

「あんたはんのお父上=源義朝(1月4日参照>>)公の遺骨にござる」
「ぎょぇ~~」

文覚が言うには、平治の乱後に、弔う人もなく庭に捨てられ苔むしていたのを引き取り、布にくるんで首にかけ、これまで、各地の山寺を参拝しながら供養して来たのだと・・・。

そして・・・
「ここにも、もう、届いてますねんやろ?以仁王の令旨(りょうじ=天皇家の命令書)・・・」
「知ってたんかい!」
と、文覚の言いたい事のすべてを悟った頼朝・・

そうです。
以仁王の令旨とは、平清盛以下・平家の権勢によって、後白河法皇の息子でありながら、天皇になる事なく不遇の生活を送っていた以仁王(もちひとおう)が、各地の反平家勢力に決起を要請すべく出した書状(4月9日参照>>)つい最近(治承四年=1180年の5月10日)、頼朝のもとにも届けられていたのです。

が、しかし、慎重派で生まじめな頼朝・・・多少の気持ちの動きはあったものの、はなから平家を倒す事などとても不可能と、それを実行にうつす気にはなれなかったのです。

しかし、文覚は続けます。
「先日、優秀やと評判の清盛の長男・重盛はんが亡くなり、そろそろ、平家の隆盛にも陰りが見えはじめてます。
平氏&源氏を見渡しても、あんたはんほど将軍にふさわしい人はおらん・・・
この機会に謀反を起こして、日本を統一してしまいなはれ!
天が与える物を受け取らんかったら、それは、天命に背く事になりまっせ!」
と・・・

それこそ、慎重派の頼朝にとっては、文覚が目の前に差し出したドクロだって、にわかに信じられる物ではない事は、100も承知・・・しかし、文覚の言葉を耳にしながらそのドクロを見ているうち、父の事を思い出し、兄の事を思い出し、いつしか、とめどなく涙が流れ・・・

こうして、頼朝は挙兵を決意したのです。

と、ここまで書きましたが、これらのお話は、いわゆる平家物語などの軍記物で語られる文覚さんのお話なので、どこまで真実に近いのかは怪しいのですが、後に鎌倉幕府を開いた頼朝が、文覚に護持僧という役割を与えて重用した事は、ほぼ間違いのないところ・・

この護持僧というのは、「常に近くにいて、その安泰を祈祷する僧」という事なのですが、もちろん、年がら年中拝んでるわけはなく、結局のところは、一番身近にいて、常に相談を受ける役どころという事ですから、いかに頼朝が文覚を信頼していたかがわかります。

以前にお話した、平家の生き残り=平六代(たいらのろくだい)の事にしても、「処刑しろ」という皆の反対を押し切って仏門の入らせる事ができたのは(2月5日参照>>)、文覚への信頼の大きさゆえなのです。

しかし、そんな文覚の運命は、やはり頼朝の死とともに急展開します。

当時の朝廷内での派閥争いの中、相手側の暗殺計画を立てたの立てないので、朝廷内の親幕府派が拘束されたという三左衛門事件(さんさえもんじけん)なる事件に連座して、政界の黒幕・源道親(みなもとのみちちか)によって佐渡に流罪となってしまったのです。

まぁ、もともとの文覚の性格が、あの破天荒さですから、その歯に衣着せぬ物言いは、それだけ敵も多かった事でしょう。

その後、道親の死後、罪を許されて再び京都に戻って来ますが、間もなく、今度は、後鳥羽天皇遊興にばかり走り、政治に本腰を入れない事を痛烈に批判・・・ちょうど起こっていた守貞親王(もりさだしんのう・壇ノ浦で入水した安徳天皇の弟)を次期天皇にしようという動きと相まって、謀反と判断され、またまた対馬への流罪を言い渡されてしまったのです。

そして建仁三年(1203年)7月21日、文覚は、流刑地へ行く途中の大宰府で命を落としました

文覚・66歳・・・波乱の人生でした。

ところがドッコイ!
さすがは文覚さん・・・話はここで終わりません。

その死後、後鳥羽天皇(上皇)の前に亡霊となって現れ、あの承久の乱(5月15日参照>>)を引き起こさせ、果ては、その後、乱に破れて流罪の身となった後鳥羽天皇の前にも現われて大暴れするとか・・・

とは言え、この「その後のお話」は、いずれ、真夏の夜の怪談話の時にでもお伝えしたいと思いますので、本日はこのへんで・・・
 .

 

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2011年7月20日 (水)

アンケート企画:あなたが見たい歴史上の名勝負は?・結果発表

 

遅ればせながら、先日、締め切らせていただきましたアンケート
「あなたが見たい歴史上の名勝負は?」
の結果発表をさせていただきます。

今回の投票にご協力いただいた皆さま、まことにありがとうございましたo(_ _)o

今回も、なんだかんだで広範囲なので、様々なご意見があるだろう・・・おそらく、「その他」にも、たくさんの意見が寄せられる物と覚悟しておりましたが、接戦の末・・・なんと、1位が二つ!

「その他」と肩を並べたのは・・・
やはり「巌流島の決闘」でした!!

ではでは、
そのコメントも含め、本日、このブログ上にて、結果発表をさせていただきますね。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位 その他:19票
予想通り沢山の意見が出ましたね~大変興味深いです~一つ一つについては下部のコメント紹介の時に…
1位 宮本武蔵VS佐々木小次郎巌流島の決闘:19票
やっぱ、名勝負と言えばコレなんでしょうね~
3位 羽柴秀吉VS柴田勝家清州会議…:5票
動の合戦続きの戦国の中でもトップクラスの静の戦い…ですね
3位 羽柴秀吉VS徳川家康悪口の言い合い:5票
こっちは、動は動でも…カッコイイとは言い難い勝負ですが、見てみたさは満点です~
5位 天智天皇VS天武天皇額田王の取り合い:4票
高貴なお方同志の恋のさや当て…覗き見したい気分です
5位 紫式部VS清少納言女同志の影口バトル:4票
コチラは、昼の時間に、1週間の帯で見ていみたい気が…
7位 竹中半兵衛VS斉藤龍興イジメの仕返し:3票
名勝負というよりは、やはり合戦の部類に入るのかしら?
8位 当麻蹶速VS野見宿禰日本初の相撲:2票
かなりマイナーな勝負ですが2票を獲得しましたね
8位 斎藤伝鬼坊VS桜井霞之助立ち合い…:2票
う~~ん…2票だったか~やはり剣豪同志の勝負となると巌流島には勝てず
10位 佐藤忠信VS追手逃亡劇:1票
やはり、追手の数が多いので、個人的勝負とはいかなかったですね
10位 雷電為右衛門VS○○巡業勝負:1票
雷電を要しても10位か…相撲の苦難の時期は、もう少し続きそう
12位 塚原卜伝VS柑村織部立ち合い:0票
村上天流VS樋口定次烏川原の決闘:0票
柳生宗厳VS疋田景兼立ち合い:0票
風梶之助VS釈迦ヶ嶽雲右門結びの一番:0票
残念ながら、この4項目は0票という結果に…ちとマニアックすぎたか?
反省(。>0<。)

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

では続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」の管理人のコメントもお楽しみください

天智天皇
VS
天武天皇

兄弟のロマンチックな三角関係に一票
(^-^)/ (IKUYA さん/コメント)
「想像するに、ちょっと優雅な不倫…たぶん優雅な不倫なんてないですが」

その他

平敦盛vs熊谷直実 これを入れて頂きたいです (おみそしるさん/コメント)
「涙涙の青葉の笛…入れておけばよかったですね~申し訳ないです」

その他

巴御前VS御田八郎師重 (しまだ さん/コメント)
「木曽殿にお見せする最後の戦!!巴御前の勇姿は見たいです(*゚ー゚*)」

その他 平兼盛VS壬生忠見 天徳の歌合せ (男性/40代/東京)
「歌の勝負ですか~項目を考えてた時には思い浮かびませんでした…興味津々ですね」
当麻蹶速
VS
野見宿禰
ちょっとマニアックかな~と思ってたら一番初めに表記されてるとは…「蹴り殺したらしいですが…?」 (男性/40代/大阪)
「試合じゃなく死合ですもんね~勝った宿禰は領地を貰ったとか…」
武蔵
VS
小次郎
03年の大河ドラマで見ましたが、やはり当人同士の対決を見たい。 (男性/20代/千葉)
「やはりホンモノ…私は血が怖いので、少し遠目からにしときます」
その他 柳生厳包vs柳生宗冬 (男性/30代/大阪)
「柳生一族の…ドラマの世界を思い起こします」
武蔵
VS
小次郎
武蔵VS吉岡一門を見てみたいです (男性/30代/埼玉)
一乗寺下り松…でしたっけ?ドラマでは武蔵がかなりカッコイイんですが、現実はいかに?」
武蔵
VS
小次郎
決闘といっても、短時間ですが・・・山口なので見たいです! (女性/10未満/山口)
「地元での出来事は、やはり別格ですもんね…思い入れが違います」
その他 やっぱり武田信玄と上杉謙信は一騎打ちしてほしい!!! (男性/40代/愛知)
「やっぱり…ですね~なんせ名将同志の一騎打ちですからね~」
その他 OK牧場の決闘 (男性/70代)
「まさか!ガッツなあの方では!ははぁ~m(_ _)m」
紫式部
VS
清少納言
市原悦子的感覚でぜひとも見たいワンシーンですね。おや、まぁ…って言いたいです~ (女性/30代/奈良)
「やっぱり、コレは覗き見のパターンですね~女バトルの常として“アンタはどっちにつくのよ!”って言われたらどーしょましょ」
その他 もちろん武田信玄公と上杉謙信じゃんよ (女性/20代/山梨)
「やはり稀代の名勝負ですからね~」
武蔵
VS
小次郎
史実認定されてたんだ、コレ。
「う~~ん…本人の自己申告したもん勝ちみたいなトコもありますね~」
その他 スサノオと鉄 (男性/30代/山口)
「相手がかなり大きい雰囲気が…でも、スサノオさんが牛頭天王なら、迎え撃てるかも
武蔵
VS
小次郎
決闘として見てみたいのはこれ! (男性/20代/滋賀)
「やはり剣豪同志の名勝負は外せませんね」
羽柴秀吉
VS
柴田勝家
この出来レースを生で見たいですw (女性/10代/神奈川)
「出来レースですか~会議当日は、もう、勝負ついていたのかな?そのへんもチェックしたいですね」
紫式部
VS
清少納言
世界文学史上にも燦然と輝く才その他 媛ふたりがエールを交換するのを見れたら思い残すことはありません。 (男性/60代/東京)
「やっぱり、グループ(派閥)に分かれてた感はぬぐえませんね…どっちにつこう(´Д`;≡;´Д`)」
竹中半兵衛
VS
斉藤龍興
乗り込んだ17人目になりたい!! (女性/30代/大阪)
「ワォ!勇ましいですね~見てるだけじゃ物足らない!…天下の名軍師の指示のもと颯爽と…」
その他 上泉伊勢守 vs 仏生寺弥助
「新陰流の極意をナマで…足利義輝に教えたくらいですもんね~」
その他 国内最初の争い?国津神VS天津神 (女性/40代/東京)
「壮大です~」
羽柴秀吉
VS
徳川家康
家臣の引いてる顔も見てみたいです (男性/30代/大阪)
「手に汗握る中で、何となく笑いながら見てられそう…ホントはけっこう大変だったかも知れませんが…」
その他 真田昌幸VS小松殿の沼田城での口げんか (男性/30代/東京)
「口では、嫁の小松姫が優勢のように思いますが、意外と昌幸も負けてないかも…」
その他 昭和7年2月、京都南禅寺で行われた、阪田三吉と木村義雄との間で行われた、将棋史上稀代の決戦。 (男性/60代/大分)
「シブイなぁ~思いつきませんでした…まさに名勝負ですね」
天智天皇
VS
天武天皇
吉備真備と藤原仲麻呂の戦い (女性/60代/東京)
「この時代は優雅なのか?ドロドロなのか?天皇を巻き込んでの様々なバトルが興味深いです」
その他 足利義輝vs敵兵士。どんだけ強い?&リアル殺陣を見てみたい! (男性/40代/東京) 
「剣豪将軍ですからね~襖をうまく使ったキレイな殺陣が見られるかも…」
羽柴秀吉
VS
柴田勝家
謀略とはまさにこのことだと思う (男性/30代/千葉) 
「秀吉の肩に抱っこされた三法師を見た時の勝家は??見てみたいです」
その他 幸村、たぬき爺ぃに、カメハメハー! (女性/40代/奈良)
「家康=フリーザ…いやセルか~見てる私はミスター・サタン」
紫式部
VS
清少納言
才女どうし、第三者としては、内心面白い。 (男性/30代/愛媛) 
「他人のモメ事は、ドロドロするほど蜜の味ですな~」
その他 昭和63年天皇賞・秋タマモクロスvsオグリキャップ 芦毛頂上決戦 (【海外】)
「う~~ん、確かにこれも名勝負!オグリちゃんには良い目を見させて貰った事もあるし…」
その他 朝山日乗とフロイスの宗論。当時の人々の宗教観、死生観、文化の違いに興味深い。ただし刃物がない部屋で。 (女性/20代/岐阜)
「そんなキリスト教も、後で弾圧を受けちゃいますが、宗教家に刃物はいけません」
その他 壇ノ浦での能登守教経VS義経 古典の教科書で読んで興奮した名勝負。平家最強VS八双飛び。 (男性/40代/神奈川)
「やはり、壇ノ浦での義経の活躍は見てみたいですね~」
その他 清水の舞台での牛若丸と弁慶の対決 (男性/20代/東京)
「わぁ!これは見てみたいです~五条の橋の上よりも、いい勝負が見れそうです」
その他 源頼政対妖怪の鵺 
「近衛天皇を悩ませた鵺ですね…正体は何だったのでしょ?わからない者に相対するのはなかなか勇気いりますね~さすが頼政さんです
天智天皇
VS
天武天皇
「茜さす~」の歌の現場に立ち会いたいっ! (女性/40代/愛知)
「“夕陽を背に愛しの彼が…”そそられる光景ですね~そりゃ歌も読みたくなります」

・‥…━━━☆

以上、楽しいコメントをありがとうございました~

う~~ん こうしてみると、やはり大相撲人気の低迷は否めないですが、歴史的妄想しはじめると夜も寝られず、昼に寝てばっかりですヽ(*≧ε≦*)φ!

