山中鹿介の忠義は忠義なのか?
天正六年(1578年)7月17日、中国地方の大名・尼子氏に仕えて山陰の麒麟児と称された山中鹿介が殺害されました。
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実名は山中幸盛(ゆきもり)、通称は鹿介・・・講談で山中鹿之助と語られるので、そちらの方が有名かも知れませんが・・・(本日は鹿介さんで…)
このブログにも何度か登場していただいてますし、歴史好きの間ではなかなかの人気・・・戦前は教科書にも載っていた事もあって、ご存じの方も多いと思いますが・・・
とにかく、山陰の雄として戦国大名トップクラスの威勢を誇っていた尼子氏でしたが、山陽の覇者・大内氏との覇権争いの中、永禄三年(1560年)の尼子晴久の死と、にわかに登場した毛利元就(もとなり)によって、その勢いにも陰りが見え始めました(12月24日参照>>)。
鹿介が尼子氏の家臣として活躍するのは、ちょうどこの頃から・・・
やがて永禄七年(1564年)、すでに大内氏を手中に納めた元就は(4月3日参照>>)、尼子氏の本拠地・月山富田城(がっさんとだじょう)を3万の兵で囲みます。
この攻防戦では、途中、鹿介と品川大膳(だいぜん)改め棫木狼介(たらきおおかみのすけ)との一騎打ち(11月27日参照>>)なんて逸話も残しながらも、永禄九年(1566年)11月28日、ついに富田城は開城され、当主・尼子義久とその弟の倫久(ともひさ)・秀久の3名は、毛利の下で幽閉の身となり、鹿介をはじめとする尼子の家臣たちは散り々々に・・・(11月28日参照>>)
しかし鹿介諦めず・・・御家再興のために「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」(御家再興のためなら、どんな苦労もいとわない)と三日月に祈った話は、講談での見せ場となってます。
とは言え、当主・義久3兄弟は幽閉の身・・・そこで、すでに仏門に入っていた尼子一族の尼子勝久(かつひさ・義久の再従兄弟=はとこ)を還俗(げんぞく・一旦、僧となった人が一般人に戻る事)させて当主と仰ぎ、月山富田城・奪回を目指して出雲各地を転戦・・・やがて、織田信長の支援を受けて、上月城(こうつきじょう・兵庫県佐用町)を任されます(11月29日参照>>)が、今度も、そこを毛利に攻められ、主君の勝久が自害し、捕えられた鹿介は毛利の本拠地・安芸(あき)への護送中の天正六年(1578年)7月17日、背後から斬りつけられ、34年の生涯を閉じました(7月3日参照>>)。
・・・と、鹿介の生き方を見て、お察しの通り、滅びゆく尼子氏に・・・いや、滅んでもなお諦めず、主君に忠誠を尽くすところが、忠義の鏡と絶賛され、「歴史」ではなく、「修身(道徳)」のお手本として、あの楠木正成(5月25日参照>>)と同じく、戦前の教科書に掲載されていたわけです。
もちろん、今も、鹿介の人気が衰えないのも、そんな忠義の心に深く感銘を覚えるからなのですが・・・
本日は、ちょっとだけ視点を変えて、辛口に考えてみましょう。
もちろん、私は歴史上の人物が全員好きなので、はなからブログで悪口を書く気にはならないし、特に、その日の主役は、できるだけカッコ良く、できるだけ美しく書いてさしあげたいとの思いがあり、時には「持ちあげすぎだろ!」とお叱りを受ける事もあるくらいで、当然、今回の鹿介さんも大好きなのですが、ただ盲信的に忠義を絶賛しては、それこそ片手落ち・・・冷静に分析せねばならない事もあるのでは?と考えます。
・・・で、この鹿介の忠義は、本当に忠義なのか???という事・・・
たとえば、同じように戦前の教科書で絶賛された楠木正成・・・
確かに、彼も、一旗挙げたいという私利私欲はあったでしょうが、忠義を尽くす相手が他ならぬ天皇で、しかも正成は、後醍醐天皇に仕えなければ、血筋も不明なただの悪党・・・後醍醐天皇の配下にいてこそはじめて、武将として一目置かれる存在なのですから、後醍醐天皇あっての正成という感がぬぐえません。
しかし、一方の鹿介・・・
確かに、鹿介の山中家の祖は、出雲守護代として尼子氏の基礎を作った尼子清貞(清定・きよさだ)の弟なので、尼子一門という事になりますが、鹿介の頃は、すでに譜代の家臣扱いでしたから、そこまで尼子氏の再興にこだわる必要があったのでしょうか?
