平家の盛と衰を導いた女性…建春門院・平滋子
安元二年(1176年)7月8日、後白河天皇の寵愛を受け、第80代高倉天皇の母となった平滋子がこの世を去りました。
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平治元年(1159年)12月に勃発した平治の乱(12月9日参照>>)は、翌・永暦元年(平治二年・1160年)1月4日に、源氏の棟梁・源義朝(みなもとのよしとも)が殺害され(1月4日参照>>)、続く25日に、その長男の悪源太・源義平(みなもとのよしひら)が斬首(1月25日参照>>)、翌月の2月9日には、逃亡していた三男で嫡子の源頼朝(みなもとのよりとも)が捕縛されて(2月9日参照>>)終結となりました。
もはや源氏は壊滅状態・・・勝利した平清盛(たいらのきよもり)は武士として前例の無い参議となります。
しかし、武士のライバルを一掃したからといって安心はできません。
前例が無い=完全なるアウェーの世界ですから、小うるさい貴族たちを相手に、いかにして平家の清盛がのし上がって行くか・・・むしろ、ここからが勝負どころといった感じです。
そんな夫の微妙な立場を、しっかりと見抜いていたのが、清盛の妻・時子でした。
彼女は、かつての藤原氏が全盛期を築いたと同じ方法をとる事にします。
そう、天皇に娘を送り込んで、次期天皇となる皇子を生んでもらい外戚(母方の実家)をゲットして権力を握る(8月19日参照>>)・・・お馴染のあの方法です。
当時、時子の妹・滋子(しげこ)は、少弁局(しょうべんのつぼね)という女房名で上西門院(じょうさいもんいん=鳥羽天皇の皇女)に仕えていましたが、その妹を、女大好きの後白河(ごしらかわ)上皇(第77代天皇)に推挙したのです。
しかもこの滋子さん・・・
「あなうつくし、世にはさはかかる人のおはしましけるか」
(メッチャきれいやん!この世には、こんな美人もいてたんや)
「言ふ方なくめでたく、若くもおはします」
(もう、言葉にできんほど美人で若々しい)
と、当時の女官たちの日記でも絶賛の美人
まぁ、雇われてる側の女官が、雇ってる側のお嬢さんを、日記に悪く書くわけはありませんが、それを差し引いても、これほど絶賛している平家のお嬢さんは他にいないわけですから、やっぱり、相当な美人だったのでしょう。
しかも、その見た目だけではなく、性格もよさげな滋子さん・・・当然の事ながら、後白河上皇は、一発で彼女を気に入り、翌・永暦二年(1661年)の9月には、早くも男の子=憲仁(もりひと)を出産します。
後白河上皇=35歳、滋子=20歳の時でした。
とは言え、この後白河上皇・・・帝王の常として、これまで、かなりの女遍歴の持ち主で、そのぶん子供も沢山。
未だ親王時代に妃に迎えた藤原懿子(よしこ)との間に第1皇子の守仁(もりひと=二条天皇)、その次の播磨局(はりまのつぼね)・成子との間には、後の源平合戦の魁となる以仁王(もちひとおう)(5月26日参照>>)や、和歌の名手として知られる式子(しきし)内親王をはじめとする6人の子供に恵まれています。
他にも、子供をもうけてはいないものの、中納言藤原公能(きんよし)の娘・忻子(よしこ)や、内大臣藤原公教(きんのり)の娘・琮子(みずこ)が入内していますし、息子の乳母に手を出したり、石清水八幡宮の別当の娘にチョッカイ出したり・・・
そんな恋多き後白河上皇の心を、ここに来て見事に射止めたのが滋子だったわけです。
とは言え、すでに天皇の座を息子の第78代二条天皇に譲って上皇となっている後白河さん・・・父の上皇と対立していた二条天皇の頃には、滋子の息子が次期天皇になるどころか、いち時は、親王(天皇になれる可能性のある皇子)さえ絶望的だった時代もありました。
ところが、その二条天皇が亡くなり、息子の第79代六条天皇が天皇の座についた永万元年(1165年)、その力を復活させた後白河上皇は、滋子との間にできた憲仁クンへの親王宣下を行い、翌年には、六条天皇の後見人だった摂政の近衛基実(このえもとざね)の死を受けて、憲仁親王を皇太子にする事にも成功します。
