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2011年7月21日 (木)

頼朝に挙兵を決意させた強力ブレーン・文覚

 

建仁三年(1203年)7月21日、平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した真言宗の僧・文覚が、流罪先に向かう途中で66歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・・・

それこそ、戦国時代なら、
今川義元をバックアップした戦う坊さん・太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚)(10月10日参照>>)や、
徳川家康をサポートし、明智光秀かも知れないと噂されるほどのキレ者・南光坊天海(なんこうぼうてんかい)(10月2日参照>>)などなど・・・

武将のブレーンとなって活躍し、黒衣の宰相(さいしょう)と称された猛き僧もいましたが、その400年も前の鎌倉時代のはじめに、あの源頼朝(よりとも)のブレーンとなって活躍した戦国を彷彿とさせる猛々しい僧がいたのです。

Mongaku600 名は文覚(もんがく)・・・その人生は、まさに波乱万丈で、いつか、この方を主役に抜擢したスペシャルなドラマを見てみたいと思うほど・・・

まずは、その出家のきっかけが、すでに波乱万丈です。

彼はもともと、遠藤盛遠(もりとお)と名乗っていた北面の武士(院御所に北側の部屋に詰めて警固する武士)・・・

未だ若き文覚は、袈裟御前(けさごぜん)という女性に恋をします。

しかし、彼女は、すでに人妻・・・何とかその思いを遂げたいと迫る文覚に、彼女は
「ならば、夫を殺してちょうだい」
と言います。

未だ血気盛んな頃だった文覚は、ある夜、夫の殺害計画を企て、闇にまぎれてこっそりと屋敷へと侵入・・・暗闇の中で、夫を斬り殺しました。

ところが、その殺した相手は夫ではなく、男装した袈裟御前その人だったのです。

文覚の激しい愛と、夫への貞操とのハザマで思い悩んだ彼女の下した決断は、夫のフリをして、殺害しに来る文覚に、自らが斬り殺される事でした。

わずか18歳で壮絶かつ悲劇的な経験をしてしまった文覚・・・

以来、彼女の菩提を弔うために出家して、自らを戒めるがごとく、那智にはじまり大峰山高野山・・・遠くは信濃の戸隠や出羽の羽黒山にまで赴いて荒行に次ぐ荒行を重ねました。

こうして、日本国中の霊場という霊場を巡り、やがて京都に舞い戻った時には、「祈祷するだけで飛ぶ鳥も落とす」というほどの評判の験者となっていたのです。

そして、この京都は高雄にある神護寺に入った文覚・・・ご存じのようにこの神護寺は、皇位を狙った道鏡の野望を阻止した和気清麻呂(わけのきよまろ)(2月21日参照>>)が建立したお寺ですが、この頃にはその権威を失い、建物もボロボロの荒れ放題となっていのです。

そこで、文覚・・・あの後白河法皇への直談判を決行します。

ふところに勧進帳(かんじんちょう=寺院の建立や修復のための金品に寄進をお願いする書状…主に寺の由緒や歴史を語り寄付を即します)をたずさえ、いざ!後白河法皇の御所・法住寺殿へ・・・

ところが、当然ですが、門番に止められます。

「かくかくしかじか」
と、自分の思いを門番に告げ、通してくれるよう頼みますが、
「今、法皇様は、管弦演奏を楽しんではる真っ最中なんで・・・」
と、門番は取り合ってくれません

「ならば!!」
門番をけちらして中へ・・・そう、もともと武士だった上に荒行を重ねた文覚は、門番なんて相手にならないほどのマッチョ僧・・・あれよあれよと言う間に、ズイズイズイ~っと奥へ進み、なんと宴の席にまで入り込んで、法皇の目の前で勧進帳を読み上げたのです。

ちょうど、その時、藤原師長(もろなが)の琵琶に合わせて源資時(すけとき)が和琴を奏で、今まさに法皇が歌いだそうとした瞬間! かぶさるかのように聞こえ出した文覚のがなり声・・・と、カラオケの十八番を寸前に阻止された後白河法皇は、もはや怒り爆発!

なんと、文覚は、寄付どころか、伊豆への流罪となってしまうのです。

ところがドッコイ!
人生波乱万丈な人は、こういう時でもタダでは起きない。

この伊豆への流罪が、彼の人生を、またまた別の方向へと導くのです。

そうです・・・この時、文覚と同じように、伊豆へと流されていたのが、あの源頼朝です。

いつしか同じ流人の身として、頼朝の屋敷に訪れるようになった文覚・・・と言っても、繊細で寡黙、マジメ人間の頼朝はひたすら聞き役で、豪快で大胆不敵な文覚が、一方的に、都の情勢や流行についておもしろおかしく話すといった感じの会話でありました。

しかし、若者でありながら流人の制約の中で念仏三昧の生活を送っていた頼朝にとっては、いつしか、その訪問が心待ちになり、文覚への信頼も着々と積み重なっていったのです。

そんなある日、いつもとは違った雰囲気で頼朝のもとへやって来た文覚・・・いつも、あれだけしゃべりまくる文覚が、あまり物を言わず、「本日は天下の情勢についてお話しましょう」と、おもむろに一つの包みを、頼朝の前に差し出します。

不思議に思いながら、その包まれた布を剥いでみると・・・中にはドクロ!

