第2次蒙古襲来~弘安の役に神風が…
弘安四年(1281年)閏7月1日、台風と思われる猛烈な暴風雨により北九州に再来襲していた元軍が壊滅状態となり、事実上、弘安の役が終結しました。
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文永十一年(1274年)の文永の役(10月19日参照>>)から7年・・・この間に南宋を滅亡させて中国全土を統一し、名実ともに元(げん)の皇帝となったフビライ・ハーンは、再び日本に狙いを定め、征服した旧南宋軍や漢人(中国北部の民族)や高麗(朝鮮)人などを中心にして日本遠征軍を再編成し、弘安四年(1281年)6月6日、またもや博多湾上に、その姿を見せました・・・これが弘安の役=2度目の蒙古襲来です(6月6日参照>>)。
一方、その間の日本では、若き執権・北条時宗が元との徹底抗戦を決意し(9月7日参照>>)、その指示により、博多湾沿岸に壮大な石塁が築かれます(3月10日参照>>)。
前回の文永の役で、元軍を博多に上陸させてしまった失敗を受けて、今度は「上陸すらさせるか!」と準備万端整えたのです。
こうして迎えた弘安四年(1281年)6月6日・・・上記の通り、再び博多湾上に現われた元軍でしたが、そこで彼らは、前回は無かった見渡す限りの石塁を目の当たりにしたのです。
もちろん、そうなると、簡単に上陸できません。
そして、やむなく、船は海上に留まる事に・・・
そこに、果敢に攻撃を仕掛ける日本軍・・・
元軍の船にアタックする鎌倉武士…「蒙古襲来絵詞」より(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)
なんせ、この時、10万はいたと言われる元軍ですが、そのほとんどが、上記のようにフビライに占領された別の国の非戦闘員で、弓矢などの装備を整えたフビライ配下の武人は、それらの監視役として、約3000人ほどしかいなかったとも言われています。
一方の日本軍は、九州の御家人を中心に四国や、地元関東を含め、約4万ほどとみられますが、これが、全員、鎌倉幕府御家人=プロの戦闘集団なわけですから・・・チャンスがあればアタックあるのみ!
しかも、もともと、東路軍と江南軍の二手に分かれて大陸を出港した元軍の中で、この時点で博多湾に来ていたのは東路軍の船団のみ・・・
日本に渡るのに好都合な南風を待っていた江南軍は、その出発の時点で大幅に遅れて、未だ姿を見せる気配すらありませんでした。
もちろん、すでに博多湾に到着していた東路軍は、ほどなく江南軍と合流する予定だったわけですが、相方は来んわ、防塁はあるわ、敵は攻撃して来よるわ・・・
で、約1週間ほどで博多湾から姿を消し、一旦、壱岐に退いて態勢を整えながら、江南軍を待つ事にします。
しかし、ここで・・・・
江南軍の到着を待つ東路軍の船内で疫病が発生してしまうのです。
船体の腐食や兵糧不足による体力の低下・・・しかも、この時期は、新暦になおせば、まさに8月真っただ中の暑い時期、1説には、その疫病での死者は3000人を越えたとも・・・
もちろん、船内の士気はグダグダに低下し、首脳陣の間では「すぐに撤退」の声も出始めます。
そんなこんなしているうちに、7月上旬になって、ようやく江南軍が平戸島付近で合流・・・しかし、上陸を予定していた博多湾には、例の石塁が構築されている事を東路軍は確認していますから、予定通りに向かうわけにはいかず、
結局、西にある平戸島や、その近くの鷹島に上陸し、そこを軍事拠点として防塁を築きはじめます。
おそらくは、平戸島を拠点として伊万里湾から上陸し、博多を無視して大宰府を制圧しようとしていたのではないか?と言われていますが・・・
しかし、ここで、例の神風です。
またいずれ、第1次の蒙古襲来=文永の役については、もっとくわしく書かせていただくつもりでいますが・・・一般的には、その時も神風が吹いたとされていますが、どちらかというと、文永の役は神風でなく、忽然と元軍が姿を消したという雰囲気で、現在では、文永の役の神風は否定されつつあります。
これに対して弘安四年(1281年)閏7月1日、この時に前日の7月30日(旧暦でのこの年は7月が2回あります)の夜からこの日の朝にかけての暴風雨は、おそらく本当にあっただろうと言われています。
もちろん、神の手による暴風雨ではなく、いわゆる台風だったわけですが・・・
新暦になおすと、この弘安四年閏7月1日は、1281年8月23日となり、まさに台風シーズンです。
それより1ヶ月以上も前から、上陸を阻止された元軍の船は伊万里湾周辺の海上にいたわけですから、むしろ、いつ台風が襲ってくるかも知れない危険な状態に、常にあったと言うべき状況だったのです。
その夜の暴風雨によって元軍の船が次々と座礁し、その大半を失ったというのも、この台風シーズン真っただ中ならうなづけますね。
結局、7月1日の朝の伊万里湾は、大量の溺死体で埋め尽くされ、湾内を歩いて渡れるほどだったとか・・・
近年の発掘調査でも、付近の海底からは、あの文永の役で鎌倉武士たちが悩まされた「てつはう(手榴弾のような飛び道具)」をはじめ、船の残骸や武具などが3000点以上も見つかっているそうです。
その後、少弐景資(しょうにかげすけ)率いる数百隻の軍団が鷹島などに上陸して攻撃・・・未だ生き残っていた元軍を討ち、あるいは捕虜として連れ帰り、弘安の役は終結となります。
この戦いで、無事に大陸に戻った者は、出発時点の5分の1ほどだったと言いますから、まさに元軍にとっては、命からがらの帰還といった感じだったのでしょう。
一方、このように、鎌倉武士の活躍と台風のサポートによって、2度の蒙古襲来を回避した日本ではありましたが、これによって大きく分けて二つの影響が、今後の日本を包んでいきます。
一つは、この戦いを命がけで戦った武士たちの不満(12月8日参照>>)を発端にした鎌倉幕府の揺るぎ・・・
そして、もう一つは神風神話=神国ニッポンという思い・・・せっかくの神の国が、数百年後、太平洋戦争のプロパガンダに使用されてしまう事になります。
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コメント
当時、天皇はじめとする朝廷が、「蒙古退散」を祈祷していたんでしょうか?
いつの時代でもありますが、困難になると神頼みをする心理はわかります。受験の時の天神様、勝負事の毘沙門天、芸能人は弁天様、商売なら恵比寿様と大黒様。
フビライ・ハーンの時代に一族の抗争でモンゴル帝国は分散されて、現在の中国の東半分が元となり、モンゴル帝国の中心たるフビライ・ハーンの直轄地になっていますね。
投稿: えびすこ | 2011年7月 1日 (金) 16時46分
えびすこさん、こんにちは~
祈祷しまくりでしょうね。
というか、天皇陛下は、現在の陛下も毎日祈っておられます。
投稿: 茶々 | 2011年7月 1日 (金) 17時07分