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2011年7月 6日 (水)

動乱の将軍・徳川家定…暗殺疑惑

 

安政五年(1858年)7月6日、第13代江戸幕府将軍徳川家定が35歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

2008年の大河ドラマ「篤姫」での堺雅人さんの名演技が光っていて「あぁ、篤姫さんの旦那さんか~」と、いう印象をお持ちの方も多いでしょう。

Tokugawaiesada600 文政七年(1824年)に、第12代将軍・徳川家慶四男として江戸城で生まれた徳川家定・・・家慶のもうけた男子のほとんどが早くに亡くなり、成長したのが彼だけであったため、世嗣となって、父の死後、将軍職を継ぎました。

しかし、病弱な上に奇行も多く、一説には障害を持っていたとも言われ、一般的には将軍としての能力に欠けていたとされています。

・・・が、一方では、暗殺(毒殺)を恐れて自ら食品の調理をし、特にお菓子作りは上手だったとか、

明治になってからの幕臣の証言でも
「特に優秀とは言えないけど、特に暗愚という事でもない」
なんて話もあり、

家定に謁見したアメリカ公使ハリスの日記にも
「足を踏み鳴らすというおかしな行動はあったものの、話す事はしっかりしていた」
と・・・ドラマのイメージ同様、よくわかない人であります。

とは言え、何といっても家定が将軍となった時代は、優秀な人でも苦悩するような動乱の時代であった事は確か・・・なんせ、13代将軍に就任するのが、あのペリー来航の半年後なのですから・・・

しかも、安政元年(1854年)とその翌年・・・立て続けの大地震にもみまわれました。

この時、関東近郊を含め、伊賀上野飛騨地方など、わずか2年間で6回の大地震が記録されていますが、その時に活躍したのが優秀な老中たちでした。

中で最も大きかった安政二年10月2日の大地震(10月2日参照>>)では、深夜にも関わらず、即時登城した彼らは、翌3日には災害対策本部を設置して情報収集にあたり、御救米を放出して焚きだしも行ったうえ、震災から3日後の10月5日には仮設住宅の建設にも着手しています。

もちろん、そこまでの素早さには、被害に遭って困窮した民衆が暴徒化する事を恐れての保身という面もありましょうが、現在のようにリアルタイムで情報が入って来ない中、「被害状況を確認してから・・・」なんて悠長な事を言わずに、目の前の被害者に、まずせねばならない事から積極的に始めるところは、見事だと思います。

そんな中で、「無能」と言われた家定の立場としては、能力が無いなら無いぶん、優秀な官僚にすべてを任して口出ししないという姿勢を全うした事は、やたら委員会を乱立させて混乱させる誰かよりは、よほどしっかりしていたような気がしないでもない・・・

・・・と、このように、ほとんどの事を、周囲の優秀な人材に任せていた家定が、たった一つ、自らの意思でやってのけた事・・・それが、自分の後継者の指名でした。

冒頭に書いた通り、生まれつき体の弱く、その資質に欠けていたとされる家定には、早くから、その後継者決定の問題が浮上していました。

子供のいなかった家定の後継者とした名前が挙がったのは、御三家=紀州藩主の徳川慶福(よしとみ=後の14代将軍・家茂)と、同じく御三家の水戸の出身で、御三卿の一橋(ひとつばし)の養子となっていた徳川慶喜(よしのぶ)・・・

幕閣や有力諸藩が、慶福を推す南紀派と、慶喜を推す一橋派に分かれて争う中の安政五年(1858年)6月25日、家定は、突如として諸大名を招集して「慶福を将軍後継者にする」事を決定し、続く7月5日には、一橋派の諸大名の処分を発表するという異例の態度を示したのです。

しかし、その翌日の安政五年(1858年)7月6日家定は35歳の若さで亡くなってしまいます。

死因は脚気の悪化とも、流行のコレラとも言われますが、このあまりのタイミングの妙・・・幕府も、その死を1ヶ月間隠していた事もあり、死因に疑惑を抱いてしまうのは、致し方ないところであります。 

その疑惑は、死の直後からあったようで、藤波という奥女中が、家定の死の翌日に実家に出した手紙には
「水戸・尾張・一橋・越前松平家などの共謀によって将軍が毒殺された」
といった内容の一文があるとか・・・

もちろん、これは、「それが正しい」という物ではなく、「そのような噂が流れている」という事なのですが、大奥の女中の間では
「慶喜の父である徳川斉昭(なりあき)らの一橋派が、家定の決定を恨んで毒殺した
なんていう噂がまもとしやかに囁かれていたようです。

ただ、これには、もともと大奥が斉昭を嫌っていたという事もあり、現在では否定的な意見が多いです。

逆に・・・
家定さんは、上記の通り、チョコッと頼りない部分があり、他人の意見に流されやすく、途中で意見を変える事もしばしばあった事から、その決定を一橋派が恨むというよりは、決定した事を、この後にくつがえされたくない南紀派のほうが怪しいのでは?
との意見もあります。

確かに、一橋派としては、すでに、決定して発表しちゃった以上、恨んで殺すよりは、優柔不断な将軍の心変わりに期待したほうが得策で、動機としては、南紀派のほうに分が悪いといった感じです。

