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2011年7月 4日 (月)

薩英戦争を挟んで…孝明天皇と島津久光

 

文久三年(1863年)7月4日、去る7月2日より、3日間に渡って繰り広げられた薩英戦争が終結しました。

・・・・・・・・・

その戦いの状況については7月2日のページで>>
その戦後処理と影響については9月28日に>>
すでに書かせていただいてる薩英戦争・・・

この文久三年(1863年)7月4日に、7隻のイギリス艦隊すべてが鹿児島湾から姿を消した事で終結となりました。

イギリス艦隊からの砲撃によって、城下の1割を焼失するという被害に遭った薩摩藩でしたが、一方のイギリス艦隊にも被害を与え、結果的に追い返したわけですから、一応、引き分けと言った感じ・・・

この事に大いに喜んだのが巷の尊王攘夷派・・・そして、その旗印となっている朝廷です。

朝廷は、この文久三年七月付けで、薩摩藩主・島津忠義(茂久)に宛てて勅書(ちょくしょ・天皇の命令や意思を書いた一般に公示されない文書)を出しています。

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島津忠義宛て勅書(玉里島津家蔵)

「去る2日にやって来たイギリス艦隊との抗戦の事をお聞きになった天皇は、大いに喜んでおられます。
これからも皇国の武威を海外に輝かせるよう、ますます励んでください」

てな感じですが・・・

そもそもは、あのペリー来航(6月3日参照>>)の頃、大いに恐れおののいた公家たちが、時の孝明天皇に、こぞって
「夷人(いじん・外国人)は、生娘(きむすめ)の生き血をすすり、その肉を食しておりまする」
と間違った情報を吹き込んだ事で、天皇は外国人を毛嫌いするようになり、以来、攘夷(じょうい・外国を排除する事)は、「天皇のお心に添う事」として、尊王思想と結びつき、尊王攘夷となるわけですが・・・

すでに外国勢力と戦って敗れ、もはや属国のようになってしまっている清国(中国)の現状を知っていた幕府は、あえて外国と抗戦するような事を避けようと、安政五年(1858年)にアメリカとの通商条約を結んだのを皮きりに、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約を結びます。

これによって多くの外国人が外国人居留地に住むようになりますが、尊王攘夷派から見れば、それは「皇国を汚す事」として快く受け入れる事などできないわけで、外国人の暗殺や襲撃などの事件を起こすようになります。

さらに、大老の井伊直弼(なおすけ)桜田門外で暗殺される(3月3日参照>>)頃に前後しては、尊王攘夷派のそれは、「天誅(てんちゅう・天罰)と称する要人の暗殺を繰り返すという事態になっていきます。

確かに彼ら勤王の志士の根底にあるのは「天皇の御心に添う」という事だったのでしょうが、外国との戦いならともかく、日本人同士の殺戮が、しかも、お膝元の京都で、毎夜のように行われる事を、おそらくは孝明天皇自身は望んではおられなかったはず・・・

その解決策とも言うべく行われたのが、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)のもとに、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)嫁入りする(8月26日参照>>)公武合体・・・天皇家と幕府がともに力を合わせ、この混乱を治めようというもの・・・

もちろん、強く推したのは、もはや屋台骨もグラングランの幕府ですが、孝明天皇自身も「何とか混乱を鎮静化させたい」というお気持ちがあったからこそ、その説得に応じられたに違いありません。

しかし、文久三年(1863年)頃にもなると、その朝廷自体が、長州(山口県)尊攘急進派と、彼らに同調する尊攘急進派の公家たちに牛耳られるようになり、もはや孝明天皇の意思は名ばかりにものとなっていきます。

そんな時、孝明天皇が自らの意思を理解してくれる者として期待を寄せたのが、島津久光だった事でしょう。

彼は、現在の薩摩藩主・島津忠義の父・・・先代藩主・島津斉彬(なりあきら)の弟で、現在の藩主は、久光の息子が亡き兄の養子となって継いではいますが、未だ年若く、事実上薩摩藩の実権を握っているのはその岳父(藩主の父)の久光でした。

久光は、かの公武合体にも尽力し、幕府内の政治改革も行っており、天皇から見れば無位無官の陪臣ながら、この時、最も頼りたい人物だったのはないでしょうか?