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
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2011年7月19日 (火)

禁門の変で散る久坂玄瑞

 

元治元年(1864年)7月19日、この日勃発した禁門の変にて、長州藩士・久坂玄瑞が自刃しました。

・・・・・・・・・

久坂玄瑞(くさかげんずい)は、長門国(山口県)萩藩の藩医・久坂良迪(りょうてき)の三男として生まれました。

幼い頃から藩校の明倫館や医学所の好生館に通い、医学書や洋書などを読みふける勤勉な少年でしたが、14歳の時に母が亡くなったのに始まり、翌年には長兄を、さらに、続いて父までが亡くなってしまいます。

Kusakagenzui500 2番目の兄はすでに早世していて、事実上次男として育っていた玄瑞・・・わずか15歳にして家族全員を失い、藩医・久坂家を継いで医者となるべく、頭を坊主にして幼名の秀三郎から玄瑞に名を変えたのです。

すでにこの頃、優秀な人材としての評価を得ていた玄瑞は、寄宿舎の費用を藩が出してくれるという特待生制度を利用して、17歳で好生館の寮生となり、さらに勉強を続けます。

その後まもなくの安政三年(1856年)、九州への遊学を勧められて向かった先で、熊本の勤王の志士・宮部鼎蔵(ていぞう)から吉田松陰(しょういん)の存在を教えられ、帰国後、ただちに松下村塾(しょうかそんじゅく)(11月5日参照>>)に入ります。

そしてご存じのように、この松下村塾では、あの高杉晋作とともに「村塾の双璧」と称されたり、この二人に吉田稔麿(としまろ)を加えて「松陰門下の三秀」と呼ばれたり、さらに、そこに入江九一(くいち)を加えて「松門の四天王」と・・・とにかく、塾内では常にトップの成績を修めていたとか・・・

そんな玄瑞は、やはり松陰にとって、最も期待を寄せる生徒だったのでしょう、まもなく、自らの妹・(ふみ・あや)玄瑞に嫁がせています。

しかし、そんな時間もつかの間・・・江戸に遊学しつつ、度々京都にも足を延ばして尊王攘夷派の志士たちと交友していた玄瑞のもとに、安政六年(1859年)、松陰刑死(10月27日参照>>)のニュースが・・・

この幕府の処分に激怒した玄瑞は、それまで愛読していた洋書を投げ捨てて、松陰先生の遺志を継ぐ事を決意・・・尊王攘夷運動に身を投じていく事になります。

やがて、長州藩の姿勢が、徐々に朝廷寄りとなる中で、尊王攘夷派の志士として重用されるようになっていく玄瑞・・・文久元年(1861年)に、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)婚姻が成り(8月26日参照>>)、翌年の将軍上洛が決まると、朝廷には新しい体制が整えられはじめます。

なんせ、この徳川約300年の間、朝廷が積極的に国政に参加する事はなかったわけですが、これからは公武合体(朝廷と幕府が協力)となれば、公卿たちにも、それなりの準備が必要なわけで・・・

そんな公卿の学問所である学習院では、若い尊王攘夷派の公卿たちが集まっての国政に関しての議論が多くなった事を受けて、文久二年(1862年)、玄瑞は藩主の命を受けて、学習院出仕の身分となります。

一介の志士である玄瑞が、学習院御用掛に出仕するという事は、朝廷内部に多くの志士たちと密接な関係がとれる場所ができたという事でもあり、そこで縦横無尽に活躍する玄瑞は、若い公卿たちからも信頼される存在に・・・

こうして公卿からの信頼を得た玄瑞は、同じ長州藩士の桂小五郎とともに、朝廷の尊王攘夷派の三条実美(さねとみ)姉小路公知(あねがこうじきんとも)らと結託して、岩倉具視(ともみ)公武合体派を排除する事にも成功・・・朝廷内を尊王攘夷一色に変えていきます。

その年の暮れには、晋作らとともに英国公使館の焼き討ち(12月12日参照>>)にも参加し、翌年の幕府が攘夷決行の期限とした5月10日の外国船砲撃事件(5月10日参照>>)にも参戦しました。

しかし、もともと「尊王=天皇のために」だった攘夷運動も、あまりに過激になると、それは天皇のお心にそぐわない物となって来ます(7月4日参照>>)

そんな、天皇の心境の変化を待っていた中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)(2009年8月18日参照>>)を中心とする朝廷内の公武合体派が、薩摩藩や会津藩などの力を借りて八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)というクーデターを決行・・・長州藩はその最大の標的となり、玄瑞らも京の都を追われる事になりました。

しかし、当然、このまま黙っていられるはずはなく、長州に戻った志士たちの間では、武力を以って京都に進発して長州の無実を訴え、さらに薩摩&会津を追い払って、勢力を巻き返そうとする「進発論」が盛んに語られるようになりますが、そんな時に起こったのが、あの池田屋事件(6月5日参照>>)・・・京都に潜伏中の長州藩士の会合に新撰組が斬り込んだ事件です。

この事件で、かの松下村塾以来の友人である稔麿や鼎蔵を失った玄瑞は、来島又兵衛(きじままたべえ・政久)真木和泉(まきいずみ)らの諸隊を率いて京都に向かって出兵します。

・・・と言っても、もともと、進発論には小五郎とともに反対していた玄瑞・・・今回の挙兵は、あくまで長州藩の罪の回復を願う「嘆願書」を起草して朝廷に奉上し、長州藩に同情して寛大な措置を要望する多くの藩士や公卿に揺さぶりをかけて、いずれは天皇の気持ちを動かすという地道な方法を取る事が主たる目的だったわけで、すぐに一戦を交えるつもりではありませんでした。

しかし、7月12日に武装した薩摩藩兵が京都に入って来た事で、その雰囲気はガラリと変わります。

その雰囲気が一触即発となってしまった7月17日・・・男山石清水八幡宮で開かれた最後の軍議では、血気にはやる過激派たちに対して、
「今回の上洛は、もともと、主君の無実の罪をはらすべく嘆願しに行くって事やってんから、こっちから手出してどうすんねん!
今、戦うって言うても準備もできてへんし、援軍もなかったら数の上では勝ち目ないやろ。
もうちょっとチャンスをうかがってみたらどうやろ?」

と提言する玄瑞でしたが、
「アホか!医者に戦争の事がわかるかい!
怖いねやったら、そこでじっとしとったらええねん!
俺らだけで、悪人を退治したるさかいに!」

てな捨てゼリフを残して、その場を立ち去ったのはヤル気満々の又兵衛・・・

さらに、いつも冷静沈着な参謀役だった最年長の和泉までもが、
「来島くんの言う通りやで」
と・・・

結局、彼らの意見に押し切られる形に・・・

Kinmonfuzinzucc
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
昨年にアップした図ではありますが、位置確認のため…
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

こうして元治元年(1864年)7月19日、長州藩の諸隊は、京都の北西・天龍寺に陣を取る国司信濃(くにししなの・親相)、南西の天王山に陣取る益田右衛門介(うえもんのすけ・親施)、南は伏見の長州屋敷に陣取る福原越後(ふくはらえちご・元僴)・・・と、この3方向から御所を目指して進撃を開始したのです。

世に言う禁門(蛤御門)の変・・・

2万とも3万とも言われる敵兵に対して、長州はわずかに2000・・・この日、天王山に陣取っていた玄瑞は、開戦からしばらく経って、禁門(蛤御門)に突入した又兵衛の訃報を聞き、そこが総崩れになっている事を知ります。

しかし、玄瑞は、それでも、御所南側の堺町御門へと向かい、越前や薩摩の兵を撃ち破りながら、門を入ってすぐ右手にある鷹司(たかつかさ)へと急ぎます。

実は玄瑞・・・まだ、あきらめていなかったのです。

鷹司卿とともに参内し、もう一度、最後の懇願を朝廷に訴えるつもりだったのです。

しかし鷹司卿は、「もはや遅し!」とばかりに玄瑞を振り切ってその場を立ち去り、まもなく、屋敷は炎に包まれます。

そんな中でも、一度は撃って出る玄瑞でしたが、流れ弾に当たり負傷・・・もはや最期の時を悟った彼は、未だそばにいた入江九一らに、長州藩の今後を託して逃走させ、そのまま鷹司邸にて自刃を果たしたのでした。

時鳥(ホトトギス) 血に鳴く声は 有明の
  月より他に 知る人ぞなき
  ♪

久坂玄瑞・・・まだ25歳の若者でした。

あの松陰先生が、有朋とは雲泥の差をつけて、堂々たる政治家になると太鼓判を押した玄瑞・・・

彼が維新の世に生きていたら、果たして、どんな政治手腕を見せてくれたのやら・・・と残念でなりません。

★来島又兵衛を中心にした禁門の変については
 2010年7月18日のページで>>
★シンガリを務めた真木和泉と十七烈士については
 2007年10月21日のページで>>
★戦後処理&福原越後については
 2009年11月12日のページでどうぞ>>
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2011年7月17日 (日)

山中鹿介の忠義は忠義なのか?

 

天正六年(1578年)7月17日、中国地方の大名・尼子氏に仕えて山陰の麒麟児と称された山中鹿介が殺害されました。

・・・・・・・・

実名は山中幸盛(ゆきもり)、通称は鹿介・・・講談で山中鹿之助と語られるので、そちらの方が有名かも知れませんが・・・(本日は鹿介さんで…)

このブログにも何度か登場していただいてますし、歴史好きの間ではなかなかの人気・・・戦前は教科書にも載っていた事もあって、ご存じの方も多いと思いますが・・・

とにかく、山陰の雄として戦国大名トップクラスの威勢を誇っていた尼子氏でしたが、山陽の覇者大内氏との覇権争いの中、永禄三年(1560年)の尼子晴久の死と、にわかに登場した毛利元就(もとなり)によって、その勢いにも陰りが見え始めました(12月24日参照>>)

Yamanakasikanosuke500 鹿介が尼子氏の家臣として活躍するのは、ちょうどこの頃から・・・

やがて永禄七年(1564年)、すでに大内氏を手中に納めた元就は(4月3日参照>>)、尼子氏の本拠地・月山富田城(がっさんとだじょう)3万の兵で囲みます。

この攻防戦では、途中、鹿介と品川大膳(だいぜん)改め棫木狼介(たらきおおかみのすけ)との一騎打ち(11月27日参照>>)なんて逸話も残しながらも、永禄九年(1566年)11月28日、ついに富田城は開城され、当主・尼子義久とその弟の倫久(ともひさ)秀久の3名は、毛利の下で幽閉の身となり、鹿介をはじめとする尼子の家臣たちは散り々々に・・・(11月28日参照>>)

しかし鹿介諦めず・・・御家再興のために「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」(御家再興のためなら、どんな苦労もいとわない)三日月に祈った話は、講談での見せ場となってます。

とは言え、当主・義久3兄弟は幽閉の身・・・そこで、すでに仏門に入っていた尼子一族の尼子勝久(かつひさ・義久の再従兄弟=はとこ)還俗(げんぞく・一旦、僧となった人が一般人に戻る事)させて当主と仰ぎ、月山富田城・奪回を目指して出雲各地を転戦・・・やがて、織田信長の支援を受けて、上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を任されます(11月29日参照>>)が、今度も、そこを毛利に攻められ、主君の勝久が自害し、捕えられた鹿介は毛利の本拠地・安芸(あき)への護送中の天正六年(1578年)7月17日背後から斬りつけられ、34年の生涯を閉じました(7月3日参照>>)

・・・と、鹿介の生き方を見て、お察しの通り、滅びゆく尼子氏に・・・いや、滅んでもなお諦めず、主君に忠誠を尽くすところが、忠義の鏡と絶賛され、「歴史」ではなく、「修身(道徳)のお手本として、あの楠木正成(5月25日参照>>)と同じく、戦前の教科書に掲載されていわけです。

もちろん、今も、鹿介の人気が衰えないのも、そんな忠義の心に深く感銘を覚えるからなのですが・・・

本日は、ちょっとだけ視点を変えて、辛口に考えてみましょう。

もちろん、私は歴史上の人物が全員好きなので、はなからブログで悪口を書く気にはならないし、特に、その日の主役は、できるだけカッコ良く、できるだけ美しく書いてさしあげたいとの思いがあり、時には「持ちあげすぎだろ!」とお叱りを受ける事もあるくらいで、当然、今回の鹿介さんも大好きなのですが、ただ盲信的に忠義を絶賛しては、それこそ片手落ち・・・冷静に分析せねばならない事もあるのでは?と考えます。

・・・で、この鹿介の忠義は、本当に忠義なのか???という事・・・

たとえば、同じように戦前の教科書で絶賛された楠木正成・・・
確かに、彼も、一旗挙げたいという私利私欲はあったでしょうが、忠義を尽くす相手が他ならぬ天皇で、しかも正成は、後醍醐天皇に仕えなければ、血筋も不明なただの悪党・・・後醍醐天皇の配下にいてこそはじめて、武将として一目置かれる存在なのですから、後醍醐天皇あっての正成という感がぬぐえません。

しかし、一方の鹿介・・・
確かに、鹿介の山中家の祖は、出雲守護代として尼子氏の基礎を作った尼子清貞(清定・きよさだ)の弟なので、尼子一門という事になりますが、鹿介の頃は、すでに譜代の家臣扱いでしたから、そこまで尼子氏の再興にこだわる必要があったのでしょうか?

