坂上田村麻呂が清水寺建立に込めた思い
延暦十七年(798年)7月2日、坂上田村麻呂によって、京の都、音羽山中腹に、清水寺が建立されました。
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清水寺・・・西国三十三所第十六番札所で、ご存知世界遺産です。
有名な清水の舞台は、ご本尊の十一面観音様に舞を奉納するための物で、高さは15m・・・現在の三重塔や本堂は江戸時代に入ってから、徳川家光が再建した建物ですが、最初に、ここに寺を建立したのは、征夷大将軍として知られる坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)です。
征夷大将軍というのは、当時は、「中央から見て劣った民族」という差別用語で呼んでいた東国に住む先住民=蝦夷(えみし・えびす)を制圧し、日本を天皇中心の統一国家にする将軍という事・・・蝦夷を征伐する将軍だから『征夷大将軍』って事です。
後に、木曽(源)義仲・源頼朝・足利尊氏・徳川家康・・・と、江戸時代まで、その称号は続きますが、その頃は、征夷とは関係のないところで、武門の長が征夷大将軍を名乗る・・・という事になっていきます。
とは言え、坂上田村麻呂が最初に征夷に向かった将軍ではありません。
中央の意にそぐわない東国を攻める試みは奈良時代からあり、○○将軍や○○大使という様々な称号の軍人が遠征しています。
平安時代のこの時期も、朝廷は三度にわたって大遠征軍を東北に派遣・・・一度目は、延暦八年(789年)、紀古佐美(きのこさみ)率いる5万3千人の大軍が、わずか千数百人の蝦夷軍にコテンパンにやられてしまいます。
二度目は、平安京遷都の年の延暦十三年(794年)・・・その年の1月に征夷大将軍の称号を得た大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が、副将軍となった田村麻呂とともに、10万の兵を率いて挑みますが、またしても失敗。
三度目の正直の延暦十六年(797年)、前回は副将軍だった田村麻呂が征夷大将軍に昇格して、4万の兵で以ってみごと平定する事に成功したのです(11月5日参照>>)。
この成功で田村麻呂の名声は高まり、征夷大将軍という称号も、後世、英雄の証として使用される事になりますが、そんな田村麻呂が、凱旋後ほどなくして延暦十七年(798年)7月2日に建立したのが清水寺です。
その由緒によれば・・・
宝亀九年(778年)に、僧・賢心(けんしん)が「木津川の北流に清泉を求めて行け」という夢のお告げを受け、その清泉を求めて音羽山麓の滝にたどり着いたところ、そのほとりで修業している行叡居士(ぎょうえいこじ)に出会います。
その行叡居士は、賢心に、この地を聖地として守りたまえと、千手観音像を刻むための霊木を授けて姿を消します。
それを見て「行叡居士は観音の化身である」と信じた賢心は、その遺命通り、観音像を刻み、この地を守っていたところ、そこに、未だ将軍になる前の田村麻呂が、妻の安産祈願のために鹿を捕えようと山に登って来ます。
そこで賢心と出会って、その教えに触れたた田村麻呂は、聖なる地で殺生をしようとしていた事を深く反省し、後に、自らの邸宅を仏殿として寄進し、そこに本尊を祀ったのが清水寺の始まりとされています。
現在では、ほとんど田村麻呂の面影が見えない清水寺ですが、有名な清水の舞台の東側に「阿弖流爲(アテルイ)母禮(モレ)之碑」というのが建立されていて、その縁を垣間見る事ができます。
アテルイは蝦夷の軍事的指導者で、モレはそのアテルイとともに処刑された人物・・・生前の田村麻呂が、「彼らを敵ながら尊敬に値する人物」として、朝廷に、その助命を嘆願していた事から、有志によって顕彰碑が建立されたようです。
とは言え、田村麻呂の清水寺建立には、もう一つの意味があったように思えてなりません。
・・・というのは、彼が将軍として行った東北の制圧・・・
以前書かせていただいたように、平安京に遷都した桓武天皇は、この都にありとあらゆる魔界封じ&怨霊退散術を施して、京の都を永遠の都にしようとしています(10月22日参照>>)。
そんな桓武天皇が、東西南北に張り巡らした様々な祈りに加え、最も重視したのが比叡山だったわけですが、それは、都から見て比叡山が艮(うしとら)の方角=鬼門に当たる場所だからで、それが結果的に、最澄の開いた根本中堂(延暦寺)を大きくする事にもなりました(6月4日参照>>)。
・・・で、そうです。
その艮=東北の方角の延長線にあるのが、蝦夷の支配する土地だったわけです。
桓武天皇に限らず、歴代天皇が蝦夷を征する事にこだわったのも、鬼門からやって来る鬼たちに脅威を覚えていたからでしょう。
古代において、合戦によってその地を征服するという事は、戦国時代のソレとは少し意味が違っていて、悪しき魂を封じ込める呪術的な意味合いも込められていたと考えられています。
現にそれらしき物も・・・
田村麻呂は、征服した蝦夷の聖地=津軽平野に7つの神社を建立していますが、そのうちの一つである弘前市の熊野奥照神社では、本殿の建て替えの時に、その下の地中から何重にも布で巻かれて箱に納められた蝦夷仕様の刀(蕨手刀=わらびてとう)が見つかっています。
つまり、ここに、彼らの魂を封じ込めたと・・・
その総仕上げとなるのが、清水寺の建立ではなかったでしょうか?
鎮めた魂が、もし、また復活するような事がある時、ここで都への侵入を阻止すべく思いを込めての建立したのかも知れません。
また、京都郊外の山科には、田村麻呂のお墓というのがありますが、その伝説によれば、ここに埋葬された田村麻呂の遺骸は、甲冑に身を包み、太刀を帯び、いつでの出陣できる態勢のまま、鬼門の方角を睨んで仁王立ちで埋葬されているのだとか・・・
さらに、このお墓は、国家に凶事が起こった際には、まるで鼓を打つように、あるいは雷電のごとく鳴り響いて知らせる・・・なんていう、オマケの伝説も伝わります。
清水寺の建立も、お墓の話も、あくまで伝説ですが、天皇の命を受け、鬼門の魂を鎮めに向かった将軍らしい伝説だ言えますね。
*清水寺を含む「ねねの道」散策のモデルコースを本家HP「京都歴史散歩:ねねの道」で紹介しています、よろしければコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)
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コメント
延暦十三年の征夷将軍等は斬首457級、捕虜百五十人の武功をあげ爵級が加えられています。
大敗というのは間違いではないでしょうか。
投稿: 加茂 真明 | 2020年2月19日 (水) 16時50分
加茂 真明さん、こんばんは~
9年前のページですので、どの史料を出展としてそのように書いたのかは覚えていないのですが、おっしゃる通り「大負け」という表現は適切では無かったですね。
なので、本文では「失敗」という表現に訂正させていただきました。
あくまで私見ではありますが、
この戦いは、一般的な合戦ではなく「征夷」を目的とした出兵ですから、かの地を平定できなければ「失敗」という事になると思います。
後の世の秀吉の朝鮮出兵なんかでも、日本軍は諸城を陥落させてロシアの国境近くまで進み、首級も捕虜も多数得てましたが(秀吉の死もあって)結果的に征服できずに撤退するので「負け戦」と称される事が多いですから、征服を目的とした戦争の場合は、そんな感じなのかな?と思っております。
また、史料等読み直しながら表現方法を、色々考えてみたいと思います。
ありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2020年2月20日 (木) 03時11分