現に文久二年(1862年)の上洛の際には、「京都に滞在して浪士の鎮圧に当たれ」という壮士鎮静(そうしちんせい)の勅命(ちょくめい・天皇の命令)も賜っています・・・大名ですらない人物に勅命というのは、おそらく前代未聞の事だったはず。

それが、結果的には、尊王攘夷に先走った藩士を、自らが抹殺するという寺田屋事件(4月23日参照>>)となってしまうのですが、自らの藩士を自らの手で処分する苦渋の決断をしてまで、「過激な尊王攘夷行動を避けたい」という孝明天皇の心に添っていたのが久光だったはずです。

ところがドッコイ・・・江戸からの帰り道で起こった薩摩藩士による外国人殺害生麦事件(8月21日参照>>)と、その謝罪と賠償金を巡っての薩英戦争・・・

この戦争が結果的にイギリス艦隊を追い払ったという事で、大喜びしたのは尊攘急進派の公家たち・・・

そう、
「公武合体派で、強行な攘夷に反対していたはずの、あの久光までが、外国船に砲撃して攘夷実行の姿勢を見せてくれた」
となったわけです。

そして、その直後に発せられたのが、先ほどの文久三年七月付けの薩摩藩主・島津忠義宛ての勅書・・・宛名は藩主ですが、もちろん、実際には、薩摩藩の実権を握っている久光に宛てた物です。

これを受け取った久光は、その内容に困惑したのでしょうか?
それとも、あらためて、朝廷内が攘夷急進派に牛耳られている事を悟ったのでしょうか?

そうです。
上記の経緯を見る限り、この勅書が孝明天皇の真意であるとは思い難い・・・おそらくは、宮中を牛耳っている三条実美(さねとみ)攘夷急進派の公家たちによって創作された文章だったはずです。

こうなって来ると、「もはや天皇の御心に添う」とは言い難くなって来た尊王攘夷・・・

そこに立ちあがるのは、同じ朝廷内の公武合体派中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)(2009年8月18日参照>>)を中心とする彼ら・・・彼らは、薩摩藩&会津藩などと組んで、ほどなく、クーデターを決行して、朝廷内から尊攘急進派を追い出す事になるのですが、これが八月十八日の政変(2008年8月18日参照>>)と呼ばれる出来事です。

この政変が池田屋事件(6月5日参照>>)、さらに、その池田屋事件が禁門(蛤御門)の変(7月19日参照>>)・・・と、今後の連鎖を生んでいく事になるのです。
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

今日の「世紀のワイドショー」で、公武合体について触れます。江戸時代初頭に和姫が徳川家から天皇家へ入内した事にも触れるかな?
藩主になっていない島津久光の影響力が強いのはなぜなんでしょうか?「前将軍御台所・天璋院篤姫の義理の叔父」と言う事情でしょうか?

投稿: えびすこ | 2011年7月 4日 (月) 17時07分

投稿: もか | 2011年7月 4日 (月) 20時39分

´ω`)ノドモ孝明天皇
すごい( ̄▽ ̄)

投稿: もか | 2011年7月 4日 (月) 20時52分

この記事を見てふと思いました。孝明天皇は、世の中をどうみていたんだろう、もし若くしてお亡くなりにならなければ幕府や歴史はどうなるんだろーそんなことを考えてしまいました。
(…相変わらず佐幕びいきwwどんな事考えとんねん)

投票結果が楽しみだな♪

投稿: Ikuya | 2011年7月 4日 (月) 21時07分

えびすこさん、こんばんは~

そうですか、
今日は和宮様だったのですね。

アレついつい見忘れちゃうんですよね~
チェックしとかなきゃいけないですね。

投稿: 茶々 | 2011年7月 4日 (月) 22時42分

もかさん、こんばんは~

お気持ち、ありがとうございます

投稿: 茶々 | 2011年7月 4日 (月) 22時44分

Ikuyaさん、こんばんは~

そうですね~
孝明天皇には暗殺説>>もありますね~

倒幕ではない平和的な維新を願っておられたような気がしてなりません。

PS:投票は14日に締め切りなので、その2~3日後にはブログ本文で結果をお知らせしたいと思います。

投稿: 茶々 | 2011年7月 4日 (月) 22時48分

長らく記事を拝見するだけでしたが初コメントさせて頂きます。
孝明天皇がもう少しご存命であれば会津は……なんて思っちゃいます。

投稿: 会津中将 | 2011年7月 4日 (月) 23時55分

会津中将さん、はじめまして

ほんとですね~
孝明天皇は松平容保さんを信頼されていましたからね~

会津の運命も変わっていたかも知れません。

投稿: 茶々 | 2011年7月 5日 (火) 01時21分

昨夜の放送を見ました。
孝明天皇は外国嫌いと紹介していました。
島津久光には触れていませんでした。
番組内で紹介した将軍家関係の婚礼は足が出ますね。
来週は「小谷城の戦い」です。

投稿: えびすこ | 2011年7月 5日 (火) 13時28分

えびすこさん、こんばんは~

来週は小谷ですか…楽しみですね

投稿: 茶々 | 2011年7月 6日 (水) 01時53分

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