秀吉が次世代に託した武家の家格システム
慶長三年(1598年)7月15日、病中の豊臣秀吉が諸大名に対して秀頼への忠節を誓う誓詞を要求しました。
・・・・・・・・・・・・
つまり秀吉は、自分の死後、すみやかに息子の秀頼にバトンタッチできるよう、大名たちに誓わせたという事なわけですが、まさに、この1ヶ月後の8月18日、秀吉はあの世へと旅立ちます。
そして、2年後の慶長五年(1600年)に関ヶ原の戦いがあり、その15年後の慶長二十年(元和元年・1615年)に起きた大坂の陣で豊臣家は滅亡となるわけですが、この間の豊臣家と徳川家の関係&状況の流れ・・・
このブログでは、折に触れて度々書かせていただいておりますので、それぞれのページと内容がかぶる部分もありますが、それこそ、私が声を大にしてお伝えしたい事なので、改めてまとめさせていただきます。
・‥…━━━☆
とは言え、私は現役の学生ではありませんので、現在の教科書にどのように書かれているのかは確認できていないのですが、おそらく、今でも、こんな感じじゃないですか?
- 慶長五年(1600年):関ヶ原の戦いにて東軍(家康)勝利・・・石田三成は斬首となり、豊臣家は摂津ほか65.7万石の一大名に転落。
- 慶長八年(1603年):家康が伏見城にて将軍宣下を受け江戸幕府を開く。
- 慶長十年(1605年):征夷大将軍を2代目・秀忠が継ぐ
- 慶長十六年(1611年):秀頼と家康が二条城で会見
- 慶長十九年(1614年):大坂冬の陣
- 慶長二十年(1615年):大坂夏の陣で豊臣家滅亡
てな感じ?
もちろん、個々のでき事はおそらく事実でしょう。
関ヶ原で東軍が勝利したのも、慶長八年に家康が将軍になったのも・・・しかし、それに伴う「豊臣家が一大名に転落」「江戸幕府を開く」てな結果は、徳川家の公式記録に書かれた徳川家の言い分で、事実ではない可能性があるわけです。
そもそも、関ヶ原の戦いは豊臣家内の内紛・・・会社の中で、部長の派閥と係長の派閥が争って、部長一派が勝ったからって、なんで社長の給料が減らされるんだ?って話です。
これは、2010年5月10日のページ>>にくわしく書かせていただきましたが、文化九年(1812年)成立の『廃絶録』と、明治二十四年(1891年)成立の『徳川除封録』という、徳川時代に改易&断絶となった大名家をまとめた記録に「慶長二十年に65.7万石の豊臣秀頼が大坂城で自害した」と書かれている事から、教科書等でもそのように教えられるわけですが、文化九年以前の史料には、秀頼の名前は出て来ません。
ちなみに、幕府は、文化六年(1809年)にも、同じように、改易&断絶になった大名や旗本の記録を集成した『断家譜』というのを作っていますが、ここに豊臣家は収録されていないのです。
つまり、「大坂の陣で滅亡した豊臣家が、その時に65.7万石の大名だった」と主張しているのは、戦いから200年の後の徳川幕府・・・おそらく実際の関ヶ原では、社長である秀頼の領地が減らされる事はなく、派閥争いの末、部長=家康一派に反対する者が一掃されたというだけ・・・もちろん、この状況は大坂の陣まで続きます。
その証拠となるのが、数多く残されている公家の日記なのですが、どれもこれも、正月の21日~28日くらいまでの間に、「大坂へとおもむき、秀頼に正月の挨拶をしに行った」事が書かれています。
それは、毎年の恒例行事で、もちろん、慶長十九年の正月にも行われています。
中でも『御湯殿上の日記』(宮廷の女官の日記)には
「正月廿七日、はるゝ(晴)、ひてよりへしよれいとて、おとこたちのこらす、大さかへ御くたり有・・・」
と、御所の男性陣が残らず、秀頼に会いに行ったと書かれています・・・残らずですよ!