そう、成子さんとの間にもうけた第3皇子の以仁王がいるのに・・・です。
これ、ひとえに滋子への愛の証・・・なのかどうかはわかりませんが(他にも理由がありそうなので…)、滋子は、息子=憲仁親王が皇太子になると同時に従三位に叙され、翌・仁安二年(1167年)には、それまで身分が低くてなれなかった女御(にょうご・皇后&中宮に次ぐ身分)にまで・・・
一方の姉・時子の夫・清盛も、この間に前年の内大臣から、左右大臣を飛び越えて、従一位太政大臣にまで上り詰めます(2月11日参照>>)。
さらに、後白河&清盛の強力タッグは、翌・仁安三年(1168年)には、わずか5歳の六条天皇を退位させて、これまた、わずか7歳の憲仁親王を、第80代高倉天皇に・・・
それに、翌年には、天皇の生母として建春門院(けんしゅんもんいん)の院号を賜った滋子と、同時期に上皇から落飾して後白河法皇となった二人のラブラブ感は未だ消えず、やれ熊野だ、やれ有馬だ、やれ厳島だとペア旅行三昧の日々・・・滋子は、まさに、法皇後宮の女王として君臨していたのです。
後白河の滋子への寵愛か、
清盛の巧みな政治手腕か、
それとも、両者の持ちつ持たれつか・・・
とにかく、両者は絶妙なバランスのもと、全盛の時代を築きあげて行くのです。
そんな中、仁安三年(1168年)に重病を患ってしまった清盛・・・一旦危篤状態に陥るも、幸いな事に快復した清盛は、
「まだ、甘い」って事を痛感します。
「もし、万が一、自分が死ぬような事になったら・・・
滋子が天皇の生母というだけでは、平家の権勢は維持できない」
と・・・。
そうして実現したのが、承安元年(1171年)12月の徳子入内・・・そう、清盛は、15歳になった自らの娘・徳子を、11歳で元服したばかりの高倉天皇のもとに嫁がせたのです。
もともと后妃を出すべき家柄でない平家の娘が、わざわざ後白河法皇の猶子(ゆうし・養子)として、御所にて輿入れ仕度を整えての嫁入りは、まさに異例・・・ここには、やはり、法皇の愛を一身に受ける滋子の働きかけがあった事は確かでしょう。
仕度を整える時も、叔母であり、この先、姑にもなる彼女は、徳子の裳(も)の腰紐を、自ら結んでやるという心遣いも見せています。
しかし、悲しみは突然やって来ます。
安元二年(1176年)3月、高倉天皇&徳子夫婦に生母の滋子、平家一門や公卿が勢揃いして盛大に行われた後白河法皇50歳の誕生日パーティの後に、またもや出掛けた法皇との有馬へのラブラブ旅行から帰った6月8日、滋子は、突然の病に倒れます。
病名は二禁(にきみ・腫れ物)だったという事ですが、その月の23日には、もはや息子の高倉天皇のお見舞いも断わらねばならないほど悪化・・・もちろん、後白河法皇もつきについて看病しますが、その甲斐もなく・・・
安元二年(1176年)7月8日、未だ35歳という若さで、滋子は帰らぬ人となってしまいました。
彼女の死は、これまで見事な強力タッグを組んでいた後白河法皇と清盛の関係に微妙な影を落とす事になります。
もともと、すべての利害関係が一致しているわけではない法皇と清盛を、彼女という存在が潤滑油となって、良い関係が保たれていたという事なのかも知れません。
あの鹿ヶ谷の陰謀(5月29日参照>>)が発覚し、法皇と清盛の関係の悪化が表面化するのは、滋子の死から、わずか1年後の事でした。
・・・と、彼女の生涯を見てみると、なにやら、一族の出世のために翻弄されて、自らの意思とはうらはらな、政略的な悲劇の女性のように思ってしまいますが、
いえいえ・・・
彼女が、おりにふれて口にしていたという言葉が、女官の日記に残っています。
「女はただ心から、ともかくもなるべき物なり。
親の思ひ掟て、人のもてなすにもよらじ。
我心をつつしみて、身を思ひくたさねば、おのづから身に過ぐる幸ひもある物ぞ」
(女は、自分の心の持ちようでどないにでもなるもの。
親や周囲がどうこうしようとしてもアカン!