しかも、正成の天皇と違って、尼子氏は、山陰の雄とは言え、一大名なわけですし・・・

『史記』では「賢臣は、二君に仕えず」なんて事も言いますが、下剋上激しき戦国時代、さっさと見切りをつけて生き残った人もたくさんいます

そして、最大のネックは、月山富田城を落とされて義久以下3兄弟が幽閉状態になった時・・・

この時、一族の勝久を当主に迎えて再出発・・・実際には、ここが、最も忠義とされる所ですが、逆に考えれば、先の主君=義久と3兄弟は、幽閉であって、殺されたわけじゃないのですから、ヘタすりゃ、この3人が、尼子再興のニュースを聞いた毛利の手にかかって殺されるかも知れないわけです。

もちろん、その担ぐ主君となるべき尼子一族の人物も、勝久以外にもいたわけで、そんな人たちにも被害が及ぶかも知れません。

もし、本当に尼子再興が純粋な目的だとしたら、この鹿介の行為は、本末転倒・・・マイナス以外の何物でもない事になります。

たまたま、毛利側が彼ら3兄弟の命を取る事がなかったおかげで、毛利が豊臣秀吉の傘下となった時に幽閉を解かれ、その後の関ヶ原で、毛利が長門周防の2カ国に減封になった際に、奈古(なこ・山口県阿武郡)1292石を給わる事になり、さらに佐々木氏と名を変えて、近代までその血筋を守る事が出来たわけですが、この鹿介の行為に対する毛利の態度によっては、それもなかったかも知れません。

しかし、それこそが鹿介のこだわりだったのかも・・・。

そもそも、彼を忠義の手本としたのは、後世の人たち・・・鹿介にとっては忠義などではなく、どうしても譲れない男の意地だったのかも知れません。

「譲れない物」というのは、それこそ人それぞれ・・・「それだけの意欲と粘り強さがあるなら、適当なところで尼子を見限って、うまく世渡りすれば良いのに」という世間の声を浴びせられてもなお、柔軟にはなれなかった・・・

しかし、そんな声を出してる世間の側も、意外に不器用な生き方というのが魅力的であったりするんですよね~。
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2011年7月15日 (金)

秀吉が次世代に託した武家の家格システム

 

慶長三年(1598年)7月15日、病中の豊臣秀吉諸大名に対して秀頼への忠節を誓う誓詞を要求しました。

・・・・・・・・・・・・

Toyotomihideyoshi600 つまり秀吉は、自分の死後、すみやかに息子の秀頼にバトンタッチできるよう、大名たちに誓わせたという事なわけですが、まさに、この1ヶ月後の8月18日、秀吉はあの世へと旅立ちます。

そして、2年後の慶長五年(1600年)に関ヶ原の戦いがあり、その15年後の慶長二十年(元和元年・1615年)に起きた大坂の陣豊臣家は滅亡となるわけですが、この間の豊臣家と徳川家の関係&状況の流れ・・・

このブログでは、折に触れて度々書かせていただいておりますので、それぞれのページと内容がかぶる部分もありますが、それこそ、私が声を大にしてお伝えしたい事なので、改めてまとめさせていただきます。

・‥…━━━☆

とは言え、私は現役の学生ではありませんので、現在の教科書にどのように書かれているのかは確認できていないのですが、おそらく、今でも、こんな感じじゃないですか?

  • 慶長五年(1600年):関ヶ原の戦いにて東軍(家康)勝利・・・石田三成は斬首となり、豊臣家は摂津ほか65.7万石の一大名に転落。
  • 慶長八年(1603年):家康が伏見城にて将軍宣下を受け江戸幕府を開く。
  • 慶長十年(1605年):征夷大将軍を2代目・秀忠が継ぐ
  • 慶長十六年(1611年):秀頼と家康が二条城で会見
  • 慶長十九年(1614年):大坂冬の陣
  • 慶長二十年(1615年):大坂夏の陣で豊臣家滅亡

てな感じ?

もちろん、個々のでき事はおそらく事実でしょう。
関ヶ原で東軍が勝利したのも、慶長八年に家康が将軍になったのも・・・しかし、それに伴う「豊臣家が一大名に転落」「江戸幕府を開く」てな結果は、徳川家の公式記録に書かれた徳川家の言い分で、事実ではない可能性があるわけです。

そもそも、関ヶ原の戦いは豊臣家内の内紛・・・会社の中で、部長の派閥と係長の派閥が争って、部長一派が勝ったからって、なんで社長の給料が減らされるんだ?って話です。

これは、2010年5月10日のページ>>にくわしく書かせていただきましたが、文化九年(1812年)成立の『廃絶録』と、明治二十四年(1891年)成立の『徳川除封録』という、徳川時代に改易&断絶となった大名家をまとめた記録に「慶長二十年に65.7万石の豊臣秀頼が大坂城で自害した」と書かれている事から、教科書等でもそのように教えられるわけですが、文化九年以前の史料には、秀頼の名前は出て来ません。

ちなみに、幕府は、文化六年(1809年)にも、同じように、改易&断絶になった大名や旗本の記録を集成した『断家譜』というのを作っていますが、ここに豊臣家は収録されていなのです。

つまり、「大坂の陣で滅亡した豊臣家が、その時に65.7万石の大名だった」と主張しているのは、戦いから200年の後の徳川幕府・・・おそらく実際の関ヶ原では、社長である秀頼の領地が減らされる事はなく、派閥争いの末、部長=家康一派に反対する者が一掃されたというだけ・・・もちろん、この状況は大坂の陣まで続きます。

その証拠となるのが、数多く残されている公家の日記なのですが、どれもこれも、正月の21日~28日くらいまでの間に、「大坂へとおもむき、秀頼に正月の挨拶をしに行った」事が書かれています。

それは、毎年の恒例行事で、もちろん、慶長十九年の正月にも行われています。

中でも『御湯殿上の日記』(宮廷の女官の日記)には
「正月廿七日、はるゝ(晴)、ひてよりへしよれいとて、おとこたちのこらす、大さかへ御くたり有・・・」
と、御所の男性陣が残らず、秀頼に会いに行ったと書かれています・・・残らずですよ!

慶長十九年の時点でも、公家たちがここまで秀頼に気を使うのは・・・すなわち、秀頼が次期関白になるはずだったからで、その土壌を整えたのは父=秀吉です。

こちらは、2010年8月9日のページ>>に毛利家の重臣・内藤隆春(たかはる)の手紙とともにご紹介した秀吉の遺言・・・

ここで秀吉は、「東西の事は家康・輝元の二人に、北陸の事は利家に、畿内の事は5人の奉行に任せたい」と明言しています。

つまり、来たる慶長八年(1603年)の家康の征夷大将軍就任は、すでに秀吉が決めていた事なのです。

教科書等に書かれている家康の将軍就任と同時の江戸幕府誕生・・・ここで言う江戸幕府が、関東や東北を含む東日本を掌握するという意味なら○ですが、多くの場合、この将軍の支配権が全国ネットと解釈してしまい、あたかも、ここで徳川が豊臣より上になった感を抱いてしまうわけですが、決してそうではありません。

文字通り、家康は征夷大将軍なのであって、秀吉の構想では、その後に、西の将軍である毛利輝元、北の将軍である前田利家が誕生するはずだったのです。

もちろん、秀頼は、そんな将軍たちの上にいる関白です。

さらに、秀吉が諸大名に託した秀頼の将来ですが・・・
遺言にもあるように、一般には五奉行&五大老が何かと注目されますが、もっとすごいシステムを秀吉は構築していました。

それが、公家の家格にならった武家の家格の導入です。

豊臣本家は、公家でいうところの近衛・鷹司・九条・二条・一条の五摂家に相当する家格・・・つまり、摂政や関白を輩出する家柄です。

そして、徳川・毛利・上杉・前田・小早川といった大老の立場にあった大名は、久我・転法輪・三条・西園寺・徳大寺・菊亭・花山院・大炊御門などの七清華に相当する家格・・・最高では太政大臣にまで上り詰める事ができる家柄です。

もちろん、未だこのシステムがなかった秀吉自身は、近衛家の養子になって「藤原秀吉」と名乗って関白になったわけですが、そんな事しなくても、武家のままで太政大臣や関白になれるシステムを作ったというわけです。

このシステムが秀吉の妄想や絵空事ではなく、ちゃんと機能していたとおぼしき史料も、キッチリと残っています。

『北越耆談』には、
「文禄三年十月、景勝上洛、伏見にて、景勝亭へ、秀吉公御成・・(略)・・上杉は、勘修寺の流れなれば、向後清華に準ずる旨勅諚あり・・(略)・・清華に準ぜらるゝ事、当家の高運、面目なる事なれば、末代の為め之を記す」
とあります。

つまり文禄三年(1594年)の10月に、「上杉家が清華に準ずる家格になってメッチャうれしいやないかい!」って事です・・・なんせ、上記の通り、頑張れば太政大臣にでもなれる可能性があるんですからね~。

同じ文には、
これは、謙信公が永禄二年(1559年)に上洛して、将軍・足利義輝に謁見し、関東管領・上杉家の家督と将軍の「輝」の一文字を賜った時(4月27日参照>>)以来の快挙だとも書かれていますから、この喜び方を見る限り、秀吉の武家の家格システムは、しっかりと導入され、機能し、すでに大名たちのステータスになっていた事がわかります。

こうして、慶長三年(1598年)7月15日、秀吉が諸大名に秀頼への忠誠を誓わせ、8月9日に遺言を残して、次世代へ託した様々な事は、関ヶ原後も、それまで通りに守られ、おそらくは、慶長十九年(1614年)の大坂の陣まで機能していたものと思われます。

それを一刀両断に断ち斬ったのが、まさしく大坂の陣・・・一般的には、この時、ほとんどの大名が徳川につき、豊臣側には浪人ばかりが集まったとされていますが、それも、勝てば官軍の徳川の言い分です。

以前、ご紹介した佐野道可=内藤元盛を放った毛利家のように(5月21日参照>>)多くの大名が、どちらが勝っても良いように準備していたものと考えます。

徳川ドップリにはずの細川忠興(ほそかわただおき)は次男の興秋(おきあき)を大坂城に送り込んでますし(表向きは家督相続の不満による離反)伊達政宗(だてまさむね)の重臣二人も大坂方についてましたし、なんたって、家康の隠し子とされる小笠原権之丞(おがさわらごんのじょう)も大坂方でした。

もちろん、まだまだいますが・・・これらは、この大坂の陣において、どちらが勝っても良いように二股をかけていたという事だと思います。

また、以前の徳川忠長がらみ(12月6日参照>>)で書かせていただいた加藤忠広(清正の息子)の改易も、実は、この大坂の陣で豊臣方についた事への処分であったという話もあります。

しかし、残念ながら、今のところ、教科書や世間一般の見方は、徳川の言い分のまま・・・家康ファンの方には申し訳ないですが、新たな史料の発見とともに、それが書きかえられる日が来る事を期待している茶々でございます。
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2011年7月14日 (木)

頼朝の愛娘・大姫の死にまつわる疑惑

 

建久八年(1197年)7月14日、源頼朝の愛娘・大姫が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

未だブログ初心者の頃の2006年の記事ではありますが、大姫について書かせていただいていますので(2006年7月14日参照>>)、本日は、その捕捉のような形で、大姫の入内事件と、その死にまつわる疑惑についてお話させていただきます。

Minamotonoyoritomo700ast くわしくは上記のページを見ていただけるとうれしいのですが、源頼朝北条政子夫婦の長女として生まれた大姫(長女という意味で、彼女の個人名は残っていません)は、伊豆で挙兵した父・頼朝と同時期に北陸で挙兵し、やはり平家を討ち破りながら京へと向かう木曽(源)義仲(頼朝の従兄弟)との融和を図るため、義仲の息子・義高と婚約します。

義高が鎌倉に入るという言わば人質のような形ではありましたが、実際に婚儀の準備も進められたいたとか・・・

しかし、先に京都に入った義仲を、頼朝の命を受けたその弟・源義経が討ち果たした事で(1月20日参照>>)頼朝は義高を殺害・・・この事が、大姫の心に深い傷を負わせます。

婚約当時は、義高は10歳、大姫は5~6歳という幼さ・・・確かに大人の恋ではありませんが、ともに暮らすうちに、大姫には義高を慕う気持ちが生まれていたようで、以来、大姫は食事もまともにとる事が出来ないようになり、病に伏せる日々となります。

義高の死から10年後の建久五年(1194年)には、頼朝の妹の息子である貴族の一条高能(たかよし)が鎌倉へと下って来て、少し容態が良くなった大姫との縁談も持ち上がりまが、彼女は、「結婚するくらいなら自殺する!」と言って、かたくなに拒否・・・

さすがに、そこまで拒否されては無理強いもできず、やむなく頼朝夫婦は縁談をあきらめますが・・・

ところが、その後まもなく頼朝は、嫡男の頼家・・・そして大姫も連れて上洛するのです。

表向きは東大寺の落慶法要のためですが、実は、水面下で、大姫を第82代後鳥羽天皇の妃にすべく、入内の準備のための上洛だったのです。

しかも、今回の頼朝は、以前、征夷大将軍になる時に骨を折ってくれた縁から大親友となって連携していた九条兼実(かねざね)ではなく、宮廷のもう一人の実力者・土御門通親(つちみかどみちちか)丹後局(亡き後白河法皇の愛人)と接触します。

もう一人の実力者・・・という事は、当然、通親は兼実とは敵対しているわけですが、そんな通親&丹後局に対して、お土産攻撃に始まり、宴に招待しての接待三昧の毎日・・・。

かつては、後白河法皇の死を受けて、残された膨大な荘園を手に入れようとした通親&丹後局を、兼実との強力タッグで阻止した事もあった頼朝でしたが、今回は、そのかつての決定を取り消すという見事な手のひらの返しっぷり!