「あんたはんのお父上=源義朝(1月4日参照>>)公の遺骨にござる」
「ぎょぇ~~」

文覚が言うには、平治の乱後に、弔う人もなく庭に捨てられ苔むしていたのを引き取り、布にくるんで首にかけ、これまで、各地の山寺を参拝しながら供養して来たのだと・・・。

そして・・・
「ここにも、もう、届いてますねんやろ?以仁王の令旨(りょうじ=天皇家の命令書)・・・」
「知ってたんかい!」
と、文覚の言いたい事のすべてを悟った頼朝・・

そうです。
以仁王の令旨とは、平清盛以下・平家の権勢によって、後白河法皇の息子でありながら、天皇になる事なく不遇の生活を送っていた以仁王(もちひとおう)が、各地の反平家勢力に決起を要請すべく出した書状(4月9日参照>>)つい最近(治承四年=1180年の5月10日)、頼朝のもとにも届けられていたのです。

が、しかし、慎重派で生まじめな頼朝・・・多少の気持ちの動きはあったものの、はなから平家を倒す事などとても不可能と、それを実行にうつす気にはなれなかったのです。

しかし、文覚は続けます。
「先日、優秀やと評判の清盛の長男・重盛はんが亡くなり、そろそろ、平家の隆盛にも陰りが見えはじめてます。
平氏&源氏を見渡しても、あんたはんほど将軍にふさわしい人はおらん・・・
この機会に謀反を起こして、日本を統一してしまいなはれ!
天が与える物を受け取らんかったら、それは、天命に背く事になりまっせ!」
と・・・

それこそ、慎重派の頼朝にとっては、文覚が目の前に差し出したドクロだって、にわかに信じられる物ではない事は、100も承知・・・しかし、文覚の言葉を耳にしながらそのドクロを見ているうち、父の事を思い出し、兄の事を思い出し、いつしか、とめどなく涙が流れ・・・

こうして、頼朝は挙兵を決意したのです。

と、ここまで書きましたが、これらのお話は、いわゆる平家物語などの軍記物で語られる文覚さんのお話なので、どこまで真実に近いのかは怪しいのですが、後に鎌倉幕府を開いた頼朝が、文覚に護持僧という役割を与えて重用した事は、ほぼ間違いのないところ・・

この護持僧というのは、「常に近くにいて、その安泰を祈祷する僧」という事なのですが、もちろん、年がら年中拝んでるわけはなく、結局のところは、一番身近にいて、常に相談を受ける役どころという事ですから、いかに頼朝が文覚を信頼していたかがわかります。

以前にお話した、平家の生き残り=平六代(たいらのろくだい)の事にしても、「処刑しろ」という皆の反対を押し切って仏門の入らせる事ができたのは(2月5日参照>>)、文覚への信頼の大きさゆえなのです。

しかし、そんな文覚の運命は、やはり頼朝の死とともに急展開します。

当時の朝廷内での派閥争いの中、相手側の暗殺計画を立てたの立てないので、朝廷内の親幕府派が拘束されたという三左衛門事件(さんさえもんじけん)なる事件に連座して、政界の黒幕・源道親(みなもとのみちちか)によって佐渡に流罪となってしまったのです。

まぁ、もともとの文覚の性格が、あの破天荒さですから、その歯に衣着せぬ物言いは、それだけ敵も多かった事でしょう。

その後、道親の死後、罪を許されて再び京都に戻って来ますが、間もなく、今度は、後鳥羽天皇遊興にばかり走り、政治に本腰を入れない事を痛烈に批判・・・ちょうど起こっていた守貞親王(もりさだしんのう・壇ノ浦で入水した安徳天皇の弟)を次期天皇にしようという動きと相まって、謀反と判断され、またまた対馬への流罪を言い渡されてしまったのです。

そして建仁三年(1203年)7月21日、文覚は、流刑地へ行く途中の大宰府で命を落としました

文覚・66歳・・・波乱の人生でした。

ところがドッコイ!
さすがは文覚さん・・・話はここで終わりません。

その死後、後鳥羽天皇(上皇)の前に亡霊となって現れ、あの承久の乱(5月15日参照>>)を引き起こさせ、果ては、その後、乱に破れて流罪の身となった後鳥羽天皇の前にも現われて大暴れするとか・・・

とは言え、この「その後のお話」は、いずれ、真夏の夜の怪談話の時にでもお伝えしたいと思いますので、本日はこのへんで・・・
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コメント

茶々様
天下人のそばにはブレーンが必ずいますね。織田信長はいなかったのでしょうか。

投稿: いんちき | 2011年7月23日 (土) 10時29分

いんちきさん、こんにちは~

一応、
柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀が「織田四天王」と呼ばれてますが、どうなんでしょう?

若い頃には平手父子もいたでしょうが、弟と家督を争ってた頃は、直属は700人くらいだったとも言われてますし…ブレーン的な人はいたんでしょうか?

投稿: 茶々 | 2011年7月23日 (土) 12時03分

茶々様
イメージとしては、自分1人で決めていた感じでしょうか。いても名前が残っていないのかもしれませんね。

投稿: いんちき | 2011年7月23日 (土) 19時18分

いんちきさん、こんばんは~

私のイメージも「自分1人で決めていた」って感じですね。

でも、イメージだけで決めつけられないのが歴史のオモシロイところでもあり…、これからも色々調べていきたいと思います。

投稿: 茶々 | 2011年7月24日 (日) 03時16分

文覚は実在の僧侶だったんですね。
しかも、しゃれこうべを持参したくだりも実話。
この記事は11年前の物ですが、実際に内容が今年の大河ドラマで取り上げられて驚かれたのでは?
記事の内容を見ると今年の大河の文覚役の猿之助さんは出番が近く終わりそうです。

投稿: えびすこ | 2022年7月21日 (木) 10時16分

えびすこさん、こんばんは~

文覚はぶっ飛びエピソードの多い独特なキャラなので、猿之助さんはバッチリな配役でしたね。

投稿: 茶々 | 2022年7月22日 (金) 03時15分

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