肝心なんは自分の気持ち・・・自分の信念をしっかり持って、いたずらに自分を卑下する事もなく、かと言っておごり高ぶる事無く、つつましく生きていれば、自然と身に余る幸運がやって来るもんなんよ)
運命に翻弄されたというよりは、自分自身で選んだ道だと言わんばかりの堂々たる言葉には、戦国女性に似た意思の強さを感じますね。
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コメント
この女性の心の持ちかたって素晴らしいですね、見習わなきゃ。
投稿: minoru | 2011年7月 9日 (土) 03時21分
少し前に世紀のワードショーで触れていました。来年の大河ドラマでは成海璃子さんが演じます。弱冠20歳にして中宮役です。
投稿: えびすこ | 2011年7月 9日 (土) 08時05分
minoruさん、こんにちは~
ホントですね~
私もドキッとしました( Д) ゚ ゚
耳が痛いです。
投稿: 茶々 | 2011年7月 9日 (土) 15時04分
えびすこさん、こんにちは~
滋子を20歳の方なら、徳子は?
またまた俳優さんの年齢がスゴイ事になるんでしょうか?
投稿: 茶々 | 2011年7月 9日 (土) 15時05分
時子役が深田恭子さんですね。
徳子役はまだわかりません。
成海さんと同じく平成生まれの女優さんかも。「我が世の春」のAKB48あたりからの起用かな?
投稿: えびすこ | 2011年7月 9日 (土) 16時03分
えびすこさん、こんにちは~
配役も、盛者必衰の理をあらわす…ですね
投稿: 茶々 | 2011年7月 9日 (土) 16時35分
えびすこ様&茶々様
アハハ、ナイス掛け合い。GJ!d( ̄ー ̄)
投稿: ことかね | 2011年7月 9日 (土) 18時28分
ことかねさん、合いの手をありがとうございます。o(_ _)oペコッ
しかも、後白河天皇を演じる松田翔太くんと平滋子役の成海璃子さんが、今夜スタートの「ドン・キホーテ」で共演するんですよね。(・∀・)ニヤニヤ 来年の前哨戦?
でも来年の「平清盛」が、大ヒット・大ブームとなれるかどうかは、可能性が低いとの声がささやかれています。
投稿: えびすこ | 2011年7月 9日 (土) 19時24分
ことかねさん、こんばんは~
お褒め戴きありがとうございますo(_ _)o
投稿: 茶々 | 2011年7月 9日 (土) 23時30分
えびすこさん、こんばんは~
来年盛りあがるのは?
瀬戸内か京都か…
投稿: 茶々 | 2011年7月 9日 (土) 23時32分
生きててくれれば...
投稿: ゆうと | 2012年3月22日 (木) 04時44分
ゆうとさん、こんにちは~
生きていれば、法皇と清盛の仲も、もう少しうまくいったかも…ですね。
投稿: 茶々 | 2012年3月22日 (木) 13時21分
初めまして!興味深く読ませていただきました。
滋子は政治力のある、気丈な女性であったと思います。
滋子が長生きしていたら平氏政権ももっと長生きしていたかも、と考えてしまいます。
私はブログで保元・平治のあたりの小説を書いてます。
こちらのブログにも滋子関連で調べていて辿り着きました。
平安・院政期のほかには明治・大正も好きです。じっくり読ませていただきますね♪
投稿: ゆきめ | 2013年4月25日 (木) 23時07分
ゆきめさん、こんばんは~
コメントありがとうございますm(_ _)m
おっしゃる通り、平家にとって滋子の存在は大きかったでしょうね~
私は、近代史は苦手ですが…(*´v゚*)ゞ
よかったら、また、遊びに来てください。
投稿: 茶々 | 2013年4月26日 (金) 01時58分