この頼朝の手のひら返しには、京の町では「兼実邸に近づくと頼朝に睨まれる」なんて噂まで流れ始める始末・・・

そして建久七年(1196年)・・・兼実は関白を罷免され、その弟の慈円も天台座主の地位を奪われ、中宮ととなっていた兼実の娘・九条任子も後宮から退去させられ・・・彼ら一門は失脚します。

こうして、かつての友を裏切ってまで勝ち取った大姫の入内への道・・・しかし、建久八年(1197年)7月14日、その大姫は亡くなってしまいます。

しかも、その翌年には、あの甥っ子貴族の一条高能も亡くなって朝廷とのつながりが薄くなる中、頼朝は、大姫に代わって次女の乙姫(三幡)入内を画策しようとしますが、そうこうしている建久十年(正治元年・1199年)正月・・・その頼朝自身が亡くなってしまいました(12月27日参照>>)

すでに女御の称号も得て、あとは実際の入内を待つばかりとなっていた乙姫の件は、そのまま2代将軍となった頼家が引き継いで進めて行く事になるのですが、なんと、その乙姫も、頼朝の死後から、わずか5ヶ月で病死してしまうのです。

大姫と乙姫・・・ともに入内直前の病死という事で、やはりあります暗殺疑惑・・・もちろん、仮説の域を出ない推理ではありますが・・・

特に乙姫・・・前から病弱だった大姫はともかく、乙姫の場合は、死の2ヶ月前に突然高熱を出して危篤状態に・・・しかも、そこに、京都から医者が派遣され、一旦が快復に向かうものの、すぐに、また病状が悪化し、医者が「もう、あきまへん」サジを投げて帰った4日後に死亡してしまうのです。

その医者を派遣したのは、誰あろう、九条兼実を失脚させて、現段階ではすっかり朝廷の実権を掌握していた、あの土御門通親・・・

実は、時をさかのぼる事4年前・・・頼朝が手のひら返しで大姫の入内を画策していた真っ最中の建久六年(1195年)、通親が再婚した奥さんの連れ子で後鳥羽天皇の妃となっていた在子(ざいし)が、男の子を産んでいるのです。

つまり、大姫入内の一件は、頼朝の希望もあるものの、そもそも、最初にその話を持ちかけたのは通親の側からではなかったか?・・・もちろん、それはライバルの兼実一門を追い落とすためです。

当然ですが、すでに朝廷の実権を握ってしまった今となっては、大姫であろうが乙姫であろうが、頼朝の娘が入内する事自体が、通親にとっては、ただライバルを増やすだけ・・・邪魔以外の何物でもなかったのかも知れません。

それにしても・・・
その在子さんの産んだその時の男の子が、後に即位して第83代土御門天皇となり、あの幕府を揺るがす大事件=承久の乱の時に、ヤル気満々の後鳥羽上皇に対して、唯一、討幕に反対してくれる存在になろうとは(10月11日参照>>)・・・まさに、世の中わからない物ですね。
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2011年7月13日 (水)

徳川家康…江戸転封の発想の転換

 

天正十八年(1590年)7月13日、小田原城内において、小田原征伐についての論功行賞が行われました。

・・・・・・・・・・・

論功行賞手柄に応じて賞を与える事・・・つまり、先の小田原征伐(7月5日参照>>)によって滅亡した北条氏の領地をどうするか?はたまた、誰に新たな領地を与えるか?などが,、豊臣秀吉によって決められ、参戦した皆に伝えられたという事・・・

ここで、徳川家康は、秀吉から、今までの東海(三河・信濃・甲斐・遠江・駿河など)に代わって、旧北条氏の領地であった関東一帯・・・いわゆる関八州を与えられるわけです。

・・・と、あえて、2008年に書かせていただいたページを、同じ文章ではじめてみましたが、そこでは、未だ小田原征伐の真っ最中の段階で、「勝利のの後には、北条の旧領である関東を家康に与える事、そして本拠となる城は、江戸に築くべき」という秀吉の打診があった事や、

結果論ではありますが、家康を関東にやってしまった事は、秀吉の失策ではないか?といった事など書かせていただきました(2008年7月13日を見る>>)

先の小田原城下を見下ろしながらの打診は、『徳川実記』に書かれているお話ですが、家康の伝記である『武徳編年集成(ぶとくへんねんしゅうせい)でも、すでに5月の段階で打診があり、翌・6月には「拠点を江戸にるする」と、家康が秀吉に約束した事が書かれていますので、この論功行賞という公の場を迎える以前に、家康の心が決まっていたのは確かだと思われます。

もちろん、この関東への移転は、秀吉の命令なのですから、未だ豊臣政権下にいる家康にとっては、断る事はできないわけですが、果たして、そのホンネはどのような物だったのでしょうか?

・‥…━━━☆

この転封が決まった時、家康の家臣の多くは不満を漏らしたと言います。

なんせ、京の都から遠く離れた、しかも、当時は漁村があるだけのド田舎に追いやられるのですから・・・

しかし、そんな家臣たちに家康は、
「旧領にプラス百万石なら、もっと北でもええワ…せやかて、3万を守備に当てても、5万を率いて上洛できる!そないなったら敵無しやで」
と言って説得したと言います。

まぁ、こういった記録は、徳川の家臣が殿さまをほめちぎるのが原則で、家康に先見の明があった事を強調したいのでしょうが、その分を差し引いたとしても、おそらく家康は、この江戸という所が、デメリットもあるものの、その反面、かなりのメリットもある事に気づいていた感もあります。

なんせ、家康の娘は北条最後の当主・氏直に嫁いでいます(11月4日参照>>)

北条が秀吉に反発した事で、今回の小田原征伐となりましたが、それ以前は、娘を嫁に出して同盟を結んでいた仲なのですから、その北条の領地の情報をまったく知らなかったはずはありません。

おそらくは、江戸に入ると決めた時点で、それなりの構想を模索していた事でしょう。

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永禄年間江戸図(国立公文書館蔵)

まずは、当時の江戸の一番のデメリットと言えば、台地と湿地帯が多く平野部が少ないため、大規模な埋め立て工事が必要だという事でした。

しかし、それは、埋め立ててしまえば、逆に、充分に活用できる新たな土地になるという事でもあります。

しかも、これまでは、関東各地の武士たちが群雄割拠していて政情が不安定だったため、未だ発展途上の段階のままでしたが、そもそも江戸の位置は、西から運ばれて来た物資を荷揚げする、東国の玄関口としては、絶好な場所なのですから、自らの治め方次第で、海運の拠点へと変貌させる事も可能なわけです。

そして、次なるデメリットは、小さな漁村しかないような寂れた場所・・・

以前、大田道灌(どうかん)江戸城を構築したお話のページで書かせていただきましたが(4月8日参照>>)家康が入った時の江戸城は、かなりボロボロで、もはや建物も使い物にならない状態・・・現状を見た家臣たちも、あまりのヒドさに、あ然として立ちつくすだけだったと言います。

これも、かなりオーバーに書いてる可能性はあるにしろ、立派な建物が建っていたという事もなかったでしょうから、周囲の漁村も含め、すべて1からのスタートだったでしょう。

しかし、これも、裏返せば、1からのスタートとは、自分の思い通りの町を1から造る事ができるという事にもなります。

もし、家康が小田原城に入っていたら、逆に、すでに出来上がっている城下町を、自分の思い通りに造り変える事は不可能だったかも知れませんが、何もない場所ならば、自由にできるのです。

そして、その自由に町づくりができるというメリットは、はじめに家臣たちが最も嫌がった最大のデメリットである京都から遠いという事を、最大のメリットに変える事にもつながります。

そうです。
発想を変えれば、京都から遠いからこそ、秀吉や朝廷の影響を受けることなく、自由な町づくりができ、それが、今までにはない発展を遂げる町に成長させる事ができるという事なのです。

以前、家康が江戸に入った8月1日のページでも書かせていただきましたが(内容かぶってますが8月1日参照>>)、家康は、これまで、天下を左右して来たあまたの武将が、朝廷の関与によって、右往左往している所を見て来ています。

朝廷から距離を置き、その影響を受けない新たな武士政権・・・それは、京都から離れているという最大のデメリットを、最高のメリットに変える家康の発想の転換。。。

もちろん、さすがに、心の内までは読めませんので、あくまで推測ですが・・・
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2011年7月12日 (火)

鎌倉幕府の誕生は「イイクニ」じゃなくて…「イイハコ」?

 

建久三年(1192年)7月12日、源頼朝が征夷大将軍に任命されました。

・・・・・・・・・・

歴史の授業で
「イ(1)(1)(9)(2)作ろう鎌倉幕府」
と覚えた鎌倉幕府の誕生・・・

Yoritomocc 最近では「イ(1)(1)(8)(5)と教わる場合もあるようですが、そもそも、この「幕府」という言葉は、もっともっと後の世にできた言葉なので、その定義も様々・・・

もともと、「本日、幕府を開きましたんで、今後ともよろしく~」
なんて、発表があるわけでもなく、幕府の中枢となる様々な物が、何年かに渡って次々と誕生していく中で、

最初に何かができた時&何かをした時が幕府の誕生なのか?
はたまた、すべてが完成した時なのか?
それとも、一番重要と思われる物が誕生した時なのか?
それこそ、様々な定義があるわけです。

冒頭に書いた「イイクニ作ろう」は、「幕府」という言葉の語源を中国の古典の中に求めた結果、「将軍の幕営を幕府と言う」という記述があった事から、「ならば、将軍になった時が幕府の誕生じゃないの?」って事で、建久三年(1192年)7月12日源頼朝が征夷大将軍に任じられた日を、鎌倉幕府の開幕とした物なわけです。

とは言え、最近は「イイハコ」とする教科書もある事を見てもお解りの通り、その定義も変わりつつあります。

そもそも、この中国の古典で言うところの将軍は、日本で言うところの征夷大将軍ではないわけで、中国流の幕府は、どちらかと言うと、日本で言うところの近衛府・・・東を征する将軍ではなく、首都を守る役職なわけで、そうなると、頼朝が右近衛大将に任命された建久元年(1190年)12月1日の方が近い感じがします。

ただ、以前書かせていただいたように、征夷大将軍になりたかったであろう頼朝は、この役職をわずか3日でやめちゃってます(12月1日参照>>)ので、ここを区切りにするのは、チョイと抵抗がありますが・・・

って事で、とりあえず、一通り、年代順に組織や役職等の誕生を挙げてみますと・・・

  1. 治承四年(1880年)=侍所の設置
  2. 寿永二年(1183年)=朝廷が東国支配を承認
  3. 寿永三年(1184年)=公文所・問注所の設置
  4. 文治元年(1185年)=守護・地頭の任命権獲得
                  京都守護
  5. 文治五年(1189年)=奥州総奉行
  6. 建久元年(1190年)=右近衛大将に任命
  7. 建久二年(1191年)=政所の設置
  8. 建久三年(1192年)=征夷大将軍に任命

となるわけですが、幕府の組織の完成形となると、それこそ、建仁二年(1202年)の執権の誕生や、朝廷から完全に政権を奪った感のある六波羅探題(ろくはらたんだい)設置の承久三年(1221年)・・・ときますが、もはや頼朝は亡くなってますからね。

なので、組織の完成形を棚の上に上げさせてもらって、幕府を開いた人が頼朝であるという事を重視するなら、上記の8つのうちのどれかが、幕府誕生と言える事になりますが・・・

この中で、1~3までは、あくまで関東という一地方での支配という事になります。

確かに、この時点での頼朝は、南関東を平定し、軍事政権というべき物を誕生させていますので、それが鎌倉幕府だと言う事も可能・・・さらに、1183年に至っては、後白河法皇から、東海道&東山道における公家や寺社の荘園の事を任されていますので、この時点で、朝廷が頼朝の組織する政権の存在を公的にも認めた事になりますからね。

ただ、やっぱり、これは全国ネットではありません。

朝廷に認めさせたという点では、6と8の役職への任命もありますが、逆に、これは、鎌倉幕府の組織で最も重要な、御家人との主従関係の確立とは、あまり関係がないような気がします。

そんな中で、やはり、現在最も有力なのが、「イイハコ」の1185年・・・

頼朝が、朝廷から、全国の守護・地頭の任命権を獲得したという事は、すなわち、自らの配下にいる人間を全国に派遣して治めさせるという事なのですから、当然、それは全国を支配しているという事になります。