慶長十九年の時点でも、公家たちがここまで秀頼に気を使うのは・・・すなわち、秀頼が次期関白になるはずだったからで、その土壌を整えたのは父=秀吉です。
こちらは、2010年8月9日のページ>>に毛利家の重臣・内藤隆春(たかはる)の手紙とともにご紹介した秀吉の遺言・・・
ここで秀吉は、「東西の事は家康・輝元の二人に、北陸の事は利家に、畿内の事は5人の奉行に任せたい」と明言しています。
つまり、来たる慶長八年(1603年)の家康の征夷大将軍就任は、すでに秀吉が決めていた事なのです。
教科書等に書かれている家康の将軍就任と同時の江戸幕府誕生・・・ここで言う江戸幕府が、関東や東北を含む東日本を掌握するという意味なら○ですが、多くの場合、この将軍の支配権が全国ネットと解釈してしまい、あたかも、ここで徳川が豊臣より上になった感を抱いてしまうわけですが、決してそうではありません。
文字通り、家康は征夷大将軍なのであって、秀吉の構想では、その後に、西の将軍である毛利輝元、北の将軍である前田利家が誕生するはずだったのです。
もちろん、秀頼は、そんな将軍たちの上にいる関白です。
さらに、秀吉が諸大名に託した秀頼の将来ですが・・・
遺言にもあるように、一般には五奉行&五大老が何かと注目されますが、もっとすごいシステムを秀吉は構築していました。
それが、公家の家格にならった武家の家格の導入です。
豊臣本家は、公家でいうところの近衛・鷹司・九条・二条・一条の五摂家に相当する家格・・・つまり、摂政や関白を輩出する家柄です。
そして、徳川・毛利・上杉・前田・小早川といった大老の立場にあった大名は、久我・転法輪・三条・西園寺・徳大寺・菊亭・花山院・大炊御門などの七清華に相当する家格・・・最高では太政大臣にまで上り詰める事ができる家柄です。
もちろん、未だこのシステムがなかった秀吉自身は、近衛家の養子になって「藤原秀吉」と名乗って関白になったわけですが、そんな事しなくても、武家のままで太政大臣や関白になれるシステムを作ったというわけです。
このシステムが秀吉の妄想や絵空事ではなく、ちゃんと機能していたとおぼしき史料も、キッチリと残っています。
『北越耆談』には、
「文禄三年十月、景勝上洛、伏見にて、景勝亭へ、秀吉公御成・・(略)・・上杉は、勘修寺の流れなれば、向後清華に準ずる旨勅諚あり・・(略)・・清華に準ぜらるゝ事、当家の高運、面目なる事なれば、末代の為め之を記す」
とあります。
つまり文禄三年(1594年)の10月に、「上杉家が清華に準ずる家格になってメッチャうれしいやないかい!」って事です・・・なんせ、上記の通り、頑張れば太政大臣にでもなれる可能性があるんですからね~。
同じ文には、
これは、謙信公が永禄二年(1559年)に上洛して、将軍・足利義輝に謁見し、関東管領・上杉家の家督と将軍の「輝」の一文字を賜った時(4月27日参照>>)以来の快挙だとも書かれていますから、この喜び方を見る限り、秀吉の武家の家格システムは、しっかりと導入され、機能し、すでに大名たちのステータスになっていた事がわかります。
こうして、慶長三年(1598年)7月15日、秀吉が諸大名に秀頼への忠誠を誓わせ、8月9日に遺言を残して、次世代へ託した様々な事は、関ヶ原後も、それまで通りに守られ、おそらくは、慶長十九年(1614年)の大坂の陣まで機能していたものと思われます。
それを一刀両断に断ち斬ったのが、まさしく大坂の陣・・・一般的には、この時、ほとんどの大名が徳川につき、豊臣側には浪人ばかりが集まったとされていますが、それも、勝てば官軍の徳川の言い分です。
以前、ご紹介した佐野道可=内藤元盛を放った毛利家のように(5月21日参照>>)、多くの大名が、どちらが勝っても良いように準備していたものと考えます。
徳川ドップリにはずの細川忠興(ほそかわただおき)は次男の興秋(おきあき)を大坂城に送り込んでますし(表向きは家督相続の不満による離反)、伊達政宗(だてまさむね)の重臣二人も大坂方についてましたし、なんたって、家康の隠し子とされる小笠原権之丞(おがさわらごんのじょう)も大坂方でした。
もちろん、まだまだいますが・・・これらは、この大坂の陣において、どちらが勝っても良いように二股をかけていたという事だと思います。
また、以前の徳川忠長がらみ(12月6日参照>>)で書かせていただいた加藤忠広(清正の息子)の改易も、実は、この大坂の陣で豊臣方についた事への処分であったという話もあります。
しかし、残念ながら、今のところ、教科書や世間一般の見方は、徳川の言い分のまま・・・家康ファンの方には申し訳ないですが、新たな史料の発見とともに、それが書きかえられる日が来る事を期待している茶々でございます。
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コメント
大坂の陣で豊臣軍が勝っていたら、豊臣秀頼が関白となっていた可能性は大きいですか?
そうなると千姫は「北政所」になりますね。
上杉は大坂の陣では徳川軍なので、つぶされる可能性もありますが?
