激動の時代を生きた明治天皇・崩御
l明治四十五年(1912年)7月30日、明治天皇が崩御され、元号が明治から大正に改元されました。
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ご存じの方も多いかと思いますが、関係者の日記などから、亡くなられた実際の時間は7月29日の23時43分頃であろうと言われていますが、宮内省の発表では7月30日の午前0時43分・・・
これは、改元の手続きや新天皇となる大正天皇の宮中儀式などを、明治天皇が亡くなられたと同じ日にやらねばならなかったために、発表の時間をズラしたとも言われているのですが、本日はとりあえず、正式発表通り、明治四十五年(1912年)7月30日に明治天皇崩御という事でお話を進めさせていただきます。
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以前、明治天皇のお誕生日の日づけのページで、明治天皇が維新をきかっけに、皇子から武人へと華麗な転身を遂げられた事をお話させていただきました(11月3日参照>>)。
なんせ、それまでは徳川幕府が決めた御法度によって、天皇は学芸のみに励み、ちょっとでも勇ましい事をしようもんなら、幕府から睨まれるというご時世・・・
朝は宮中のお勤めをし、昼間は学問に励んで、夕方には女官たちを相手にカルタ遊びなどに興じる・・・それが、天皇や貴族の日常でした。
しかし、慶応二年(1868年)の暮れに、父・孝明天皇が亡くなった事を受けて(12月25日参照>>)、翌・慶応三年に践祚(せんそ・天子の位を受け継ぐ事)・・・16歳にして天皇となった明治天皇は、この後、
10月には大政奉還(10月14日参照>>)、
12月には王政復古の大号令(12月9日参照>>)
翌年の正月からは鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)
と、まさに動乱の時代に旗印となる役目を担う事になります。
とは言え、未だ16歳・・・さすがに、この時点では、周囲に担ぎあげられた神輿ではありましたが、それが、そのままのあやつり人形で終わらなかったところが、明治天皇のすばらしいところでもあります。
その華麗なる転身に一役買ったのが、あの山岡鉄舟(てっしゅう)・・・
ご存じのように、彼は戊辰戦争の時、幕臣でありながら単身、官軍参謀の西郷隆盛のところに乗り込み、直談判に近い形で今後の方針を話し合い、江戸城を無血開城へと導く、西郷と勝海舟の世紀の会談をセッティングした人物です(4月11日参照>>)。
維新後は、水戸の伊万里で、知事のような仕事に従事していたものの、それが一段落ついた頃、その西郷から「明治天皇の側近になってほしい」と頼まれたのです。
というのも、明治天皇が即位して明治政府が誕生しても、未だに宮中には昔の女官制度が残ったまま・・・それを払拭すべく、天皇の周囲に、戊辰戦争で武功のあった勇ましい軍人たちを配してはみるものの、皆、天皇と聞くだけで恐れ入り、使いものにならなかったのだとか・・・
そこで、気骨あふれる山岡に、白羽の矢がたったのです。
山岡は、宮内省の役職にはつかず、一個人として天皇に仕える事、そして、その期間を10年に限る事を条件に、明治天皇の侍従役を引き受けます。
・・・で、その時の逸話・・・
ある時、明治天皇は山岡に
「相撲をやろう!」
と言いますが、彼は、
「自分は相撲の心得がないので…」
と断わる・・・
しかし、血気盛んなお年頃の天皇は、有無を言わさず、いきなり山岡にぶつかってきました。
とっさによけて背後へと回り、つんのめった天皇を上から押さえつけて・・・
「陛下、おイタが過ぎまする」
という言葉とともに、日頃の天皇の行動について苦言の数々を吐き始めたとの事・・・
当然、周囲は驚き、山岡を注意するのですが、
「これで、陛下の態度が改まれへんねやったら、今後の出仕はお断りしまっせ」
と、強気・・・一世一代覚悟の苦言だったのです。
その話を聞いて、山岡にもちゃんと詫びをしたという明治天皇・・・これをきっかけに、その態度は一変したと言います。
こうして、単なる官僚のあやつり人形ではなく、新しい日本の君主としての自覚を身につけて行かれる明治天皇・・・
そんな中で、この頃の明治政府の一番の目標とされたのは富国強兵・・・
徴兵制をしいて、国民は皆、兵役に従事する事になるのですが、もちろん、国民のみにその負担を強いたのではなく、明治天皇は、自らが先頭に立って常に軍服を着用し、皇族の男子も軍人になるという事をアピールされました。