さらに、首都を守るという京都守護も、この年ですし、なんたって、平家が壇ノ浦に滅びる(3月24日参照>>)のがこの年です。

もちろん、事実上の合戦で平家を倒した弟の義経と対立して、「義経追討の院宣(いんぜん・上皇の命令)」を受けるのもこの年・・・

これらを総合的に考えると、やはり「イイハコ」なのかなぁ・・・
と思える今日この頃・・・元号も変わってますしね。
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2011年7月11日 (月)

武士の時代の幕開け…保元の乱

 

保元元年(1156年)7月11日、後白河天皇崇徳天皇との対立を軸にした保元の乱がありました。

・・・・・・・・・・・

第75代崇徳(すどく)天皇、第76代近衛(このえ)天皇、第77代後白河(ごしらかわ)天皇・・・と3代28年に渡って院政を敷いていたのが第74代の天皇だった鳥羽上皇・・・

上記の3人の天皇は、全員、鳥羽上皇の息子ですが、鳥羽上皇自身は、長男の崇徳の事を「嫁の璋子が、ジッチャンの白河天皇と浮気してできた子供じゃないか?と疑い、崇徳さんを退位させて、もう一人の嫁・得子の産んだ九男・近衛天皇を即位させます。

しかし、この近衛天皇が17歳の若さで亡くなってしまい、今度は、璋子が産んだ子だけど、自分の子供の可能性が高い四男の後白河天皇を即位させます。

この間、鳥羽上皇に無理やり退位させられた崇徳さん(上皇=前天皇)は、おもいっきしウップンが溜まりまくってたわけですが、そんな鳥羽上皇が、保元元年(1156年)7月2日、波乱を含んだまま亡くなってしまいます(くわしくは7月2日参照>>)

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保元の乱・相関図

ちょうどその頃、摂関家でも、前摂政関白の藤原忠実(ただざね)が、長男で現関白の忠通(ただみち)を嫌い、その弟の左大臣・頼長(よりなが)を可愛がるため、この兄弟に反目の心が生まれていたのです。

そんな中での鳥羽上皇の死を受けて、忠通は後白河天皇頼長は崇徳さんとくっつき、両派は、それぞれに有力な武士を集めて、臨戦態勢に入ります。

そして、これまた、その有力武士たちも、一族の中でモメていたため、それぞれ両派に分かれます(2016年7月11日参照>>)

源氏は、父・源為義(みなもとのためよし)と弟の為朝(ためとも)が崇徳さんのもとに走り、兄の義朝(よしとも)が後白河天皇・・・

平氏は、叔父の平忠正(たいらのただまさ)が崇徳さん、甥の清盛(きよもり)が後白河天皇につきます。

Hogennoranitikankeizucc
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして保元元年(1156年)7月10日、両者の軍勢は、京都の鴨川を挟んで対峙します。

一触即発の状態で迎えたその日の夜・・・崇徳派の軍議にて、為朝が夜討ちを提案しますが、全権を握る頼長は、「そんな姑息なマネできるかい!」と、これを却下します。

しかし、一方の後白河派では、義朝が提案した同じ夜討ち作戦を、後白河天皇は認めて宣旨(せんじ=天皇の命を伝える文書)を与えます。

宣旨を得る=官軍となった事で士気上がる後白河派は、保元元年(1156年)7月11日未明、清盛が約300、義朝が約200、源義康(よしやす・為義の従兄弟で足利家の祖)が100の軍勢を率いて拠点の高松殿を出陣し、敵方の拠点である白河北殿を3方向から包囲・・・それぞれの門から奇襲を決行したのです。

そもそも、数において不利でありながら、さらに夜討ちをかけられたワリには、なかなかの抵抗を見せる崇徳派・・・とくに、御殿の西門を守っていた為朝は、兄の義朝と真っ向からぶつかり、見事、これを撃退しています。

結局、攻めあぐねた義朝は、後白河天皇に火攻めの許可を得て、白河北殿の隣家に放火・・・たちまちのうちに白河北殿に火が燃え移った事で、崇徳さん&頼長は逃亡し、崇徳派の兵たちも散り散りに・・・

こうして、戦いはわずか4時間ほどで、後白河側の大勝利という形で決着がついてしまいました。

『保元物語』に残る名言(史記のパクリ?)・・・「先んずる時は人を制す」
まさに、先に夜討ちをかけたフットワークの良さが、勝利をもたらしたと言えるでしょう。

これで、天皇家も摂関家も、もはや武士の力なくしては権力を維持できないという構図が出来上がっていくのです。

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保元合戦図屏風(馬の博物館蔵)

ところで・・・
戦後処理にて、忠正や為義をはじめとする多くの武将が処刑されますが、このブログでもチョコチョコ書かせていただいているように、この保元の乱には、とてもスルーできない後日談が残っています。

可愛がってくれた父の屋敷を目指して、奈良へと逃走する頼長・・・(7月14日参照>>)

伊豆大島へ流罪となった後、日本初の切腹?いやいや、まだ死なず、その先は、遥か琉球の王になったという為朝・・・(3月6日参照>>)

そして、讃岐(香川県)へ流された崇徳さんは、鬼と化し、史上最強の怨霊として恐れられる事になります(8月26日参照>>)
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2011年7月10日 (日)

将軍の死に際して所領返上…松平定政・出家事件

 

慶安四年(1651年)7月10日、徳川家康の甥に当たる大名・松平定政が、突然出家しました。

・・・・・・・・・・

松平定政は、徳川家康異父弟松平定勝の六男・・・若い頃は、家康の孫で第3代将軍となった徳川家光小姓を務め、従五位下能登守に就任後、長島城(三重県桑名市)7千石を賜り、この2年前の慶安二年(1649年)には、三河刈谷城(愛知県刈谷市)に2万石を賜り、大名の列にも加わりました。

そんな、将軍家の身内である彼が、慶安四年(1651年)7月10日突然、所領を返上じ、地位も何もかも捨てて出家・・・江戸市中を托鉢(たくはつ)して廻るという放浪の僧に転身したのです。

もちろん、それには理由があります。

Tokugawaiemitu600b それは、この慶安四年(1651年)4月20日の将軍・家光の死・・・

ご存じのように、この家光さんは、祖父・家康の時代には盤石とは言い難かった江戸幕府を、父の秀忠とともに押し固め、鎖国政策や参勤交代制度を完成させて、徳川300年の体制を造ったとされる人・・・強い個性で、幕府の草創期を引っ張った人でもあります。

しかし、そんな家光が残した後継者=長男の家綱は、未だ11歳・・・確かに、あの保科正之(ほしなまさゆき)(12月13日参照>>)らの補佐がありはしましたが、幕府初の幼君という不安と動揺が、少なからずあった事も確かでした。

そんな中、まさに、家綱の将軍宣下を1ヶ月後に控えたこのタイミングでの定政の出家には、幕閣の皆々も驚愕・・・

しかし、定政の心の内は、しっかりと固まっていました。

前日の9日には
「現段階の執政たちの家綱公補佐の体制では、とても天下を治められるとは思えません」
といった内容の意見書を、大老や老中宛てに提出して、返上した所領を旗本の救済に宛てて欲しいと言い渡して出家したのです。

そして、最も、彼が批判の対象としたのが、当時の幕府最大の実力者・松平信綱(3月16日参照>>)・・・

ですが、ご存じのように、この信綱さんは「知恵伊豆」と称されたほどの名官僚・・・あの島原の乱(2月28日参照>>)を鎮圧した以外にも、民政に長け、江戸の幕藩体制は、この人の手腕で固まったと言われるほどの知恵者です。

ただ、それほどの才知の持ち主であるがゆえに、敵が多い事も確か・・・定政にとっての信綱は、相容れない相手だったのです。
(ひょっとして、ともに家光の小姓時代からの怨念が…!(・oノ)ノ)

一方の信綱は、この定政の行為を「狂気の沙汰」として、徹底した処分を訴えます。

幕府は、この信綱の意見を呑み、改めて定政を改易の処分にし、その身柄は、定政の兄で伊予(愛媛県)松前藩主松平定行の預かりとしました。

もちろん、定政本人だけではなく、その息子たちも巻き添えで松山に送られ、奥さんは娘二人を連れて実家へ・・・と、家族はバラバラに

とは言え、その後の定政は、松山で不白と号し、和歌や華道にいそしみながら、20年ほどの人生を平穏無事に過ごしています。

というのも、この改易処分のすぐ後に、将軍となった家綱から、給米二千俵を賜ったおかげで食べるには困らなかったと・・・

そこには、この定政の処分には、少なからずの賛否両論あったからかも知れません。

実は、この出家事件の直後の7月23日、軍学者・由比正雪(ゆいしょうせつ)が計画した同時多発テロ由比正雪の乱(慶安の変・慶安事件)(7月23日参照>>)が発覚するのですが・・・

運よく、決行される前に発覚したから良かったものの、もし、これが決行されていたら、まさに幕府転覆の危機に陥っていたかも知れません。

もちろん、これは、幼き将軍に代わったばかりの幕府内のゴタゴタを好機と見た正雪の企てで、その理由も多々あるわけですが、捕縛された後の正雪の遺書には
(今回の幕府の処分は)忠義の志を欺いた物」
と、はっきりと、定政への処分の批判が書きこまれており、それが一つの理由とされていた事も確かなのです。

つまり正雪らから見れば、定政が幕府に忠義を示した人物で、それを処分した信綱以下幕府の連中の方こそが、忠義に反していると・・・

確かに、この頃の信綱には、家光一番の側近でありながら殉死しなかった事で、巷では
♪伊豆まめは、豆腐にしては、よけれども、役に立たぬは切らずなりけり♪
なんていう事が、皮肉たっぷりに揶揄(やゆ)されたりしてました。

まぁ、この殉死しなかった件に関しては、一説には、信綱は、家光から直々に「家綱の事を頼む」と言い渡されていたから・・・なんて事も言われていますが、それこそ、そんな事情は、信綱の身近な人しか知らないわけで・・・

この時代、多くの武士や一般市民が、名君の死を受けて、それを引き継ぐ幼き将軍に不安を持ち、この先の幕府がどうなって行くのか?と、心の動揺を隠せない時期だったのかも知れません。

それにしても、所領を没収されてお家断絶となった大名は色々いたでしょうが、自ら所領を返上して出家するとは・・・定政さん、なかなか大胆な人です。

ところで、
この定政さんは寛文十二年(1673年)11月24日63歳の生涯を閉じまが、その後に長男の定知が江戸に呼び戻され、旗本に返り咲いていますので、その点はご安心を・・・
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2011年7月 8日 (金)

平家の盛と衰を導いた女性…建春門院・平滋子

 

安元二年(1176年)7月8日、後白河天皇の寵愛を受け、第80代高倉天皇の母となった平滋子がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

平治元年(1159年)12月に勃発した平治の乱(12月9日参照>>)は、翌・永暦元年(平治二年・1160年)1月4日に、源氏の棟梁・源義朝(みなもとのよしとも)殺害され(1月4日参照>>)、続く25日に、その長男の悪源太・源義平(みなもとのよしひら)斬首(1月25日参照>>)、翌月の2月9日には、逃亡していた三男で嫡子の源頼朝(みなもとのよりとも)捕縛されて(2月9日参照>>)終結となりました。

もはや源氏は壊滅状態・・・勝利した平清盛(たいらのきよもり)は武士として前例の無い参議となります。

しかし、武士のライバルを一掃したからといって安心はできません。

前例が無い=完全なるアウェーの世界ですから、小うるさい貴族たちを相手に、いかにして平家の清盛がのし上がって行くか・・・むしろ、ここからが勝負どころといった感じです。

そんな夫の微妙な立場を、しっかりと見抜いていたのが、清盛の妻・時子でした。

彼女は、かつての藤原氏が全盛期を築いたと同じ方法をとる事にします。

そう、天皇に娘を送り込んで、次期天皇となる皇子を生んでもらい外戚(母方の実家)をゲットして権力を握る(8月19日参照>>)・・・お馴染のあの方法です。

当時、時子の妹・滋子(しげこ)は、少弁局(しょうべんのつぼね)という女房名で上西門院(じょうさいもんいん=鳥羽天皇の皇女)に仕えていましたが、その妹を、女大好きの後白河(ごしらかわ)上皇(第77代天皇)に推挙したのです。

しかもこの滋子さん・・・
「あなうつくし、世にはさはかかる人のおはしましけるか」
(メッチャきれいやん!この世には、こんな美人もいてたんや)

「言ふ方なくめでたく、若くもおはします」
(もう、言葉にできんほど美人で若々しい)

と、当時の女官たちの日記でも絶賛の美人

まぁ、雇われてる側の女官が、雇ってる側のお嬢さんを、日記に悪く書くわけはありませんが、それを差し引いても、これほど絶賛している平家のお嬢さんは他にいないわけですから、やっぱり、相当な美人だったのでしょう。

Gosirakawahouou600 しかも、その見た目だけではなく、性格もよさげな滋子さん・・・当然の事ながら、後白河上皇は、一発で彼女を気に入り、翌・永暦二年(1661年)の9月には、早くも男の子=憲仁(もりひと)を出産します。

後白河上皇=35歳、滋子=20歳の時でした。

とは言え、この後白河上皇・・・帝王の常として、これまで、かなりの女遍歴の持ち主で、そのぶん子供も沢山。

未だ親王時代に妃に迎えた藤原懿子(よしこ)との間に第1皇子の守仁(もりひと=二条天皇)、その次の播磨局(はりまのつぼね)・成子との間には、後の源平合戦の魁となる以仁王(もちひとおう)(5月26日参照>>)や、和歌の名手として知られる式子(しきし)内親王をはじめとする6人の子供に恵まれています。

