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2011年7月10日 (日)

将軍の死に際して所領返上…松平定政・出家事件

 

慶安四年(1651年)7月10日、徳川家康の甥に当たる大名・松平定政が、突然出家しました。

・・・・・・・・・・

松平定政は、徳川家康異父弟松平定勝の六男・・・若い頃は、家康の孫で第3代将軍となった徳川家光小姓を務め、従五位下能登守に就任後、長島城(三重県桑名市)7千石を賜り、この2年前の慶安二年(1649年)には、三河刈谷城(愛知県刈谷市)に2万石を賜り、大名の列にも加わりました。

そんな、将軍家の身内である彼が、慶安四年(1651年)7月10日突然、所領を返上じ、地位も何もかも捨てて出家・・・江戸市中を托鉢(たくはつ)して廻るという放浪の僧に転身したのです。

もちろん、それには理由があります。

Tokugawaiemitu600b それは、この慶安四年(1651年)4月20日の将軍・家光の死・・・

ご存じのように、この家光さんは、祖父・家康の時代には盤石とは言い難かった江戸幕府を、父の秀忠とともに押し固め、鎖国政策や参勤交代制度を完成させて、徳川300年の体制を造ったとされる人・・・強い個性で、幕府の草創期を引っ張った人でもあります。

しかし、そんな家光が残した後継者=長男の家綱は、未だ11歳・・・確かに、あの保科正之(ほしなまさゆき)(12月13日参照>>)らの補佐がありはしましたが、幕府初の幼君という不安と動揺が、少なからずあった事も確かでした。

そんな中、まさに、家綱の将軍宣下を1ヶ月後に控えたこのタイミングでの定政の出家には、幕閣の皆々も驚愕・・・

しかし、定政の心の内は、しっかりと固まっていました。

前日の9日には
「現段階の執政たちの家綱公補佐の体制では、とても天下を治められるとは思えません」
といった内容の意見書を、大老や老中宛てに提出して、返上した所領を旗本の救済に宛てて欲しいと言い渡して出家したのです。

そして、最も、彼が批判の対象としたのが、当時の幕府最大の実力者・松平信綱(3月16日参照>>)・・・

ですが、ご存じのように、この信綱さんは「知恵伊豆」と称されたほどの名官僚・・・あの島原の乱(2月28日参照>>)を鎮圧した以外にも、民政に長け、江戸の幕藩体制は、この人の手腕で固まったと言われるほどの知恵者です。

ただ、それほどの才知の持ち主であるがゆえに、敵が多い事も確か・・・定政にとっての信綱は、相容れない相手だったのです。
(ひょっとして、ともに家光の小姓時代からの怨念が…!(・oノ)ノ)

一方の信綱は、この定政の行為を「狂気の沙汰」として、徹底した処分を訴えます。

幕府は、この信綱の意見を呑み、改めて定政を改易の処分にし、その身柄は、定政の兄で伊予(愛媛県)松前藩主松平定行の預かりとしました。

もちろん、定政本人だけではなく、その息子たちも巻き添えで松山に送られ、奥さんは娘二人を連れて実家へ・・・と、家族はバラバラに

とは言え、その後の定政は、松山で不白と号し、和歌や華道にいそしみながら、20年ほどの人生を平穏無事に過ごしています。

というのも、この改易処分のすぐ後に、将軍となった家綱から、給米二千俵を賜ったおかげで食べるには困らなかったと・・・

そこには、この定政の処分には、少なからずの賛否両論あったからかも知れません。

実は、この出家事件の直後の7月23日、軍学者・由比正雪(ゆいしょうせつ)が計画した同時多発テロ由比正雪の乱(慶安の変・慶安事件)(7月23日参照>>)が発覚するのですが・・・

運よく、決行される前に発覚したから良かったものの、もし、これが決行されていたら、まさに幕府転覆の危機に陥っていたかも知れません。

もちろん、これは、幼き将軍に代わったばかりの幕府内のゴタゴタを好機と見た正雪の企てで、その理由も多々あるわけですが、捕縛された後の正雪の遺書には
(今回の幕府の処分は)忠義の志を欺いた物」
と、はっきりと、定政への処分の批判が書きこまれており、それが一つの理由とされていた事も確かなのです。

つまり正雪らから見れば、定政が幕府に忠義を示した人物で、それを処分した信綱以下幕府の連中の方こそが、忠義に反していると・・・

確かに、この頃の信綱には、家光一番の側近でありながら殉死しなかった事で、巷では
♪伊豆まめは、豆腐にしては、よけれども、役に立たぬは切らずなりけり♪
なんていう事が、皮肉たっぷりに揶揄(やゆ)されたりしてました。

まぁ、この殉死しなかった件に関しては、一説には、信綱は、家光から直々に「家綱の事を頼む」と言い渡されていたから・・・なんて事も言われていますが、それこそ、そんな事情は、信綱の身近な人しか知らないわけで・・・

この時代、多くの武士や一般市民が、名君の死を受けて、それを引き継ぐ幼き将軍に不安を持ち、この先の幕府がどうなって行くのか?と、心の動揺を隠せない時期だったのかも知れません。

それにしても、所領を没収されてお家断絶となった大名は色々いたでしょうが、自ら所領を返上して出家するとは・・・定政さん、なかなか大胆な人です。

ところで、
この定政さんは寛文十二年(1673年)11月24日63歳の生涯を閉じまが、その後に長男の定知が江戸に呼び戻され、旗本に返り咲いていますので、その点はご安心を・・・
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コメント

今日の「松平定政」は初耳です。家光から見ると「従兄弟おじ」(「父親の従兄弟」に当たる人)ですよね。「若い時に小姓をしていた」と言う事は、家光と年齢が近いのかな?
もし、「不祥事の責任を取っての隠居同然の出家」であれば、身の引き方をしては潔いと思います。「衝動的な出家」であれば、家光の死去で心に穴が開いたのでしょうか?
保科正之は「殉死は時代錯誤だから止めよう」と、呼びかけていますよね。

余談ですが、その保科正之が今年の大河から「落選」した要因に、全国的な知名度がない事ではなく、将軍の隠し子でやむなく養子に出された出自のため、「現代社会がまだまだ事実婚に否定的で、非嫡出子に世間の目が冷たい事(法律的な不利がある)もあり、生い立ちの時期は同情されないのではないか?」と言う指摘もあります。婚姻形態の違う数百年前に非嫡出子どうのこうの、と言う事情は視聴者の感想には関係ないと思います。
95年の主人公の徳川吉宗も、「殿様の隠し子」なんですが。

投稿: えびすこ | 2011年7月10日 (日) 16時20分

えびすこさん、こんにちは~

95年は、まだ問題なかったでしょう。
ここ数年の歴史好きが離れつつある大河が、現在の、それも、ここ何年かの夫婦&親子の価値観に縛られている気がします。

投稿: 茶々 | 2011年7月10日 (日) 16時37分

どうしても元NHKアナウンサー、松平定知さんを思い出します。この時代もまだ主君が亡くなると殉死する風潮があったんですね。有能な人はやはり生きてその後を支えたほうがいいかな、と思います。

投稿: Hiromin | 2011年7月10日 (日) 20時48分

Hirominさん、こんばんは~

この時期は、未だ戦国の気質が抜けなかったので、殉死が美徳とされたのでしょうね。

ここらあたりを機に、平和になって、そんな殉死もなくなりますが、その代わりに、将軍が代われば、老中が失脚するという感じになりますね。

投稿: 茶々 | 2011年7月11日 (月) 01時41分

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