その前に大坂の陣を経る事なく、豊臣の天下にする可能性もあり得ますね。
投稿: えびすこ | 2011年7月15日 (金) 17時05分
えびすこさん、こんにちは~
可能性はイロイロあるでしょうね~
少なくとも、私たちがイメージしているような「家康は勝つべくして勝って、天下を取るべくして取った」って事はなかったと思います。
かなりアブナイながらも、何とか奪取したって感じでしょう。
投稿: 茶々 | 2011年7月15日 (金) 17時14分
徳川家康はいい子孫に恵まれた事も大きいと思います。秀頼が秀忠と同年代なら、かなり違ったでしょう。平清盛のような政治をしたのでは?☆「水戸黄門」も今期で終了ですね。再放送もしていますけど。
投稿: やぶひび | 2011年7月15日 (金) 18時06分
やぶひびさん、こんばんは~
年齢というのは大きいかも知れませんね。
やはり、秀吉になかなか子供ができなかったというのがネックですね。
投稿: 茶々 | 2011年7月15日 (金) 20時39分
「初代秀勝(実在の人と言う前提)が成人後も生きていたなら、慶長以降の歴史が違っていた」と言う人もいますね。少なくとも秀次は関白になることなく、穏やかに一大名(分家として)として天寿を全うできたかも。
家康も60歳を過ぎてから子供をもうけたので、50歳以降の健康管理の差でしょうね。
>やぶひびさん
「水戸黄門」の打ち切りは残念ですよね。
30代以下で見ると、「演者」より「視聴者」が減った事が大きいでしょうね。
投稿: えびすこ | 2011年7月16日 (土) 08時16分
>なんで社長の給料が減らされるんだ?
部下の不始末は、社長の責任なのでしょうね。
担がれていたのですから、責任が無いとは言えないはず。
現代では、辞任を迫られることもありますね。
勝った部長が、代表権を持つ取締役専務に昇進、乗っ取りを企むことになるわけで...
現代ドラマにしても面白そう。(笑)
家格システムの方は、あまり役に立たなかったのでは?
空手形っぽいし。
秀頼が関白になる前に事を起こした、家康の作戦勝ちなのかも。
投稿: ことかね | 2011年7月17日 (日) 14時20分
ことかねさん、こんにちは~
確かに例えが悪かったかも知れませんね(反省)
秀頼は社長ではなく王ですから、部下のモメ事に責任を取る事は無いように思います。
現に、戦いのすぐ後に家康は、秀頼と淀殿に謁見して、改めて忠誠を誓うとともに、「悪を一掃したのでご安心を…」てな挨拶をしに行ってますので、やはり、そんな秀頼の領地を部下の家康が自由に取れるという事は考え難いような気がします。
投稿: 茶々 | 2011年7月17日 (日) 15時19分
私は、清洲会議や賤ヶ岳の戦いを連想するんですよね。
忠誠を誓いつつ、実権を奪うような。
領地を自由に取ることは出来ないでしょうが、逆に言うと理由があれば出来るのではないでしょうか?
例えば、秀頼の幼さと三成の暴走を理由に、統治能力の欠如を指摘されたらぐうの音も出ないでしょう。
一言で言うと、『駄々っ子に危ないおもちゃを与えるな!』(これはむしろ忠義)
秀頼が成人するまで預かるという言い訳なら、出来そうだと思います。(でも約束は反故)
ましてそう言うのが、大老筆頭で秀吉お墨付きの後見人。(大義名分)
そんな人に逆らうのは、秀吉に逆らうも同然かと。(大明神)
さらに、反家康勢力も一掃されていますから。
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
長くなってしまいましたが、私の妄想はいかがでしょうか?