もちろん、これは、あくまでも憶測・・・

ただ、あまりのタイミングの良さに・・・もし、本当に暗殺だったのだとしたら、「後継者さえ決まれば用済みなのか?」と・・・

そんな風に思われていたとしたら、あまりにも家定さんがお気の毒でならないので、やはり、病死だったと思いたいですね。
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

もし障害を持っていたのならば、篤姫との間に子供がいないのはおかしくないのですが、幕末~明治初頭の時期は20代か30代で死んだ人が多いので、「記録上病死」でも暗殺疑惑のある人が他にもいますね。

投稿: えびすこ | 2011年7月 6日 (水) 16時55分

えびすこさん、こんにちは~

このすぐ後にも、島津斉彬が…
幕末はイロイロありますね~

投稿: 茶々 | 2011年7月 6日 (水) 17時29分

篤姫は、堺さんがでていたころが一番好きでした。
家定公のお手製お菓子を食べてみたいです。
私はこれから晩ごはんです。

投稿: Ikuya | 2011年7月 6日 (水) 19時55分

「篤姫」で思い出した小話。
大河ドラマの1回分あたりの予算が「篤姫」まで公表されています。おおむね6000万円=1年間では30億円です。
NHKの2010年度の事業収入が6600億円です。収入比で見ると大河ドラマの予算は全体の0.5%弱です。平たく言うと大学の学園祭の予算が100万円だとすると、演劇サークルに回る分が5000円に届かないのと同じです(実際はこんなに極端ではないですが)。こうして見ると「採算」が取れているのかも?
2010年度は「黒字」が37億円で、この金額を今年度に活用すると、大河ドラマ1作分が丸々まかなえます。

投稿: えびすこ | 2011年7月 6日 (水) 20時39分

Ikuyaさん、こんばんは~

>篤姫は、堺さんがでていたころが…

私も、そう思います。
実際に、「堺さんを死なせないで」って視聴者の声が多くて、ずいぶんと出演シーンがのびたなんて噂も聞きましたが…

投稿: 茶々 | 2011年7月 7日 (木) 01時36分

えびすこさん、こんばんは~

払ってない人があんなにいても採算取れてるんですね~よかったです。

投稿: 茶々 | 2011年7月 7日 (木) 01時37分

>Ikuyaさん
確か最終回の手前で家定が出ましたよね?
堺さんは朝ドラにも出た事がありますよ。
次作の「天地人」でも加藤くんが度々「再登場」しましたね。
今年の大河ドラマでは再登板する俳優はいるかな?
個人的には森3兄弟を演じた若手俳優を、「徳川御三家」の初代の役として起用してほしいんですが。江さんから見れば義理の弟たちなので。
ただ、今年の「江」は「篤姫」と違い、視聴率の面で見たら旋風にはならないですね。4月以降の低迷には、色々な要因があると思います。3日は最終回の「マルモのおきて」に7%以上負けています(関東)。

余談ですが今年は朝ドラと大河ドラマで、奇遇にもヒロインの夫の名前が同じなんですよ。両方「かずなり」。
朝ドラは「和成」で、大河が「一成」(1人目)。

投稿: えびすこ | 2011年7月 7日 (木) 09時05分

えびすこさん、こんにちは~

「マルモ」にはびっくりですね。
関西では視聴率のベスト20にも入って無い「マルモ」が関東ではスゴイ人気なんですね。

ついつい、それに注目してしまいます。

投稿: 茶々 | 2011年7月 7日 (木) 12時10分

私は家定の功績で最も大きいのは、阿部正弘や島津斉彬、松平春嶽といった前政権のブレーンを使い続けたことだと思います。

また、安政の大地震が発生した当夜、江戸城で阿倍、島津、堀田らが会合をしていたため迅速に対応することが出来たという事実は、家定の運の良さも示しているかと思います。

これらを総合すると、家定は普通の君主、若しくは中々の名君と言えるのかもしれません。

ですが、家定が大奥からの強い要請もあり、徳川慶喜ではなく徳川家茂を後継に選んだことは、後に井伊直弼を大老に据え付けることに繋がり、幕末期、あたら有能な人材を喪失させる原因を作った事は否めません。

井伊直弼も大老ではなく、老中の一人であったならば、幕末に幕政を立て直した非常に有能な人材として生涯を終えたと思われます。

これを考えると、家定には罪はないとはいえ、罪作りな人物であったと言わざるを得ないと思います。

投稿: おみそしる | 2011年7月 7日 (木) 16時53分

森3兄弟には、初のように目がハートになっていました。再登場してほしいです。
ちなみに「マルモ」は、学校で話題でした。
(いつも生意気な言動ですみません 実は中1です…)
私は、仁を見ていたので気になっているうちに終わってしまいました。
来年の大河ドラマには、山本耕史さんやあべさだおさんが出ますね!
今日もこれから晩ごはんです。

投稿: Ikuya | 2011年7月 7日 (木) 19時28分

おみそしるさん、こんばんは~

井伊直弼は直弼で頑張ったんですけどね~
まさに、時代が動乱でしたね~

投稿: 茶々 | 2011年7月 7日 (木) 22時54分

Ikuyaさん、こんばんは~

私も「マルモ」は見てなかったです。
仁先生一筋だったので…(*゚ー゚*)

投稿: 茶々 | 2011年7月 7日 (木) 22時55分

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