他にも、子供をもうけてはいないものの、中納言藤原公能(きんよし)の娘・忻子(よしこ)や、内大臣藤原公教(きんのり)の娘・琮子(みずこ)入内していますし、息子の乳母に手を出したり、石清水八幡宮の別当の娘にチョッカイ出したり・・・

そんな恋多き後白河上皇の心を、ここに来て見事に射止めたのが滋子だったわけです。

とは言え、すでに天皇の座を息子の第78代二条天皇に譲って上皇となっている後白河さん・・・父の上皇と対立していた二条天皇の頃には、滋子の息子が次期天皇になるどころか、いち時は、親王(天皇になれる可能性のある皇子)さえ絶望的だった時代もありました。

ところが、その二条天皇が亡くなり、息子の第79代六条天皇が天皇の座についた永万元年(1165年)、その力を復活させた後白河上皇は、滋子との間にできた憲仁クンへの親王宣下を行い、翌年には、六条天皇の後見人だった摂政の近衛基実(このえもとざね)の死を受けて、憲仁親王を皇太子にする事にも成功します。

そう、成子さんとの間にもうけた第3皇子の以仁王がいるのに・・・です。

これ、ひとえに滋子への愛の証・・・なのかどうかはわかりませんが(他にも理由がありそうなので…)、滋子は、息子=憲仁親王が皇太子になると同時に従三位に叙され、翌・仁安二年(1167年)には、それまで身分が低くてなれなかった女御(にょうご・皇后&中宮に次ぐ身分)にまで・・・

一方の姉・時子の夫・清盛も、この間に前年の内大臣から、左右大臣を飛び越えて、従一位太政大臣にまで上り詰めます(2月11日参照>>)

さらに、後白河&清盛の強力タッグは、翌・仁安三年(1168年)には、わずか5歳の六条天皇を退位させて、これまた、わずか7歳の憲仁親王を、第80代高倉天皇に・・・

それに、翌年には、天皇の生母として建春門院(けんしゅんもんいん)の院号を賜った滋子と、同時期に上皇から落飾して後白河法皇となった二人のラブラブ感は未だ消えず、やれ熊野だ、やれ有馬だ、やれ厳島だとペア旅行三昧の日々・・・滋子は、まさに、法皇後宮の女王として君臨していたのです。

後白河の滋子への寵愛か、
清盛の巧みな政治手腕か、
それとも、両者の持ちつ持たれつか・・・
とにかく、両者は絶妙なバランスのもと、全盛の時代を築きあげて行くのです。

そんな中、仁安三年(1168年)に重病を患ってしまった清盛・・・一旦危篤状態に陥るも、幸いな事に快復した清盛は、
「まだ、甘い」って事を痛感します。

「もし、万が一、自分が死ぬような事になったら・・・
滋子が天皇の生母というだけでは、平家の権勢は維持できない」

と・・・。

そうして実現したのが、承安元年(1171年)12月の徳子入内・・・そう、清盛は、15歳になった自らの娘・徳子を、11歳で元服したばかりの高倉天皇のもとに嫁がせたのです。

もともと后妃を出すべき家柄でない平家の娘が、わざわざ後白河法皇の猶子(ゆうし・養子)として、御所にて輿入れ仕度を整えての嫁入りは、まさに異例・・・ここには、やはり、法皇の愛を一身に受ける滋子の働きかけがあった事は確かでしょう。

仕度を整える時も、叔母であり、この先、姑にもなる彼女は、徳子の裳(も)の腰紐を、自ら結んでやるという心遣いも見せています。

しかし、悲しみは突然やって来ます。

安元二年(1176年)3月、高倉天皇&徳子夫婦に生母の滋子、平家一門や公卿が勢揃いして盛大に行われた後白河法皇50歳の誕生日パーティの後に、またもや出掛けた法皇との有馬へのラブラブ旅行から帰った6月8日、滋子は、突然の病に倒れます

病名は二禁(にきみ・腫れ物)だったという事ですが、その月の23日には、もはや息子の高倉天皇のお見舞いも断わらねばならないほど悪化・・・もちろん、後白河法皇もつきについて看病しますが、その甲斐もなく・・・

安元二年(1176年)7月8日未だ35歳という若さで、滋子は帰らぬ人となってしまいました。

彼女の死は、これまで見事な強力タッグを組んでいた後白河法皇と清盛の関係に微妙な影を落とす事になります。

もともと、すべての利害関係が一致しているわけではない法皇と清盛を、彼女という存在が潤滑油となって、良い関係が保たれていたという事なのかも知れません。

あの鹿ヶ谷の陰謀(5月29日参照>>)が発覚し、法皇と清盛の関係の悪化が表面化するのは、滋子の死から、わずか1年後の事でした。

・・・と、彼女の生涯を見てみると、なにやら、一族の出世のために翻弄されて、自らの意思とはうらはらな、政略的な悲劇の女性のように思ってしまいますが、

いえいえ・・・
彼女が、おりにふれて口にしていたという言葉が、女官の日記に残っています。

「女はただ心から、ともかくもなるべき物なり。
親の思ひ掟て、人のもてなすにもよらじ。
我心をつつしみて、身を思ひくたさねば、おのづから身に過ぐる幸ひもある物ぞ」

(女は、自分の心の持ちようでどないにでもなるもの。
親や周囲がどうこうしようとしてもアカン!
肝心なんは自分の気持ち・・・自分の信念をしっかり持って、いたずらに自分を卑下する事もなく、かと言っておごり高ぶる事無く、つつましく生きていれば、自然と身に余る幸運がやって来るもんなんよ)

運命に翻弄されたというよりは、自分自身で選んだ道だと言わんばかりの堂々たる言葉には、戦国女性に似た意思の強さを感じますね。

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2011年7月 7日 (木)

「武家諸法度」発布…元和偃武に徳川の基礎

 

慶長二十年(1615年)7月7日、江戸幕府が諸大名のための「武家諸法度」を発布しました。

・・・・・・・・・・・

慶長二十年(1615年)5月8日、豊臣秀吉の築いた難攻不落の大坂城は炎に包まれ、豊臣秀頼は、その母・淀殿とともに自刃し、ここに豊臣家は滅亡しました・・・世に言う大坂夏の陣です。
*大坂の陣の経緯については【大坂の陣の年表】>>から、それぞれのページへ

これで、名実ともに武家のトップの座を獲得した徳川家康秀忠父子は、翌閏6月に「一国一城令」を発布します。

これは、織田信長が行い秀吉が引き継いだ計画的な城割(8月19日参照>>)の完成形と言える物で、「一つの領地に殿さまの居城は一つ、それ以外のすべての城を破却しろ」と言う物です。

家康父子は、これを、戦闘からわずか1カ月後に、それも、大名一人一人に個別に出す事で、有無を言わさず命令を聞くように仕向けています。

なんせ、市街戦となった大坂の陣・・・わずか1ヶ月では、未だ半戦闘状態にあり、大名たちも皆、まだ畿内にいてなんだかんだと奮戦中ですから、そこで総大将たる人からの命令が出れば、そこに反論をかます余裕なんてありませんからねぇ。

これで、結果的に殿さま=領主のもとに権力が集中し、その家臣は、おのおのの城ではなく、領主の居城する城を中心にした城下町に腰を据え、政務を行う事になるのです。

そして慶長二十年(1615年)7月7日、京都は伏見城に諸大名が招集され、第2代将軍・秀忠の名のもとに、13カ条からなる『武家諸法度』の発布が伝えられたのです。

Bukesyohatto1000
「武家諸法度」以心崇伝草稿(金地院蔵)

これは、各大名家と幕府の関係を規定する基本的な規制で、先ほどの一国一城制にある、城の構築に関する規制もしっかりと盛り込まれ、大名同志の婚姻に関する規制も含まれていました。

さらに、この武家諸法度の中には、どこかの大名の下で問題を起こしてやめた家臣が、他の大名家で仕官する事もご法度とされたため、戦国時代のように、より良い条件の所に、腕のある武将がスカウトされるなんて事もなくなります。

しかも、主君に逆らったら即浪人で、しかも再就職できないため、その主従関係において、より殿さまの権力が増すことになりますし、その下での身分の序列も厳しく管理される事になります。

これで、戦国時代の代名詞とも言える能力重視の下剋上は姿を消し、身分秩序による年功序列的な態勢が固定化する事になります。

しかも、コレ・・・先ほどの一国一城制とは違い、一方的に、かつ、一斉に発令し、有無を言わさず守らせる事で、幕府という物が、徳川家個人の物ではなく、すべての大名の上に立つ公(おおやけ)の物である事を徹底させたのです。

いわゆる公儀・・・個人を越えた国家の機関であるという事です。

さらにスゴイのは、家康&秀忠父子は、これを天皇&朝廷に、まったく相談せずに行いました。

これは、それまで、武家同志の合戦の仲立ちに入ったり、なんだかんだと内政にチョッカイを出していた天皇&朝廷の存在を一切無視する物で、幕府は朝廷と同等・・・いや、ヘタすりゃ、その上を行く権力の物とアピールする事でもあったのです。

現に、この後、7月13日には、元号を元和に改めた徳川幕府は、その4日後の7月17日、あの『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を発布して、天皇や公家にまで規制をかけるのですから・・・

これまでの戦国武将は、天皇から官位を賜り、朝廷の一員となる事で国家の序列に組み込まれて来たわけで、秀吉などは、その最高位である関白の座について国を治めようとしたわけですが、家康は、これをまったく切り離し、武家には武家独自の官位によって序列を形成し、それを掌握するのが徳川家という形でトップに立ったわけです。

こうして戦乱の世を終わらせ、江戸約300年の平和を歩み始めた幕府・・・これを、幕府側からは「元和偃武(げんなえんぶ)と呼ぶそうですが、「元和」元号、「偃武」「武を偃(ふ=伏)せて文を修む」・・・つまり、「武器を用いない」という意味・・・

なんだか信長さんの「天下布武」に対抗しているような気がしないでもない(゚ー゚;
(家康もハンコ作ったんかいな?ww)
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2011年7月 6日 (水)

動乱の将軍・徳川家定…暗殺疑惑

 

安政五年(1858年)7月6日、第13代江戸幕府将軍徳川家定が35歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

2008年の大河ドラマ「篤姫」での堺雅人さんの名演技が光っていて「あぁ、篤姫さんの旦那さんか~」と、いう印象をお持ちの方も多いでしょう。

Tokugawaiesada600 文政七年(1824年)に、第12代将軍・徳川家慶四男として江戸城で生まれた徳川家定・・・家慶のもうけた男子のほとんどが早くに亡くなり、成長したのが彼だけであったため、世嗣となって、父の死後、将軍職を継ぎました。

しかし、病弱な上に奇行も多く、一説には障害を持っていたとも言われ、一般的には将軍としての能力に欠けていたとされています。

・・・が、一方では、暗殺(毒殺)を恐れて自ら食品の調理をし、特にお菓子作りは上手だったとか、

明治になってからの幕臣の証言でも
「特に優秀とは言えないけど、特に暗愚という事でもない」
なんて話もあり、

家定に謁見したアメリカ公使ハリスの日記にも
「足を踏み鳴らすというおかしな行動はあったものの、話す事はしっかりしていた」
と・・・ドラマのイメージ同様、よくわかない人であります。

とは言え、何といっても家定が将軍となった時代は、優秀な人でも苦悩するような動乱の時代であった事は確か・・・なんせ、13代将軍に就任するのが、あのペリー来航の半年後なのですから・・・

しかも、安政元年(1854年)とその翌年・・・立て続けの大地震にもみまわれました。

この時、関東近郊を含め、伊賀上野飛騨地方など、わずか2年間で6回の大地震が記録されていますが、その時に活躍したのが優秀な老中たちでした。

中で最も大きかった安政二年10月2日の大地震(10月2日参照>>)では、深夜にも関わらず、即時登城した彼らは、翌3日には災害対策本部を設置して情報収集にあたり、御救米を放出して焚きだしも行ったうえ、震災から3日後の10月5日には仮設住宅の建設にも着手しています。

もちろん、そこまでの素早さには、被害に遭って困窮した民衆が暴徒化する事を恐れての保身という面もありましょうが、現在のようにリアルタイムで情報が入って来ない中、「被害状況を確認してから・・・」なんて悠長な事を言わずに、目の前の被害者に、まずせねばならない事から積極的に始めるところは、見事だと思います。

そんな中で、「無能」と言われた家定の立場としては、能力が無いなら無いぶん、優秀な官僚にすべてを任して口出ししないという姿勢を全うした事は、やたら委員会を乱立させて混乱させる誰かよりは、よほどしっかりしていたような気がしないでもない・・・

・・・と、このように、ほとんどの事を、周囲の優秀な人材に任せていた家定が、たった一つ、自らの意思でやってのけた事・・・それが、自分の後継者の指名でした。

冒頭に書いた通り、生まれつき体の弱く、その資質に欠けていたとされる家定には、早くから、その後継者決定の問題が浮上していました。

子供のいなかった家定の後継者とした名前が挙がったのは、御三家=紀州藩主の徳川慶福(よしとみ=後の14代将軍・家茂)と、同じく御三家の水戸の出身で、御三卿の一橋(ひとつばし)の養子となっていた徳川慶喜(よしのぶ)・・・

幕閣や有力諸藩が、慶福を推す南紀派と、慶喜を推す一橋派に分かれて争う中の安政五年(1858年)6月25日、家定は、突如として諸大名を招集して「慶福を将軍後継者にする」事を決定し、続く7月5日には、一橋派の諸大名の処分を発表するという異例の態度を示したのです。