投稿: ことかね | 2011年7月18日 (月) 13時49分
ことかねさん、こんばんは~
う~~ん、どうでしょうねぇ
やはり、現実として、秀頼が領地の采配をしていた黒印状が残ってますし、それから推測すれば、慶長19年当時の秀頼の領地は、おそらく東は岐阜あたりから、西は岡山あたりまであったと推測できますので、やはり、「関ヶ原の直後に摂津・河内・和泉の65.7万石の大名に転落」っていう200年後の記録の方がが、個人的にはウソのような気が…大坂の陣の寸前まで、天下は豊臣の世であったように思います。
投稿: 茶々 | 2011年7月18日 (月) 22時58分
なるほど、そんな資料があるのですね。納得しました。
早速、妄想を練り直さないと。
大坂の陣、結構な博打に思えてきました。
(大阪じゃないんですね。今気づきました。)
朝廷の様子が気になります。
投稿: ことかね | 2011年7月20日 (水) 12時28分
ことかねさん、すみませんでした。
秀頼の黒印状については、このページの本文からリンクしてます2010年5月10日のページ>>の真ん中あたりに書かせていただいておりましたので、てっきり、それを踏まえてのご意見だと思ってしまいましたo(_ _)o
早とちりで申し訳ないです。
そのページにも書かせていただきましたが、今のところ、関ヶ原後に、すでに取られているはずの領地の采配を秀頼がしている書状の現存は、わずかに6通だそうですが、先ほどのコメントに書かせていただいた当時の秀頼の領地(予測)というのは、それらの書状から推測された物です。
たぶん、他にも発布したのでしょうが、なんせ、負け組側の史料なので、徳川に末梢されたか、どこかに埋もれてるか…なかなか見つからないようです。
新たな発見に期待したいですね。
もちろん、このあたりは、かなりのグレーゾーン…豊臣の威勢に家康が徐々に近づいて行く段階ですので、それこそ、ことかねさんのおっしゃるように、秀頼をカヤの外に置いて、家康はその配下をアメとムチで崩して行き、徐々に逆らえないようにして行ったのだと思います。
気づいたら、大坂城だけポツン…てな感じになってたかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2011年7月20日 (水) 12時59分
秀頼の幼さと淀君の性格も豊臣氏の滅亡に結びついたのでは?北条政子みたいだったら、豊臣の世が続いたかも。☆そういえば宝塚歌劇団で、石田三成が主人公の公演するとか。ヒロインは茶々姫。
投稿: やぶひび | 2011年7月22日 (金) 01時13分
やぶひびさん、こんばんは~
私としては、「秀頼の幼さと淀君の性格」というのも、徳川の言い分に騙されているような気がしてなりません(味方しすぎですが…(^-^;)
タカラヅカはもう、記憶も不確かなくらい前に見たっきりですね~~
投稿: 茶々 | 2011年7月22日 (金) 02時07分
初めまして。mangaloreと申します。
初コメントです。
いつもブログを楽しく読ませて頂いています。
今回の記事はとても興味深かったです。
茶々さんの説が正しいとしましたら、
①大坂夏の陣が終焉してから僅か数カ月後に、幕府が「一国一城令」、「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」、「諸宗諸本山法度」といった重要政策を矢継ぎ早に制定した。
②大坂夏の陣終焉翌年になって、ついに徳川家康が太政大臣に任命された。
↑上記①・②の出来事も納得できます。
要は、鎌倉幕府が成立してから、承久の乱が勃発するまでの「公武の二元支配体制」の時期と似たような状況が、江戸幕府開府から大坂の陣勃発までの約10年間続いたという事ですね。
とても参考になる記事でした。ありがとうございました。
投稿: mangalore | 2011年8月 4日 (木) 11時11分
mangaloreさん、こんにちは~
おっしゃる通り「二元支配体制」のような物が続いていたと、私は解釈しています。
大坂の陣で豊臣が滅亡して、はじめて徳川の支配が全国ネットになったのではないかと…
もちろん、それまでには、徐々に追い込んで行った水面下のグレーゾンも存在したと思いますが…
投稿: 茶々 | 2011年8月 4日 (木) 16時48分
茶々さん、初めまして。いつもお勉強に見せて頂きに来ています。
実は、田中吉政の事を調べているのです。
目立たない武将ですが、秀吉や、ねねさんとは、家族的な間柄だったと、福岡県の筑後の国からでも、調べていくに連れてそう感じています。治世が短かかったせいもあって、資料がなかなか残っていません。古書の一節を拾い集める日々です。でも、やはり、徳川家によって、消されている歴史がたくさんあるようです。1つは没年です。それに、息子たちのこと。没年は定説は慶長14年、しかし、位牌や、寺の資料が慶長16年となっています。15年の寺の寄進の記録もあります。16年だと、息子たちの後継問題や、諸々変わってくる歴史があります。「筑後志」などの郷土史も、16年なのです。
徳川家に改ざんされていないその当時の書物を探さなければなりません。
そう言えば、よく見る秀吉公の姿図は、吉政公が描かせてねねさんに贈ったものだそうです。高台院のパンフレットには、書いてありませんでしたけど。
投稿: 絵咲木 | 2016年2月 8日 (月) 18時08分
絵咲木さん、こんばんは~
田中吉政については、私も、このブログで「慶長十四年(1609年)2月18日の日付け>>で書いております(*´v゚*)ゞ
歴史における一般的な定説というのは、複数の研究者が複数の文献を踏まえて、時には話し合いながら導き出した「現段階で最も納得のいく落とし所」なので、それが正しいか否かとは別物であり、新発見で今までの定説が真逆になる事もあり得ますね。
辻褄が合わない事、納得がいかない事が多々ありますが、そこを探究していく事が歴史のおもしろさでもあると思っています。
古文書を探すのは地道ですが楽しいです。
絵咲木さんの新しい発見に期待してます。
投稿: 茶々 | 2016年2月 9日 (火) 04時37分