「武家諸法度」発布…元和偃武に徳川の基礎
慶長二十年(1615年)7月7日、江戸幕府が諸大名のための「武家諸法度」を発布しました。
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慶長二十年(1615年)5月8日、豊臣秀吉の築いた難攻不落の大坂城は炎に包まれ、豊臣秀頼は、その母・淀殿とともに自刃し、ここに豊臣家は滅亡しました・・・世に言う大坂夏の陣です。
*大坂の陣の経緯については【大坂の陣の年表】>>から、それぞれのページへ
これで、名実ともに武家のトップの座を獲得した徳川家康&秀忠父子は、翌閏6月に「一国一城令」を発布します。
これは、織田信長が行い秀吉が引き継いだ計画的な城割(8月19日参照>>)の完成形と言える物で、「一つの領地に殿さまの居城は一つ、それ以外のすべての城を破却しろ」と言う物です。
家康父子は、これを、戦闘からわずか1カ月後に、それも、大名一人一人に個別に出す事で、有無を言わさず命令を聞くように仕向けています。
なんせ、市街戦となった大坂の陣・・・わずか1ヶ月では、未だ半戦闘状態にあり、大名たちも皆、まだ畿内にいてなんだかんだと奮戦中ですから、そこで総大将たる人からの命令が出れば、そこに反論をかます余裕なんてありませんからねぇ。
これで、結果的に殿さま=領主のもとに権力が集中し、その家臣は、おのおのの城ではなく、領主の居城する城を中心にした城下町に腰を据え、政務を行う事になるのです。
そして慶長二十年(1615年)7月7日、京都は伏見城に諸大名が招集され、第2代将軍・秀忠の名のもとに、13カ条からなる『武家諸法度』の発布が伝えられたのです。
これは、各大名家と幕府の関係を規定する基本的な規制で、先ほどの一国一城制にある、城の構築に関する規制もしっかりと盛り込まれ、大名同志の婚姻に関する規制も含まれていました。
さらに、この武家諸法度の中には、どこかの大名の下で問題を起こしてやめた家臣が、他の大名家で仕官する事もご法度とされたため、戦国時代のように、より良い条件の所に、腕のある武将がスカウトされるなんて事もなくなります。
しかも、主君に逆らったら即浪人で、しかも再就職できないため、その主従関係において、より殿さまの権力が増すことになりますし、その下での身分の序列も厳しく管理される事になります。
これで、戦国時代の代名詞とも言える能力重視の下剋上は姿を消し、身分秩序による年功序列的な態勢が固定化する事になります。
しかも、コレ・・・先ほどの一国一城制とは違い、一方的に、かつ、一斉に発令し、有無を言わさず守らせる事で、幕府という物が、徳川家個人の物ではなく、すべての大名の上に立つ公(おおやけ)の物である事を徹底させたのです。
いわゆる公儀・・・個人を越えた国家の機関であるという事です。
さらにスゴイのは、家康&秀忠父子は、これを天皇&朝廷に、まったく相談せずに行いました。
これは、それまで、武家同志の合戦の仲立ちに入ったり、なんだかんだと内政にチョッカイを出していた天皇&朝廷の存在を一切無視する物で、幕府は朝廷と同等・・・いや、ヘタすりゃ、その上を行く権力の物とアピールする事でもあったのです。
現に、この後、7月13日には、元号を元和に改めた徳川幕府は、その4日後の7月17日、あの『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)』を発布して、天皇や公家にまで規制をかけるのですから・・・
これまでの戦国武将は、天皇から官位を賜り、朝廷の一員となる事で国家の序列に組み込まれて来たわけで、秀吉などは、その最高位である関白の座について国を治めようとしたわけですが、家康は、これをまったく切り離し、武家には武家独自の官位によって序列を形成し、それを掌握するのが徳川家という形でトップに立ったわけです。
こうして戦乱の世を終わらせ、江戸約300年の平和を歩み始めた幕府・・・これを、幕府側からは「元和偃武(げんなえんぶ)」と呼ぶそうですが、「元和」元号、「偃武」は「武を偃(ふ=伏)せて文を修む」・・・つまり、「武器を用いない」という意味・・・
なんだか信長さんの「天下布武」に対抗しているような気がしないでもない(゚ー゚;
(家康もハンコ作ったんかいな?ww)
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コメント
これが事実上の「文治政治移行宣言」だとすると、「武断政治体制の終わりの始まり」とも言えますね。武断政治そのものは、家光時代まで継続されましたが。「一国一城令」で城の数が、10分の1に縮小されたと聞きました。
石田三成の「文治路線」は、これを先取りしていたのかも。
でも、「石田プラン」は20年早かったのかな?
慶長末期の時点では乱世の余韻が色濃い時期なので、武断否定では「七本槍」の武将が、渋い顔をするのもわかります。
投稿: えびすこ | 2011年7月 7日 (木) 16時16分
えびすこさん、こんばんは~
これで、武士たちが一気に官僚化していくんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年7月 7日 (木) 23時01分