しかし、その翌日の安政五年(1858年)7月6日家定は35歳の若さで亡くなってしまいます。

死因は脚気の悪化とも、流行のコレラとも言われますが、このあまりのタイミングの妙・・・幕府も、その死を1ヶ月間隠していた事もあり、死因に疑惑を抱いてしまうのは、致し方ないところであります。 

その疑惑は、死の直後からあったようで、藤波という奥女中が、家定の死の翌日に実家に出した手紙には
「水戸・尾張・一橋・越前松平家などの共謀によって将軍が毒殺された」
といった内容の一文があるとか・・・

もちろん、これは、「それが正しい」という物ではなく、「そのような噂が流れている」という事なのですが、大奥の女中の間では
「慶喜の父である徳川斉昭(なりあき)らの一橋派が、家定の決定を恨んで毒殺した
なんていう噂がまもとしやかに囁かれていたようです。

ただ、これには、もともと大奥が斉昭を嫌っていたという事もあり、現在では否定的な意見が多いです。

逆に・・・
家定さんは、上記の通り、チョコッと頼りない部分があり、他人の意見に流されやすく、途中で意見を変える事もしばしばあった事から、その決定を一橋派が恨むというよりは、決定した事を、この後にくつがえされたくない南紀派のほうが怪しいのでは?
との意見もあります。

確かに、一橋派としては、すでに、決定して発表しちゃった以上、恨んで殺すよりは、優柔不断な将軍の心変わりに期待したほうが得策で、動機としては、南紀派のほうに分が悪いといった感じです。

もちろん、これは、あくまでも憶測・・・

ただ、あまりのタイミングの良さに・・・もし、本当に暗殺だったのだとしたら、「後継者さえ決まれば用済みなのか?」と・・・

そんな風に思われていたとしたら、あまりにも家定さんがお気の毒でならないので、やはり、病死だったと思いたいですね。
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2011年7月 5日 (火)

宇佐美定満~長尾政景とともに池の中

 

永禄七年(1564年)7月5日、上杉四天王の一人として上杉謙信に仕えた宇佐美定満が、長尾政景とともに野尻池で溺死しました。

・・・・・・・・・・

もともとは伊豆国宇佐美荘(静岡県伊東市宇佐美)から出た一族である宇佐美氏・・・

宇佐美駿河守定満(うさみするがのかみさだみつ)は、越後守護である上杉氏の配下として琵琶島城(新潟県柏崎市)の城主を務めていた宇佐美房忠(うさみふさただ)の息子として生まれます。

定満が、おそらくは30歳前後の頃、守護の上杉家に取って代わる勢いを見せて来たのが、守護代長尾為景(ためかげ)・・・

永正四年(1507年)、その為景は、現守護の上杉房能(ふさよし)の養子である上杉定実(さだざね)を取り込み、その定実を次期守護にするという大義名分を掲げて挙兵し、房能を討ち果たしました(8月7日参照>>)

しかし、当然の事ながら、為景にとって定実は傀儡(かいらい・操り人形)の主君・・・実権は為景が握る状況に不満バリバリの定実に、味方したのが、宇佐美房忠・定満父子でした。

しかし、定実復権を目指して戦う中で、父・房忠は戦死・・・

その後、父の後を継いだ定満は、定実の実家である上条上杉家上条定憲(じょうじょうさだのり)とともに為景と戦い、天文五年(1536年)には、為景を隠居に追い込みます。

そして天文十一年(1543年)に為景が亡くなった後は、その息子である長尾晴景に仕え、さらに、晴景との家督争いに撃ち勝ったその弟の上杉謙信(当時は長尾景虎)に・・・。

こうして、かの上杉謙信に仕える事になった定満は、上杉二十五将の一人であり、上杉四天王の一人であり、後に越後十七将にも数えられるほどの八面六臂の活躍をし、名軍師と呼ばれる存在になるわけです。

Nagaomasakage600a 謙信に仕えるようになった直後には、その越後平定の最大の障害となってした同じ長尾一族の上田長尾家長尾政景(まさかげ)(8月1日参照>>)屈服させる事に尽力し、謙信の姉・綾御前(仙洞院・仙桃院)と政景の婚姻を以って、両者の関係は融和の方向へと向います。

さらに、永禄四年(1561年)3月の小田原城の戦いでは早朝の撤退を進言したり、同じ年の9月の第4次川中島(2006年9月10日参照>>)でも、武田方の別働隊の動きを察知し、別働隊が妻女山に到着する前に、八幡原へ全軍を移動させるよう進言して、あの山本勘助啄木鳥(きつつき)戦法」を破ったとされます。

しかも、その合戦で命を落とす信玄の弟・武田信繁(2008年9月10日参照>>)討ち取ったのも定満だという話も・・・

とは言え、以前書かせていただいたように、この川中島・・・啄木鳥戦法だの車がかりの戦法だの、その戦い方自体が怪しいわけで(2007年9月10日参照>>)、そこで進言したと言われてもねぇ。

この川中島に限らず、とかく、この定満さんの軍師ぶりに関しては、大幅に指しい引いて考えるべきという意見が多くあります。

というのも、後に、武田信玄の軍法である甲州流軍学に対抗する謙信の軍法とされた越後流軍学の祖と言われる宇佐美定行(うさみさだゆき)なる人物と、定満が同一視されるので、謙信を支えた名軍師とされるのですが、

一方ではこの定行なる人物は、定満をモデルとした架空の人物であるとも言われ、そうなると、どこまでが実際の定満のホンモノの武功かという事が怪しくなって来るわけです。

しかも、永禄を迎える頃にはすでに70歳に達していて、最前線からは引退していたとも言われますから、ますます怪しいのですが・・・

とは言え、この定満さん・・・
最後の最後に大きな仕事をやってのけます。

実は・・・
先にお話したように、越後平定の最大の障害となっていた上田長尾家を、姉との婚姻という形で、味方に引き入れようとした謙信でしたが、それがうまくいっていたかどうかは怪しい部分があるのです。

・・・というのは、天文十八年(1549年)6月20日付けで本庄実乃(さねより・謙信の重臣)が平子氏に宛てた手紙というのが存在するのですが・・・

その内容が、直前に起こった定満の居城・琵琶島城の放火事件の背後に、政景の影が疑われている事に触れ
「もし、放火事件への関与が本当なら、新しく近親者になった者であっても、キッチり落とし前つけなアカンな」
というもの・・・

この一枚の手紙で、いくつかの事がわかります。

定満が謙信に仕えた時期が、天文十八年より以前であるという事・・・
政景と綾御前の結婚も、天文十八年より前であるという事・・・
そして何より、謙信の府中長尾家と政景の上田長尾家が、両家の婚姻の後でもうまくいっていなかったという事です。

かくして永禄七年(1564年)7月5日、この日、定満は政景を野尻池の舟遊びに誘います。

二人っきりで小舟に乗り、水上で盃を交わす・・・すると、突然、定満が政景に飛びかかり抱きついて、そのまま、政景もろとも池の中へ飛び込んだのです。

とは言え、もちろん、これも真実は池の中・・・いや、藪の中

政景の死を、上記のように定満の命がけの謀殺とする『北越軍記』もあれば、同じく謙信の家臣の下平吉長(しただいらよしなが)の命がけの謀殺とする『穴沢文書』もあり、また、泥酔状態での舟遊びの末の事故死という見方もあります。

ただ、この政景の死によって、彼の配下にあった上田衆が謙信の指揮下に入り、謙信の越後支配がより強化された事は確かです。

しかも、後に長谷堂の戦い(10月1日参照>>)殿(しんがり)を務める事になる定満の遺児=宇佐美民部は、謙信の死後に当主となった養子・上杉景勝(かげかつ)に、生涯、目通りが許されなかった、なんて話も・・・ご存じのように、景勝は、政景と仙洞院の息子ですからね~

もし、これが本当なら、景勝も定満の命がけの謀殺を疑っていたという事ですから・・・

ひょっとして定満さん・・・享年・76歳だったと言われていますが、体力の衰えとともに、もはや合戦で武功を挙げる事が困難となった彼が、その命と引き換えに、主君最大の目の上のタンコブを抹殺したのかも知れません。

真実の探求は専門家の方にお任せして、歴史を楽しむぶんには、そう考えた方が断然ワクワクしますね~
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2011年7月 4日 (月)

薩英戦争を挟んで…孝明天皇と島津久光

 

文久三年(1863年)7月4日、去る7月2日より、3日間に渡って繰り広げられた薩英戦争が終結しました。

・・・・・・・・・

その戦いの状況については7月2日のページで>>
その戦後処理と影響については9月28日に>>
すでに書かせていただいてる薩英戦争・・・

この文久三年(1863年)7月4日に、7隻のイギリス艦隊すべてが鹿児島湾から姿を消した事で終結となりました。

イギリス艦隊からの砲撃によって、城下の1割を焼失するという被害に遭った薩摩藩でしたが、一方のイギリス艦隊にも被害を与え、結果的に追い返したわけですから、一応、引き分けと言った感じ・・・

この事に大いに喜んだのが巷の尊王攘夷派・・・そして、その旗印となっている朝廷です。

朝廷は、この文久三年七月付けで、薩摩藩主・島津忠義(茂久)に宛てて勅書(ちょくしょ・天皇の命令や意思を書いた一般に公示されない文書)を出しています。

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島津忠義宛て勅書(玉里島津家蔵)

「去る2日にやって来たイギリス艦隊との抗戦の事をお聞きになった天皇は、大いに喜んでおられます。
これからも皇国の武威を海外に輝かせるよう、ますます励んでください」

てな感じですが・・・

そもそもは、あのペリー来航(6月3日参照>>)の頃、大いに恐れおののいた公家たちが、時の孝明天皇に、こぞって
「夷人(いじん・外国人)は、生娘(きむすめ)の生き血をすすり、その肉を食しておりまする」
と間違った情報を吹き込んだ事で、天皇は外国人を毛嫌いするようになり、以来、攘夷(じょうい・外国を排除する事)は、「天皇のお心に添う事」として、尊王思想と結びつき、尊王攘夷となるわけですが・・・

すでに外国勢力と戦って敗れ、もはや属国のようになってしまっている清国(中国)の現状を知っていた幕府は、あえて外国と抗戦するような事を避けようと、安政五年(1858年)にアメリカとの通商条約を結んだのを皮きりに、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約を結びます。

これによって多くの外国人が外国人居留地に住むようになりますが、尊王攘夷派から見れば、それは「皇国を汚す事」として快く受け入れる事などできないわけで、外国人の暗殺や襲撃などの事件を起こすようになります。

さらに、大老の井伊直弼(なおすけ)桜田門外で暗殺される(3月3日参照>>)頃に前後しては、尊王攘夷派のそれは、「天誅(てんちゅう・天罰)と称する要人の暗殺を繰り返すという事態になっていきます。

確かに彼ら勤王の志士の根底にあるのは「天皇の御心に添う」という事だったのでしょうが、外国との戦いならともかく、日本人同士の殺戮が、しかも、お膝元の京都で、毎夜のように行われる事を、おそらくは孝明天皇自身は望んではおられなかったはず・・・

その解決策とも言うべく行われたのが、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)のもとに、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)嫁入りする(8月26日参照>>)公武合体・・・天皇家と幕府がともに力を合わせ、この混乱を治めようというもの・・・

もちろん、強く推したのは、もはや屋台骨もグラングランの幕府ですが、孝明天皇自身も「何とか混乱を鎮静化させたい」というお気持ちがあったからこそ、その説得に応じられたに違いありません。

しかし、文久三年(1863年)頃にもなると、その朝廷自体が、長州(山口県)尊攘急進派と、彼らに同調する尊攘急進派の公家たちに牛耳られるようになり、もはや孝明天皇の意思は名ばかりにものとなっていきます。

そんな時、孝明天皇が自らの意思を理解してくれる者として期待を寄せたのが、島津久光だった事でしょう。

彼は、現在の薩摩藩主・島津忠義の父・・・先代藩主・島津斉彬(なりあきら)の弟で、現在の藩主は、久光の息子が亡き兄の養子となって継いではいますが、未だ年若く、事実上薩摩藩の実権を握っているのはその岳父(藩主の父)の久光でした。

久光は、かの公武合体にも尽力し、幕府内の政治改革も行っており、天皇から見れば無位無官の陪臣ながら、この時、最も頼りたい人物だったのはないでしょうか?

現に文久二年(1862年)の上洛の際には、「京都に滞在して浪士の鎮圧に当たれ」という壮士鎮静(そうしちんせい)の勅命(ちょくめい・天皇の命令)も賜っています・・・大名ですらない人物に勅命というのは、おそらく前代未聞の事だったはず。

それが、結果的には、尊王攘夷に先走った藩士を、自らが抹殺するという寺田屋事件(4月23日参照>>)となってしまうのですが、自らの藩士を自らの手で処分する苦渋の決断をしてまで、「過激な尊王攘夷行動を避けたい」という孝明天皇の心に添っていたのが久光だったはずです。

ところがドッコイ・・・江戸からの帰り道で起こった薩摩藩士による外国人殺害生麦事件(8月21日参照>>)と、その謝罪と賠償金を巡っての薩英戦争・・・

この戦争が結果的にイギリス艦隊を追い払ったという事で、大喜びしたのは尊攘急進派の公家たち・・・

そう、
「公武合体派で、強行な攘夷に反対していたはずの、あの久光までが、外国船に砲撃して攘夷実行の姿勢を見せてくれた」
となったわけです。

そして、その直後に発せられたのが、先ほどの文久三年七月付けの薩摩藩主・島津忠義宛ての勅書・・・宛名は藩主ですが、もちろん、実際には、薩摩藩の実権を握っている久光に宛てた物です。

これを受け取った久光は、その内容に困惑したのでしょうか?
それとも、あらためて、朝廷内が攘夷急進派に牛耳られている事を悟ったのでしょうか?