しかも、正成の天皇と違って、尼子氏は、山陰の雄とは言え、一大名なわけですし・・・
『史記』では「賢臣は、二君に仕えず」なんて事も言いますが、下剋上激しき戦国時代、さっさと見切りをつけて生き残った人もたくさんいます。
そして、最大のネックは、月山富田城を落とされて義久以下3兄弟が幽閉状態になった時・・・
この時、一族の勝久を当主に迎えて再出発・・・実際には、ここが、最も忠義とされる所ですが、逆に考えれば、先の主君=義久と3兄弟は、幽閉であって、殺されたわけじゃないのですから、ヘタすりゃ、この3人が、尼子再興のニュースを聞いた毛利の手にかかって殺されるかも知れないわけです。
もちろん、その担ぐ主君となるべき尼子一族の人物も、勝久以外にもいたわけで、そんな人たちにも被害が及ぶかも知れません。
もし、本当に尼子再興が純粋な目的だとしたら、この鹿介の行為は、本末転倒・・・マイナス以外の何物でもない事になります。
たまたま、毛利側が彼ら3兄弟の命を取る事がなかったおかげで、毛利が豊臣秀吉の傘下となった時に幽閉を解かれ、その後の関ヶ原で、毛利が長門と周防の2カ国に減封になった際に、奈古(なこ・山口県阿武郡)に1292石を給わる事になり、さらに佐々木氏と名を変えて、近代までその血筋を守る事が出来たわけですが、この鹿介の行為に対する毛利の態度によっては、それもなかったかも知れません。
しかし、それこそが鹿介のこだわりだったのかも・・・。
そもそも、彼を忠義の手本としたのは、後世の人たち・・・鹿介にとっては忠義などではなく、どうしても譲れない男の意地だったのかも知れません。
「譲れない物」というのは、それこそ人それぞれ・・・「それだけの意欲と粘り強さがあるなら、適当なところで尼子を見限って、うまく世渡りすれば良いのに」という世間の声を浴びせられてもなお、柔軟にはなれなかった・・・
しかし、そんな声を出してる世間の側も、意外に不器用な生き方というのが魅力的であったりするんですよね~。
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コメント
初めて鹿之助について実証的に考察した文に出会えました。地元民です。
私が物心ついたときからいたる所に「鹿之助を大河ドラマに」と看板が立っています。
しかし、管理人様が考察なさっているように、もし大河ドラマ化したら、設定上おかしなことになるわけで。
といいつつ、地元で鹿之助像に疑義を挟むと大変なことになるわけでして。あと、地元は新宮党や布部の拠点に看板すら立ててないという始末です。
整合性をつけるなら、三島由紀夫が幻想としての天皇に忠義を説いたように、鹿之助も主君ではなく「お家」という幻想に忠義を尽くしたのではないでしょうか? だとしても突飛な考えですね。三島が幻想としての天皇は日本文化の精神を体現していると考えたように、鹿之助も「お家」が何らかの精神を体現するものと考え、それに忠義をつくしたのかもしれません。
となると、光圀からすれば鹿之助のような「お家」に対する忠義は、幕府の統治からすれば現実的ではなく、鹿之助は閑却されたかもしれません。
ご存知かもしれませんが、三島は現実の天皇を批判しています。天皇が当時有名だった俳優だったら喜んでついていったのに、という発言も残しているそうです。
投稿: マルテンサイト | 2018年7月29日 (日) 17時26分
マルテンサイトさん、こんばんは~
近代史には疎いので三島由紀夫はよくわかりませんが、鹿之助の忠義が「主君(個人)」よりも「お家」に向いていたというのアリかも知れませんね。
ただ、それでも…
主君がまだ生きてるのに、その主君を救う方向ではなく、別の主君を立てる方向に行っちゃう事に、個人的には、ちょっと??な部分があるにはあるんですけどね。
投稿: 茶々 | 2018年7月30日 (月) 03時28分