天皇自ら率先して軍事を強くするというと、何やらイヤな印象を受ける方もおられるかも知れませんが、それこそ、その時代背景を無視して、ただ反対すれば良いという物ではありません。
あのアヘン戦争を見てください。
当時、イギリスから大量のアヘンを輸入していた清国(中国)・・・イギリスにとっては膨大な利益をもたらしてくれる相手国だったわけですが、役所や軍隊にまでアヘン中毒者がはびこる事態になった清国政府は、「これはいかん!」とばかりにアヘン禁止令を出します。
ところが、これを受けた政府役人が禁止になったアヘンをイギリス商人から没収した事をきっかけに戦争が勃発・・・この戦争に勝利したイギリスは、様々な条約を追加して、清国は、その領土も司法もがイギリスに制限される事になり、事実上、属国のような扱いを受ける事になります。
そんな事が、まかり通っていたのです。
日本の開国の時の条約だってそうです。
黒船の威圧感に負けた感じで結んでしまった不平等な条約・・・あの時も、日本が、それに対抗できる強さを持っていたなら、不平等な条約など結ばずに済んだかも知れません。
強い国だからこそ、同じ舞台に立って、外国との交渉ができる・・・その後のエスカレートぶりは別のお話として、少なくとも、明治の初めの頃は、そういう時代背景だったのです。
天皇を旗印に強い国としての体制を整える・・・明治天皇は政治的にも、精神的な部分でも、元首としての天皇を実践されたのです。
昨日書かせていただいた日清戦争のページで、明治天皇自身はこの開戦に反対しておられたと書かせていただきましたが(7月29日参照>>)、一方では、開戦後は、広島の大本営に赴いて政務をとられ、極寒の地に出征している兵士を思って、ご自分もストーブをお使いにならなかったのだとか・・・
自身の心にそぐわない出来事であっても、国の方針がそうと決まれば、元首としてそれを全うする・・・明治天皇のそんなお心が垣間見えます。
やがて、その日清戦争と、続く日露戦争に勝利した(5月27日参照>>)日本は、それこそ、欧米列強と同じ舞台に立って交渉できる世界の日本となるわけですが、その頃から天皇は、持病の糖尿病と慢性腎炎が悪化し、会議中にもまどろむ事が多くなります。
この年の7月に入って高熱を出し、昏睡状態に入った明治天皇は、明治四十五年(1912年)7月30日、尿毒症を併発して59年間の生涯を閉じられたのです。
茶目っけがあり、楽天的で明るかったという明治天皇・・・一般的に、明治に生きた人々が楽天的で明るかったと言われるのも、何事も、国民の模範となるべく新しい事に挑戦していった明治天皇の影響があったのかも知れませんね。
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コメント
明治天皇と昭和天皇は境遇が似てらっしゃる?日本が脅威にさらされる中で、象徴となった。世継ぎになかなか恵まれなかった。でも、やはり昭和天皇の方が大変だったかな。明治天皇は側室との間に皇子5人、皇女10人が産まれ、大正天皇以外の皇子はみな生後間もなく、あるいは1歳前後で亡くなってるんですってね。その大正天皇も生後間もなく大病され、生死の境をさまよい、どうにか成人あそばしたけど大人になってからも危篤になったり・・・大正天皇の偉業は4人もの男児を授けた、ってことでしょうか。明治天皇、昭和天皇、そして今上陛下を拝見していると本当に天皇というのは大変なお立場だな、と思います。でも、大正時代はのんびりした平和な時代だったような気もするので、御病弱だった大正天皇にとっては、ひいては日本にとってもラッキーだったかな・・・
投稿: Hiromin | 2011年7月30日 (土) 20時33分
Hirominさん、こんばんは~
天災にしろ人災にしろ、大きな災害が起きた時は、特に、天皇陛下という存在の大きさを感じますね~
大変なお立場ではありますが、それこそが国民の支えになっている…そう感じます。
投稿: 茶々 | 2011年7月30日 (土) 23時31分
確か日本で最初に「銀婚式」をしたのが明治天皇ご夫妻だと言われております。大正天皇ご夫妻も銀婚式をしていますが、昭和天皇ご夫妻は終戦直後と言う事情もあり、できなかったかもしれないですね。でも金婚式はできました。両陛下も一昨年に金婚式を迎えています。
投稿: えびすこ | 2011年9月 9日 (金) 17時01分
えびすこさん、こんにちは~
「お前百まで、わしゃ九十九まで…」
お互いに、平穏無事に生きたいモンですねぇ
投稿: 茶々 | 2011年9月 9日 (金) 18時14分