そうです。
上記の経緯を見る限り、この勅書が孝明天皇の真意であるとは思い難い・・・おそらくは、宮中を牛耳っている三条実美(さねとみ)攘夷急進派の公家たちによって創作された文章だったはずです。

こうなって来ると、「もはや天皇の御心に添う」とは言い難くなって来た尊王攘夷・・・

そこに立ちあがるのは、同じ朝廷内の公武合体派中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)(2009年8月18日参照>>)を中心とする彼ら・・・彼らは、薩摩藩&会津藩などと組んで、ほどなく、クーデターを決行して、朝廷内から尊攘急進派を追い出す事になるのですが、これが八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)と呼ばれる出来事です。

この政変が池田屋事件(6月5日参照>>)、さらに、その池田屋事件が禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)・・・と、今後の連鎖を生んでいく事になるのです。
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2011年7月 2日 (土)

坂上田村麻呂が清水寺建立に込めた思い

 

延暦十七年(798年)7月2日、坂上田村麻呂によって、京の都、音羽山中腹に、清水寺が建立されました。

・・・・・・・・・・・

清水寺・・・西国三十三所第十六番札所で、ご存知世界遺産です。

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清水寺

有名な清水の舞台は、ご本尊の十一面観音様に舞を奉納するための物で、高さは15m・・・現在の三重塔や本堂は江戸時代に入ってから、徳川家光が再建した建物ですが、最初に、ここに寺を建立したのは、征夷大将軍として知られる坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)です。

征夷大将軍というのは、当時は、「中央から見て劣った民族」という差別用語で呼んでいた東国に住む先住民=蝦夷(えみし・えびす)を制圧し、日本を天皇中心の統一国家にする将軍という事・・・蝦夷を征伐する将軍だから『征夷大将軍』って事です。

後に、木曽(源)義仲・源頼朝・足利尊氏・徳川家康・・・と、江戸時代まで、その称号は続きますが、その頃は、征夷とは関係のないところで、武門の長が征夷大将軍を名乗る・・・という事になっていきます。

とは言え、坂上田村麻呂が最初に征夷に向かった将軍ではありません

中央の意にそぐわない東国を攻める試みは奈良時代からあり、○○将軍○○大使という様々な称号の軍人が遠征しています。

平安時代のこの時期も、朝廷は三度にわたって大遠征軍を東北に派遣・・・一度目は、延暦八年(789年)、紀古佐美(きのこさみ)率いる5万3千人の大軍が、わずか千数百人の蝦夷軍にコテンパンにやられてしまいます。

二度目は、平安京遷都の年の延暦十三年(794年)・・・その年の1月に征夷大将軍の称号を得た大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が、副将軍となった田村麻呂とともに、10万の兵を率いて挑みますが、またしても失敗。

三度目の正直の延暦十六年(797年)、前回は副将軍だった田村麻呂が征夷大将軍に昇格して、4万の兵で以ってみごと平定する事に成功したのです(11月5日参照>>)

この成功で田村麻呂の名声は高まり、征夷大将軍という称号も、後世、英雄の証として使用される事になりますが、そんな田村麻呂が、凱旋後ほどなくして延暦十七年(798年)7月2日建立したのが清水寺です。

その由緒によれば・・・

宝亀九年(778年)に、僧・賢心(けんしん)「木津川の北流に清泉を求めて行け」という夢のお告げを受け、その清泉を求めて音羽山麓の滝にたどり着いたところ、そのほとりで修業している行叡居士(ぎょうえいこじ)に出会います。

その行叡居士は、賢心に、この地を聖地として守りたまえと、千手観音像を刻むための霊木を授けて姿を消します。

それを見て「行叡居士は観音の化身である」と信じた賢心は、その遺命通り、観音像を刻み、この地を守っていたところ、そこに、未だ将軍になる前の田村麻呂が、妻の安産祈願のために鹿を捕えようと山に登って来ます。

そこで賢心と出会って、その教えに触れたた田村麻呂は聖なる地で殺生をしようとしていた事を深く反省し、後に、自らの邸宅を仏殿として寄進し、そこに本尊を祀ったのが清水寺の始まりとされています。

Dscn9348a800 現在では、ほとんど田村麻呂の面影が見えない清水寺ですが、有名な清水の舞台の東側に「阿弖流爲(アテルイ)母禮(モレ)之碑」というのが建立されていて、その縁を垣間見る事ができます。

アテルイは蝦夷の軍事的指導者で、モレはそのアテルイとともに処刑された人物・・・生前の田村麻呂が、「彼らを敵ながら尊敬に値する人物」として、朝廷に、その助命を嘆願していた事から、有志によって顕彰碑が建立されたようです。

とは言え、田村麻呂の清水寺建立には、もう一つの意味があったように思えてなりません。

・・・というのは、彼が将軍として行った東北の制圧・・・

以前書かせていただいたように、平安京に遷都した桓武天皇は、この都にありとあらゆる魔界封じ&怨霊退散術を施して、京の都を永遠の都にしようとしています(10月22日参照>>)

そんな桓武天皇が、東西南北に張り巡らした様々な祈りに加え、最も重視したのが比叡山だったわけですが、それは、都から見て比叡山が(うしとら)の方角=鬼門に当たる場所だからで、それが結果的に、最澄の開いた根本中堂(延暦寺)を大きくする事にもなりました(6月4日参照>>)

・・・で、そうです。

その艮=東北の方角の延長線にあるのが、蝦夷の支配する土地だったわけです。

桓武天皇に限らず、歴代天皇が蝦夷を征する事にこだわったのも、鬼門からやって来る鬼たちに脅威を覚えていたからでしょう。

古代において、合戦によってその地を征服するという事は、戦国時代のソレとは少し意味が違っていて、悪しき魂を封じ込める呪術的な意味合いも込められていたと考えられています。

現にそれらしき物も・・・
田村麻呂は、征服した蝦夷の聖地=津軽平野に7つの神社を建立していますが、そのうちの一つである弘前市熊野奥照神社では、本殿の建て替えの時に、その下の地中から何重にも布で巻かれて箱に納められた蝦夷仕様の刀(蕨手刀=わらびてとう)が見つかっています。

つまり、ここに、彼らの魂を封じ込めたと・・・

その総仕上げとなるのが、清水寺の建立ではなかったでしょうか?

鎮めた魂が、もし、また復活するような事がある時、ここで都への侵入を阻止すべく思いを込めての建立したのかも知れません。

また、京都郊外の山科には、田村麻呂のお墓というのがありますが、その伝説によれば、ここに埋葬された田村麻呂の遺骸は、甲冑に身を包み、太刀を帯び、いつでの出陣できる態勢のまま、鬼門の方角を睨んで仁王立ちで埋葬されているのだとか・・・

さらに、このお墓は、国家に凶事が起こった際には、まるで鼓を打つように、あるいは雷電のごとく鳴り響いて知らせる・・・なんていう、オマケの伝説も伝わります。

清水寺の建立も、お墓の話も、あくまで伝説ですが、天皇の命を受け、鬼門の魂を鎮めに向かった将軍らしい伝説だ言えますね。

*清水寺を含む「ねねの道」散策のモデルコースを本家HP「京都歴史散歩:ねねの道」で紹介しています、よろしければコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)
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2011年7月 1日 (金)

第2次蒙古襲来~弘安の役に神風が…

 

弘安四年(1281年)閏7月1日、台風と思われる猛烈な暴風雨により北九州に再来襲していた元軍が壊滅状態となり、事実上、弘安の役が終結しました。

・・・・・・・・・・

文永十一年(1274年)の文永の役(10月19日参照>>)から7年・・・この間に南宋を滅亡させて中国全土を統一し、名実ともに(げん)の皇帝となったフビライ・ハーンは、再び日本に狙いを定め、征服した旧南宋軍や漢人(中国北部の民族)や高麗(朝鮮)人などを中心にして日本遠征軍を再編成し、弘安四年(1281年)6月6日、またもや博多湾上に、その姿を見せました・・・これが弘安の役=2度目の蒙古襲来です(6月6日参照>>)

一方、その間の日本では、若き執権・北条時宗元との徹底抗戦を決意(9月7日参照>>)、その指示により、博多湾沿岸に壮大な石塁が築かれます(3月10日参照>>)

前回の文永の役で、元軍を博多に上陸させてしまった失敗を受けて、今度は「上陸すらさせるか!」と準備万端整えたのです。

こうして迎えた弘安四年(1281年)6月6日・・・上記の通り、再び博多湾上に現われた元軍でしたが、そこで彼らは、前回は無かった見渡す限りの石塁を目の当たりにしたのです。

もちろん、そうなると、簡単に上陸できません。

そして、やむなく、船は海上に留まる事に・・・
そこに、果敢に攻撃を仕掛ける日本軍・・・

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元軍の船にアタックする鎌倉武士…「蒙古襲来絵詞」より(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)

なんせ、この時、10万はいたと言われる元軍ですが、そのほとんどが、上記のようにフビライに占領された別の国の非戦闘員で、弓矢などの装備を整えたフビライ配下の武人は、それらの監視役として、約3000人ほどしかいなかったとも言われています。

一方の日本軍は、九州の御家人を中心に四国や、地元関東を含め、約4万ほどとみられますが、これが、全員、鎌倉幕府御家人=プロの戦闘集団なわけですから・・・チャンスがあればアタックあるのみ!

しかも、もともと、東路軍江南軍二手に分かれて大陸を出港した元軍の中で、この時点で博多湾に来ていたのは東路軍の船団のみ・・・

日本に渡るのに好都合な南風を待っていた江南軍は、その出発の時点で大幅に遅れて、未だ姿を見せる気配すらありませんでした。

もちろん、すでに博多湾に到着していた東路軍は、ほどなく江南軍と合流する予定だったわけですが、相方は来んわ、防塁はあるわ、敵は攻撃して来よるわ・・・

で、約1週間ほどで博多湾から姿を消し、一旦、壱岐に退いて態勢を整えながら、江南軍を待つ事にします。

しかし、ここで・・・・

江南軍の到着を待つ東路軍の船内で疫病が発生してしまうのです。

船体の腐食や兵糧不足による体力の低下・・・しかも、この時期は、新暦になおせば、まさに8月真っただ中の暑い時期、1説には、その疫病での死者は3000人を越えたとも・・・

もちろん、船内の士気はグダグダに低下し、首脳陣の間では「すぐに撤退」の声も出始めます。

そんなこんなしているうちに、7月上旬になって、ようやく江南軍が平戸島付近で合流・・・しかし、上陸を予定していた博多湾には、例の石塁が構築されている事を東路軍は確認していますから、予定通りに向かうわけにはいかず、

結局、西にある平戸島や、その近くの鷹島に上陸し、そこを軍事拠点として防塁を築きはじめます。

おそらくは、平戸島を拠点として伊万里湾から上陸し、博多を無視して大宰府を制圧しようとしていたのではないか?と言われていますが・・・

しかし、ここで、例の神風です。

またいずれ、第1次の蒙古襲来=文永の役については、もっとくわしく書かせていただくつもりでいますが・・・一般的には、その時も神風が吹いたとされていますが、どちらかというと、文永の役は神風でなく、忽然と元軍が姿を消したという雰囲気で、現在では、文永の役の神風は否定されつつあります。

これに対して弘安四年(1281年)閏7月1日、この時に前日の7月30日(旧暦でのこの年は7月が2回あります)の夜からこの日の朝にかけての暴風雨は、おそらく本当にあっただろうと言われています。

もちろん、神の手による暴風雨ではなく、いわゆる台風だったわけですが・・・

新暦になおすと、この弘安四年閏7月1日は、1281年8月23日となり、まさに台風シーズンです。

それより1ヶ月以上も前から、上陸を阻止された元軍の船は伊万里湾周辺の海上にいたわけですから、むしろ、いつ台風が襲ってくるかも知れない危険な状態に、常にあったと言うべき状況だったのです。

その夜の暴風雨によって元軍の船が次々と座礁し、その大半を失ったというのも、この台風シーズン真っただ中ならうなづけますね。

結局、7月1日の朝の伊万里湾は、大量の溺死体で埋め尽くされ、湾内を歩いて渡れるほどだったとか・・・

近年の発掘調査でも、付近の海底からは、あの文永の役で鎌倉武士たちが悩まされた「てつはう(手榴弾のような飛び道具)をはじめ、船の残骸や武具などが3000点以上も見つかっているそうです。

その後、少弐景資(しょうにかげすけ)率いる数百隻の軍団が鷹島などに上陸して攻撃・・・未だ生き残っていた元軍を討ち、あるいは捕虜として連れ帰り、弘安の役は終結となります。

この戦いで、無事に大陸に戻った者は、出発時点の5分の1ほどだったと言いますから、まさに元軍にとっては、命からがらの帰還といった感じだったのでしょう。

一方、このように、鎌倉武士の活躍と台風のサポートによって、2度の蒙古襲来を回避した日本ではありましたが、これによって大きく分けて二つの影響が、今後の日本を包んでいきます。

一つは、この戦いを命がけで戦った武士たちの不満(12月8日参照>>)を発端にした鎌倉幕府の揺るぎ・・・

そして、もう一つは神風神話=神国ニッポンという思い・・・せっかくの神の国が、数百年後、太平洋戦争のプロパガンダに使用されてしまう事になります。
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